「本格ミステリ冬の時代」はあったのだ(3)

 しばらく間があいてしまった。というより、もうこのネタに飽きてきた。(笑)
 でも、前回の続きを途中まで書いたので、そこまで、とりあえず、アップしておこう。
 自分へのメモ程度の内容である。まさに「独り言」。


 『黄色い部屋はいかに改装されたか?』は、現在はもうミステリ評論としては古典の部類に入っていると思います。この本格ミステリ論が書かれたのは「社会派推理小説全盛の時代」と思っている人もいるようですが、もちろん違います。都筑道夫はこの評論の中で、執筆当時の状況を何度か述べています。

最近の日本の本格推理小説は、黄金時代そのままといったものが多い(p35)

日本がわの創作も、風俗小説化が英米以上の急ピッチで進んで、その反動として、また本格ものに光があてられるようになりました。けれども、私の見るところでは、どうも清張以前に逆もどりしただけのような気がして、しかたがない。(p70)

 これが、都筑の感じた1960年代の終りから70年代の初め(昭和40年代前半)の状況です。具体的に作品名が挙げられているのは、森村誠一の『高層の死角』(1969)『新幹線殺人事件』(1970)、大谷羊太郎の『殺意の演奏』(1970)、斎藤栄の『奥の細道殺人事件』(1970)です。これらの作品を「黄金時代そのまま」と都筑は指摘しました。これは、褒め言葉ではありません。「やっぱり本格は古くさいといわれそうなもの」だった、と云っているのです。

 これらの小説には、不可能興味があり、複雑なトリックがあり、探偵役による謎解きがある。しかし、社会派推理小説の時代を経ていますから、犯人も探偵も「平凡人」であり、また謎解き以外にも作品の「テーマ/モチーフ」がありました。そのため、現在、これらの作品は「社会派」もしくは「社会派プラス本格」という風にみられているようですが、発表当時は「古典的本格の復権」と捉えられていたのです。森村誠一が「殺人事件」という古めかしい言葉をわざと題名に多用したのも、そういう意図をもってのことでした。昭和30年代には、「殺人事件」を使った題名はほとんどなく、この言葉は「古式ゆかしい探偵小説」を思い起こさせたからです。

 「本格ミステリ冬の時代」とは、「本格は古くさいもの」とい考え方がひろまっていた時期であり、また、「謎解きだけ」では作者も読者も満足できなくなり、謎解きに付加するものが必要だという風潮があった時期だとすれば、それは社会派推理小説の全盛時代(昭和30年代/1955〜1965頃)ではなく、、「また本格ものに光があてられるように」なった頃、すなわち「古いタイプの本格」=「黄金時代そのままの本格」が復権してきた時代(昭和40年代前半)ということになります。

 この時期の作品に夏樹静子の『天使は消えていく』(1970)があります。森村誠一と前年の乱歩賞を争って、おしくも敗れた作品です。先日、この長篇を読む機会があったのですが、その時に感じたのは、作品のテーマが謎解き小説の足を引っ張っている、ということでした。

 この作品には、一種の密室トリックがあります。関係者の人間性からくる行動を基にしたトリックで、よく出来ている、と思います。また、作品のテーマである「母性愛」の扱いは、現在では古くなった感はありますが、テーマと犯人の意外性が密着しており、小説の構成としては決してまずくありません。しかし、にもかかわらず、真相が明らかになったとき、犯人の行動は大変不自然なものとなるのです。

 意外な犯人が明らかになったとき、作品のテーマは鮮明に浮かび上がります。しかし、その犯人像のため、それまで自然だった「関係者の人間性からくる行動を基にした密室トリック」は、急に不自然になる。あちらを立てればこちらが立たず、という感じなのです。この密室トリックを活かそうと思ったら、こうしたテーマを鮮明に浮かび上がらせる構成(つまり、最後のどんでん返し)は余計でしょう。しかし、作者の書きたかったのが「母性愛」を鮮明に印象付けることだとしたら(もちろん、そうなのですが)、不自然になる密室トリックはいりません。どちらを取るかは作者の自由ですが、どちらも取ろうとしたために、作品は中途半端なものになってしまった。そんな気がします。

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ということで、とりあえず。

(次回に続く)<本当か?