金融政策と経済思想: 「経済学という教養」 稲葉振一郎

経済学という教養 (ちくま文庫)

経済学という教養 (ちくま文庫)

もう学生時代は30年ちかく前になるが、その頃まだ学内では、マルクス主義の残り香がそこはかとなく漂っていた。ソ連や東欧諸国の様子から、社会主義の破綻は明らかになりつつあったが、資本主義にも限界が見えていて将来は暗い、という論調の書物を読むこともあった。当時、「ニューアカデミズム」という、ちょっとした賑やかしがあったが、今にして思えばあれもマルクス主義の一変奏だった。「ニューアカデミズム」等を話題にして話す友人たちも何人かいて、ともに楽しい時間を過ごしたと思う。あれから、円高不況を経てバブル景気の時代がやってきて、就職した後はずっとデフレの時代が続いて今日に至っている。

そして今、金融政策によるデフレ脱却の是非を当時からの友人たちと話すと、ある友人は、「グローバル化が進んだ現代では一国だけのリフレはありえない」といい、別のある友人は「増税しそれを原資にして政府が成長分野に投資して公共事業をやったほうが失業が減り、賃金の下げも止まる」という。彼らにとっては、金融政策は有効ではないようだった。

本書は、「素人の、素人による、素人のための経済学入門」である。さらに言えば、マルクス経済学をベースにして学問を始めた頃の著者自身に向けて、「「マルクス主義」を野辺送りにし、「近代経済学」を肯定」するべく「手紙を書くような作業」であったとのことであり、「少なくとも一昔前ならば雑誌「現代思想」の、熱心な読者ではないまでも気にしていた人たち、「ポストモダン」だの「社会構築主義」だのについて読みかじったことのある「人文系読書人」」を読者として想定している。まさに筆者や、筆者の友人たちに向けて書かれた本であったと言える。

本書を読むと、要するにマルクス主義的な立場は、「金本位制」を基盤として金融政策をとらえていることがわかる。現代の通貨システムは言うまでもなく金本位制ではなく「変動相場制」であるが、これを維持する担保となっているのは近代的な法治国家である。既存の資本主義国家に対抗する立場のマルクス主義者から見れば、変動相場制など信用できないのは何となくわかる。金本位制を前提にすれば、金融政策は必然的に制約されたものとなり、インフレ的拡張政策をとろうとすれば、大量の金準備が必要となるが、金を得るには、新しく金の鉱脈でも発見しないかぎり、貿易黒字を稼ぐしかない。となれば、金融政策は、限られた世界通貨である金をめぐって争うゼロサムゲームのようになってしまう。こうした立場からは「一国だけのリフレはありえない」のは、当然のことになる。マルクス主義は、この意味で重商主義の立場と奇妙にも一致するのである。さらに興味深いのは、マルクスの「相対的過剰人口=産業予備軍」理論から見れば、失業の存在は、いざ需要が急増したときのためのバッファであり、「資本主義経済システムが円滑に機能するための必要条件」になってしまう、との指摘だ。「完全雇用」は、場合によっては(マルクス主義的な)左翼運動の目標にはならないのだろうか、とさえ思えてくる。

本書はさらに、マルクス主義や古典的な経済学と対抗する立場のケインズ主義にも、いくつかの異なる立場があることを指摘する。不況の場合、市場が不完全なので賃金が下がらず、失業が発生するという立場(「実物的ケインジアン」)、そして、モノではなく貨幣を財産として保有しようとする傾向が強まっている、とする立場(「貨幣的ケインジアン」)である。「実物的ケインジアン」の中には、賃金の下方硬直性ではなく、魅力的なモノ・サービスが不足しているために不況が発生している、という考え方がある。この考え方こそ、筆者の別の友人が言うところの、増税して政府が「成長分野」に投資する、という処方箋につながるものだ。リフレ政策を「実物的ケインジアン」の眼で見ると、どんなに金融緩和しても、魅力的なモノ・サービスの登場という「実体経済」の革新がなければ、金融緩和で供給された貨幣は金融関係の市場のみにとどまり続けそこでの「バブル」の発生と崩壊を招くだけだ、ということになるのだろう。

リーマンショック以降、デフレを防止するべくアメリカやイギリスでは大規模な金融緩和が行われ(結果としてデフレに陥らずに済んだようである)、最近では日本でもデフレを脱却するための大規模な金融緩和が実施されることになった。これらの経験をもとに、本書で述べられている様々な経済学的立場がどのように総括できるのか、経済学者の皆さんの活躍を期待したい。そして、日本の経済停滞が終わることを期待し、経済が良かった昔のように、安心して友人たちと経済以外の話で盛り上がりたいと切に思う。