Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ドゥルーズの日本語字幕付き動画

◇ L'Abécédaire de Gilles Deleuze - Animal
http://dotsub.com/films/labcdairede/index.php?autostart=true&language_setting=jp_1990
http://dotsub.com/films/labcdairede_1/index.php?autostart=true&language_setting=ja_1991
http://dotsub.com/films/labcdairede_2/index.php?autostart=true&language_setting=ja_1992
http://dotsub.com/films/labcdairede_3/index.php?autostart=true&language_setting=ja_1993
http://dotsub.com/films/labcdairede_4/index.php?autostart=true&language_setting=jp_1994
◇ L'Abécédaire de Gilles Deleuze - Wittgenstein
http://dotsub.com/films/labcdairede_5/index.php?autostart=true&language_setting=jp_1995
ATAK | diary/2007/12(http://www.atak.jp/diary/2007/12/15.html 渋谷慶一郎さんの日記)経由
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批評の精神分析 東浩紀コレクションD (講談社BOX)

・内容
現代思想界のトップランナー東浩紀が、現代社会を形成する主要な題材を網羅し、語り尽くした真剣勝負の全十一対談。各界の第一線で活躍する対談者―宮台真司村上隆大澤真幸巽孝之斎藤環高木浩光佐藤心更科修一郎元長柾木福嶋亮大稲葉振一郎仲俣暁生―との対話を通して浮かび上がってくるのは、ゼロ年代の若者が生きるべき社会への指南と展望―!これぞ必読。
・目次
第1章 データベース的動物の時代(宮台真司東浩紀
第2章 スーパーフラット再考(村上隆東浩紀
第3章 虚構から動物へ(大澤真幸東浩紀
第4章 サイバーパンクからアルケミーパンクへ!(巽孝之東浩紀
第5章 シニシズム動物化を超えて(大澤真幸斎藤環東浩紀
第6章 工学化する社会と書物をめぐって(高木浩光東浩紀
第7章 どうか、幸せな記憶を。(佐藤心更科修一郎元長柾木東浩紀
第8章 オルタナティブの思想(福嶋亮大東浩紀
第9章 ポストモダン以後の知・権力・文化(稲葉振一郎東浩紀
第10章 工学化する都市・生・文化(仲俣暁生東浩紀
第11章 ナショナリズムゲーム的リアリズム大澤真幸東浩紀

http://www.amazon.co.jp/dp/4062836297
http://spn02253.co.hontsuna.com/article/1969047.html


東浩紀コレクションD - 東浩紀の渦状言論
http://www.hirokiazuma.com/archives/000342.html
先日のベルリン行に持ってったんですが、読書に集中できず、
また、いろいろと忙しくしてたこともあって、数頁をめくる程度でした。
帰ってきてから、ちょぼちょぼと読んでますが、とても面白いです。オススメ。
*1


◇ 2007-12-11 - http--d.hatena.ne.jp-k11-(小田寛一郎さんのブログ)

「宮台・東対談〜『動物化するポストモダン』を読む〜」の東浩紀さんの発言より

その工学的で動物的な世界のなかでは、データベースから抽出されたシミュラークルを次から次へと交換することでなんとなく生きていく人々が大多数を占める。むろん、それに違和感を覚える人々は確率的に出てくるでしょう。今後はそういう人々が哲学や思想を支えていくはずです。そこではいちおう、社会的なシステムへの「批判」がなされる。しかしそんな批判も、大局からすればデータベースの一部にすぎない。世界に違和感を覚える人々のために用意された、消費財のオプションにすぎない。たとえば『批評空間』の読者が動物的ではないのかといえば、まったくそんなことはない。浅田彰さんの華麗な文章を読んで「よしきた」と反応している人々は、結局ポストモダニズムのデータベースに反応しているにすぎない。これは「猫耳」に反応しているのと構造的に変わらない。哲学や思想は、いまではそのレベルに落ちている。

いまはなんとなくこういうデータベース的な思考でなんでもかんでもなされているような気もする。音楽とかの芸術も例外なく。関係性を選ぶっていうのはひょっとしたらこういうことかもしれないと思う。消費材のオプションとして何かを提供してしまう、せざるをえない、のなら何もしない方がいいとか思ってしまうが、それはもっと良くない。「データベースから抽出されたシミュラークルを次から次へと交換する」せざるを得ない、というのは分かるなあと思う。そして宮台さんも言われているようにそれはだんだんダルくなってくる。樫村愛子さんが「ネオリベラリズム精神分析〜なぜ伝統や文化が求められるのか〜」で(おそらく動物化に対して)再帰性について述べているけれど、それが自分の中だけの堂々巡りでないとはなかなか言い切れないのが難しいなあと思うし、明日はこれがあります。

http://d.hatena.ne.jp/k11/20071211

*1:i-podも持ってったんですが、こちらも帰国する日のテーゲル空港まで一度も使用せず。
  出発時刻まで少し時間があったので、Clusterの『Cluster II』を聴いたのみ。
  本当は『Zuckerzeit』を聴こうと思ったんですが、i-podに入れそびれてました。
  Faustの『Faust IV』Disc2とどちらを聴くか迷って『Cluster II』をセレクト。
  ※邦題は『幻星』だというのをたった今知る。http://www.amazon.co.jp/dp/B0007WZURO