民主主義(3)

下のエントリの続き

このように「民主主義とはどのようなものか」という問いには,明確な答えはまだない。したがって,次のような問いがでてくる。

「民主主義とはどのようなものか」を民主的に決めるべきか? つまり,私たちの間の民主主義を支持するという幅広い合意を前提として,「ある具体的な手続きが民主主義にかなったものかどうか,ある具体的な決定が民主的に行われたものかどうか」の判断は,民主的に行うべきだろうか?

しかし,そもそも「『民主主義とはどのようなものか』を民主的に決める」などという循環的なことが,可能だろうか?

可能だと思う。もちろん,民主主義とはどのようなものか,全く合意や共通の了解がないのなら,それは不可能だろう。しかし,具体的な細部については意見の違いがあっても,多くの人は民主主義がどのようなものか大雑把には共通見解を抱いていると思う。だから,「民主主義とはどのようなものか」の具体的な細部について,大雑把には了解されている民主的なやり方によって決定していくことができる。

だが,「『民主主義とはどのようなものか』を民主的に決める」などという循環的なことが,正当化されるのだろうか?

ある時点であるやり方が「民主的である」と決定され,そのやり方でまた別の方法が「民主的である」と決定された,とする。すると,後者の決定は,前者の決定が間違っていれば,非民主的な方法で決定されたのでないから正当化されない。そして,前者の決定が正しいのならば,後者の決定は間違っている。いずれにせよ,後者の決定は間違っているか,正当化されない。

たぶん,民主主義を単なる決定手続きとみるか,何らかの非手続き的な理念なり精神なりとして考えるかによる違いが,ここででてくる。

民主主義を,問題を解決する人間の知性への信頼に基礎付けるならば,民主主義は優れた方法であるとしつつも,非民主的な決定も正しい答えにたどり着きえることや,民主的な決定も間違えうることを許容できる。

だから,ある時点であるやり方が「民主的である」と決定され,そのやり方でまた別の方法が「民主的である」と決定された,としても何の問題もない。前者はほどほどに民主的であったか,あるいは非民主的であったので遠回りをしたが,たぶん正しい答えを出しているのだろうと考えることができる。

それでは,結局のところ,民主的かどうかが,政治的決定の正当化のメルクマールにならないではないかという批判がありえる。独裁的な政治体制とてそれなりに優れていたのだ,ということにならないか。

そのとおり。そこが,重要なポイントだと思う。「過去を振り返れば,独裁的な体制とて善いこともやったし,民主主義的な体制とて悪いこともやった。しかし,それでもなお,未来に向かっては民主主義をを維持しよう」*1とする主張でなくては,いずれにせよ循環を断ち切ることができない。

「民主主義とはどのようなものか」ということそれ自体を,政治的に正当化するというのは循環的である。しかし,「民主主義とはどのようなものか」ということを,認知的に(=知性によって)正当化することは循環的ではない*2。そして,ある決定を認知的に正当化するためには,民主主義はきわめて有用な手段であるが,絶対に必須なものではない。よって,非民主的に「民主主義とはどのようなものか」ということを正当化できる。

*1:こう書いたからといって,後段の主張が経験に反しているということにはならない。前段を前提しても「それでも,全体的には民主主義のほうが良いことをやった」と経験的に主張できる可能性はある。また,事実そうだと僕は思っている。

*2:ここで,「認知的に正当化」というのは,三重の意味がある。まず,(1)民主主義を優れた認知手段として正当化することができる。つぎに,(2)正当化の過程が認知的である。つまり,民主主義を優れた認知手段であることを,アプリオリな分析ではなく,経験から知ることができる。最後に,僕はメタ倫理学における道徳実在論・認知主義に立つので,より優れた認知手段であるということは,道徳的により優れた手段であるということであり,民主主義を(3)認知的に正当化することを通して,道徳的に正当化することができる