Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

白金高輪と東麻布

白金高輪に新しいギャラリービルがオープン - TABlog
http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/01/gallery-building-opens-in-shirokane.html
◇ 東麻布にTake Ninagawaがオープン - TABlog
http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/01/take-ninagawa-opens-in-higashi-azabu.html


◇ KODAMA Gallery(児玉画廊)
http://www.kodamagallery.com/
◇ YAMAMOTO GENDAI(山本現代
http://yamamotogendai.org/
高橋コレクション
http://www.takahashi-collection.com/
◇ Take Ninagawa
http://www.takeninagawa.com/

最近のお客様から

http://blog-search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9D%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3&ei=UTF-8
正しくは「ニュー・トポグラフィックス」ですね。
武蔵野美術大学のシンポジウムの告知文はおそらく脱字かと思われます。


◇ New Topographics - Wikipedia, the free encyclopedia

For “New Topographics” William Jenkins selected eight then young American photographers: Robert Adams, Lewis Baltz, Joe Deal, Frank Gohlke, Nicholas Nixon, John Schott, Stephen Shore, and Henry Wessel, Jr. He also invited the German couple, Bernd and Hilla Becher then teaching at the Art Academy of Dusseldorf (Germany).

"New Topographics", some thirty years after its opening still remains an exhibition of great impact and influence on western landscape photography, an influence that even extended to Japanese landscape photography (see Naoya Hatakeyama’s work for instance) and whose long-term effects can even be identified in contemporary Chinese photography. A definite must-know.

http://en.wikipedia.org/wiki/New_Topography


◇ ニューカラーとニュー・トポグラフィクス(写真史・芸術論3) - ToshiのHP

1970年代後半になると、技術的な問題もほぼ解消され、カラー写真を表現の手段として利用していこうとする流れが定着していくようになる。そのきっかけになったのは、1976年にニューヨーク近代美術館で開催されたウィリアム・エグルストン(1937−)の個展である。J・シャーカフスキーが、展覧会カタログの序文で強調しているように、モノクロームの印画に対して色を特別に問題にするのではなく、「色がついて存在している世界それ自体」を、写真家の視覚的な経験に即してストレートに描写していこうとするスタイルが生まれてきたのだ。
エグルストンだけでなく、70年代後半には、多くの写真家たちがカラー写真を使い始める。とくにアメリカの場合、80年代にはカラーとモノクロームの比率は、ほぼ逆転したと見てよいだろう。『ザ・ニュー・カラー・フォトグラフィ』の続編として、1984年に写真集『ニュー・カラー・ワーク』が、1987年に『アメリカン・インデペンデンツ』が、やはりS・オークレアの編集で刊行された。この間に「ニュー・カラー」というカテゴリーは、やや曖昧な要素を含みながらも、ほぼ定着したといえるだろう。日本でも小林のりお(1951−)、伊奈英次(1957−)山根敏郎(1953−)畠山直哉(1958−)など、カラー写真で都市、あるいはその郊外の風景を撮影する写真家が登場してきている。「ニュー・カラー」の写真とともに、1970年代後半、写真家たちの撮影のスタイルに、無視できない影響をあたえたのは「ニュー・トポグラフィックス」である。名称の由来となったのは、ウィリアム・ジェンキンスが1976年にジョージ・イーストマン・ハウスで企画したグループ展「ニュー・トポグラフィックス」。
「トポグラフィックス」とは「地誌、地勢学」といった意味である。自然破壊によって変質していくアメリカの風景を、あたかも地誌学の調査のための測量のように、感情移入を排したニュートラル(中立)な視線で撮影していくのが、これらの写真家たちの基本スタイルである。
それはいうまでもなく、60年代の「社会的風景」へのアプローチをより深化させたものであり、さらに歴史をさかのぼれば、19世紀のT・H・オサリバンやW・H・ジャクソンの西部探検の記録写真までゆきつくであろう。「ニュー・カラー」にしても「ニュー・トポグラフィックス」にしても、アメリカン・ドキュメントの系譜を発展的に受け継いだものと見なすことができる。
しかし、70年代以降の写真家たちの作品には、希望より絶望が、憧れより幻滅が広がり始めているように思う。J・ファールの危険な美しさをたたえた原子力発電所の遠景、L・ボルツのゴミ捨て場のような都市郊外の光景、あるいはやはり人工的な施設や人災によって変貌していく南カリフォルニアの砂漠地帯を撮影した、リチャード・ミズラック(1949−)の『デザート・カントス』(1987)などには、?黙示録の風景?とでも呼ぶべき眺めが現れてきている。日本の雑賀雄二(1951−)の『軍艦島―捨てられた島の風景』(1986)や宮本隆司の『建築の黙示録』(1988)にも見られる、静まりかえった沈黙の風景は、もしかすると写真家たちの鋭敏な感覚によってとらえられた、近未来の眺めなのかもしれない。

http://mistoshi-web.hp.infoseek.co.jp/rekisi/a08.html
http://mistoshi-web.hp.infoseek.co.jp/


◇ ニュー・トポグラフィクスからの展開 - artshore 芸術海岸
http://artshore.exblog.jp/1844171/


◇ サイトグラフィックス考 深川雅文
http://park14.wakwak.com/~pg-web/log_sg.html


◇ 050605 “サイト・グラフィックス”なる概念について Text By Oshima Hiroshi(大嶋浩)
http://valis-declinaison.com/day_by_day/txt050605.html
http://valis-declinaison.com/


◇「写真ゲームの地平へ」 報告者:深川雅文川崎市市民ミュージアム学芸員
http://www.kawasaki-museum.jp/magazine/blog/exv/cat1/message/post.html
(※Exhibition Viewer: 写真ゲーム http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080123#p3

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060827#p9)

■テラン・ヴァーグと写真
イグナシ・デ・ソラ・モラレスの著作を実際に読んだわけではないし、
不勉強なだけかもしれませんが、ほかならぬ制作主体自身が、
テラン・ヴァーグ(terrain vague)などという言葉に
依りかかってしまうことには、非常に抵抗感があります。


もちろん依存してしまえば、やすやすと
コンビニエントな成熟(あるいは完成)を
手に入れられるのかもしれません。
しかし、それは単なる放棄であり、
手軽な思考のデッドエンドではないでしょうか。

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070725#p10)

■やたら「ポストモダン」とか「脱構築」を連発する人を素直に信用することができないのと同様に、むやみに「アフォーダンス」とか「クオリア」を連発する人を素直に信用することができません。(英語直訳風)
「テラン・ヴァーグ」→ http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070408#p7
「零度」→ http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060505#p4
「写真行為」→ http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070315#p3
……とか、その言葉と一定の距離感を保たないかぎり、
自分自身を罠に嵌めることになってしまう言葉はたくさんあると思います。

[新春企画]アート・ヴュー 2008|写真/深川雅文 - artscape

2007年に記憶に残った書物、論文、発言など
──大山顕石井哲『工場萌え』(東京書籍、2007)
「萌え」が「工場」という公の建築物にまで広がりを見せ、写真というかたちでウェブでリンクを重ねた末に生まれた写真集。しかも、掲載されているイメージは80年代のニュートポグラフィックス風そのもの。そのルーツのひとつであるベルント・ベッヒャーが2007年に逝去した。しかし、翻ってみるとベッヒャーも「工場」を愛していたことはたしかである。「萌え」とは別の仕方で。

http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/focus/enq2008_13.html
「しかも、」「掲載されているイメージ」「は」「80年代の」「ニュートポグラフィックス」「風」「そのもの」「。」

写真とアーカイヴ――ドイツ写真の現在展を見る――Between Image and Reality(神戸大学文学部 芸術学准教授 前川修)

まず、複数の極の間でドイツ写真を考える必要がある。ドイツ写真の70年代以降の成功には実は、先にあげたシュミットらが活動したベルリンの写真状況、そしてエッセンのフォルクヴァンクシューレを拠点とした主観主義写真、この二つが必要不可欠であった。とくに後者は、主観主義写真全盛のもとでベッヒャーが孤立して活動していた50-60年代とは対照的に、ほとんど省みられることがないのが現状である。また、ドイツ写真における同時代のアメリカ写真の影響(例えばニュー・トポグラフィックス等)も言及されることの少ない問題のひとつである。そして、先に指摘したように、写真が美術、とくに絵画というメディアとどのような関係を取り結んでいるのかという問題、それは、デュッセルドルフ芸術アカデミーという文脈ばかりでなく、――写真が美術として認知されるのが比較的遅かった――ドイツという文脈を考えるうえで不可欠の補助線であろう。


最後にもうひとつだけ、本展のテーマと緊密に関わる観点として、アーカイヴという問題を挙げておきたい。ベッヒャー夫妻の膨大な写真アーカイヴ、そして彼らが撮影の際に同時に調査していた工場写真のアーカイヴ、あるいはグルスキー、シュミット、デマンドが直接的、間接的に流用するメディアにおける写真、さらにはティルマンスが独自のカテゴリー分けをして撮りためている写真アーカイヴ、ルクスが前提にする子どものイメージのアーカイヴ、このように、現実とイメージを媒介しているイメージのアーカイヴという視座は本展のもうひとつの軸になっているのではないだろうか。「現実とイメージの間」、そこに介在する無数のイメージ、これも、写真のそのつどかわりゆく「現在」を現実的に(アクチュアルに)検討する鍵になるかもしれないのである」。

http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/stereodiary81.htm
http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20071124#p2)

■アアーーカカイイブヴ
◇ papery 前田恭二 - off the gallery

10.18. アーカイブ

 写真・石井哲、文・大山顕『工場萌え』(2007年3月、東京書籍刊)をはじめ、ほかにダムや水門といった産業遺産の写真集が人気だそうだ。人気だということで、テレビその他のメディアで紹介されているのを時折見かける。コンビナートが風景として享受されるようになったのは端的に言って、風景として見ることのできる距離が生まれたことを意味しよう。柳田国男の言葉で言えば「要望なき交渉」、つまり果樹を生きる糧としてではなく眺めるのと同様の心理的な距離が、コンビナートの生産活動や労働との間にも生まれ、風景として眺められ、人気も博すようになった――というわけだが、しかし、それ自体は風景論の公式通りの話に過ぎない。興味を覚えるのは、すべてかどうか、ウェブ上のアーカイヴをもとにした出版が行われていること。デジタル写真の可能性ということが数年前、よく語られていたけれど、パーソナルで、趣味的な画像アーカイブが結局、果実の一つだったのかもしれない。

http://www.pg-web.net/off_the_gallery/papery/main.html


◇ 再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20061013#p4

■たぶん誰もがウェブでの活動をリヒターの「アトラス」を薄めたりちょっとズラしたようなかたちのコンセプトで説明したくもなるのだけれど……
私もある部分では、さして考えることもなく
自分のWebでの活動(このブログ 「練習場[仮]」ではなく
メインサイトのほう http://www.nobuhiro-fukui.com/)を
そういうふうに位置づけていたのですが。。。*1
先日、akfさん(http://akf.readymade.jp/AKF)の考察を読んで、
その段階で思考停止していてはダメだと思った次第。

「写真画像を使ったアーカイヴァルアートって最近いっぱいあるけど、それってどうして?何にみんな魅せられてるの?」という壮大な疑問だった。
それに対して交わされた様々な質疑応答の中で、そうか、アーカイヴァル・アートって、アーカイヴなんじゃなくって、作家が作戦としてアーカイヴ形式をあくまで「偽装」しているんだった、ということに今更ながら気づいた。だからこそ、今後の課題としては、アーカイヴァル・アートをリヒターとかボルタンスキーの比較考察などで収めるのじゃなくて、そういう欧米文化で培われてきた「アーカイヴの歴史」を偽装すらしようとしないアーカイヴァル・アート、気づいたら蹴散らしているようなアーカイヴァル・アートについても考えてみたい。

露光集+「演習発表 その後」(http://d.hatena.ne.jp/akf/20060930#p2)より

*1:「Webにアップするものは、展覧会で使うか使わないか微妙なカットです。あるいは、何かひっかかりがあって、その理由が自分でもわからないものです。何度も見直して自分で客観的に検討するために、Webにアップするようにしています。無条件で展覧会で使いそうなカットは、それとは別に寝かせておきます」(Every Sunday──福居伸宏 [Web写真界隈インタビュー記事より] http://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto/2007/04/05/5996.html

部分的に再録&一部引用を追加(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070227#p3)

ミュンヘンのハウス・デア・クンストでアンドレアス・グルスキーが新作展を開催中

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※『美術手帖』2005年11月号に掲載されている大森俊克氏のドイツ写真批判
 「ドイツ写真とグローバリズム」を要再読。
 部屋の中をちょっと探したんですが見つかりませんでした。引用する時間もなし。
http://www.bijutsu.co.jp/bt/0511/si.html
http://www.fujisan.co.jp/Product/2196/b/81750/


※深川雅文氏の「サイトグラフィックス考」
http://park14.wakwak.com/~pg-web/log_sg.html


※79 アンドレアス・グルスキー展 ニューヨーク近代美術館 深川雅文 2001/04/19 00:07

現在、ニューヨーク近代美術館アンドレアス・グルスキーの大個展が開催中である。(キュレーターはピーター・ガラシ)期間は3/4/2001-5/15/2001まで。連休中にでもニューヨークに行かれる方は一見の価値があるだろう。カタログは、すでに本として出されており、たとえば渋谷パルコ下のロゴスの店頭に積まれていた。なお、同僚のシュトルートは、現在、日本での展覧会も一段落して休養中とのことだがすでに2年後、アメリカでの大個展の計画が決定したという。メトロポリタン美術館、シカゴ現代美術館などで開催される予定。ところで、杉浦邦恵さんと先月お会いしたときに、グルスキーの展覧会の話題が出た。面白かったのは、グルスキーの展覧会について、先生のベッヒャーが新聞で酷評していたということだ。このことは、ベッヒャーとその弟子たちの仕事の関係をどう評価するかという根本的な問題に深く関わっていると僕は思っている。そのうち、場所を見つけて書くつもりだ。

http://park14.wakwak.com/~pg-web/log1-100.html


※グルスキーの風景 - artshore 芸術海岸
http://artshore.exblog.jp/2535278/


※写真の現在 - ARTOPE
http://artope.seesaa.net/article/9850473.html


※対談 杉田敦伊奈英次

伊奈◆いやもう少し話そうよう。キミは今、西洋が内省して自身の腐敗を見出したけど、日本はそれ相当のことができていないというようなことを言ったけど、ひとつにはそれは、アジアあるいは日本と西欧という視点から見ているというのが問題なのかな。例えば、日本からは本当に死角になっているといってもよいイスラム文化圏があるよね。過激派が頻発させるテロ行為には弁解の余地がないとしても、西欧優位の図式のなかで、精神的な意味で学ぶことは少なくないというか、それこそたくさんある。


杉田●そう、それはテロリズムなどよりも、何気ないことで一気に感得される。例えば、スペイン南端のアルヘンシラスからフェリーに乗ってジブラルタル海峡を渡ってタンジールに入れば、きれいに偶像がなくなる。イスラム世界は偶像崇拝が禁止だからね。だから、コースを逆に辿ってスペインで宗教画でも見た日には、ポンチ絵に見えてしょうがないわけ(笑)。タンジールが政治的に特殊な状況下にあったということもあるけど、今世紀の初頭に、不良ヨーロッパ人はみんなあそこを越えていくわけじゃない?


伊奈◆キミの好きなボウルズも、コースは異なるけどランボーもそういってよいよね?


杉田●そうだね。しかも、これはあまり言及されることはないけど、写真の原型とも言われるカメラ・オブスキュラは、最初バクダッドのイブン・アル・ハイサムという自然科学者によって構想されてるんだ。


伊奈◆そうか、そういう視点から見れば、写真やアートについて評するということ自体がポンチ絵のような気もしてくるよね。ところで、いきなり写真に戻るけど、目の前にある若い女性が撮った山ほどの写真の中には、極めて禁欲的なものがあるような気がするんだ。禁欲的という言葉はおかしいかもしれないけど、例えばドイツではベッヒャー夫妻のタイポロジーのようなものには、ものすごく理性的にコンセプトを捉えるという一種の禁欲性がある。もちろん、それとはかなり趣の異なるフランス的な写真は、人間というものを中心に据えて、理性的過ぎないようなかたちで、別の抑制が効いている。彼らはそれを意識しているのだけれども、ここにある写真を見ていると、無意識のうちにさまざまな抑制が効いてしまっているような気がする。


杉田●ベッヒャー夫妻の写真は、ある意味では語りやすい。つまり、いまキミが理性的にコンセプトが練られているというようなことを言ったけど、そうしたコンセプトとか方法に関しては、少なくとも写真そのものについて語るのよりはたやすいんだよ。


伊奈◆コンセプトあるいは方法論的に特化しているという意味では、ベッヒャー夫妻の写真には写真的な快楽というのはまったくないのかもしれない。これは、フランス人のキュレータも同じようなことを言っていた。で、フランスは、そういったコンセプチャルなものだけであることから距離を置くために、身体性とか行為とか、現場というようなものに、より大きな意味を見出そうとする。


杉田●だけど、それがそれでまた、ドイツとは異なる形での不自由さを感じさせる。コンセプチュアルなものに溺れないために、それを突き詰めないようにするんだけど、それが微妙にブレンドされた程度でもと求められていて、外から見ているとその辺は不自由な感じがするわけ。そういう視点から見ると、今度はベッヒャーでさえコンセプトに関してはより自由だったのかなとか思えてしまったりする。彼らの弟子達になると、もう完全に快楽主義的なところさえある。


伊奈◆あるある。だってグルスキーなんてさ、フォトショップをあれだけ使って、もうあれはちょっと一種の工芸にも似た作業じゃない? 最近では、クリエティヴなものを感じないと、同じベッヒャーの弟子でさえ言うよね。何か自分がきれいなものをつくりたいというところで、本当に臆面もなくのめり込んでいる感じがするんだよね。工芸作品というか、平面構成をどうするかということだけへの拘りになってきてるよね。そういう意味では、ものすごく快楽主義的な感じがする。そして、その源にはやっぱりベッヒャーがいる。つまり、ベッヒャー夫妻の場合は堅苦しい不自由さだけが見えてたけど、ベッヒャーの弟子達を通して、ベッヒャーにもそういう類いの快楽があったんじゃないかというところまで見えてくる。


杉田●うん、それは言えると思う。それに対して、この女の子達の写真に戻ると、彼女達はHIROMIXとかによって、自由な写真というか、あんなものを撮ってもいいんだというようなことを教えられてた気になっているわけだけど、でも極めて不自由だよね。というのは、何か自分の生活のリアルな暗部というか、恥部というか、それを見せられなくなってしまっている。マイナスな部分を開けっぴろげに見せるという素振りを見せていても、ワイルドな感じだったり、スピード感があったり、グレてる雰囲気みたいな、ある意味ではカッコイイ虚構のストーリーになってしまっている。これは、かわいかったり美しかったりするものしか撮らないのと変わりない。さらに言えば、花鳥風月。これってある意味の去勢だとも思う。


伊奈◆そうだね。写真学校の18歳くらいの若者達もそうだよ。日常の風景ということで撮らせると、クラブの写真とか、60年代ぽかったり、カンウター・カルチャー系の写真をすごく模倣するわけよね。だから内実というか、彼等のリアリティというのは何も写ってこないわけ。そういう場所に出かけたり、そういう場所が好きだったりするというという一面は確かにあるのかもしれないけど、でも、何かすでに先行する理想的なイメージがあるような気がする。本当の部分は、つまり、ワイルドでも悪ぶってもいないような、マジでダサイ部分は隠蔽されちゃう。どうして隠蔽されちゃうんだと思う?

http://www005.upp.so-net.ne.jp/eiji-ina/files/taidan.html
2000年に行われた対談より

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20071128#p3)

■再貼:大森俊克「ドイツ写真とグローバリズム
http://www.loaps.com/column+index.id+43.htm
重要!


ミュンヘンのハウス・デア・クンストでアンドレアス・グルスキーが新作展を開催中
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070227#p3
◇【動画】写真家アンドレアス・グルスキーの回顧展、イスタンブールで開催中 AFPBB News
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070619#p8