縁というもの

人との出会いというものには「縁」というものがつきものある。
この縁について、研究室の仲間の間で議論をしていたのだが、
どうも、社会学的な発想からは理解しがたい。
例えば社会学にもネットワーク論やら、社会関係資本論やら、ハビトゥスやら、
縁につながらせるような、関係理論はいくつもある。
しかし、それらはあくまで縁の結果論を述べているに過ぎなくて、
偶然的に、「あの時ああしたら、今頃こうならなかっただろう」というような
仮定法過去的な発想には、どうもなりえないわけである。


例えばよくある例が、恋愛での出来事。
そこで議論していた仲間の一人の女子が言うわけである。
私は今まで恋人ができたことがない、と。
ここでなぜその子ができなかったのか、他人事のように考えてみると、
まず考えられるのは、その人に魅力がないから。
「人は外見が90%」やら、数値は不確かだが、そういう言説もある。
要は、その人に外見的あるいは内面的魅力がないから、
恋人ができない、などと考えるのは、最も一般的な考え方である。
ただし、この考え方は「恋人がいない」ということの
ある種のスティグマにもつながるので、
かなり危険な議論でもあるように思えるわけだが。
同時に、仮に外から判断される外見的な魅力がなかろうとも、
内面的な魅力というものは、見る人の角度によっては、
いかようにも魅力となりうるわけである。
ということは、その人に魅力がない、ということは、
誰しもなりえない、というのが、内面的な魅力というものである。


あるいは、「高根の花」とも言うが、
要は、自分の見せ方が悪いという場合もある。
高根の花と言われるなら、プライドを無視してでも、
それまでの自分につけられたイメージを脱構築していけばいい。
しかしその努力をしていないからこそ、
高根の花であり続けている、という見方。


もうひとつは、それこそ、縁である。
「運命的な出会い」とも言う。
まぁ「運命」という表現は、どうも後付けっぽいような気もするので、
私は好きではないのだが。
要は、自分にフィットする相手というものが、
ちょうどいいタイミングに表れていない、という問題。
まぁこれも、そのタイミングに出くわすためには、
もっともっと自分の世界を広げて行って、
自分からいろんな人と出会っていく必要もある。
そうした、それこそこれも、努力をしてこなかったから、
彼女が今まで恋人ができなかったのではないか、
とする見方もできないこともないわけだが、
ひとまず、努力の問題よりも、
結局は、いかようにも努力をしていても、していなくても、
どこか、何かの、ふとした偶然的な些細な出会いが、
それこそ極端な例でいえばトレンディードラマチックな出会いが、
そのまま恋愛関係へと移行する可能性も否定できないわけだ。
ほんの些細な、いつ何時の、どうなるかもわからない、
小さな出会い、それこそ縁が、
恋愛に限らずとも、人とのその後のつきあいを生んでいく。


一般論として、割りと具体的なことをいえば。
「私」自身で本当に辛い局面に陥りそうな時、
なぜか、声をかけてくれる人がいる、なぜか。
その声をかけてくれる人が、
相手である「私」が本当に辛いと気づいていなくても、
なぜか、声をかけてくれている。
まさに偶然である。
こうした局面で、人はその相手を「運命の人」だと思うわけだ。
「運命」といっても、
運命とは生まれる前に神の定めた道の上にある出来事であるわけであって、
それが後付けになるのもおかしな話である。
運命の人というなら、それこそ政略結婚のようなものをいうのならまだしも。
それなので、あくまで「」つきの「運命の人」である。
だけれども、その人がなぜ「運命の人」なのかは、
例えばいろんな、階層やら、出身地域やら、ネットワークやら何やらの属性を
調べていって何か共通点を生み出したからといっても、
それはやはりあくまで、後付けの解釈にしか過ぎないということである。


問題はなぜ、その人なのか、
今の例でいえば、他の人ではなく、なぜその人なのかということである。
それを、後付けではない解釈をしようとしたら、
どうしても、何かの属性をもって共通性を見ようとしていったとしても無理がある。
受験にしても就活にしてもなんにしても、
なぜその学校なのか、その企業なのか、
この学校の、企業の、こういうところがいい、とか
そういうのを見ていったとして、
それでも、結果的には試験に通ったとか、
あるいは、もっと根本的にいえば、
その「こういうところがいい」というところも
そう見させてくれた何か出来事やら人やらに出会わなければ、
結局その学校やら企業に出会うことはなかったのである。


つまり、何かの「縁」というものは、
こうして偶然的な出会いによって生まれるものなのである。
そして、その「縁」を大切にしている人なら、
次々と新しい「縁」が集まってくるということ。
おそらく、ネットワーク論のようなものも、
ここから先をしか説明することができないわけだ。
その前の段階、つまり人と人との関係を生み出す「縁」については、
一つ一つの出会いを大切にしましょう、というような、プリミティブな、
後付けの解釈では説明できないような世界なのである。
社会学は、どうもそこを扱うことが弱いらしい。

それでもニューヨークは動き続ける。

mzkyrhjmy2008-12-05


アメリカが素晴らしい国だなどと言うのは、一種の幻想にすぎない。
まぁ実際すばらしいところはいくらでもあるのだろうが、
少なくとも私には理解ができない、というのが今回そう言う趣旨である。



東京生まれの私ですら、いくらかの憧れをもっていたニューヨーク。
実際訪れてみると、はっきり言うと、なんでもない、ただの冷たい街である。


日本にいれば、地方出身の人は東京に憧れをもって来るという。
だが、東京生まれの人間にとっては、東京のあらゆる光景は当たり前にすぎない。
東京生まれの人間にはもちろんそんなことは理解できないわけだが、
「東京」と言うと、憧れの要素があるらしい。
ニューヨークへの憧れも、同じようなものである。
アメリカは、政治的にも、経済的にも、文化的にも、
世界でゆるぎない地位を誇る。
そのうち、経済と文化の中心地が、ニューヨークである。
「ロンドン」と言ってもたいていの日本人はそれほどの憧れを感じないかもしれないが、
「ニューヨーク」と言うと憧れをもつ。
ニューヨークというと、そのような場所なのかもしれない。


しかし、実際に訪れてみると、ニューヨークもやはり単なる都市にすぎない。
いや、それどころか、非常に冷たく感じる場所でもある。
だいたい、英語がそれほどできない人種にも、
なにかにつけて当然の如く、早口の英語でまくしたててくる。
言語の問題だけでなくとも、
ニューヨークにはニューヨークの、東京には東京の、都市のルールがある。
あらゆる都市のルールは、よそ者には早々に理解することは難しい。
それでも都市民はそのような者に、同じに扱おうとする。
「東京は冷たいところだ」とか「東京を色で表わすとグレーだ」などと
よく言われるが、ニューヨークも全くそれは同じ。
東京に住んでいればわからない都市の冷たさを、
ニューヨークではさらに味わうことができる。



憧れというものは、いつか終わりを迎える。
憧れは当たり前、日常へと変化し、
その日常に違和を感じる人間にとっては、それが恨みに代わる。
もちろん、東京といっても、ニューヨークといっても、
冷たい都市だからと言って、そのうっ憤を誰にぶつけるわけにもいかない。
だれに責任があるわけでもない。
責任があるとすれば、むしろ、都市に出てきた自分のほうにある。
それでも、気分ではそのうっ憤を誰かにぶつけたくなるものである。


ニューヨークは、世界の経済、文化の中心地である。
中心があれば、もちろん周縁もある。
グローバリゼーションは、あらゆる社会活動を
ボーダレスに行うことを実現してきた。
だが、その一方で政治や経済は中心へと力点が集中する傾向も見られる。
周縁にいる人間にとってみれば、
ニューヨークにいる人間に、自分の生活の苦しさの恨みを持つのかもしれない。



9.11テロも、実はそのようにして、
周縁部におかれたイスラム社会出身の
イスラム原理主義」(≠イスラム原理主義)テロリストたちに
アメリカという都市でのアノミイックな体験がもとで、
経済の中心であるニューヨーク・ロウアーマンハッタンへと
その個人的な晴らしようのない恨みをぶつける形で
起こったものなのかもしれない。


WTC跡を訪れると、あのとき、
ちょうど2001年9月11日日本時間22時頃、
テレビで生中継されたWTC崩壊の瞬間を思い起こされる。
あの衝撃の映像を思い出し震えが出てくるのと同時に、
一方で、その脇を平然とハイスピードでウォール街へと行進する
ニューヨーカーたちの姿を見ていると滑稽にも見えてくる。
あの世界中が怒りに満ちた事件の現場の横では、
ニューヨーカーたちはまるで何事もなかったかのように日常を送るのである。



そして、WTC跡には、あと2年もすれば
テロがなかったかのように、新しいビルが建つことになる。
結局、テロリストたちの必死の行為は何だったのか、
決してテロという暴力行為を認めるわけではないが、
その彼らが感じたやり場のない怒りがなかったかのように、
ニューヨークは、またそれまでのように穴を埋め、
また生き返ることになるのである。


それでも、ニューヨークという都市は動き続ける。
世界に何かの使命があるのか、
経済や文化に行きつくゴールはあるのか、
見えないゴールの中で、
そこに向かって向かわなければならないゴールも明確ではなく、
アノミイックな日常とはそういうものであり、
ニューヨークは、巨大な機械のごとく、今でも歯車を回し続けている。

「スチュワーデス物語」と第2代「アテンションプリーズ」の違い

来週にハワイに行くということで、
アテンションプリーズ・ホノルル編のDVDを見て
今その予習をしているわけである


そういえば、CBCテレビで、今
スチュワーデス物語」の再放送をしていて、ついつい見てしまった。
この作品の放映も、私の生まれる前のものなので、
当然見たことはなく。
ただ、アイドル時代の堀ちえみの主演作品ということだけは知っていて、
なっちゃん」のCMでしばらく前に堀北真希堀ちえみが共演して
そこで話題になったこともあった。
その、「スチュワーデス物語」である。


当たり前なのだが、堀ちえみはアイドルなので、
当然演技力は期待できるものではないのだが、
スチュワーデス物語」での演技は、はっきりいって
現代的視点によれば、見るに堪えないものだった。
なにせ、当時もその「大根役者」ぶりが話題になったようで、
しかし、その「大根役者」ぶりが、
一人前のスチュワーデスに成長していく姿を投影しているとして、
逆に功を奏した、とも言われている。


そのスチュワーデス物語から、新生アテンションプリーズ放映まで、
20年強の時間が経ったわけである。
共通のスポンサーである日本航空はその間、
御巣鷹山事故も経験し、JASとの合併も経験、
ワンワールド・アライアンスへの参加も経験した。
一方で、航空業界では、男女平等参画の進展により、
スチュワーデスからキャビンアテンダントという呼び名に変化した。
相当に変化のあった、20年強だったわけである。
それだけにあって、両作品の間の変化というものが激しい。


特に私が注目したのは、
両作品でのサービスの映され方の変化である。
たまたま私が見たスチュワーデス物語の放映回では、
乗客の一人が機内で心筋梗塞になり、
バンクーバーから成田までの途上で、
急遽、乗客を病院に送るため、アンカレッジによることになったという設定。
アテンションプリーズでもそういうトラブルは
いくつも設定されていたのだが、
そのトラブル時の対応というものが大きく違う。
アンカレッジによることになった際、
乗客の中から、多くのクレームがスチュワーデスに寄せられるのだが、
そこで、スチュワーデスがクレームに言い返しているのである。
こんなことは、アテンションプリーズではありえない。
例えば美咲洋子(上戸彩)がそんなことをした試しには、
三神(真矢みき)が飛んでくるところである。
ところが、松本(堀ちえみ)がそのようなことをしても、
村沢(風間杜夫)は怒らないないどころか、
ジュースを配って、さっさとそのクレームの火を消させようとする。


まぁ、もちろん現実のJAL便でそのようなクレーム対応が行われていたとは
思えないわけだが、
スポンサーである日本航空にとってみて、
そういう映し出され方をしたとして、
自社の運営への影響の出方というのが異なるというのが大きくあるだろう。
そもそも、当時の日本航空は、民営化以前である。
国のものであれば、イメージ戦略などするまでもなく、信頼性は自ずとある。
もっとも、「沈まぬ太陽」を読めばわかると思うが、
日本航空はトラブルが相次いでいた。
その中で、イメージへの影響というものが
そもそもないわけではなかったろうが、
しかし、日本航空側としてそういうことに対して
シビアにはなっていなかったということだろう。
今では、日本航空も競争の下に放り出され、
ライバル・全日空とだけではなく、
スカイマーク等の国内の格安航空会社、
国際線では、他国の会社との競争をし、
生き残っていかなければならない。
その中で、サービスの映し方にもシビアになったというのがあるだろう。
いや、もっとも、社会の変化として、
現場の姿をよりリアルに映し出すことが求められるようになったというのが
もちろんあるのだろうけれども。


他の要因としては、
アイドルの演技の映し出され方も変化しているということもあるだろう。
堀ちえみの演技は、まったくもって下手な演技だった。
けれども、それが視聴者側に映し出されたのも、
「一人前」になるというものが、
割りと直線的だった、そうやって映されていたということが
要因としてあるのではないか。
アテンションプリーズでいえば、
美咲は非常に曲線的に、回り道をしながら、「一人前」になっていく。
一応の結末は、各回に用意されてはいるが、
しかし、それが完成型ではない。


まぁ、ともかくとして、
スチュワーデス、キャビンアテンダントの成長物語にしても、
時代を経るごとに、変化をしていく。
スチュワーデス物語の前で言えば、
先代アテンションプリーズがあったわけだが、
これらを通して、たとえばキャビンアテンダントというものが、
あるいはサービスというものが、
どのように映し出されているのかということを比較してみて行くと、
社会的な変化というものが、その背後に見えてくるのかもしれない。

ムスリムに学ぶ。酒の場を楽しめるのは、何のおかげか

バングラデシュから帰ってきて、1ヶ月が経つ。
にもかかわらず、現地で調子が悪くなった胃腸が
未だに言うことを聞いてくれない。
医者は感染症ではないのだと言う。
けれども、症状がはっきりせず、
薬を飲んでも完璧に回復しない中で、
本当に、体力的に疲弊している。
とにかく、便所に行く機会が多いから
まともな日常生活をしている人に迷惑を少なからずかけているし、
それに食事もまともに胃腸が受け付けてくれない。
そして、酒を飲んでも、うまいと感じられないし、
普段飲めていた深さまで酒を飲むことができない。


そんな苦しさの中に自分が今ある中で、
バングラデシュ漬けだったこの3ヶ月間、
いったい自分は何をしていたんだろうと思う。
バングラデシュに2週間ほど、二度目に行って
もちろん考えたことはいろいろあるのだが、
あれほどまでに、一人の人間として
心や頭、体を動かさせられる国は、
世界中どこを探してもない。
そんな環境を離れ、日常の平和な日本に帰ってくる。
すると、日本の環境がいかにつまらないものなのかを
実感させられる。
いや、日本の環境がつまらないのは間違いだ。
日本の環境にいる自分がつまらないのか。


バングラデシュムスリムの国。
当然のことながら、ムスリムたちは酒を飲まない。
だから、あの国に行けば、
人とのコミュニケーションの手段は、茶である。


イスラームの勉強をすれば、必ずと言ってよいほど、
イスラームの解説本に、
ムスリムたちは酒を飲まないで楽しくないのか?」
というようなことが書かれている。
もちろん、楽しくないわけではない。
多文化主義的な観点から考えてみれば当然のことだが、
酒の文化は酒の文化に、茶の文化には茶の文化に、
それぞれ楽しみがあるのであり、こだわりがあるのであり、
また、そこに宗教的なスタンス、寛容性はあるべきものである。
したがって、ムスリムたちが
宗教的立場から酒を飲めないのだとしても、
彼らには彼らなりに、茶(コーヒー)を飲み
コミュニケーションを楽しむ文化を持っているのであり、
彼らは彼らなりの方法で、つまり文化で、
コミュニケーションを十分に楽しんでいる。


他文化下に行って、そして帰ってくると
いつものように、自文化についてとても考えさせられる。
そして、イギリスに行ったとき同様(過去にこのブログで書いたが)、
日本の酒の文化には本当に考えさせられる。


とりあえず、イギリスから帰ってきたときと
同じように考えさせられたことは省略させてもらう。
その上で。
日本の酒の文化は、なぜ理性をつぶしてまで
コミュニケーションを充足させることを求めるのか。
イギリスのパブでは、いやイギリスだけではなく欧米の多くでは、
泥酔はタブーだ。
酒を飲むのは、当然OKだ。
しかし、酔いつぶれてはいけないのである。
だが、日本の酒文化では、酔いつぶれないといけない。
もちろん、あらゆる飲酒シーンでそうなのかというと、
まったくそうではないのだが。
しかし、必ずと言っていいほど、
素面(シラフ)のときとは違う人格を表すことを求められる。


日本の酒の文化があらためていいなぁと思うのは、
そうして素面とは違う人格をお互い表すことで、
裏の世界を作り上げることができることである。
愚痴というものが欧米やイスラムの世界に存在するのかは知らないが、
酒の席で、お互いの愚痴を言い合い、
あるいは上司が部下の愚痴を聞き慰めるというような関係を築け、
そのおかげで表の世界での円滑なコミュニケーションが成り立つと思うと、
やはり、日本の酒の文化がすばらしいなぁと思わざるをえないのである。


しかし、酒は時に暴力ともなるわけである。
というか、アルハラがどうのという問題は置いておくとしても、
酒の力によって理性を失うことによって、
コミュニケーションの相手が望まないことをすることは大いにあるわけである。
そもそも、理性を失い、判断能力を失えば、
相手が何を望んでいるのか、相手がどのような人なのかということを
考えることができなくなるからだ。
もちろん、誰と誰という垣根を越えて人間同士一体となれるという側面もあって、
それがいい部分なんだという人もいるのかもしれないが、
酒を飲まなければそういうことができないのはどうかと思うし、
つまり、そのために酒に頼っている人間の弱さをひしひしと感じるわけである。


はっきり言うと、あくまで個人的に、
私は、そうやって酒を飲んで理性を失って、
その場にいる人間と一心同体になるということは苦手なのだ。
いや、苦手というか、得意だとしても、苦手だとしても、好まないのだ。
例えば非常に具体的なことを言えば、
飲み会で、トランプをする。
その意味がまったくわからない。
なぜ、飲み会でトランプでないといけないのか?
トランプをするのに、酒がいるのか?
そこまでトランプをしたいなら、酒を飲まなくてもいいじゃないか。
そう思うのだが、しかしそれが残念なことに、
ある種、日本の酒の文化によるものであることは事実として仕方のないことだ。


さらに言えば、私は酒を飲んでつぶれることができない。
自慢ではないが、普段の私は人並み以上にはアルコールに強い。
たぶん、一般的な飲み会程度でつぶれることはありえない。
だが、深酒をしても、つぶれられないのだ。
つぶれるほど飲もうとしても、つぶれられない。
たぶん、飲んでる自分のどこかにブレーキがあって
それがいつも作用しているからなのだろうけれども、
一人で飲んでいるときもつぶれたことはないから、
人前だろうが、一人だろうが、
そのブレーキがいつもあることは間違いない。
飲んで吐くのは、内臓の体調の限界によるときだけだ。
決してそれは飲みつぶれているわけではないわけである。
そして、そのために、
飲んでも、大して人格が変わらない、というのか、変われない。


などと述べてみたが、
よく考えてみれば、こうしたことを考えることそのものが、
ある意味で、日本の酒の文化に浸かっている証拠なのかもしれない。
日本の酒の文化には、
日本の文化の独特な人間関係に基づくルールがいろいろある。
その人間関係といっても、先輩と後輩、取引先と自分の会社…
などなどのような関係にとどまることを言いたいわけではない。
とにかく、酒そのものを楽しむ前に、そういう人との関係を
異常に気にしすぎているような気もするわけである。
純粋に酒の席を楽しみたいのなら、
相手が誰であろうと、酒との関係は対等なはずにもかかわらずである。
その純粋なる酒の楽しみの以前に、
日常の人間関係がどのようなものかということを、
日本の酒の文化はやはりどうしても意識させているようである。


純粋に酒の席を楽しむにはどうすればいいのか?
酒を飲めないムスリムたちが教えてくれるのは、
酩酊感を、酒という刺激の強い物に頼らずに楽しむことである。
彼らは、茶(コーヒー)だけで、何時間も話し続けている。
もちろん、茶を飲んで、日常の人格と異なる人格を演出はできない。
しかしそれをしないでも、
とにかく、コミュニケーションを、
茶を飲んで、心を落ち着けることによって、
楽しむことができているわけだ。
そして、それだけでも、何時間でも話を続けられている。
その姿を見るや、体験するや、
酒がなくては人間関係を構築できないというものなど、
単なる日本の酒の文化の中での思考によるものに
すぎないということを思わさせてくれるわけである。


とすれば、いっそのこと、
酒の席で、酒を飲まないというのはどうなのか。
酒の席でこそ、酒を飲まない。
どう見ても、空気の読めないやつだ。
とはいえ、昨今のアルコール禁忌の流れの強まりからも、
酒の席で酒を飲まないというのは、認められる場面が増えている。
そこを、あえて実行する。
酒が飲めるにもかかわらず、実行するのである。


あえて実行したわけではないのだが、
昨日ちょうど飲み会があって参加してきたわけである。
これまで大学入学以降の自分は、
酒の席では必ずアルコールを摂取していた。
それが今回、帰国後の胃腸の調子の悪さから、
初めて、ウーロン茶で飲み会を楽しまざるを得なくなった。
だが、そこでなぜか、
アルコールを摂取していない自分が、
なぜか、酒の席を楽しめているということに気づいたわけである。
いや、それだけでなく、日常の自分ではあまりしないこと、話さないことを、
後で思い返せば、し、話していたわけである。


とすれば、
もしかすると、酒の本来の楽しみを奪っているのは、
実は酒そのものなのかもしれないわけである。
というのは、酒と言う文化を気にするあまり、
酒というものそのものを楽しむことができないのではないかと思うからだ。
つまり、酒の楽しみを楽しもうとする自分を、
あきらかに酒の文化が妨害しているのである。


けれども、間違えてはいけないのは、
文化というものは、コミュニケーションのために
それを受け入れることを避けて通れないということを、
忘れてはならないということだ。
だとすれば、
結局、酒の文化をうまくすりぬけつつ、
酒そのものの良さを楽しもうと、あえて、考えようともせず、
ただ純粋に、その場を楽しもうとするということによってこそ、
本当に酒というものを楽しむことができるのかもしれない。


先ほどあげた、昨日の飲み会の後に、
また別の飲み会に参加した。
それは、割りとよくお互いを知った仲の飲み会だった。
だが、そこでお互いがお互いをどう思っているのか、
その場にいない誰かをお互いがどう思っているか、などなど、
気楽に、忌憚なく話せたし、聞けたのである。
別に、私が酒を飲めなくても、
まぁ酔ったやつが若干強制してくることはあったが、
それでも、飲めないことで気まずくなることもなかったし、
場の空気が悪くなることは決してなかったわけである。
反対に、酔いつぶれる限界に近いやつに対しても
その場にいたメンバーは皆、悪く言う、感じる人間は皆無だった。
間違いなくその空間で私たちは、
その酒の場を、各自酒をどれだけ飲んだかの量にかかわらず、
楽しむことができていたのである。


コミュニケーション媒体としての酒を楽しむ上で大事なことは、
決して、酒そのものによって得られるわけではなく、
文化によって楽しめるものでもない。
確かに、ルール・礼儀を守るのが最低限必要としても、
ともかく、酒を飲んでいるその場を楽しめるということによってこそ、
酒を楽しむことができるのであるのだ。
いやしくも、このような酒についてのことを、
今、バングラデシュで悪くした体調の中で、
酒を飲めないバングラデシュムスリムたちとの
茶を通したコミュニケーションの経験によってこそ、
考えることができている。
結局、コミュニケーションの場を楽しめるのは、
酒のおかげでもなく、茶のおかげでもなく、
相手のことを過剰に気にせず、ありのままの自分でいながら、
何に頼ることもなく、その場を自分が楽しめているかどうか
ということに、かかっているのである。

『ラスト・フレンズ』の瑠美って何のシンボルなんだろう

いまさらだが、『ラスト・フレンズ』の特別編を見た。
この番組も、最初の方は、展開がどうせ読めるだろう、と
正直たかをくくりながら視聴していたのだが、
とんでもない、ストーリーに幅があり、
また何よりも、シェアハウスの5人と宗佑をはじめとして
様々な登場人物の、そのそれぞれの視点から多角的に
この作品を楽しんでみると、
この作品のメッセージが、深く、また幅の広いものであることを、
改めて、感じさせてくれる。
で、思ったのだが、
では、美知留と宗佑の子どもである、瑠美の存在が示すシンボルとは、
この作品にとって何の意味を果たすのだろう。
瑠美は、当然最終回と特別編にしか出てこないのだが、
セリフを発することなく、また彼女の今後について何の示唆もなく、
作品は幕を閉じている。
その、瑠美の視点からこの作品を読み解いてみたとき、
この作品は、どう私の目に映ったのか。


さて、作品の第10話で宗佑は、美知留を半ばレイプのように襲って、
その結果できた子どもが瑠美である。
一方で、宗佑は、美知留を襲った夜、
自らの存在の"Contradiction"に耐え切れず、自ら命を絶つのであるが、
「不幸せ」の意味で同じ土俵に建っていたはずの、美知留と宗佑が、
結果的に、「幸せ」を追い求めていく中で
その"Contradiction"によって、その欺瞞性が明らかとなり、
男でも女でもない「人間として」「友人として」
「家族」の関係である、瑠可やタケルなどの方へ美知留が
宗佑のもとから離れていく。
他方、美知留との距離が遠くなることで
宗佑はこの"Contradiction"の中に閉じ込められ、
命を絶たざるを得なくなるのである。
このように考えれば、瑠美とは、その"Contradiction"から
"Liberation"が果たされた宗佑の生まれ変わりとも、
読み取れなくもないのではないか。


すると、結局最終的にシェアハウスが行き着くところは、
単なる寄せ集めの集合住宅ではなく、それこそ「家族」である。
というのは、瑠美という、無垢な存在がいるからこそ、
彼ら3人はこのシェアハウスから出て行くことができない。
つまり、瑠美によって、この3人の関係性は、可視化されるのである。
言い換えれば、瑠美とは、この3人の関係性の可視的シンボルなのではないか。


こう考えると、子どもとしての存在である瑠美が、
果たして、単なるシンボルとしての扱いだけでよいのかということを
検討しなくてはならなくなる。
確かに、彼/彼女らの生き辛さは、
スケープゴート的存在である宗佑が、瑠美という存在に生まれ変わったことで、
互いの関係性がいつ壊れるかもわからないものから
簡単には壊れない関係性へと移行したことで、解消したかのように見える
しかし、瑠美というシンボルとは不動のものでなく、
まぎれもなく人間という動的な存在だ。
瑠美が宗佑の生まれ変わりなのだとすれば、
それこそ瑠美が新たな"Contradiction"を自己の中に見出すかもしれず、
3人はそのリスクと向き合わなければならない。


作品の最後に、瑠可のナレーションで
「壊れやすいこの幸せを大事にして、いけるところまでいこうと思っています」
と語っているのだが、
では、その「壊れやすい関係」は、それこそ瑠美を幸せにできるのか。
ここに、やはりどうしても最後に腑に落ちない点が残ってしまう。


この、「壊れやすい関係」とは、
家族、夫婦、恋人、このどれかでもない関係であるというが、
結局は、従来のそうした縛り付ける関係性からの"Liberation"が
果たされた関係性であるといえる。
とはいえ、彼らの「宇宙」の中でその"Liberation"が果たされ、
そして、これから各自がどこへ行っても「友達でいよう」と言ったところで、
特に、瑠美の一生が本当に保障されるのか、
現状の子育て制度上で、それこそ不安定である以上、
「壊れやすい関係」がどれだけ壊れないのかということが
今いち、納得がいかない。
瑠美という存在は、単なる"Liberation"のシンボルではなく、
その「壊れやすい関係」の中でたくましく生きなければならない存在だ。
「壊れやすい関係」が本当に壊れにくいのであれば、
この瑠美の成長をこそ、今後注目していかなければいけないのではないか、
と批判的に見れば、そう思えてしまう。
「壊れやすい関係」とは、決してそこでの各自の位置が定まることなく、
その位置を、絶えず探しながら、また確かめながら、成り立つものだ。
言い換えれば、この3人の関係が3人の間で結束が高まったとして、
瑠美によって、その関係性を再帰的に検証しなければならなくなることは
間違いないはずだ。


こうした批判的な観点を通して見てしまうと、
まさしく純粋な関係性としての「壊れやすい関係」が
今の若者たちにとって大事であるとしたところで、
確かに納得はするし、賛同もするのだが、
しかしやはり、そのメッセージ性は、結局のところ、
従来の制度の中に映る美知留の成長物語に留まるものに過ぎない形でしか、
視聴者に届かないのではないか。
この点に、社会的に訴えるメッセージが秘められている番組であっても、
どうしても根本のエンターテイメント性を強く意識させられてしまうのである。

洞察力について―『ラスト・フレンズ』を楽しむための、一つの見方

「友だち地獄」

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

最近出版された新書に『友だち地獄』というのがあって、
これが面白い。
土井がここで指摘するのが、「優しい関係」という関係性だ。
これは、「あるがままの自分」を目指すがあまり、
周囲への過剰な気遣いを余儀なくされ、
そして周囲から浮いてしまわぬよう神経を使い、
その場の空気を読むというものだ。
鈴木の『ウェブ社会の思想』でも同様に指摘されているが、
ケータイのコミュニケーションというものも、
実は、この「優しい関係」に基づいて、
電話やメールが、「かける」や「送る」を通して
内容を伝達するという、本来のメディアとしての役割ではなく、
電話やメールをするという行為そのものが、
消費されていくというような、関係性へと変化している。
同様に、いじめについても、
この「優しい関係」を守るためのスケープゴートとして、
よりいっそう、問題が深刻化しているのである。


さて、その社会的問題は今回言及しないでおくとして。
果たして、その「あるがままの自分」というものは、
どんな問題を隠蔽しているのか。

「人間的」な人間関係

たとえば、友達関係と言う人間関係を見てみよう。
もちろん、いじめという社会問題をフィルターに見てみれば、
本来の、「人間的な友だち関係」構築ということなのだろうが、
では、その「人間的な友だち」関係とは何なのか。
「優しい関係」というものが
互いの気遣いを基本とした関係であるのに対し、
「人間的な友だち」関係というものは、
互いを気遣いせずとも成り立つ人間関係ということになる。
では、どうすれば人間関係は気遣いをせずとも成立するようになるのか。


その一つに考えられる方法としてあるのが、
まず、互いのドロドロした部分を認めるということである。
「優しい関係」がなぜ構築されるのかというと、
自己肯定感の脆弱性であるといえる。
誰からも傷つけられない、「純粋な自分」であればあろうとするほど、
実際はそんな関係を築くことはできないので、
そこに矛盾した関係が生まれるのだ。
とすれば、「純粋な自分」などありえないと思えばいい。
もちろん、他者にも。
人に傷つけられることもあれば、
自分が傷つけてしまうこともある。そう思えばいい。
そう思うだけでも、状況は変わるだろう。
そういう対立や葛藤を繰り返しながらも、
関係性はゆるぎないものへとなっていく。
そういう関係性を目指せばよい。


「純粋な自分」の脆弱な部分とは、つまり羞恥の部分でもある。
たとえ人に些細なことを言われたとしても、
そこでなぜ自分は傷つくのかといえば、
まさに自分の羞恥心を煽られるからである。
普段、自分が自分に対して嫌だと思っている部分を
他者によって掘り返されることによって、
自分は傷つくのである。
その嫌なことさえを言われなければ、自分も傷つかないだろうし、
自分がそれを言わなければ、他者も傷つかないのだ。
しかし、それが「優しい関係」を生むのだとすれば、
他者にその人が傷つくようなことを平気で言ってもよいのか?
それは、また違うだろう。


他者が傷つかないように配慮することが過剰になることは、
確かに、ここで避けるべきであるが、
それは、傷つくことを言ってもよいことではないのだ。
とすれば、「優しい関係」から脱するには、
自分から、その羞恥をさらけ出すしかないのだ。
「優しい関係」とは隙のない人間関係である。
しかし、そこに自分が羞恥をさらけ出すことによって隙を見せ、
またそれを自分だけでなく、皆がすれば、
閉鎖的な関係性は、風通しのよく開けたものになるだろう。

ラスト・フレンズ』について

この、人間模様を描いているのが、
今クールの連続ドラマ『ラスト・フレンズ』であるといえる。


閉鎖的な関係性としてわかりやすいのは、
美知留(長澤まさみ)と宗佑(錦戸亮)の関係である。
宗佑は美知留に対してDVを働いていたのだが、
それは、美知留に対する愛情という「純粋な自分」の像から
映るはずの、理想の美知留のイメージと、
実際の美知留のイメージにギャップが生まれるからこそ、
二人の関係に不全感が生まれ、
そしてその反動として、実際の美知留を暴力という形で支配することで
自分にとっての理想の美知留のイメージへ実際の彼女を
近づけようとするからこそ、DVが働かれるわけだ。


一方で、対極に描かれているのが、
瑠可(上野樹里)、タケル(瑛太)、
エリ(水川あさみ)、友彦(山崎樹範)の住む、シェアハウスである。
シェアハウスとは、食堂・風呂・リビングが共有となり、
それぞれの個室も存在する、共同住宅であるが、
共通の食卓としてのリビングが、
この4人と美知留の開放的な人間関係を育んでいく。
美知留の、自分がDVを受けているという「秘密」が
次第にこの4人の間で明らかになっていくことで、
美知留は、自分にとって大切な存在が宗佑だけではないことに
気付いていく。
そして、宗佑との閉鎖的な人間関係から次第に開放されていくわけだ。
美知留は、最初宗佑との同居生活を、幸せなものであると感じていたが、
実際にそこで暴力を受けていると暴露することは、
彼女にとって羞恥心をさらけ出すようなものである。
しかし、その羞恥の事実が、
特に瑠可によって明らかにされていくことが、
結果的には、彼女が宗佑との別離を決断することに導くのである。


では、その力とは何だったのだろうか?
性同一性障害に悩む瑠可は確かに美知留に対して好意を持っており、
その好意が美知留を解放させたのかもしれない。
しかし、本当にその好意だけが、解放の条件だったのか?
敢えてこれが、性同一性障害の瑠可だったところに、
この作品の、特に美知留の解放における意味があったのではないかと考える。
私は前回の文章で、恋愛は他者との同一性による一体によって生じるとしたが、
とすれば、瑠可と美知留の間には、何らかの同一性があったのだろう。
一見、超然と一人でいるように見える、瑠可は
「人が怖いだけなんだ。今だって自分の心の中にある
一番大事なことは人に話せていない、誰にも。」(第一話)
と言っている。
しかし、美知留が家庭の事情で困っているときに
瑠可が相談に乗っていたことからも、
そこで瑠可が、「人に誰にも言えないこと」という「秘密」を
美知留と共有した気になる、つまり同一性を実感したからこそ、
好きになったのではないか、と想像がつく。
とすれば、美知留の解放に瑠可が執拗にまでこだわったのも、
その「秘密」を洞察したからこそなのではないか?
つまり、瑠可の好意よりも、洞察力こそが、
美知留の解放に最も力となったのではないのか。

とすると、洞察力とは?

では、洞察力とは何なのだろうか。
それを説明するために、上野千鶴子が述べていることが参考になる。

この『現代社会の社会学』の中に上野の
「<わたし>のメタ社会学」という文章が所収されており、
ここで上野は、「情報」とは何なのかということに言及している。


上野によれば、「情報」とはノイズであるという。
自己と他者の関係がここにあると仮定する。
自己とは、自分にとって自明なもの、当り前なものであって、
そもそも情報にすらならないものである。
一方で、他者とは自分にとって疎遠な異質の存在であって、
認知的不協和のせいで情報にならない。
「情報」とは、この間に存在するもので、
自明性と異質性の間で発生する齟齬であるといえる。


洞察力とは、その齟齬に気づく力であるといえないだろうか。
その齟齬に気づくためには、
まずそもそもの自明性に対して疑いの目を向けなければならないし、
また、異質性に対しても自己が受容できるようにならなければならない。
その訓練とは、
前者のためには、たとえば読書や禅修行のようなもので、
後者のためには、たとえば他文化に積極的に触れることなどで、
訓練することによって、素養されるものであると考えられる。
その結果、自分という存在は、ノイズを「情報」に変換することができる、
すなわち、他者を洞察することができるようになるのである。


ところが、他者を洞察するには、
自己が一貫していたり、確証的な存在であってはならない。
もしそうだとしたら、自明性に引きこもってしまうことになる。
(いわゆる「ひきこもり」や「外こもり」とはこの結果、なるものだ。)
その自明性に常に疑いの目を向けており、
そして他者に「聞く耳」を持っている者こそが
他者を洞察することができるのであって、
一方で、自明性の世界に閉じこもっている者には、
一生、他者を洞察することなどできないのである。


洞察力というものがこういうものであるとすれば、
冒頭の「純粋な自分」を演じようとする「優しい関係」では
他者を洞察することなどできないのである。
先ほど私は、羞恥を暴露することによってこそ、
開放的な人間関係を構築することができると述べたが、
とはいえ、羞恥を暴露することなど、難しいものである。
わかっていても、人間はそれができない。
とすれば、結局のところ、
開放的な人間関係を招くものは、他者を洞察することのできる力に
委ねるしかないのではないか。
そのためには、「純粋な自分」をあきらめ、
自分という存在はそもそも脆弱であると認めるしかない。
また、過剰な配慮の関係性の中でも、
少なくとも自分の時間を作って、自分の空間を作るしかない。
そして、自分に対する自明性を疑ってかかることが
できるようにならねばならないのだ。


「あるがままの自分」を演じることは、こうして、
人間の脆弱性を隠蔽してしまう。
その脆弱性に対して、どうアプローチするのか。
一つはこの洞察力によるものであるのだが、
それだけで他者の人間的な脆弱性へアプローチができるのか。
アプローチのためには、洞察するだけでなく、
実際に接近するという作業が必要なのである。
これについては、後ほど「介入(もしくは干渉)」というキーワードを通し
考えてみることとする。
しかし、なんにせよ、スタートとして、
洞察という気づきが、そのアプローチに向けて
必要であることは、間違いなさそうだ。

「知る」行為はエロティックで、そしてそれは「生きる」上での力である

パワーと欲望

先日、ある友人と話をしていて、
その友人は、「私は好意をもった(もたれた)人がいると
とことんその人のことを知りたくなる」と話した。
だが、そこで疑問となったのは、
果たして好意をもたれれば誰であれ、
その人のことを知りたくなるのだろうかと言うことだ。
つまり、好意をもつ(もたれる)ことと、知ろうとすることの間には
直接的な因果関係があるのではなく、
間に何か、両者をつなぐ要素があるのではないかと言うことだ。


たとえば、私は山崎豊子が好きで、何作か通しで読んでいるのだが、
その中で、近年ドラマ化された作品として、
白い巨塔」と「華麗なる一族」がある。
両作品に共通してみられる面白い点は、
白い巨塔」ならば財前と里見、
華麗なる一族」ならば大介と鉄平という
山崎作品にみられる二軸対立のうち、
前者、つまり権力をもった側、あるいは欲深いキャラには
必ずと言っていいほど、ベッドシーンが多く描かれているということである。


欲深いということはどういうことか。
もちろん、ベッドシーンと言う言葉から連想することは性欲かもしれないが、
もちろんそれだけではない。
財前ならば教授という地位だし、
大介ならば金融界のメガバンクを吸収することだった。
それは、もちろん単純に考えれば名誉欲ということになるのだろうが、
教授になった自分を知りたい、
あるいは、金融界を支配する自分を、阪神銀行(大介が持つ銀行)を知りたい、
と読み替えればどうだろう。
飽くなき欲望は、未知なる自分を知るという欲望であり、
また、それに対する挑戦というように考えることもできる。


あるいは、人はなぜ厳しい鍛錬の道でも、必死に成長しようとするのか。
たとえば、全国・全世界レベルのスポーツ選手は
非常に厳しい練習を乗り越え、その地位を手に入れている。
なぜそこまでにして、その種目にこだわり、練習を続けてきたのか。
単にその種目が「おもしろい」からかもしれない。
純粋に「おもしろい」という好奇心があり、
その消費のために、練習などどうでもよく、突き詰めることができるかもしれない。
しかし、本当にそれだけでやっていけるのか。


時として選手生命が危ぶまれるほどの怪我をし
それでもプレーを続ける選手がいる。
今で言えば、プロ野球埼玉西武ライオンズ中村剛也だろうか。
彼は、ほお骨を骨折してまでも、試合に出場し、
そして、結果を残している。
同じくプロ野球でいえば、阪神タイガース金本知憲であり、
彼は、時に頭部に死球を与えられても、
世界記録の連続試合出場を今でも続けている。
もちろん、彼らの行為は、一般人には想定できない話である。
体の、特に頭部や頬など顔面にダメージを受ける。
そんな事故にすら一般的には遭遇しないし、想定できない。
しかしそれでも、中村ならば初めてのレギュラーの地位、
金本ならば前人未到の世界記録に、
今の自分に想定できない自分が待っていることを想定し、
その姿を知るために、プレーを続けるのであろう。
そして、その知ることへの欲望こそが、
彼らの想像を絶するパワーへとつながり、
大選手たる彼らの選手像、まさにプロフェッショナルが存在するのだ。


では、私たちがそこまで「知る」ことにこだわるのはなぜだろう?

社会学的想像力」から見える、「問い」について

こうした欲望を、学問的分野において指摘した一人が、ミルズである。
彼は「社会学的想像力」というキータームを提示し、この概念は、
今でも社会学を研究する者に突きつけられる課題となっている。


社会学的想像力」とは何かというと、
社会を知る際に、単に社会を知るだけではだめだということである。
たとえば、ミルズは『社会学的想像力』の中で、
それまで社会学、とりわけアメリ社会学の分野の主流だった、
パーソンズラザーズフェルドなどが提示した思考法に対し、
前者へは誇大理論、後者へは科学的方法への盲信と批判したわけである。
その上で彼が社会学的想像力に求めたのは、
まさに現実的問題に視点を向けることであったのである。


社会を知ることとは、幅広いものの見方をすることだ。
社会学は、このように
「熟知している、判で押したようなみずからの毎日の生活を
新たな目で見直すために、そうした毎日の生活の当たり前のことがらから
「離れて自分自身について考える」こと」*1である。
たとえば、一杯のコーヒーを見るにしても、
その豆はアフリカや南米から来ているだろうし、
コーヒーを飲むという行為にも象徴性があり、また薬物としての嗜好性がある。
もちろん、コーヒーの歴史には社会的経済的な文脈が存在するわけだ。
そうして多面的に探求していけば、
たかがコーヒーとて、そこから山ほど社会について知ることができる。
しかし、ここで重要なのは、その一例がコーヒーという身近なものだからこそ、
私たちが、すんなりと日常の当たり前から解き放たれ、
深いその背景を知ろうと思え、
そこに個人と社会の関連が生まれるのである。


もし、そのスタートがあいまいなものだったらどうだろう?
言いかえれば、社会を問うときに、
まぁ別に社会学にとってフィールドが社会なのであり、社会でなくてもよい、
探求する領域を問うときに、
そのスタートが身近なものではなかったらどうだろう?
まず、探求をするには、「問い」が必要だ。
すると、問いを立てることができない、
言いかえれば、仮説を立てることができないのである。


マックス・ウェーバーが「理念型」という言葉を使ったように、
物事を知るということは、眼鏡をかけるようなものである。
社会にせよ、人間にせよ、私たち日常にとっては、わかりづらい存在だ。
ましてや、社会というものなど、この世に存在するかもわからない、
非実態的な概念である。
しかし、そこに「社会」という概念を与え、
そしてさまざまな概念をあてはめていくことで、
その概念を眼鏡のように、あるいは物差しのようにすると、
世の中がすっきりわかったような気になれる。
あくまで、気になれる、という段階のものでしかないが、
それにしても、理念型という「問い」わからないものがわかる、ということが、
物事を「知る」ということなのである。

他者を愛することは何のため?

さて、それでは愛するという「知る」行為において「すっきり」するとは何か?
それを考えるために、例として恋愛を関係性の観点から考えてみる。

恋愛の不可能性について (ちくま学芸文庫)

恋愛の不可能性について (ちくま学芸文庫)

大澤真幸は、愛し合う二人の「距離」が決して克服されないことが
恋愛なのだとする。*2
たとえば、私が今ここにいて、
恋愛対象をいかに選ぶかを考えるとする。
一方では、吟味して他と比較しながら慎重に選んだ相手、
他方では、運命的に出会った相手を想定する。
すると、前者の場合、つまり積極的に相手を選んだ場合だと、
「本当にこれが愛なのか?」と疑問が浮かぶことがあるのである。
しかし一方で後者の場合、
たとえば一目ぼれなど恋に落ちるということ、
あるいは仕方なく相手を選ばざるを得ないお見合いのような相手だと、
案外、愛を感じることがあるのである。
(といって私はお見合いをしたわけでないので、あくまで聞いた話で。)


愛情とは、このように相手の存在に帰するものではない。
つまり、相手があってそこに愛情や恋愛感情が生まれるのではない。
相手と自分が一体となるような関係がそこに生まれるからこそ、
言いかえれば、私はあなた(他者)という関係が生まれるからこそ、
そこに愛情や恋愛感情と言ったものが生まれるといえる。*3


しかし、本当に自己が他者と一体となるのかというところが、
大澤の指摘する点のミソである。
つまり、自己と他者の間に差異があるからこそ、
それが同一性に生まれ変わる。
なんともしっくりこないかもしれないが、
たとえば、犬と猫の場合、
そもそも種は違うが、哺乳類やペット類としては同じだ。
そうした根底があって、初めて同じようにペット屋に並ぶ存在となりえる。
つまり、自己を他者に投入していく、同一化していくことは、
実は他者との間に絶対的な差異と出会い、
それは乗り越えることのできないものである。
言いかえれば、恋愛とはその絶対的な差異が自己と他者の間になければ
成立しえないということになるのである。


そこで、他者とはどういう存在になるのかがここで重要である。
つまり、恋愛における他者とは自己のユートピアを映し出すものである、と。
ここでの他者とは、憧れの存在である。
だが、それが決して「萌え」と同一的でないのは、
その幻想の根柢の部分では、同一性が支えているということなのだ。
「萌え」が決して自己と対象が混じり合わない、というよりも
そもそも混じり合うことなどあり得ないものなのであるのに対し、
恋愛と言うものは、混じり合いそうで混じり合わない、というものである。
その加減が絶妙であればある程、人は恋愛に燃えるのである。


とすれば、冒頭の私の友人の例をどう考えればいいか。
つまり、「知る」ことに執着する点では、差異が存在する。
だが、それが差異では済まされず、差異なのだけれども、
同一的に見えるような点があるところで、恋愛に落ちるのだ。
つまり、「生きる」こと、つまりエロスの世界で。フロイトの言うように。
生きる本能的なパワーが自己のどこかで強く発せられたとき、
そして、対象が自己と同一的にあるように見えたとき、
また状況的に環境が偶然的にも整ったとき、
彼女は現在のような状況に陥ったのだろうと解釈できる。


そして、この「生きる」ことで差異が自己と同一的にあるように見えるとは、
先ほどの社会学的想像力にも共通して見いだせる点でもあるのだ。
繰り返すが社会学的想像力は身近な例に対し、
日常から解き放つための「問い」を立てることを求める。
この身近さこそが、同一性である。
しかし、「問い」を立てて「知る」ことを続けても、
決して自己とは完全に同一的なものにはなりえない。
「知る」行為の連続は途切れることはあり得ず、
そのゴールなど存在しえないのである。
この点から考えれば、探求をするということは、
恋愛のようなものであるともいうことができるわけである。

「「知る」ことは猥褻的行為である」

では、そもそも「知る」とはどういうことかを考える必要がある。
そこで、参考になるのはまたしても大澤の議論である。


大澤は、「知る」ことを猥褻的なことであるとする。
これだけ聞くと、何のことかさっぱりわからないかもしれない。
「知る」ことと、猥褻行為で連想されるのは、
痴漢行為やセクハラ行為といった犯罪的行為である。
とはいえ、これらはあくまでその極端な例であると考えねばならないが、
痴漢行為やセクハラ行為はなぜ犯罪的行為なのか。
それは、その暴力的に「知る」行為が、
相手の無能性・受動性を白日のものにさせるからである。
もちろん、痴漢行為やセクハラ行為は暴力的行為なのだが、
その自己の側に、暴力性の自覚はない。
言いかえれば、自分の「ムラムラする気持ち」が
相手が知っているものであると、意識的にか無意識的にか、
前提にしてしまうからこそ、問題なのである。
これが、相手の合意のもとであればもちろん問題はないだろうし、
しかしそれが合意のもとであれば、
そもそもそれは痴漢行為やセクハラ行為とはみなされないのだ。


「知る」行為の猥褻性は、その合意がなされていないことにこそ、
要因を見ることができるわけである。
そして、痴漢行為やセクハラ行為であれば、
合意がないままであっても、
その「ムラムラする気持ち」という前提を強制されるように
身を預けざるを得ない状況になるからこそ、それらは犯罪となるのだ。


もちろん、こうした構造は
痴漢行為やセクハラ行為だけの問題ではないことを忘れてはならない。
たとえば、夫婦関係をここに想定するとして、
通常よりも遅い時間に帰宅した夫に対して妻が、
「どうしたの?なんでこんなに帰りが遅いの?」と問いただせば、
仮にそれがやましい理由がないとしても、赤面せざるを得ないのである。
無力な存在へ、こうして「問い」を立てるということ、
そして「知る」ことを望もうとすることは、すなわち、
こうして猥褻的な性格をもったものであるのである。*4


そして、痴漢行為やセクハラ行為が、
他者からの異議申し立てがない限りやまないのはなぜかといえば、
逆に自己が、その欲望への快感を覚えてしまうからである。
それが犯罪であり、またそこに暴力的意味があるからこそ、
それは問題化されるのである。
とはいえ、痴漢行為やセクハラ行為は犯罪的行為であるから、
一般的には、道理上行おうとは頭の中で描こうとすらしないだろう。
しかし、極端な例であるそのような犯罪的行為まで至らなくても、
弱き他者へのそうした「知る」行為を執着することはあるのだ。
たとえば、先ほどの私の友人が話したことはそのいい例である。
「私は好意をもった(もたれた)人がいると
とことんその人のことを知りたくなる」と話した彼女の話は、
他者への飽くなき「知る」欲望の表れではないか。

生きるため、エロく、「知る」

もちろん、ここで「知る」対象としての他者とは人間には限らない。
物であれ、社会であれ、文化であれ、なんでもよいのだ。
その対象を愛している限り、探求への欲求は滅びないだろう。
そしてその愛する対象とは、
自分が「生きる」上で近くて遠い存在であれば、
なお探求心は燃え上がるだろう。


そして探求心に没入するためのパワーは、
まさに自己の猥褻的な欲求にあると考えられる。
もちろん、その猥褻なこころは公的な場面に表せないが、
私的に秘めていればよいのである。


逆に、探求心の社会的な低下がみられるのは、
この猥褻なこころが廃れていることにあると考えられないか。
たとえば、福祉制度の普及は少子化を呼ぶ側面があるという。
しかし、生きるために障壁がなくなればなくなるほど、
生きることをそもそも問う必要がなくなるのだ。
教養主義の没落もそこに一因を求めることができる。


だが、一昔前の教養主義と違うのは、
「知る」ために社会的要求はないということである。
まさに個人的な文脈に限られたのだが、
だからこそ、それが犯罪的なものでない限り何に対してでも
「知る」ことは可能なのだ。
そして「知る」行為に秘められた内なるパワーは
「生きる」ための強力なエロい力なのである。
その上で、対象はなんでも良い、他者を「知る」ためには、
それは愛すべき人に愛情を注ぐように、恋人に恋するように、
暴力的ではなく、やさしく、しかし忍耐強く、力強くなければならないのだ。

*1:A.ギデンズ[1992]『社会学』(松尾他訳、而立書房)p.22。太字は私が付けた。

*2:大澤[2005]「恋愛の不可能性について」『恋愛の不可能性について』p.14

*3:大澤[2005]、前掲、p.24

*4:大澤[2008]『逆接の民主主義』p.149