Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

後藤明生『挟み撃ち』(講談社文芸文庫)より

わたしはゴーゴリの『外套』を翻訳中の露文和訳者でもない。しかし、あのカーキ色の陸軍歩兵の外套を着て、九州筑前の田舎町から東京へ出て来て以来ずっと二十年間の間、外套、外套、外套と考え続けてきた人間だった。たとえ真似であっても構わない。何としてでも、わたしの『外套』を書きたいものだと、考え続けて来た人間だった。つまりわたしは、わたしである。言葉本来の意味における、わたしである。
 にもかかわらず、わたしはあの外套の行方をどうしても思い出すことができない。というより、その行方不明となった外套の行方を、考えてみること自体を忘れていたのだった。いったいわたしは、いままで何を考えてきたのだろう? もちろん生きている以上、さまざまなことを考えてはきた。あの外套の行方を考えることを忘れていたのは、たぶんそのためだろう。これは大いなる矛盾である。しかし、なにしろ外套、外套、外套と考えるだけでは、生きていくことができなかったからだ。当然のことだが、矛盾がわたしを生きながらえさせたのである。

http://www.amazon.co.jp/dp/4061976125
P25−26

キャッシュがありました。北田暁大講演会『アメリカ的プラグマティズム:リベラリズムと<帝国>』のリポート by 荻上チキさん “「反理念的・理念」としてのアメリカとアイロニーを巡って──ネグリ=ハートから、ローティ、宮台へ”

http://3.ly/shuC


※過去のリチャード・ローティ関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%A5%ED%A1%BC%A5%C6%A5%A3
リンク切れ多し。あとで再チェックします。

オヨヨ書林オヨヨ書林:金沢の古本屋

http://www.oyoyoshorin.jp/


オヨヨ書林の在庫カタログ:古本買います

石川県・金沢市の古本屋です。アート・デザイン・サブカルチャーを中心に面白い本を積極的に扱っています。古本高価買い取りいたします。
920-0997 石川県金沢市14-1 タテマチビル1F
オヨヨ書林
tel: 076-261-8339

http://oyoyoshorin.shop-pro.jp/

Jay Chung and Q Takeki Maeda: Hans Ulrich Obrist Interviews Volume I-1

http://www.amazon.co.uk/Jay-Chung-Takeki-Maeda-Interviews/dp/3865607705

翻訳の意味, 2010/10/17
By og
レビュー対象商品: Jay Chung and Q Takeki Maeda (ハードカバー)


この書は気鋭のキュレーター、ハンス・ウルリッヒ・オブリストによる過去50年のビジュアルカルチャーに関わりのある著名人へのインタビュー集 Hans Ulrich Obrist: Interviews(2003)の初邦訳版の「上巻」である。


今回翻訳された内容は原著の半分に満たないものだが、90年代以降の現代美術の主要な動向を読むことができる。ぜひとも「下巻」を出してほしい。なかでも、ジャン・ルーシュ、スチュアート・ホール、コンスタントなどから中堅アーティストへの流れは、これまでつながることのなかったパズルがはまるニクい選択だ。作品のみの情報が脈略なくやってくる日本において、現代美術とそれをとりまく状況を、その背景や文脈を通じて読むことができるのは貴重な体験である。すでに10年前の話とはいえ、こうした時差を含むこれまでの日本のシーンの盲点がはっきりと見えてくる。


なぜ本書がいま突然目の前に(しかも日本語で)現れたのか? それはこの書のもつ隠れた内容でもある。本書は傑出した内容をもつ翻訳本というだけではなく、若手の気鋭アーティスト Jay Chung & Q Takeki Maeda のアート作品である。
アーティストによれば、彼らの限られた手段と孤独な労働を辛抱強く繰り返すことで、アーティストの観点から原著を擬人化するねらいがある。ここでの翻訳の機能は原著を別のものに変えるために使用されている。実際、海外の展覧会や書店でも発表され、本書はまったく機能不全で、よそよそしい彫刻として流通されるようだ。言語が理解されない場所での、還元されたジェスチャーのみの提示によって、読む者がこの書を容易に手なずけることを拒んでいる。それはオリジナル(原著)のテーマや生産方法についての巧妙な作り替えである。オリジナルに新しい視点を与え、オブリストというメディアへの反動、本書の会話の内容や人格までも拒絶するといった辛辣な表現もそこには含まれているのだ。


この作品の本質は、あらゆる文脈がどのようにやって来るのかという問いにあるだろう。この問いは現代美術におけるいわば伝統である。そして、90年代にアートをはじめた者にとって常に立ち返るべき問いでもある。時代の精神の下部構造を深くえぐることの労をこの作品は惜しまない。アーティストたちの興味深い会話を親しんで読むうちに、われわれはこの翻訳の意味を突如理解するのだ。これはわれわれのアートであり、その出発点をここに見出すこととなる。
この書にのればすぐに跳ね返されるのもまた事実だ。この作品はわれわれのアートの出自とその文脈とのずれを、アンビバレントな心情として読み替えることなく、この書が文字通りまったく意味不明の物体であるということで告発している。
そして、文脈への批評精神がここからはじまるのもまた事実なのだ。

http://www.amazon.co.jp/dp/3865607705