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2009-12-03 「場は平たくしないとね」 に一致する日本語のページ 約 140,000 件

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Circulation  

再聴:田中功起さんの「言葉にする 保坂健二朗さんと話す」

◇ with_kenjiro_hosaka_1

http://kktnk.com/podcast/kotoba/Entries/2009/4/25_with_kenjiro_hosaka_1.html


◇ with_kenjiro_hosaka_2

http://kktnk.com/podcast/kotoba/Entries/2009/5/26_with_kenjiro_hosaka_2_1.html


◇ with_kenjiro_hosaka_3

http://kktnk.com/podcast/kotoba/Entries/2009/6/17_with_kenjiro_hosaka_3_1.html


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美術すばる文学カフェ

http://subaru.shueisha.co.jp/art/index.html


住友文彦+保坂健二朗+編集部編『Next Creator Book キュレーターになる! アートを世に出す表現者』 - FILM ARTフィルムアート

http://www.filmart.co.jp/new/001150.php


◇ 保坂 健二朗(ほさか けんじろう) HOSAKA, Kenjiro - kemadoc Home 慶應義塾大学前田富士研究会美学美術史学)

http://web.mita.keio.ac.jp/~maeda/html/memberhosaka.html


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>>>「Mot The Radio:ゲスト 田中功起 第3回」より

アートの外側にいるジャンルの人たちって

アートであろうとするじゃないですか?

アート的なものをつくろうとするとか。

(中略)

そういう人たちのものを見るとアートに見えないんですよね。

アート的には見えるけど。

http://www.bbtoday.net/mottheradio/000342.html

田中功起さんのこのコメントの後の住友文彦さんの言葉重要だと思います。

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080227#p6

Art | Basel | Miami Beach | 3-6 | 12 | 09

December 3 - 6, 2009

http://www.artbaselmiamibeach.com/go/id/ss/lang/eng/

自虐どころかあらゆる「史観」を欠如させた、ぶざまな「ひとりよがり」だけが『IDIOCRACY』ばりに……

◇ 眼は脳の一部である…… - MINER LEAGUE

見ろ見ろと薦められてようやく『脳内ニューヨーク』を。

題名どおり、昔懐かしい「脳の映画」NY版、と呼んで差し支えあるまい。見ている間は気にも留めなかったが、原題のsynecdocheは「提喩・代喩」を意味する。「類で種を、また一部で全体を(またはその逆)表す比喩」なのだそうだ。

どうやら週刊誌では「ひとりよがり」などという言葉で批判されているらしいが、それはとんでもない言いがかりであり、お門違いだ。これほど滅私奉公的な映画最近珍しい。そもそも「脳の映画」は、作家個人の外部に設けた厳密にアカデミック理論に基づく設定を構築した上でドライヴするしかつくりようのないもので、そこでは独善はそれこそ「禁欲」せねばならない。だからそこが麗しくもあり、同時に弱点でもある。魅力的な「ひとりよがり」=ショットがない、というのはそういう意味だ。「脳の映画」全般の限界も、だからそこにあったにちがいない。

現代において映画がもし弱くなったとしたら、誰もがそのような魅力的な「ひとりよがり」をなす術を忘れてしまったせいではないだろうか。ほとんどいわゆる自虐史観的に忘れさせられた、とでもいうか。自虐どころかあらゆる「史観」を欠如させた、ぶざまな「ひとりよがり」だけが『26世紀青年』ばりに(見てないけど)そこらじゅうに溢れている。

http://blue.ap.teacup.com/himaraya/513.html


カイエ・デュ・シネマジャポン編集委員会 編『進化する脳の映像―身体の映画から脳の映画へ』(勁草書房

ドゥルーズの説く「身体の映画から脳の映画へ」という問題系に沿って,最新の映画状況を分析する。現代フランスの若手代表A.デプレシャンやラース・フォン・トリアーら。

ラース・フォン・トリアー奇跡の海」

アルノー・デプレシャン「そして僕は恋をする」

●パシカル・ボニーゼ「アンコール

●カサヴェテスの希薄さに向けて

ジャン・ルノワールと複数の鍵

http://www.keisoshobo.co.jp/book/b25143.html

http://www.amazon.co.jp/dp/4326848472

表現のリポジトリ - 仮想算術の世界

むろん、いまは「セミ・ラティス」などという「隠喩」は使えないし、使う意味もないですが、主題そのものは現在にも連続しているのだと思います。実際、僕の関心もまた、近代的で人工的なツリー構造が失速した後に、ある種の洗練されたセミ・ラティス構造神話構造)が一部で実現しつつあるのだとして、ではそこでどんな表現が可能なのかということに向けられています。

ただ、その一方で、ツリー的なものへの敵意がネットではときに不必要に過剰に噴出する、というかツリー的なもの=トップダウン的なもの=権威的なものを見つけたらとりあえず叩いておくというのがネットのもっとも低コストの反応というところもあって、それが総じて見ればマイナスに作用している面もないではない。たとえば、くどいようですが、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』は、そういう負の作用をネットで強く受けた本だと思います。むろん、漱石や一葉を国語教育で復活せよというこの本がネットでウケるわけがないのですが、その喧噪のなかでは、なぜ水村氏が明治期の文学を特権化するのかという肝心の問いが消えてしまう。

特に、漱石はその好例で、彼の小説は、言葉現実をきっちり対応づけるためにいわゆる「言文一致文」を編み出し、近代日本語の基礎を築く一方で、そうした言葉を操っている自己自身をメタレベルから観察して、相対化するようなモメントも含んでいる(いわゆる「写生文」)。つまり、漱石の文章にはシンボリックなところとアレゴリカルなところ、言語標準化を図ることとその人為性を暴き立てることが共存しているのであり、そこからは、何か国家的な言語体系を補強するような方向も生まれれば、逆にその権威恣意性を示すチャンスも生まれる。言い換えれば、漱石という作家は、いわば近代日本語の「レポジトリ」(つまり、死者に場所を与え直すこと)のような存在なわけです。一面からすれば、漱石は安定したシンボルを操った作家に見える。実際、彼の文章は明快で、論理的です。けれども、他面からすれば、そのシンボルの安定性は、ちょうど『三四郎』に事細かに書き込まれているように(ちなみに僕は、水村氏が『三四郎』を論じた箇所はこの本の白眉だと思いますが)、さまざまな外来の知の「翻訳」とそれに伴う犠牲が多重に重なることによって成り立っている。

ともかく、漱石であれ、手塚であれ、日本の文化的表現は何らかの特殊な「レポジトリ」にこそ、ある種の多様な生成の可能性を見出そうとしてきた形跡があるわけです。そして、こういういささか特異な豊かさは、場合によってはときに「ツリー的」に見えるようなやり方であったとしても、守護し、継承していかなければならないのではないか。水村氏が漱石に立ち返り、大塚氏が手塚に立ち返るのは、いかにも保守的時代錯誤的ですが、やはりそこには日本のこれまでの文化状況を踏まえての必然性がある。小説にせよ漫画にせよ、それらは特殊な言語的ないし視覚的基盤のうえで成立するものであって、それを「保守」するには特別な手続きが要る。シンボルアレゴリーの交差というのは、そのアーキテクチャを豊かにするひとつの「知恵」のようなものです。漱石手塚に返ることは、そういう知恵の伝承と繋がっている。そしてまた、僕自身も批評家として、シンボルアレゴリーのキアスムが起こっている現場を捉えたいと思うわけです(ただし、アレゴリカルに意味転移するというのは、いまのネットではむしろふつうなので(つまり、アレゴリーシンボル化しているので)、だいぶ議論のパターンをいじらないといけない。

http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/821ba891c1180914b7a6a58423ff5e04

福嶋亮大さんのブログより。


YouTube - 東浩紀ゼロアカ道場 やずなみチーム「福嶋亮大さんインタビュー

http://www.youtube.com/watch?v=rLZfEP6ioJc