世界祖語はアフリカにあった?

やはり人間の起源はアフリカ? 世界のすべての言語は石器時代のアフリカ言語から生まれた

僕は、現行人類の起源はアフリカだと理解しているし、たぶんそこに世界のほぼすべての言語の共通祖語のようなものがあったのかもしれない、と思っている。

たしか、ピンガーが聴覚障害者のコミュニティで教えられたことのない手話が独自に発達することを報告していた。そういった手話が生き残っていれば、それは「共通祖語」から独立した言語だいうことになるかもしれない。

しかし、そういことは共通言語を持たない孤立したコミュニティで起こることであって、すでに共通言語を持っているコミュニティではそういうことは起きないだろう。また、共通のものはなくコミュニティの小集団ごとに異なる言語を持っていたとしても、それぞれの小集団が言語を持っているのなら、たぶん生まれるのはせいぜいクレオールであって、それらの「異なる言語」が共通の祖先を持っているならば、そのクレオールもその共通祖先の子孫だと考えて良いだろう。

音声言語の系統には数種から数十種あってそれらの発生は独立している、ということもありえる話ではあるが、アフリカに世界のほぼすべての言語の共通祖語のようなものがあった、というのはそれなりにもっともらしい。


しかし、先にリンクを示した記事には疑問がある。引用しよう:

これを発表したのはオークランド大学のクエンティン・アトキンソン博士で、彼は世界の504の言語を分析し、世界の言語はアフリカから離れれば離れるほど、音素(言語を構成する最小単位の音)の数が減っていくということを発見。

出来すぎた話だという気がするが、これは事実なんだとしよう。しかし、そこから次の結論が導けるとは思えない:

このようにアフリカ、特にサハラ以南のアフリカから離れていくと、各言語の音素の数が減っていくのが分かる。アトキンソン博士によると、これは私たち人類の祖先が、約7万年前にアフリカから世界各地へ移住していくにつれて、その音素を失っていったことを意味しているらしい。

共通祖語には非常に多くの音素があり、その娘言語になるにつれて音素が減っている、という結論だ。

しかし、かつて共通祖語がアフリカにあったとしても、現在のアフリカの土着(?)の言語も英語や日本語とほぼ同じだけの「世代」を経た共通祖語の娘言語なのだ。ほぼアフリカにとどまり続けた人々の言語だけ共通祖語からの変化を免れ、中東、ヨーロッパ、アジア、太平洋諸島、アメリカ大陸に到達した人々の言語がそのアフリカからの距離に応じて変化を蒙っている、と考える理由はないだろう(それとも、なにかそういったことを裏付ける言語学上の事実があるのか?)。


これは、生物の進化における「生きた化石」について誤解(だと僕は思っている)と平行した誤解だと思う。カブトガニシーラカンスは、進化の過程での古い形態、祖先の形態をよく保存しており、それゆえに「生きた化石」と呼ばれる。それはそれで理由がないことではないが、カブトガニシーラカンスがその祖先から変化を止めていたということではない。

ただ、人間が関心を持ちかつ化石から分かるような祖先の「形態」を保存しているということであって、それ以外の部分、例えば病気への耐性、エネルギー効率、繁殖行動などにおいては、進化を続けていたと考えないのは奇妙な話だ。

むしろ、「単純」あるいは「下等な」生物ほど繁殖までの期間が短く、多産な傾向がああること、すでに成功したいくつかの種(自らもそれの一つに属する)と同じ形態で同じ環境に棲み続けた系統のほうが、競合相手が多いだろうことなどから、むしろそういった系統のほうがより過酷な生存競争を勝ち抜いてきた、と考えるべきだろう*1


アフリカの言語についても同様ではないか。すでに述べたように、少なくとも、アフリカの土着の言語もまた、英語や日本語と同様に、人類の共通祖語から長い長い発展の歴史における現在の到達点であると考えるべきだ。そして、もしかしたら、より高い選択圧のもと、もっとも発展した言語なのかもしれない。

そうすると、アフリカに近づくにつれ土着の言語の音素が多く、アフリカから遠ざかるにつれて土着の言語の音素が少ないならば、むしろ、共通祖語の音素は少なく、アフリカから遠ざかるにつれてその特徴をよく残しており、アフリカに残った人々には音素を増やす余裕がより多くあったと考えるのも、逆の推理と同程度にはもっともらしいのではなかろうか*2

*1:僕たち「高等生物」は、チャンピョンの子孫なのではなくて、チャレンジャーの子孫なのだ。

*2:少なくとも、数だけに注目するならば。もっとも、アフリカの言語にa、b、c、d、eの音素があり、ある言語にはa、bのみ、別の言語にはc、d、eの音素があるならば、やはりアフリカの人々はよく祖先の言語を保存しており、後二者では音素が減ったのだと考えたくもなる。しかし、大母音推移のような現象があることを考えると、現時点でそういった言語間の相互関係が確認できること自体なさそうだし、仮にできたとしても偶然の要素のほうが大きいように思える

クリスチャン・ラッセン

そろそろ母の一周忌がくる。

ごく普通の親子関係だったので、ごくいくつかのことを除いて、「○○だよねー」「そうだねー」「ほんとそうだねー」みたいな意気投合をした記憶はない。そのうちの一つがクリスチャン・ラッセンの絵の評価だった。

ラッセンの絵は気持ち悪く、最低だ、ということで母とすごく意気投合した。

その後に他にもラッセンの絵が大嫌いだという人に出会ったので、いまではそれほど特殊な審美観というわけでないということを理解している。しかし、当時の僕はラッセンの絵が嫌いで嫌いで仕方がないのにそれに同意してくれる人は居らず、母だけが同意見だったので、ものすごくうれしかった。

ガウスの消去法

2chガウスの消去法をHaskellでどう書くかという話題があったので、書いてみた:

module Gauss where

type E a = (a, [a])

forward :: Fractional a => [E a] -> [E a]
forward [] = []
forward (h@(a, k:kt):t) = h : forward (map f t)
  where
    f (a', k':kt') =
      let g x x' = x' - x * k' / k
          a'' = g a a'
          kt'' = zipWith g kt kt'
      in (a'', kt'')

back :: Fractional a => [E a] -> [a]
back [] = []
back ((a, k:[]):t) = x : back (map f t)
  where
    x = a / k
    f (b, k':t') = (b - x * k', t')

gauss :: Fractional a => [E a] -> [a]
gauss = reverse . back . reverse . map f . forward
  where
    f (a, ks) = (a, reverse ks)

動作確認として

  • 2x - 3y + z = 1
  • x + 2y - 3z = 4
  • 3x + 2y - z = 5

連立方程式を解いてみる。

*Gauss> :m + Data.Ratio
*Gauss Data.Ratio> gauss [(1, [2,-3,1]), (4, [1,2,-3]),(5,[3,2,-1])]  :: [Ratio Integer]
[5 % 4,1 % 4,(-3) % 4]
*Gauss Data.Ratio> 

x = 5/4, y = 1/4, z = -3/4の答えがちゃんと出ている。

事前のチェックをしていないので、不完全なところもある。たぶん、解が定まらないときにはゼロ除算例外を出すと思う。まぁ、それは構わない。そういうときに例外を出すのは、一つのありうる設計。

それはそれとして、reverseを3回、それも1回はmapの中で使っていることが気に入らない。そのおかげでnを変数の数として、O(n^2)になるはず… だけど、よく考えたらガウスの消去法はもともとO(n^2)かな? それなら、まぁ… いやよくない。

耽美×暴力

地震以来、日経新聞がすごく薄くなっているような気がするんだけど、どうしたんだろう?

それはともかく、日経新聞2011年3月27日(日曜日)の書評欄に、千野帽子菅聡子『女が国家を裏切るとき』の書評を書いている。その中につぎのような記述がある:

著者は〔…〕「セカイ系」と呼ばれる漫画や泣けるベストセラーにおける感傷の椀飯振舞を、暴力を隠蔽しつつ支えるものであると感じているのである。

僕は『女が国家を裏切るとき』を読んでいないし、菅聡子という方の他の本を読んだことはないし(たぶん)、書評としてこれが正しいのかどうかはまったく分からない(好意的な理解をするという原則に則って、たぶん正しいのだろうと思うが。)。

しかし、「セカイ系」の代表格といえば『最終兵器彼女』だと思うけど、あれって暴力が「隠蔽」されていたかな。ちせが圧倒的な暴力を振るう存在だというのがあの物語の根幹であり、たしかに絵としては妙に曖昧な描き方をされていたとは思うけど、その暴力が存在することは隠蔽されるどころか、くどいほどに強調されていたと思う。アケミの最後については、かなりはっきりと、グロテスクといっても良い描写をされていなかったっけ?

セカイ系」のもう一つの代表格だと僕が思うエヴァの旧劇にしても、従来のロボットアニメに比べて、暴力の生々しさが際立っていたように思う。

少なくとも『最終兵器彼女』については、暴力が「隠蔽」されていたのではなくて、むしろ、執拗で圧倒的な暴力が、恋愛という情緒と耽美的な美意識のもと救済を思わせるような描写をされていたことが、問題なのではないだろうか(プロブレムではなくてイシューとして)*1


もっとも、考えてみれば、春琴抄がそうであるように、「耽美」というのはもともと残酷性や暴力性をともなったものなのではないか、という気がする。そしてまた、圧倒的な暴力による終末論的風景が耽美的な何かをともなっているのも、いまに始まったことではないだろう。ヨハネ黙示録の奇妙で過剰な演出とか。

だから、「セカイ系」が暴力を隠蔽しないとはいえ、ある種の美化、しかも議論による美化ではなく情緒による美化をしているのはそうだろうとは思うが、それも何も最近はじまったことでもなかろうとも思う。

*1:セカイ系」とは言われることはないと思うが、『ベルセルク』や『ヘルシング』も、似たようなところがある。

ポルノ規制論についていくつかのこと

以前のエントリを書いたときから考えていたことだけど、ポルノ規制論についていくつか書いておく。

憲法

ポルノの制作、頒布、鑑賞、使用は憲法上保護されるか? 僕は、保護されるがポルノ規制は違憲ではない、と考える。


まず、僕は、憲法13条の幸福追求権について、一般的自由権説が妥当だと考える。つまり、人は、散歩をすること、公園でハトに餌をやることといった「他愛のないこと」についても憲法上の自由を有しており、合理的な理由がないかぎりそういったものでさえ国家が規制するのは違憲であると考える。そのような一般的自由の一部としてマスターベーションの自由も保護されるし、ポルノの制作や頒布、購入もまた、少なくとも一般的自由の一部としては保護される。

しかし、この一般的自由の保護は、基本的にはかなり弱い。日本は民主主義体制をとっている以上、議会への裁判所の介入は抑制的でなくてはならず、こういった一般的自由の制約を議会が立法で行う場合、「かなり見当違い」といったようなものでないかぎり、裁判所は議会の判断を尊重するべきだ。

もっとも、表現の自由は一般的自由とは区別される独特の権利であり、手厚い保護に値すると、憲法学説では広く考えられている。ポルノを視野に含めるとよく分からなくなるが、判例も一般論としては、表現の自由はとくに手厚い保護に値すると考えていると見てよい。

しかし、僕は、表現のうち憲法上とくに手厚い保護に値するのは政治的言論のみであり、芸術価値が高かろうと、学術的価値が高かろうと、大文学であろうと、ポルノであろうと、政治的言論でないかぎり保護の程度としては一般的自由と同等だと考えるべきだと思う。そして、ポルノはたいてい政治的言論ではないので、一般論としては、一般的自由と同じレベルでしか保護されない。


ただ、僕は基本的に以上のように考えているが、少しだけ引っかかるところがある。つまり、捜査機関や裁判所の民主的コントロールという面において、表現内容規制は独特の問題を抱えているのではないか、という点だ。これは、ポルノ規制が冤罪を生む、という議論とも関係してくる。一般論として、ほとんどの刑罰条項は表現規制だろうとなかろうと冤罪を生みうるのだが、それが冤罪であるのかどうかチェックする機能が弱まる理由があるのなら、とくに警戒する理由があるだろう。

一般に裁判は公開され、その記録も公開される。また、その記録を元に報道することができ、捜査機関や裁判所の判断が適切であったかどうかマスメディア上で議論される。しかし、表現の内容規制の場合、その規制を徹底的に行おうとすれば、マスメディア上で実際に規制されたその表現内容を再掲して、議論を喚起することもかなり萎縮させることになる。実際のブツがないところで、その内容を例えば「わいせつ」だとか、「差別的」だとか認定した裁判所の判断は適切なものであったのだろうか、という議論をすることになってしまう。

これが、表現内容規制は捜査機関や裁判所の民主的コントロールを困難にするという問題で、この問題があるがためポルノ規制も含めて、表現規制については独特の憲法上の顧慮が必要であるように思える。これはポルノに憲法上とくに保護するべき価値があるかどうかとは独立の問題だ。


この点については、一度は禁圧されたポルノグラビアをそのまま再掲するのであれ、それが政治的言論の一部としてなのであれば規制するべきではない、として前述の「政治的言論か否か」の基準に回収すればよいのではないかとも思うものの、釈然としないところはある。

直観と常識

直観と常識を基礎に人間の心理を推測したり、その動向を予測したりすることを簡単に擁護するとともに、それに関して気になることを二つ取り上げたい。


『ポルノグラフィ防衛論』でナディーン・ストロッセンは、ミース・ポルノグラフィ委員会報告書について、次のように述べる:

ポルノグラフィの害を検討する際に、委員会は、道徳のみに依存し、「常識」、「個人的考察」、「直感」などに基づいて結論を出したことをはっきりと認めている。

369頁

前後の文脈から、ストロッセンは「常識」「個人的考察」「直感」などに基づいて議論をすることに批判的なのはたしかだろう。

しかし、残念ながらというべきか、僕たちはいまだに人間の心理一般の動向を推測するための確かな科学的理論も、計測器も持っていない。他方で、僕たちの常識や直感、あるいはもしそういいたければ僕たちの脳は、かなりの確実性で人間の心理を推測し、その動向を予測することができる。

「君は頭がいいね」とある人がいうときの声色、表情、その前後の振る舞いから、それが本心からの賞賛なのか、あるいは歓心を買うための追従なのか、嘲笑的で侮蔑的な皮肉なのか、かなりの程度で推測できるし、またそれは常識として共有されている。かなりの程度で推測できるし、共有されているからこそ、そのような賞賛、追従、侮辱を使い分ける演技もまたできるのだ。

たしかに、この直感や常識は間違うこともある。ときどきどころか、けっこう頻繁に間違うし、その間違いが、家族や友人との個人的不和から、民族レベルの偏見まで悲劇的な事態を招きもする。しかし、いろいろ注意すべきことや、差し引くべきことがあるとしても、この常識や直感、あるいは僕たちの脳以上に一般的かつ正確に人間の心理を推測するための理論や装置があるわけではないし、この常識や直感が少なくとも普段はそれなりにうまく機能しているからこそ、家族や友人関係、職場や地域社会、あるいはある国全体の社会などが共同体としてそれなりにうまく機能しているのだと考えざるをえない。

だから、直観と常識を基礎に人間の心理を推測したり、その動向を予測したりすることは、正当なことであり、むしろ必要でさえあることだ。ポルノが性犯罪を助長するのかどうかという点についても、直観と常識を基礎に人間の心理を推測したり、その動向を予測したりしても何も不当なことはなく、むしろ必要なことだろう。

僕は常識と直感を基礎に、ポルノが性犯罪を助長すると考えるし、この点でいわばポルノ規制賛成派に賛同する。しかし、いくつのかの点については、留保というか、注意をはさんでおきたい。


まず、第一に、マッキノンなどのフェミニストがこのような「直観と常識」論法を援用することについて*1、奇妙さを感じる。

「直観と常識」論法を認めるということは、現状の「常識」に権威を認めるということであって、全体的には社会の変革を抑制する保守的な機能を営む。それは、フェミニストにとって不都合なことではないのだろうか? 例えば、かなり多くの人の直感と常識は、女性の方が育児に向いているから専業主夫よりも専業主婦のほうが圧倒的に多いことは自然なことだし、女性の方が育児休暇をより多く取得することも自然なことだと認めるのではないだろうか。


また、第二に、きわめて当たり前のことだが、直観と常識に基づいた議論は、きわめてしばしば意見の対立を生む。その場合、どちらかの意見が間違っているということだから、そのこと自体が、「直観と常識」論法は不確かであってしばしば間違いうるものだということを示している。そして、その場合、一方の側が自分の直観と常識に基づいて、他方の側の直観と常識を一方的に間違っていると主張することに説得力を持たせるのは難しい。

たぶん、人間の心理についての直観と常識がどのようなときに間違いうるものかについても、また僕たちの直観と常識に基づいてだが、ある程度のガイドラインを考えることができるだろう。例えば、ある人が侮辱されたと感じるときや、自分が好きなものが批判されていると感じるとき、あるいは自分が好きなものが取り上げられそうだと感じたときは、間違えやすいだろう。だから、ポルノ規制の議論において、ポルノ愛好者の判断は自己欺瞞に陥っている可能性がそれなりにある。

しかし、他方で、人が嫌悪感を感じているものについても、人の直感や常識は間違えやすい。そして、ポルノに対して「生理的に」嫌悪感を示す人々は少なくないので、ポルノ規制派だって嫌悪感からの欺瞞に陥っている人が含まれている可能性がそれなりにある。

僕は、一般論としては先に述べたように人の心理についての直感や常識に基づく議論は正当だし、必要なことだと思う。しかし、ポルノ規制論議のように推進派にも、反対派にも欺瞞による直感や常識の誤りが予想されるような状況で、直感や常識に基づく議論をどう展開するのかは相当に難しい、とも思わざるをえない。

『キャサリン・マッキノンと語る』97頁のグラフ

ポルノ・売春問題研究会『キャサリン・マッキノンと語る』97頁に次のグラフがある:

写真にうつせなかった部分を補足しておくと、右下に「(資料出典:警察庁犯罪白書』各年度版)」という出典情報があり、右上にグラフ凡例として棒グラフは「ビデ倫受審作品数」、白丸の折れ線グラフは「暴力的性犯罪指数」、黒丸の折れ線グラフは「一般的暴力犯罪指数」と書かれている。

そして、このグラフを「図1」として参照しながら、次の議論が展開されている(公正を期すため多めに引用する):

他のすべての国と同じく、日本においても、ポルノグラフィの擁護者たちは、ポルノグラフィの普及と性犯罪との間に相関関係はない、むしろ、ポルノグラフィはカタルシス効果を持つので性犯罪の防止に役立つと主張する。しかし、日本でのアダルトビデオの普及(ビデオ倫理審査会で受審したビデオタイトル数を参考にしている)と暴力的性犯罪(強姦および強制わいせつ)の認知件数との関係をグラフにすると、両者の間に明らかな相関関係があることがわかる(図1参照)。図1は、アダルトビデオが普及し始める一九八〇年代半ばまでは、暴力的性犯罪が一般の暴力犯罪(暴行・傷害の認知件数の合計)とともに減少していたのに対し、一九八〇年代半ば以降、明らかに暴力的性犯罪の減少傾向が弱まり、逆に一九八〇年末あたりからはっきりとした増大傾向に転じたことを示している。

まっさきに指摘せざるをえないことだが、この議論を文字通りに読み、提示されているグラフと照らし合わせると、「日本でのアダルトビデオの普及…と暴力的性犯罪…の認知件数との関係をグラフにすると、両者の間に明らかな相関関係があることがわかる」というのは、間違っている。「アダルトビデオの普及」とは棒グラフのことで、「暴力的性犯罪の認知件数」とは白丸の折れ線グラフのことだが、この二つにはどうみても「明らかな」相関関係はない。

たぶん、ここでポルノ・売春問題研究会が言いたいことは「図1は、アダルトビデオが普及し始める一九八〇年代半ばまでは…」以降の内容で、その内容は間違っているとはいえないとは思うが、それはそれとして「…両者の間に明らかな相関関係があることがわかる」は間違っているとしかいいようがない。


さて、「図1は、アダルトビデオが普及し始める一九八〇年代半ばまでは…」の部分は間違ってはいないが、しかし、これがポルノの普及が性犯罪の増加原因になっているという説得的な資料といえるだろうか?

いろいろと突っ込みどころはあるが、例えば、「暴力的性犯罪指数」(a)と「一般的暴力犯罪指数」(b)の比(a/b)のグラフを想像してみると、それはビデ倫受審作品数とそれなりの相関関係があるだろうと思える。しかし、それは実際にはプロットされていないのでなんとも判断が付きにくいものの、たぶん年とともに単調増加している二つのグラフであれば、だいたい何と何の間でも見出せる程度の相関関係ではなかろうかと思える。

*1:マッキノンが、自分たちは「直観と常識」に頼っていると自ら認めているわけではない。しかし、マッキノンが『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』で展開している議論は、それがせめて直観や常識に基礎を置いているのだと考えなければ、ほとんど無根拠な個人的な思い込みといわざるをえないがろう。

石原都知事の「天罰」発言がなぜ許せないのか

都知事がすで撤回した発言なので、それをいまさら云々するのはいかがなものかという気もするが、その撤回は肯定的に評価するという前提で、もともとの「天罰」発言がなぜ許せないのか書いておきたい。

石原慎太郎東京都知事は14日、東日本大震災に関して、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べた。都内で報道陣に、大震災への国民の対応について感想を問われて答えた。

発言の中で石原知事は「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。我欲だよ。物欲、金銭欲」と指摘した上で、「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。それを(津波で)一気に押し流す必要がある。積年たまった日本人の心のあかを」と話した。一方で「被災者の方々はかわいそうですよ」とも述べた。

石原知事は最近、日本人の「我欲」が横行しているとの批判を繰り返している。

http://www.asahi.com/national/update/0314/TKY201103140356.html

まず、石原都知事が天罰といった種類の因果関係、つまり道徳的な堕落とかそれに類する人間の逸脱に対して、超自然的な応報が下される、そしてその応報は道徳的に公正で理に適ったものであるといった因果関係が存在することを本気で信じているかどうかよく分からない。もしかしたら、彼はそういった因果関係が存在すると本気で信じているわけではなく、「まるでそういった因果関係が存在するかのように受け止めるべきだ」と言いたかったのかもしれない。

東京都の石原慎太郎知事は25日、福島市福島県災害対策本部を訪れて佐藤雄平知事と面会し、放射性物質に汚染されていない福島県産農産物の流通などで都が支援すると申し入れた。会談後、東日本大震災に関連して「やっぱり天罰だと思う」と14日に発言し、その後撤回した問題について記者団から問われ、「日本人が堕落し、我欲が横行して政治も引きずられている状況に対する大きな戒めという意味で言った」と釈明。さらに「福島県民は天罰を受けるような罪があったか」と聞かれ、「ありません。日本全体の責任だと思います」と答えるやりとりもあった。

http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/03/26/kiji/K20110326000503790.html

また、ここで述べられている「ありません。日本全体の責任だと思います」というのは、石原都知事の本心だろうと思う。彼は、東北大地震の直接の被災者が、その不利益に「相応しい」罪を個々人として犯したのだとは考えていないのだろう。

しかし、どちらの点も、もともとの「天罰」発言が残酷で独りよがりなものであることを否定する理由にはならない。


ところで、(いわゆる)旧約聖書ダビデとバト・シェバの物語をご存知だろうか? 旧約聖書の物語の中で、ダビデは英雄王である。そして、バト・シェバが産んだダビデの子ソロモンは次の王となり、彼も偉大な王として称えられる。しかし、ダビデとバト・シェバの「馴れ初め」は非常に問題があるものだ。

当時、ダビデの王国は他国と戦争中だった。ヨアブという指揮官の下にウリヤという戦闘員がいて、彼らは前線で戦っていた。他方、王宮にいたダビデは、その屋上からある女が水浴びをしているのを目にとめ、その後、その女がウリヤの妻バト・シェバであることを知ったが、王宮に召しだし、彼女と性交した。

バト・シェバが妊娠したので、ダビデはウリヤを王都に呼び戻し、バト・シェバがいる彼の家庭でくつろがせ、妊娠した子がウリヤの子ではないことを隠蔽しようとした。しかし、聖戦の途中であり、戦友たちがいまだ戦場にいることを慮ったウリヤは、自分だけが家庭に帰ることを良しとせず、バト・シェバと関係を持つこともなかった。

隠蔽工作が失敗したダビデは次のような行動にでる:

翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。

新共同訳・サムエル記11.14-15

こうして、自分の死刑執行書を携えて戦場に戻ったウリヤは、味方に戦場に取り残され、孤立して死んだ。その後、ダビデはバト・シェバを妻に迎えた。


当然というべきか、旧約聖書の物語の中で、神はこのダビデの罪に対してまさに天罰を下している:

主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていた。ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。〔…〕

七日目にその子は死んだ。

新共同訳・サムエル記12.15-18

この後、バト・シェバはさらにダビデの子を産み、その子がソロモンだ。


さて、この物語が意味していることは何だろう? まず間違いなく、ソロモンは罪を犯したので公正にも神が天罰を与えた、ということだろう。たしかに、ソロモンは罪を犯して、その罰を受けた。ソロモンの行動が道徳的な罪であることにほぼ異論はなかろうし、ソロモンが罰を受けることにもほとんどの人は納得するだろう*1

しかし、この読解には欠けているところがある。この点について、バード・D・アーマン『破綻した神 キリスト』から引用しよう:

確かにダビデは苦悩の日々を過ごし、その結果は彼にとって良いものではなかった。つまり彼は苦しんだ。だが死んだわけではない。死んだのは子供である。そしてこの子供は悪いことなど何一つしてはいない。

バード・D・アーマン『破綻した神 キリスト』168頁

ソロモンが天罰を受けるのは公正なことだろうが、子どもがそのとばっちりを受けるのは、どう考えても理に適ったことではない。しかし、この神の天罰が公正なものだというのであれば、この何の罪もない子どもが死んだことも、また公正で理に適ったことだと理解しなければならない。それが「天罰」という概念の意味だから。

やや繰り返しになるが、この旧約聖書のエピソードが伝えたいことは、子どもの死という罰がソロモンに対して公正だということであって、その子ども自身に対して公正だということではなかろう。しかし、このエピソードが伝えたいことが何であれ、子どもの死が天罰だというのであれば、その子どもの死が公正で理に適ったことであるということを受け入れざるを得ない。


僕が石原都知事の「天罰」発言が許せないのは、この点だ。

都知事は、もしかしたら、天罰という超自然的な因果関係を本気では信じていないかもしれない。また、被災者自身に相応の罪があったと考えているのではなかろう。しかし、その二点についてどう考えているのであれ、東日本大震災が天罰である、あるいはそう受け止めるべきだというのであれば、結局のところ、その被災は公正で理に適ったことであるということ自体は肯定せざるをえないはずだ。そこを否定したら、「天罰」という概念を持ち出す意味がさっぱり分からなくなる

別の言い方をしよう: 都知事は、東北を中心とした被災者に対する個人的応報として天罰だといったわけではない。そうではなくて、日本国民全体への集団的応報として天罰だといったわけだ。しかし、それは結局、東日本大震災の被災者が苦しむことは公正で理に適ったことであると述べていることに、何も違いはない。


念のために繰り返すが、都知事はすでにこの発言を撤回しており、それは肯定的に評価できる。

*1:僕は天罰という因果関係を信じないので、あくまでフィクションの筋書きとして、だが。

地震関連についていくつか

一つ目。マスメディアで、輪番停電に関する不手際についてはともかく、原発事故についての犯人探しが始まっていることにうんざりする。東京電力の幹部がどんなに極悪人であれ、いま犯人探しなんかしてどうする。

二つ目。震災に応じて商品を値上げしている人への批判については、疑問がある。もちろん、今日明日の食料、暖房にもこと欠く被災地では、無償であるいは良心的価格で提供するべきだし、また東京などでも無謀な買い占めを行ったりすれば非難されるべきだ。しかし、後者のような土地ではたんに値上げをしても倫理的に責められることではないだろう。商品を持っている人たちが機会利益を失って相対的な損失を出すべきだという人は、むしろ、自らそれに見合う義援金の寄付などを行うべき

三つ目。これが事実なら、私は石原を許さない:

副長官番A)節電の要請に訪れた蓮舫・節電啓発担当相と会談した石原都知事。会談後に「震災への日本国民の対応をどう評価するか」と質問したところ、石原さんは「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べました

http://twitter.com/asahi_kantei/status/47220894023692288

石原慎太郎東京都知事は14日、東日本大震災に関して、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べた。都内で報道陣に、大震災への国民の対応について感想を問われて答えた。

〔…〕「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。それを(津波で)一気に押し流す必要がある。積年たまった日本人の心のあかを」と話した。

http://www.asahi.com/national/update/0314/TKY201103140356.html