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ふくしまの海

by いらくさ
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  • 以下に書いていることは私の思考過程のものです。古い記事は吟味しつつお読みください。

    2018-12-24

    「弱くなることを、その極みである十字架を誇りとしてくださる主」(ヨハネによる福音書1:14からのクリスマス礼拝説教)

     神の言葉出来事となります。

    
 「神は「光あれ」と言われた。すると光があった」(創世記 1:3)
     また「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ 55:11)聖書は語ります。

     ヨハネによる福音書も語ります。「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」。神の言葉は肉体を取り、人となられました。それがイエス キリストです。
     イエス キリスト神の言葉イエス キリストを知るとき、神の思いを知ることができます。神がわたしたちを愛しておられること、神がわたしたちを救ってくださること。イエス キリストを知るとき、それを確信することができます。
     その神の言葉であり、命の光であるイエス キリストは、人となってこの世に来られました。永遠なる神が限りある命の人となられました。全能の神が限界を抱えた人となられました。創り主なる神が被造物である人となられました。力に満ちた神が、弱い人間になってこの世に来られました。

     わたしたちは弱くなりたいとは思いません。弱くなるということは、できていたことができなくなるということです。これは老いていくときの大きな悲しみの一つです。しかし、イエス キリストにおいては弱くなることは悲しみではありませんでした。聖書わたしたちはその栄光を見た」と語ります。神が弱さを身に負って人となられたことを「栄光」だと言うのです。

     この世では優れた業績に対して「栄光」という言葉を使います。誇りとすることのできる成果に対して「栄光」という言葉を使います。
     確かにわたしたちにとっては、救い主が人となって来てくださったこと、救いを成し遂げてくださったことは誇りです。けれど、わたしたち自分が弱くなることを誇りとすることはできません。しかし主は、弱くなることを、その極みである十字架を誇りとしてくださいます。

     聖書において栄光とは、神がわたしたちの救いの神であることが明らかになることを言います。主は、ご自身が弱くなること、十字架においてその命を献げ、救いの業を成し遂げることを栄光と言ってくださるのです。

     主は人となって、イエスこそが神の言葉であること、命の光であること、イエスこそ救い主であることを、見て確かめることができるようにしてくださいました。
     ヨハネによる福音書は言います。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」

     旧約の時代、神は唯一の神でした。しかしイエス キリストを知ったとき、真に神であり真に人であられるひとり子なる神を知り、父・子・聖霊なる三位一体の神が啓示されてきたのです。
    
 神は唯一の孤独存在ではなく、神ご自身の内に父・子・聖霊の命の交わりがあり、神が愛であること(1ヨハネ 4:8,16)を知らされました。
     イエスが洗礼を受けられたとき、天から「これはわたしの愛する子。わたしの心にかなう者である」という声を聞き、天が開け、聖霊がはとのように下りました(マタイ 3:16,17)
     神がお示しくださった三位一体は、ただ父、子、聖霊の神がおられるというのではなく、神が愛であり、愛によって父と子と聖霊とが一つの交わりの内にあることを示しています。イエス キリストが遣わされたことによって、ただ全能の唯一の神ではなく、その内に愛が満ち満ちる父・子・聖霊なる三位一体の神がおられるということが明らかにされました。
     そして自分たち「愛である神」にかたどられ、その似姿として創られたこと、だから人は愛を必要としていることを知ったのです。

     このひとり子の栄光「めぐみとまこととに満ちて」いました

     「めぐみ」というのは、神が人との間に築いてくださった関係を示しています。そしてキリスト十字架によって実現された罪の赦しを意味しています。人が罪を犯したことによって、神との関係は壊れてしまいました。けれどイエス キリストが来られ、十字架を負われたことによって、罪の贖い、罪の赦しが実現しました。神ご自身によって、神との関係が新たに築かれました。これがめぐみです。
     一方「まこと」(真理)は、神の真実に支えられた神と人との関係の正しさを表しています。神の真実に支えられ変わることのない神と人との関係の正しさ、神を父と呼び、神を信頼し、神と共に生きる、そういう関係の正しさを表しています。
     神がイエス キリストにおいて、罪によって壊れてしまっていた神と人との関係を新たに築き直してくださり、わたしたちが神との正しい関係にいることができるようにしてくださったことを、この「めぐみとまこととに満ちて」いたという言葉は示しています。

     神は、イエス キリストによって、わたしたちの救いの神であることを明らかにしてくださいました。本来あるべき神と人との関係を、イエス キリストにおいて成就し、実現してくださったのです。

     これを福音書わたしたちのうちに宿った」表現しています。
     この「宿った」と訳された言葉は、直訳すると「幕屋を張った」という言葉です。
     この「幕屋」というのは「テント」のことです。かつて荒れ野を旅したときに住まいとしたテントのことです。この言葉は、出エジプト記 25章に初めて出てきます。そこで何と言われているかというと「彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない」(出エジプト 25:8, 9)とあります。つまり、神が出エジプトをして荒れ野を旅する民と共にあるための聖所が幕屋だったのです。
     ですから「宿った」「幕屋を張った」というのは、神がわたしたちの内にお住まいくださる、ということなのです。

     これはマタイによる福音書が語っていることと同じです。「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である」(マタイ 1:23)

     罪ゆえに神と共に歩めなくなってしまった罪人のところへ、神がひとり子を遣わしてくださり、神のめぐみとまこととによって、神と共に歩めるようにしてくださったのです。神が救いの神であることをイエス キリストを通して明らかにしてくださいました。
     聖書が伝える救いは、神と共に生きることです。それを神のひとり子が実現してくださいました。まさしく栄光を現してくださったのです。このキリストが現してくださった神の栄光は、神のめぐみと神のまこととに満ちあふれていました。

     イエス キリストにおいて、神の奇跡がなされました。神のひとり子が人となって、弱さを身に負って、わたしたちのただ中に来て、共に歩んでくださり、わたしたちを神と共に生きられるようにしてくださいました。
     そして、聖霊なる神によってわたしたちの内に信仰を創り出し、このキリストの恵みに与らせてくださいました。キリストの恵みによって、わたしたち神の子として新しく生まれさせてくださったのです。

     だからわたしたちはきょう、全世界、代々の神の民と共に、喜ぶのです。神がわたしたちを愛していてくださることを喜ぶのです。神のめぐみとまこととを喜ぶのです。神がわたしたちを救い、共に歩んでくださることを喜ぶのです。
      クリスマスにはすべての人が招かれています。「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられ」ます(1テモテ 2:4)わたしたちは、愛する者、親しい者、祈りに覚えるすべての人を、キリストの恵みに委ねることができるのです。だからクリスマスは、本当にめでたい祝いの日なのです。


    ハレルヤ
                                 「聖書の言葉を聴きながら」より

    2018-12-03

    『聴く』12月号

    聴く』では説教を抜粋掲載としたが、ここでは全文を掲載する。
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     「初めに言があった」
    
 旧約に親しんでいる人であれば、創世記「神は『光あれ』と言われた」(創世記 1:3)という言葉を思い起こすでしょう。

     「言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった」
    
 福音書は、言と神との関係を語り始めます。言は神と共にあります。初めから神と共にあります。そして不思議なことに、言は神だと言われます。
    
 そして14節まで読むと、この言がイエス キリストであることが分かってきます。「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(1:14)

     ヨハネによる福音書は、神のひとり子であるイエス キリストが、神の言であり、神であることを明らかにしようとしています。ヨハネによる福音書は、ナザレのイエスは神なのか人なのか、という問いに対する答えをはっきりと示しています。そして後に確認される三位一体についての大切な証しをしました。

     3節「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」
    
 世の初めから神と共にあり、神の言であり、神であるイエス キリストは、すべてのものの創造に関わっておられます。

     この点については、コロサイ人への手紙にさらに詳しく書かれています。そこにはこうあります。「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである」(コロサイ 1:15, 16)
    
 世の初めから神と共にあり、神である神の言イエス キリストは、この世界存在に関わっておられます。

     4節「この言に命があった」
    
 これは直訳すると「彼の中に命があった」となります。新約が書かれているギリシャ語で言はロゴスと言います。(ギリシャ語名詞は男性名詞、女性名詞中性名詞がありますが)このロゴスは男性名詞なので、彼はロゴス(言)を指します。それで口語聖書は「この言に命があった」と訳しました。これで正しいのですが、「この言に」よりも「この言の中に」と強調した方がよかったかなと思います。
    
 ヨハネによる福音書は、最後の方に福音書編纂した目的が書かれています。20:31に「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエス神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」とあります。
    
 命はヨハネ福音書の大切なテーマです。有名な 3:16にも「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。
    
 イエス キリストの内にこそ命がある。イエスキリスト(救い主)であると信じることにより、イエス キリストの中に入れられ、キリストの命に与るのです。

     聖書メッセージの中心は「神と共に生きる」ことです。それこそが「永遠の命」です。そして、それはイエス キリストの内にあるのです。イエス キリストを救い主と信じ、キリストと一つにされ、キリストの内に入れられる。そのとき人はキリストと共に永遠の命を生きることができるのです。
    
 ヨハネによる福音書は、死を超えていく永遠の命の秘義を明らかにしているのです。

     これまでも申し上げてきましたが、命は自分の命でも自分のものではありません。時を止めることはできず、人は必ず老いていき、死を迎えます。どんなに生きていたいと願っても、死を避けることはできません。この死に支配されている罪人に、神が与えてくださった命の道が、キリストと一つにされて神と共に生きる道、永遠の命の道なのです。だからイエスは言われます。わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ 14:6)と。

     4節後半「そしてこの命は人の光であった」
    
 ヨハネによる福音書は、光についても記します。イエス自身わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(8:12)と言われ、またわたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである」(12:46)と言われています。
    
 闇は、神を見出すことのできない状態を指します。神を見出すには、光が必要で、その光はイエス キリストなのです。わたしたちは、イエス キリストを知るとき、イエス キリストを通して神を知るのです。
    
 逆説的に言うならば、イエス キリストによらずして神を知ることはできないのです。イエス キリストこそ光であり、イエス キリストを通して神を知ることができるのです。

     5節「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」
    
 イエス キリストは、罪の世の闇の中で輝いています。イエス キリスト自身が光であり、輝いているので、闇の中にいる者も光を見つけることができるのです。
    
 闇がどれほど光を妨げようとしても、ひとり子を遣わすほどに世を愛しておられる神の愛を妨げることはできないのです。イエス キリストは、確かに十字架で命を献げ、死を打ち破って復活されました。イエスわたしたちのために死んで復活されたので、わたしたちイエス キリストを信じるとき、イエス キリストと一つに結び合わされ、キリストと共に罪に死に、キリストと共に永遠の命に復活するのです。

     イエス キリストが一体誰なのか、それを知るとき、わたしたちの前には永遠の命に至る命の道が開かれます。死に向かって生きるのではなく、神の国での復活へと至る命の道が開かれるのです。

     イエス キリストは、わたしたちを神と出会わせてくださる神の言。わたしたち創造に関わり、救いを成し遂げてくださる真の神。わたしたちの救いのために、わたしたちに代わって命を献げ、陰府(よみ)へと降り、死を打ち破り復活された真の人。わたしたちと一つになってくださり、わたしたち永遠の命を与えるただ一人の主。光となって罪の世を導く命の光。圧倒的な力で、わたしたちを闇で覆い尽くそうとする罪を打ち砕く勝利者であります。

     ヨハネによる福音書は、真の神である神の言、人となられた神の言。わたしたちの命にして光、勝利者であるイエス キリストへの信仰宣言をもって、福音書を始めます。わたしたちを救いに至らせるために福音書を始めるのです。

    ハレルヤ

    父なる神さま
    
 わたしたちの命であり光であるただ一人の主イエス キリストを知らせてくださり感謝します。死に囚われているわたしたちイエス キリストにより永遠の命の道を開いてくださり感謝します。キリストと一つにされ、キリストの内に入れられ、キリストの命に与ることができるように、どうかキリストを信じて生きる者としてください。
    イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン


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    4ページ目は、はてなブログ『風の匂いの中に』に移しました。

    2018-11-30

    『聴く』11月号

    説教「命のパン」 ヨハネによる福音書6:22~40            長老の説教より
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    この説教の最後の段の冒頭の言葉「私達は幸せです。」は、この長老らしい言葉だと思った。
    生活の中で信仰者として生きて来られた方である。


    以下、聴く 11月号』4ページ目。

      聴くということ 〉1
       ○○長老のこの説教をお聴きできて良かったと思った。

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    2018-11-18

    説教「わたしの内に宿っている罪」

    聖書箇所:ローマ 7:14〜20(口語訳)

     パウロはここで霊と肉という対比をしながら語ります。
    
 「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている」。

     霊的とは、神の御心に適っている、神と共にあることを表しています。ここでは、律法は神の御心であり正しいものであるということを述べています。
    
 一方、肉とは、この世に属していることを表します。この世に属し、滅びに至るものを表します。そしてパウロは「しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである」と告白します。これは自分の内に罪があり、自分ではこの罪をどうすることもできないことを表しています。

     パウロは律法主義で生きていたときは、「律法の義については落ち度のない者である」(ピリピ 3:6)と言うことができました。しかし、神が遣わされた救い主イエス キリストを理解できなかったことに気づいてからは「わたしは肉につける者であって、罪の下に売られている」と自己理解が全く変わります。

     ちなみに律法主義というのは、律法を表面上・形式上守ることで満足してしまうあり方、自分は神の御心に適って正しく生きていると自己満足するあり方を指します。
    
 しかし、キリストに捉えられ、キリストを知ってからは、このように自分を理解します。「わたし自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたし自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」。

     律法を形式的に守っても、それでは神の御心には適わないことに気づきました。そして神の御心を思うようになると、神の御心に従って歩みたいと思っても、それを行わず、自分がこうありたいこうしたいと思うことをしてしまうことに気づくのです。つまり、神の御心と自分自身とが対立し、信仰では神の御心に従いたいと思っていても、自分自身がまさってしまうのです。それを「かえって自分の憎む事をしている」とパウロは言っているのです。

     このパウロの自己理解は、一般に良い人ほど理解できません。良い人は、自分の善意に自信があります。自分の善意が神の御心とは違っているということになかなか気づけません。善意の人は、自分が罪人であることがあまり分かりません。
    
 しかしパウロは違います。パウロは徹底的に律法で生きてきたので、キリストを理解できなかった、キリストを遣わされた神の御心が自分には全く分からなかったことで律法主義の根本的な誤りに気づきました。人間の力では、神と共に生きることはできないのです。

     そんな自分の姿を思い巡らし、律法について考え直すとき、パウロはこう思い至ります。「もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる」。

     パウロはこんな風に考えます。パウロは神に従って歩みたいと願っています。キリストを知るに至って、神が律法を通して何を願っておられるかを知りました。そしてパウロは神の御心に従いたいと思っています。つまり律法を正しく行いたいと欲しています。
    
 キリストを知る前まではできていました。律法主義は形式的ですから、この律法を守るにはこうすれば良いというのが決まっています。しかし、キリストを知ってからは、律法を与えてくださった神の御心を思うようになりました。
    
 神の御心の根源は、ひとり子を遣わすほどに人を愛しておられる、ということです。聖書における「愛」とは、共に生きようとすることです。神は人と共に生きようと願っておられます。それに対して、律法主義は自分が正しく生きること、自分が神に喜ばれることを考えます。

     基本的に律法主義は、自分のことを考えています。けれど、神はなぜ律法をお与えになったのか、キリストに出会ってからそのことを思うようになったときに、律法主義のあり方を神は願っておられないことに気づきました。自分が正しくて自分が喜ばれる、そのように自分のことばかり考えることを神は願っておられない。神と共に、隣人と共に、神の恵みの中で共に生きるためにはどうすれば良いのか、そのための道を律法は示しています。しかし律法主義はそのことを全く考慮してきませんでした。
    
 パウロは、共に神に従って歩むためには律法をどう受け止めていけばよいのかを考えるようになりました。そこに、神に従おうとする信仰と、自分の中の「こうありたい」 という自分自身の願い、あるいは「こうあるのがよいと思う」と考える自分自身とが争い、いつも自分がまさってしまう。神の御心と自分自身が相容れないことがパウロには明らかになってくるのです。

     先ほど言いましたように、良い人はここで自分の「こうしたい」「こうあった方がいい」という思いを批判的に捉え、「神の御心はどうだろうか」と考えてみることがなかなかできません。自分自身の考えが神の御心とは一致しないのだということを忘れてしまいます。ですからいつも、神の御心よりも自分自身がまさります。しかし神の御心と自分自身が相容れないことが、パウロには明らかになってきます。

     そこでパウロは一つの結論に至ります。「そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」。わたしの内に宿っている罪が、神と共に歩むことを妨げている。
    
 「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」。

     善とは、神の御心です。そして悪は、神の御心から離れることです。
    
 「もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」。

     「わたし」が律法を行うとき、必ず「わたし」が律法を解釈します。例えば、わたしたちが人を愛するとき、こうすることがこの人のためになる、この人の助けになる、この人に喜ばれるだろうなどと「わたし」が考えます。このとき「わたし」は自分の価値基準に照らして判断します。そのとき神の御心に従いたいと思っていても、神の御心が直接分かる訳ではありません。良いか悪いかを判断する「わたし」というフィルターを通して判断します。しかし、罪人の救いのためにひとり子を献げる神の御心は、あまりに広く大きくレベルが違っていて理解し尽くすことも、すべてを受け入れることもできません。わたしたちは、神の御心を直接、正しく、正確に理解することはできません。罪を抱えているので、神の御心そのものを純粋に理解するということはできないのです。


     わたしはどうやっても神と一つにはなりません。これを創世記は、善悪を知る木の実を食べたと表現しています。もう神と違う善悪を抱いてしまったのです。罪人は神とは違うのです。

     パウロはキリストと出会い、キリストを知ったことによって初めて罪を知ったのです。努力や工夫ではどうしようもない、存在そのものが神と違ってしまっている罪を知ったのです。
    
 そして、どうすることもできない罪人を救うために、ひとり子を救い主として世に遣わされる神の御心を知るに至りました。キリスト自身も、民を救うためにその命を献げて贖いを成し遂げ、死を打ち砕き、命の道を開かれました。パウロは、その恵みの広さ、長さ、高さ、深さに圧倒されたのです。

     だからパウロはピリピ人への手紙でこう書いています。「わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリストイエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、 キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリピ 3:7~9)。

     わたしたちの救いはイエス キリストにあります。キリスト以外にはありません。キリストに罪を贖って頂き、赦して頂くことが必要です。キリストを信じることを通してキリストと一つにされる。キリストと共に罪に死に、キリストと共に復活する。キリストの命に与るのです。そしてわたしたち神の子とされるのです。「栄光から栄光へと、主(キリスト)と同じ姿に変えられていく」のです(2コリント 3:18)。

     だから教会は、2000年キリストを宣べ伝えてきたのです。「この人を見よ、この方によってわたしたちは救われる。この方によって新しくされる。」
     朽ちることのない希望と平和はキリストから来るのです。何ものもキリストの代わりにはなりません。イエス キリストこそ、わたしたちを罪から救い、神の国へと導き、永遠の命でみたしてくださるただ一人のお方なのです。


    ハレルヤ
                                「聖書の言葉を聴きながら」より

    2018-11-05

    説教「律法主義から解放され・・」(律法主義と律法)

    ローマ人への手紙 7:7〜13からの説教

     律法の果たしている役割の一つに、罪に気づかせるという役割があります。律法がなければ、何が神の御心に背くことなのか、神と共に生きるにはどうすればいいのかを知ることができません。

     パウロも「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう」(7節)と言っています。

     では、律法によって神の御心を知ったならば、それに従って歩めるのかというと、それはできません。それはわたしたちが罪を抱えているからです。罪は、新約が書かれているギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、これは「的外れ、目的からそれていくこと」を表します。パウロは 「罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである」(8節)と言います。つまり律法という神の基準がなければ、そもそも背くということ自体起こらないのです。だから「罪は死んでいる」つまり罪は働かないと言っているのです。罪は律法のあるところで、戒めから外れ、神の御心からそれていくように働くのです。

     では、律法がなければよかったのでしょうか。罪を抱えてしまった以上、罪に気づくためには律法は不可欠です。罪を抱えてしまった以上、人は必ず神から離れていきます。悔い改めて神に立ち帰らなければなりませんが、律法がなくては罪に気づくことがありません。そして罪が死に導くことを知らなければ、 救いを求めることもなく、神へと立ち帰る思いも起こりません。これをパウロはわたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった」(9, 10節)と言っています。

     ところで、パウロは律法なしで生きたことなどありません。パウロはピリピ人への手紙の中でこう書いています。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの 民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者で ある」(ピリピ 3:5,6)。彼は言ってみれば律法のエリートです。当時「国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人」(使徒 5:34)の薫陶を受けて育った律法学者の中の律法学者、パリサイ人の中のパリサイ人でした。
    
 そのパウロがなぜわたしはかつては、律法なしに生きていた」(9節)と言ったのでしょうか。それは、復活のキリストに捉えられて律法主義に気づいたからです。

     律法主義というのは、律法を表面上・形式上守ることで満足してしまうあり方、自分は神の御心に適って生きていると満足するあり方です。
    
 例えば、十戒の「安息日には何の業をもしてはならない」(出エジプト 20:8~ 10)という戒めに対して、自分は何km以上歩いていないし、何文字以上書いてもいない、何kg以上の荷物も持っていないから律法を守っていると考え、イエスが病人を癒やすと律法に反していると怒り出すような考え方です。
    
 パウロは生粋の律法学者、パリサイ人でしたが、復活のキリストに出会い、捉えられて、律法主義の間違いに気づき、本来神が律法を与えてくださった意図を全く理解していないことに気づいたのです。なぜなら「律法の義については落ち度のない」と言えるほどに律法を守っていたのに、イエス キリストを理解できませんでした。イエス キリストが救い主であることを知ったとき、今まで律法を学び行ってきたけれど、神の御心を全く理解できなかったことを知ったのです。今までの自分信仰のあり方が間違っていたことに気づいたのです。
    
 だからパウロは言います。「罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺した」(11節)

     そして律法主義の間違いに気づき、律法主義を捨てると、本来の意味で律法が働き出し、自らの罪に気づくようになりました。パウロはこの7章のもう少し後のところでこう言います。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」(ローマ 7:18~20)。

     パウロは律法主義は捨てても、律法を捨てた訳ではありません。パウロは 神の御心をなしたい、善をしようと願います。しかし、神の御心をなしたいと欲しても、それをする力が無いことに気づきます。自分の思い、自分の考え、罪ある自分自身がなくなりません。自分とは別に罪があるのではなく、自分自身がまさしく罪人なのです。罪人であるこのわたしが救われなければならないのです。 わたし自身神の国に入り、救いが完成するまで救われ続けなければなりません。

     しかしこの世は、律法主義であることを求めます。現在、わたしたちの周りには数え切れないほどの法律があります。そしてわたしたちの行動が法律に触れるかどうか問われています。裁判ともなれば、まさしく律法主義と同様に、法律に適っているかどうかが問題となります。つまり、罪の世は律法主義であり、罪人は律法主義を抱え持っているのです。
    
 しかしパウロは、神がキリストを遣わして、キリストと共に死に、キリストと共に復活するその恵みの大きさを知ったのです。本当の救い主キリストを知ったとき、パウロは律法主義から解放されたのです。

     キリストの救いを経験したパウロは、 律法と罪を理解し直しました。その理解が12, 13節に書かれています。「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。では、善なるものが、 わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである」

     罪を正しく知るとき、いよいよキリストの救いを求めます。救いに与ったとき、キリストの掛け替えのなさに気づきます。
    
 エペソ人への手紙で、パウロはこう書いています。信仰によって、キリストあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」(エペソ 3:17~19)。

     パウロは、 ローマの人々が律法と罪を正しく知り、キリストの救いを切に求めるようになってほしいと願ってこの手紙を書いています。
     そして今、キリストを遣わすほどにわたしたちを愛していてくださる神ご自身が、キリストの救いを求め、救いに与ってほしいと願って、このローマ人への手紙を通してわたしたちに語りかけていてくださるのです。

    ハレルヤ
                                「聖書の言葉を聴きながら」より


    讃美歌282
    2 み栄えは主にあれ、つみびとをゆるす
      限りなきめぐみは あらたにしめされ
      律法(おきて)より解かれし
               自由のよろこび
      主に頼るこころに ふたたびあふれぬ