Mystery Paradise

元は今はなきアサヒネットのmystery paradise 会議室の分室のつもりだった。haha

009 「戦国合戦の虚実」鈴木真哉 講談社1998年、「謎解き日本合戦史」鈴木真哉 講談社現代新書2001年、「戦国時代の計略大全」鈴木真哉 PHP新書 1996年、「戦国鉄砲・傭兵隊」鈴木真哉 平凡社新書 2004年

刀は武士の魂、剣こそ戦場の主役、武士の戦いは騎馬兵の一騎うちにあり、織田信長の鉄砲三千丁三段構え。。。と歴史の教科書で刷り込まれ(教科書を書いた学者は戦乱を見たこともない江戸時代の御用学者に刷り込まれ)てきた日本の戦場の定説・幻想・あるいは男の闘争の夢みたいなものを、もう少しちゃんと資料を読んで御覧なさいなと、真実はこうだったと語り続けてきている史学界のアウトサイダーがいる。紀州雑賀衆の末裔の鈴木真哉である。

◎「戦国合戦の虚実」鈴木真哉 講談社1998年 750円定価1500円

「定説」(専門と称する「御用」学者がろくな証拠もないのに己の飯の種として主張する説)というのは歴史の場合原発なんかとは違って、その学者に直接的経済利益をもたらすわけではないが、その学の世界の既存確立権威に組することで、その小さいけど安定した生活を保障する世界構造の中の構造要素としての地位を手に入れることができるというメリットがある。(鉄筋構造の錆みたいなものかな。)こういう人生の処世術=方法論下では、「とにかく余り突っ込んだ研究」をしないのが地位保全につながる。その結果、歴史学においては「いい加減な『定説』ばかり、はびこるようになった」というようなことに、鈴木が気がついたのは、本人のルーツの紀州雑賀衆を調べはじめたことによる。ま、雑賀衆については、四冊目の紹介に譲ることにして、この書の主題の戦国合戦の見直しを追いかけてみよう。
まずは

第三章「後世」畏るべし------姉川三方原

ここで鈴木は「江戸時代製資料」の権現様史観(徳川家康を持ち上げるために虚実を操作あるいは創作する歴史叙述態度)に警告を発する。もっとも同時代資料だって危ない。
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それでは事件のあった時点でできたもの、ことに当事者・関係者の手になるものなら、頭から信用してよいかというと、そうはいかない。書状であれば、相手をだまそうということがあるし、日記であれば、今もそうだが自分に都合の悪いことは書くまいとするからである。
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例として本能寺の変の直後の秀吉から中川清秀への書状で、信長は無事だったと書いてある梅林寺文書があげられている。
姉川の戦いについては、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍と姉川を挟んで1570年に起きた戦いです。まあ、織田側が朝倉側の倍の兵数で圧倒してる戦いなのですが、これが権現様史観になると、朝倉側の数が巨大になり、家康は3倍ほどの朝倉勢と力戦してこれを打ち破り、十分の一ほどの小勢の浅井勢に悩まされていた織田軍を救援、浅井勢を挟撃して敗走させた・・・・・ということになる。家康の兵がいかに強かったかと数字操作してるわけですね。なぜ、そんなことをしたかというと、やはり徳川が天下を取った後の世界に生きる学者はゴマスリするしかないというわけです。そんなものを史実として受け止めてはいけませんと鈴木は言う。
この戦いで活躍したと思われる徳川勢の中の七本槍とでもいうべき、渡辺金太夫、門奈左近右衛門、伊達与兵衛、伏木久内、中山是非乃助、吉原又兵衛、林兵六についてほとんどの後世の人が知らないのはなぜだろうか?渡辺はこの時の活躍で織田信長から「日本第一の槍」という感状までもらっているというのに。鈴木に言わせると、この七人は、家康が救援を約したにも係らず武田勝頼の軍にびびって駆けつけず(三方原の戦いの伝説。「ここで弓を取らずば、誰が自分を海道の弓取りと認めるか!」と真っ先に飛び出していく、かっこいい権現様のイメージとは正反対ですねえlolol)結果、高天神城は落城してしまった史実の生き証人たちなんですね。だから、2・26に参加した兵士を満州からガダルカナルまで激戦地を転戦させたように、家康は転戦させて、消していったという・・・・・まさに冷酷な狸爺のイメイジ通りですね・・・・・ことが表ざたになるので、御用学者は沈黙したわけです。

第四章 疑惑の宝庫-----長篠の戦い

事実は、1575年、「織田・徳川連合軍が、徳川の属城長篠城を包囲した武田勝頼と設楽原一帯で、連吾川の細流を挟んで戦い大勝利をおさめた、それだけのことである。」
これを平凡社刊「日本史大事典」には、「(信長は)三重の馬防柵を築き、3000挺の鉄砲を配備して武田勢をまった。これに対して武田勢は・・・・・騎馬隊による突撃を繰り返したが、柵に阻まれて敵陣に入ることができず、しかも鉄砲の一斉射撃を浴びて壊滅的な打撃を受けた。連合軍の戦術は、大きな合戦での鉄砲使用ということで画期的なものであり、以降の戦争に大きな影響を与えた」と書いてある。
鈴木は、これを訂正する。「結論から申しあげれば、ここに書いてあるようなことは、ほとんど嘘である」
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・信長は三千挺の鉄砲なんか集めていない。正確な数値は分らないが、当初、主戦場に配備されたのは、千挺程度だったとみるのが妥当である。
・武田勢は数万もいない。これも正確な人数は分っていないが、織田・徳川連合軍より多かったはずはなく、せいぜい三分の一程度の一万数千とみられている。
・武田の騎馬隊なんてものは最初から存在していない。いや、武田家に限らず、この時代には騎馬隊なんてものは、どこにもなかった。
・騎馬隊がないのだから、騎馬隊の突撃も当然行われていない。騎馬武者はもちろんいたが、彼らも騎乗したまま突撃したりはしていない。
・信長が三段撃ちを考え出して実行させた事実はない。まったくの絵空事で、信長にはその可能性も必要性もなかった。
・長篠の前後で戦闘の様相が一変したという事実はない。戦場に柵を設けたり、大量の鉄砲を使ったりするのは長篠以前から見られたことである。
・長篠以降、騎馬中心の戦法から鉄砲中心の戦法に移ったという事実もない。騎馬戦闘なんて長篠のずっと前から流行らなくなっている。
まさにないない尽くしなのである。
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なぜ、こんなでたらめがまかり通るのか。「信長といえば信長の周辺だけで、他の地域のことなど、さっぱり見ようとしないのである」と鈴木は嘆きを通り越して怒りを表明する。
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国内のことすら見たがらないのだから、よその国のことなんか、なおさら気にしない。たくさんの鉄砲を何列にもそなえて一斉射撃するような戦法は、ヨーロッパでもまだ開発されていなかったなんていう人まで出てくるのはそのせいである。こういう説には、司馬遼太郎さんのような人まで引っ掛けられて、「信長の考案した『一斉射撃』という世界史上最初の戦術」(国盗り物語)などと書かされてしまうのだから罪は深い。
鉄砲の本場であるヨーロッパでは、鉄砲の前身の手砲(ハンドガン)の時代から大量に戦場で使われているし、長篠で信長が開発したとされるような戦術も、七十年以上も前に先例があって、欧米の戦術史の本には、定番的に書いてある。よその状況など知ろうともせずに井の中の蛙みたいな主張をしているとしか思えない。
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対毛利戦の戦場に千二百挺の鉄砲をそろえたのは1561年の大友宗麟(「大友記」)、対信長戦で三好党を応援した雑賀党は2千(「当代記」)とも3千(信長公記)ともいわれる大量の鉄砲を携えていたのは、1570年。長篠の年代と比べてみて欲しい。
まあ、この出鱈目さの大本は小瀬甫庵の「信長記なのであるが、1903年の「日本戦史、長篠役」で陸軍参謀本部が受け入れてお墨付きを与えたことが定説化した最大の理由なんですねえ。(まあ、こんな連中が教育指導した弟子達が頭になっての戦争じゃあ勝てたわけもないですね)
三段撃ちについては、「16世紀ごろの(イギリスの)銃兵は、6列から8列くらいの銃陣を組んで、入れ替わりながら発砲したが、それでも敵につけ入れられないように撃ち続けるのは、なかなか難しかった」というのと「戦国時代の終わりころに来日していたアビラ=ヒロンは、日本の銃手は確実ではあるが、非常にのろまだと『日本王国記』に記してある」のを並べれば説明無用だろう。
上記の「70年以上も前の先例」とは、1503年のスペインの将軍ゴンサルボ・デ・コルドバがイタリアのチェリニョーラでフランス軍相手に、ブドウ畑の丘に野戦築城して戦ったものである。銃兵の数は2千、四列に並べて、フランス騎馬兵の突撃を阻止したのだという。「世界史上最初の」という栄誉は信長にはなくてコルドバ将軍にあるのである。
とまあ、こんな調子で、石山合戦、山崎・賤ヶ岳、小牧、小田原と次々と合戦が槍玉にあげられていくのですね。

◎「謎解き日本合戦史」鈴木真哉 講談社現代新書2001年250円、740円プラス税

1891年に陸軍が制定した「歩兵操典」での歩兵戦闘の定義は「歩兵戦闘は火力を持って決戦するを常とす」とあったのを、1909年に「攻撃精神を基礎とし、白兵主義を採用し、歩兵は常に優秀なる射撃をもって敵に接近し、白兵をもって最後の決を与うべきものなりとの意味を明確にすること」と改訂される。
この改訂の大元締めともいうべき教育総監大島久直大将は全国の歩兵旅団長、連隊長を集めて、こう説明した。
「我邦古来の戦闘法は、諸官の知らるるごとく、白兵主義にして、白兵使用は我国人独特の妙技なり、故に益々この長所を発揮して、白兵戦闘の熟達を図ることは、我国民の性格に適し、将来の戦闘に対する妙訣なれば、諸官はこの点に大いに力をつくさるること肝要なり」
「白兵」というのは、刃のついた武器のこと。斬撃用の刀剣を「刃兵(じんへい)」、刺突用の矛や槍を「鉾兵(ほこへい)」、両者を兼ねたヨーロッパのハルベルト(矛槍)を「刃鉾兵(じんほうへい)」といい、三種がある。明治以降の輸入翻訳語で、仏語のarme blanche, ドイツ語のBlankwaffen、英語のCold steel あたりからの翻訳と思われる。(翻訳語で表現する「我が国古来のもの」なんてマユツバもいいところだと思わないのが低教養田舎下級武士あがりの明治軍人らしいと舞踏派は思うlol
「白兵戦」とは「白兵」を用いて戦うことであり、それによってのみ戦闘に決着をつけることができると考えるのが「白兵主義」なのですね。(白兵=刃物、主義=中毒とすると刃物中毒。。。基地外に刃物ですねlol.)
携帯シャベルをも武器にする旧ソヴィエトの特殊部隊スペナッズみたいな「接戦主義」と解釈してもいいと鈴木は言う。そういえば、ゴルゴ13にもシャベルで相手を倒したエピソードがありましたね。
「白兵」の対語は、「火兵(火器)」。だから1891年の歩兵操典は「火兵主義」だったわけです。

さて、我が国に本当に「白兵主義時代」(チャンバラ時代ですね)はあったのだろうか、というのが本書の眼目。
武士以前の戦いは、弓と弩(いしゆみ)。源平のころは弓。武士とは騎馬弓兵であって、刀は指揮刀であったが、なぜ槍ではないかというと、単に携帯性が槍よりよかったということにあるらしい。刀を振り回しての戦闘なんか、日本産駒ではとても物理的に無理だそうな。ヨーロッパの騎兵はもちろん、槍騎兵にしろ、実際白兵騎馬戦をやってたのだが、それは相手を馬から叩き落して、捕虜にする戦いだったそうな。英仏の有名な大戦で騎馬軍団同士が正面衝突して死者わずかに3名なんて白兵戦なんですね。日本の場合は首取りゲームですから、馬から矢傷を負って落馬したら、ほぼ100パーセント首が危ない・・・・それならいっそ、最初から降りてれば、落馬負傷分がないぶん戦闘力は残るという理屈で、下馬戦闘が主になっていったものと思われる。
ちなみに騎士は弓なんぞもたない。弓兵は雑兵(卑賤のもの)だったんだそうな。つまりアーチャーなんて名前の騎士はいなかったんだろうね。もと弓兵あがりの騎士=貴族なんて矛盾ですもん。
閑話休題。源平対決で西の武士が敗れる一番の原因は、坂東武者は下人たちにも弓を持たせていると平氏側武士が驚いたあたりにあると個人的には思っている。騎馬侍どもの数も技量も互角でも、下人まで弓を射るのだとすると、少なくとも矢数は数倍差になる。矢数が倍ちがったら、まず矢合戦では勝てない理屈である。
日本の戦は、遠戦であり(中国だって同じだ、曹操なんか卑弥呼の時代に既に弓兵を数段に陣を構えて太鼓の合図で時間差一斉射撃やらせてるもん)決して接近戦指向ではなかった。(川中島みたいな接近戦ばかりやってたら、戦力疲弊から回復する間もなく攻め滅ぼされるに決まってる)その証拠は、歴史に残っている軍忠状を分析してみれば、死因が判明するから統計を取ってみれば見つかると、鈴木は考えた。
その結果は、87パーセントが矢と鉄砲傷、3パーセント弱が礫(つぶて-----長篠で武田騎馬隊は鉄砲を持ってなかったから石を投げた、なんていう歴史学者がいるそうなlol・・・・・・・素人のへたな鉄砲より、投石の方が命中率はいいだろう)、槍が7.5パーセント。刀が残りのわずか。統計的には、0同然(原発は安全ですと言ってた御用学者たちの根拠の事故発生率並lololol)。

いつごろから白兵主義錯覚史観への萌芽がみられるかというと、江戸も後期の泰平時代かららしい。
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軍記類を含め、この時代(江戸後期)に戦国合戦について書かれたものには、ほぼ共通した特徴のようなものがある。戦争(war)と戦闘(battle)の区別がついていないこと、戦闘をとかくチャンバラの集積のように考えたがること、遠戦用の武器、ことに鉄砲の役割が軽視されていることなどである。こうしたものに慣らされた人たちが、どういう戦国合戦観を抱くようになるかは、改めて申しあげるまでもあるまい。
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「こうしたものに慣らされた人」つまり、明治の人間たちなんですね。軍人どもを含めて。これに加えて、柳生一門なんかが多分裏の宣伝マンだったのかもしれないと舞踏派は想像してる「剣術至上主義=日本刀崇拝」が蔓延してくると、さらに1909年が近づくわけです。そうして最後はバンザイ突撃と竹槍特攻・・・・
その前に、幕末の攘夷テロリストの武器が白兵だった・・・・・ピストーレを使ってた鞍馬天狗とか坂本龍馬みたいな例外もいますけど・・・・のが勝ち組になったもんだから、ますます坂を転がるように白兵ウイルスが広まったんですね。
南北戦争北軍の病院の負傷兵手当て数約25万のうち、白兵(サーベル又は銃剣)での負傷者は922名だったとか。
南北戦争の中古銃で維新クーデターをやった薩長の田舎ものたちは、こんな数字の意味も理解できなかったようです。いやたぶん知らなかったんでしょう。それで1909年。でも一般兵が銃剣術教練を受けてないころは、薩摩や神風連の元サムライたちとの白兵戦に遅れをとって、結果的に火兵主義になった。それで国内戦を勝ち抜いたままでいればいいのに、翻訳語輸入戦術へと転換・退行する。どこまでもオリジナリティというのが欠如してるんですね。明治人というのは。
でも、ヨーロッパでもこの数字の意味をちゃんと分っていなかったようです。第1次世界大戦では、騎兵隊突撃や、歩兵の銃剣突撃という白兵戦が主戦術だったそうな。(その結果は総動員兵力6500万人、人的損害3750万人というので、やっとついにヨーロッパは白兵主義を捨て去る。)
そのヨーロッパ側の中でも、もっとも白兵主義だったのがロシア帝国軍(野戦の白兵戦の強さは折り紙つきで、日露戦争では、ほとんど大日本帝国軍は圧倒されっぱなしだったというのが、ヨーロッパから戦争を観戦に来てた武官たちの本国へのレポートだそうだ)で、それともろにガチンコしてしまったのが大日本帝国軍。旅順を落とすのに死傷者5万9千人。ロシア側損害2万2700人。すごい命の無駄遣いを演じて、周囲の列強のパワーポリッティックスでもって、とにかく勝たせてもらったのがケチのつき始めです。徳川幕府までは、こんな兵士の命の無駄捨てみたいな戦術は考えもしなかった。戦闘要員(武士)はなるべく温存して戦争するのが、武士の戦いだったのだけれど、いくらでも使い捨ての兵隊が徴集できるという、人間のクズが大将になる世界が出現したわけです。その結果が1909年改訂。
この後、第1次大戦での白兵戦同士の大規模衝突がアジアでも起きていれば、大日本帝国もヨーロッパ並に変わっていたかもしれないが、ほとんど漁夫の利みたいな経済利益を得てしまった・・・・・その後、中国大陸への侵略を開始しても、敵も金のないので必然、白兵主義になるしかないから、大日本帝国軍は火兵に裏打ちされた白兵主義でなんとか侵略し続けていられたけれど・・・・最後は「白兵」ですらない竹槍・・・・OMG!LOLOL!

◎「戦国時代の計略大全」鈴木真哉 PHP新書 1996年 720円プラス税

合戦神話伝説の嘘をあばきまくってきた鈴木真哉が、一転、「この本でお話ししようという事例のなかには、真偽が定かでないものや、明らかにガセとしかいいようのないものがいくらでもあります。困ったことに、おもしろそうな話題ほど、そういう傾向が強いのです」と戦略・戦術・攻城・守城・陣立て・野戦・兵器・動物・欺瞞策・情報戦と章をたてて、やはり鈴木さんですから「これは信用できる話か、怪しい話かということは、そのつどきちんとお示しするつもりです」と113項目について語った「鈴木流軍談」です。軍談ですから、いつもの出典明記は省略されています。

舞踏派がヘーを入れたのは、まず、伊達の騎馬鉄砲隊。

800騎からなる騎兵隊みたいなやつ。。。実際のアメリカの騎兵隊はピストルを撃つんでライフルで武装はしてない。奥州の金山もちでお金持ちだから銃もいっぱい持ってたし、馬も、その領地はほとんど牧場みたいなもんだから良馬も多数。ありそうな話・・・・・ここまで読んできた人には、日本にはなかった騎馬隊というだけで、ガセとわかりますねえ。大阪の陣に伊達の鉄砲隊がその圧倒的数量にもの言わせて活躍したのは史実で、派手な騎馬行軍ぶりと合わさって生まれた夢景色です。(家康が警戒したのも当然で、とにかく鉄砲の数が半端ではなかったらしい。だから家康・秀忠政権は武力衝突の危険をさけて・・・・もし(戦というものを知り尽くしている政宗なら兵数で劣勢なのだから当然地元で迎え打つ方が勝つ見込みがあると計算するだろうし)政宗から江戸を攻めてこずに、徳川側から仙台を攻めることになると、鉄砲というのは守りの武器としては最も効率がいいから、幕府軍の被害甚大は目に見えていたのですね。勝ってもも弱体化は免れずそこを一門の冷や飯組や外様に突かれたらどうなるかわかったものではない・・・・わずかに優勢な武力を背景に融和策を政宗に対してはとり続けたわけです)

へーの2は、信長の鉄船。

これで本願寺兵糧攻めを成功させて、信長最大の難敵を押さえ込んだという大定説の大道具なんですが、これがマユツバ。乗った人の証言記録にまったく鉄装甲が出てこない。記録に残っているのは大砲(火砲)の話題のみ。
鈴木は、もしこの鉄船がまともなものなら、秀吉の朝鮮侵略時の鉄甲船が、構造的脆弱性のためにほとんど自壊沈没して半島まで渡れたものがない、なんて無様なことにはならなかったろうと理由を上げます。証言は奈良の坊主の伝聞記事だけしかないというもの。それにしては、有名で現代の信長ものには必ずでてきますね、lol
ペリーの黒船だって木造船だったんだから、推して知るべし。

へーの3は、牝馬の計。

まだ秀吉が羽柴苗字だったころ、(木下だったかも、)三木城を攻めたとき、その枝城の一つを弟の秀長に500の兵で攻めさせた。その時、城主の淡河(おうご)弾正定範は、50名ほどの家臣と300名の人夫で土木工事中だったそうです。秀長の軍勢来襲の知らせを聞いた弾正も家臣も工事のために甲冑なんか着てません。裸武者状態。そこで、弾正、近くの村へいくら金を払ってもいいから(多分後払いだったんでしょう)牝馬をあつめてこいと従者に命じた。家臣は村を走り回って牝馬ばかり五、六十頭集めて、城外の障害物にもたついていた秀長軍へと追い立てた。秀長軍の軍馬は、牡馬だから(この当時の軍馬は去勢してないから、ひとたび色に走り出すとコントロールが利かなくなる・・・・・騎馬軍団なんて去勢してない馬で作れるわけもないんだそうな)大混乱に陥る。そこへ、裸武者50人の切り込みで支離滅裂。城方からの応援まで出てくるのをみた理性派秀長はあっさりと逃げたそうな。という話。

ヘーの4は、猫の目時計。

朝鮮侵略の時に島津義弘猫を7匹つれていったそうです。各隊に一匹ずつ分けて、その瞳で時刻を計って、作戦行動の時間あわせに使ってたそうです。ヘー。 薩摩軍が引き上げたときに5匹が戦死して、二匹が凱旋したそうで、その5匹を供養するために、薩摩の誰かが猫神として祀ったそうです。へー。その祠は今も残って、鹿児島市吉野町に猫神神社として現存するそうな。へー。一度、参拝してみたいですねえ。

◎「戦国鉄砲・傭兵隊」鈴木真哉 平凡社新書 2004年280円、定価760円プラス税

まず、雑賀はサイカと読むのだと、雑賀衆の末裔はのたまう。たしかに変換辞書もサイカでは変換できない。(辞書登録したからサイカでも雑賀がでるけど)
「これは些細なことのようだが、地名が正しくよまれていないということは、プロの学者を含めて世間の人たちが雑賀という土地について、余り正確な知識を持っていないことの一つの例証といえる。比較的容易に確認のできる地名についてさえ、そんな具合であるとしたら、何百年も前にそこに居た人たちについては、なおさらのことであろう」と歴史学の怠慢に鈴木真哉は静かに深く怒りを表明することからはじめる。
雑賀衆というのは、信長に逆らって戦い続けた本願寺派門徒衆で鉄砲を巧みに使った集団であり、有名な人物としては、鈴木孫一(俗に雑賀孫一として有名)、それほど有名ではないが史書に名前が残っている佐武伊賀守という、少々鈴木に言わせると「変わった男」たちがいる。
雑賀衆、雑賀一揆という呼び方は、戦国時代からあるが、司馬遼太郎が好んだ雑賀党という呼び方は江戸時代以降の呼び名だと鈴木は穏やかにマスコミ大家エッセイストを正す。
一揆というのは、阿佐ヶ谷二郎なんかも加わっていた後北条氏の南一揆で舞踏派にはイメージが浮かびやすいのだけれど、戦国時代以前からの在地武家衆で、せいぜい一家に二三騎に従者下人が十人程度の小勢力が連合して地域自治単位を形成してたものという感じである。
やはり雑賀とその周辺、紀ノ川下流の一荘四郷の武装勢力雑賀衆と呼ぶ。雑賀荘(さいかのしょう)十ヶ郷(じっかごう)、宮郷(みやごう)、中郷(なかごう)、南郷(なんごう)。地名は以上で、これの人は組となって、それぞれ雑賀組、十ヶ組、宮組、中組、南組の雑賀五組となる。鈴木はまとめて、現在の和歌山市のほぼ全域とその周辺の土豪たちの集団が雑賀衆だったという。
生業は農業かというと、網野史学でいう「百姓」だったらしい。この百姓という概念は単なる農民ではなく、武士=都市・城下町に対しての在地経済域全職業人集団みたいなものである。農民、工人、漁民、商人、一部土着武士(地回りのヤクザにちかい警備業者みたいなものか)寺・神社までも含んでいる人間集団の概念です。だから、フロイスが陸でも海でもその戦闘力では根来と並ぶもので有名であると書き残したわけです。
で、この集団が、小説家の想像のように「一枚岩の団結力」を持ってたかというと鈴木はノーと答える。佐武の覚書によれば、佐武伊賀守が子どものころに組内部で戦闘があったし、組同士の武力衝突は始終記録されているし、秀吉軍が攻めてくる前にやはり内部抗争で自壊してしまったりしている。
鈴木孫一は十ヶ組出で、そのうちに雑賀組の土橋家を滅ぼしたりしているのだが、鈴木にしろ佐武にしろ門徒衆ではなかったらしい。でも、本願寺から要請をうけると兵を率いて本願寺へ駆けつけているというのは、やはり金をもらっての傭兵稼業だったと思われる。
では、織田信長と長いこと争った理由は何か。鈴木は書いてないが、信長の家臣団に入るのを断ってあくまでも傭兵を通したせいだろう。今日は味方、契約が切れれば、明日は金の具合では敵では家臣団の武将としては不適格である。
武田信玄みたいに牢人衆として傭兵軍団を使う発想は信長にはなかったようです。徳川家康の場合は武田軍のシステムをコピーしてたから、当然牢人軍団も使ったようです。それだから、頑固者の大久保彦左衛門なんかは、牢人どもなんぞ信用できないと不満を隠さなかったようです(もっとも大久保彦左衛門というキャラクタは江戸時代初期の戦国を知るものの語り物という形のフィクション性の強いものだから、リアルな彦左衛門はそう思ってなかったかも)。鈴木は、傭兵に対する偏見差別観であり、古今東西傭兵軍がいかに有効で契約下ではむしろ直参旗本なんかよりよほど忠誠心もあったと、幕末の「新撰組」「歩兵隊」なんかを反証に上げています。
雑賀孫一と言えば鉄砲衆ということになっているが、鉄砲ぬきの白兵戦もこの傭兵集団は強かったらしい。織田軍団は五分五分の数で正面衝突した場合は、鉄砲ぬきでも、まったく勝てなかったようである。所持していた鉄砲の数も織田の三千どころか、雑賀・根来衆をあわせると紀州勢は五千を越える数字になる。野戦築城と鉄砲大量使用という長篠の信長戦術がもし本当なら、長篠の戦いの二年後の石山合戦で孫一の同じ戦術に信長の軍団がまともに引っかかって惨敗するなんてことがあるだろうか、とまでは鈴木は書かないが、それに近い表現をしている。
石山封鎖に失敗した信長は、雑賀を大軍で攻めるのだけれど、結局は兵を引かざるを得ない。鉄砲の巧者が数も弾薬もたっぷり備えて城を守ったら、それが本来の鉄砲の使いかたなんだから、いかに大軍で囲もうと容易には落とせない。織田・徳川側の史書では、孫一たちを赦免して引き上げたと言いつくろっているが、多分、まだ生きてた上杉謙信の圧力に負けそうになっていた柴田修理あたりへの後詰のため、面子だけつくろって引いたのかもしれない。本願寺側、雑賀側で、はっきり勝った(守りきった)と書き残してるほうが事実でしょう。
そのうち謙信が亡くなると、上杉家も内紛で後継者の景勝がようやくまとめたが、もう外へ圧力になるような力を失ってしまい、力関係は信長に有利に転じた。本願寺はとたんに腰砕けに信長と講和して、傭兵隊長としての孫一は新しい金主を探すことになる。そこで信長は孫一の後ろ盾になったようだが、本願寺ほど気前はよくなかったようで、孫一の活動も穏やかになってしまい。安定した金主の信長、秀吉の下に入って最後には雑賀を攻めて滅亡させてしまう。金を払ってもらえるなら故郷すら攻める。傭兵の鑑ですね、全く。
かわりに佐武伊賀守が目立ち始めるのだが、この人はなんと言っても、300人の鉄砲衆だけで、1万5千人の織田軍団を追い払ったという江戸時代の講談の主人公になってしまうくらいに目だっていたようです。話半分どころか一割程度に縮小すると実際にあったことらしい。攻め手の大将の原田某が城側の兵をつり出すために、偽計の退却を開始したのを見て、それ首取れと追いかけ出すような傭兵隊長なんですね。偽計ですから、すぐに反撃されて、あっというまに、二,三十人に数が減った。でも、ここからが佐武の真骨頂。銃の名手に四、五挺の鉄砲をもたせ、薬籠めの従者も複数つけて、自身も射手として迎え討ちを迎え撃ち。主将の原田を含めて、佐武に言わせると本人分だけでも百人は撃ち取ったという大戦果をあげたそうな。
雑賀衆の歴史からの消え方にも、滅びの美とか悲劇的なものはなんにもない。地方割拠して、そこを拠点に武力を売る商売環境が天下統一によって失われると、売りつけるべき客の消滅とともに集団としてのつながりを維持することも不可能になって百姓の一人一人に溶け込んでいった・・・・・のかな。少なくとも、「主義」とか「哲学」に「戦国名家の地位」に殉じるような集団ではなく、単にあっさりと商売替えしたために、消えたように見えるだけなのかもしれません。つぶしの利く柔構造の集団というやつですね。