政治家の決断を支えるもの:「昭和史講義3」 筒井清忠 編

本書を一読し、政治指導者にとって、その決断を支えるものについて考える。本書では昭和期戦前・戦中に活動した政治家たちをとりあげているが、政党を背景にして政治経験を積み重ねていった政治家たちと、昭和7年(1932年)の5.15事件をきっかけとして政党政治が機能しなくなって以降、官僚からいきなり政治指導者になった人々のふるまいは異なっているようにみえる。

昭和初期に成立した「憲政の常道」としての政党政治において、政党指導者たちは基本的に政党における政策への民意による支持を背景として政治行動を進めている。本書でとりあげている最初の六名は政党政治家であり、自らの政治信念に加え、政党とそれがくみとっている民意を足場にして政治決断を行っている(幣原喜重郎(第4講)は微妙なところだが)。また、彼らが行った政治決断は、何らかの形で選挙をつうじた民意による洗礼を受けている。こうして加藤高明(第1講)内閣は、当時の中国に対する内政不干渉方針を貫くことに成功し、浜口雄幸(第5講)内閣はロンドン軍縮条約の批准を実現した。またそのことは、若槻礼次郎(第2講)が、「政党といふものは兎に角民心は何処に動いているかといふことを代表して主張する一つの機関だと言はなければならんのです」(本書、p39)と述べていることからも伺える。

これに対し、後半でとりあげている9名は政党に足場をもたない官僚であり、民意をくみとろうとした経験が少なく、下した決断について選挙を通じて民意に問うこともできないので、政治行動はその場の状況に流されやすいものとなってしまう。岡田啓介(第7講)、広田弘毅(第8講)内閣の迷走ぶりにそうした様子がよく現れている。こうして、対米英開戦という最終的な破局をもたらす契機となっていく一連の事件である、日中戦争の長期化(近衛文麿、第10講)や南部仏印進駐(松岡洋右、第12講)といった重要な決断も軽く行われてしまった。対米英開戦がほぼ決まった後を任された東条英機(第13講)も事態を打開できず、ひたすら眼の前の職務遂行に邁進するばかりだった。陸相参謀総長を兼任した「東条独裁」の脆弱さは驚くほどである。興味がひかれるのは、こうした「不安」な官僚政治家たちにとって最後の心のよりどころとなったのは、昭和天皇であり、さらには昭和天皇が代表する「国体」を護持するということが彼らの最終目的になっていったということだ。戦争の終結にあたって、確かな民意をくみとり政治決断につなげていくことができなかった鈴木貫太郎(第14講)内閣がとった最終手段は、昭和天皇による「聖断」であった。

聖断は確かに輔弼制度の蹂躙であり、明治憲法体制の事実上の瓦解を意味したが、鈴木にとっては、政治を国民と天皇の手に取り戻した瞬間でもあった」(本書、p275)

本書でとりあげられている人物たちに対して世代が新しいせいか(昭和天皇は、戦後活躍した池田隼人や佐藤栄作と同じ世代である)、昭和天皇がとりあげられていないのが残念であるが、本書の影の主人公は昭和天皇であると言っていいくらい、その存在感は大きい。

もうひとつの興味は、軌道に乗りかけたかにみえた政党政治が頓挫した理由であるが、これは何といっても昭和恐慌であり、浜口雄幸内閣による極端な経済緊縮政策がさらに恐慌を深刻化させてしまったことだろう。緊縮政策はよく言われるように一般社会を疲弊させたが、予算制約による軍縮の強要を通じて軍も不安定化させてしまい、政局をいっそう不穏にしてしまった(宇垣一成、第9講)。緊縮政策の恐ろしさを改めて感じさせる、きびしい歴史的事実である。