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2014-02-03 ラテン語「厄払いの儀式(の月)」の意

初校戻し(2013年08月13日)+α

コラム連載 第4回 只石博紀とトヨダヒトシ】


只石博紀の『様々な速度、或いは様々な遅延』と

トヨダヒトシの「映像日記スライドショー


――目の前に手をかざされると視界は遮られ限定される。目の前に自分の手をかざしても同じことが起こる。手前しか見えないということ。他者に手をかざされているのであれば、体を動かして移動すればよい。しかし、自分で手をかざしている場合は体を動かしたところで状況は変わらない。手はついてくる。(2012年11月3日のメモより)


 これは、ヴォルフガング・ティルマンスアーティスツ・ブック『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』(Walther Konig 2012年)におけるフレーム(広義の枠組み)の形式的な構造について、私が思うところを書き留めたものです。ティルマンスがこの写真集で扱っているであろうテーマは多層化されていて、非常にクリティカルなものですが、それについて詳述するのはまた別の機会に譲るとして、今回は、既定の映像表現とは異なるスタイルで「フレームの外部、あるいは向こう側の領域」を扱う、2人の興味深い作家を紹介したいと思います。両者ともに、独特のピュアネスの持ち主であり、単なるイノセンスとは距離を置く、という意味では、ティルマンスとも共通する部分があると言えるのではないでしょうか。


只石博紀『様々な速度、或いは様々な遅延』

 1982年北海道生まれの映画監督・只石博紀による長編『様々な速度、或いは様々な遅延』を初めて観たのは、2012年の5月。オルタナティブ映画上映のあり方を模索し、多様な試みを続けているKINEATTICでウェブ上映された只石監督の最新長編『CRASS』に関するやりとりが縁で、『様々な速度、或いは様々な遅延』を拝見することになりました。

 筋立てはシンプルで、2組のカップルを中心にその日常と倦怠を描くというもの。切り返しショットや細かいカット割りを使わず、長回しを基本にした撮影スタイルによって、観客がその場に居合わせいるかのような距離感のもと映画は進行しますが、しかし中盤に差し掛かるあたりから、通常の劇映画の枠組み、約束事を逸脱するような場面が次々と現れます。テイクの始まりの声が掛かる前の素の役者たちの身振り、監督らしき人物の演出の声、現場で働くスタッフたちの姿、録音ボタンを押す音、仕込みによる映画的な嘘の種明かし、音声と画像の非同期、不可解なピローショットの挿入、伏線らしき含みを感じさせるシーンの放置――。

 一般的な劇映画では、“中の世界”を保持し、プロットをなめらかに進行させるために、時間的空間的なフレームから排除されるであろう多くの要素がダダ漏れになっています。こうした型破りの手法を列挙すると、やや頭でっかち難解なメタ映画想像されるかもしれませんが、そうではありませんし、“前衛”や“実験”が自己目的化したものでもありません。劇映画における安定的な虚構を担保する、いわゆるフィクションラインを軽々と跨ぎ超えながらも、只石監督のねらいは、あくまでも映像動画)における事故のようなもの、アクシデントを呼び込むことにフォーカスしているように思われます。それは、できあい理性的な演出・構成、みえみえのウェルメイドに対する、野蛮さによる応答だといえるかもしれません。

 通常の映画的な収まりの良さを手放し、絶妙な、しかしある意味では常軌を逸したバランス感覚で、かなり際どいタイトロープを渡っていく只石監督。しかも、乱暴なんだか、繊細なんだか、一見よくわからない奇妙な足取りで……。一方、観客はその傍らで、物語の結末はもちろん作品の落ち着く先さえ予期できないがゆえに、「これは映画なのか?」という不安とともに宙吊り状態を強いられ、一般的映画体験よりも少し引いた位置から、いわば認識フレームを転換された状態で、その道行きを静かに見守るほかない状況に置かれます。

 そうした奇妙な緊張感のなか、“役者の芝居=フィクション”と“撮影の裏側=ドキュメンタリー”の往還によって生起する、一本の映画の中での“偶発的な不協和アクシデント”は、観客の目の前で遮蔽幕として機能していたスクリーンを引き裂き、その破れ目の向こう側から何か生々しいものを露出させ、映画の外の世界へと滲み出させます。


トヨダヒトシの映像日記スライドショー

 一方、1963年ニューヨーク生まれ東京育ちのトヨダヒトシもまた、他に類を見ないスタンス作家活動を続けています。写真家としてキャリアをスタートしたトヨダは、その後、ナン・ゴールディンのワークショップに参加して以降、スライドプロジェクターを使った上映会を各地で開催することで作品を発表してきました。ギャラリー美術館プリントを展示するといった、写真というジャンルにとって一般的な作品の見せ方は一切行わず、スライドショーけが彼にとっての唯一の発表手段です。

 しかも上映会では、トヨダ自身が必ずその場で映写機を操作し、一枚ずつスライドの送りとピント合わせを行います。上映会場や観客の雰囲気、その時々のトヨダのコンディションによって、そこには毎回必ずゆらぎが生じるため、彼のスライドショーは一回性の強いライヴパフォーマンスに近い趣を帯びています。

 そして、「映像日記」と銘打たれているように、スライドの内容はトヨダの日々の写真によって構成されており、上映作品ごとにタイトルが付され、40分なり90分なりの時間のなかで、ある「物語」が紡がれます。ただ、そこで注意したいのは、それは通常の意味での物語ではなく、“ある時間的経験の再演”、あるいは“記憶の呼び戻し”とでもいうべきものなのではないか、ということです。

 写真表現映画的・映像的なシークエンスを導入したものであれば、鈴木理策写真集『KUMANO』『Piles of Time』など、スチル・イメージによって映画を構成したものであれば、クリス・マルケルラ・ジュテ』、松本俊夫『石の詩』、大島渚ユンボギの日記』など、いわゆる日記映画であれば、ジョナス・メカスかわなかのぶひろ鈴木志郎康らの諸作品が挙げられますが、トヨダ作品はそのどれとも異なる佇まいを持っているように思われます。また、非常にパーソナルな日々の経験やうつろいを撮った写真の連なりではあっても、私写真のようなものとは異なります。

 実をいうと、私自身、トヨダの上映会を初めて体験したときは、正直よくのみこめない部分もありました。しかしそれは、今から振り返ると、日本の伝統的な写真における私性の扱われ方やストーリー仕立ての形式、あるいは大手資本の入った商業映画における最大公約数的な映像手法や語り口などに、知らず知らずのうちに絡めとられ、馴致させられていたからだといえるでしょう。つまり、日常写真シークエンススライド上映といった表面的なファクターによって、私写真映画のような枠組み=フレームで受容するものだと勝手に決めつけ、作品をよく見ようとせず、おきまりの受容スタイルで作品の端々を気ままにつまみながら鑑賞して、わかった気になっていたからです。

日常を描いている」とされる世の多くの作品よりも、はるか現実的な“生の時間”に近い、良い意味でのリダンダンシー(冗長性)を保持しているのがトヨダ作品の持ち味だと思います。それは“小さきもの”“周縁的なるもの”といったモチーフへのまなざしからもわかるように、彼独特の倫理観に貫かれたものでしょう。

 スライドを一枚一枚たどり直しては再び消えていく、“それは・かつて・あった”時間の中に、記憶経験を重ね合わせるかのような映像体験――。トヨダ作品のなかにも、只石作品と同じく、主観的アプローチに基づくタイプの作品の新たな可能性の芽を感じている自分がいます。しばらくは、この2人の作品をフォローしていきたいと思います。



コンテンポラリーアートマガジンファウンテン』第4号に掲載

https://www.facebook.com/fountain.mag

http://fountain.6.ql.bz/



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>>>第1稿(2011年09月14日)

コラム連載 第1回 映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』】

バンクシーの介入(ルビ:インターベンション)

棘と機智に満ちたアンビバレント爆弾

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20120124#p2


>>>初校2012年03月03日)

コラム連載 第2回 エンリーケ・ビラ=マタス『ポータブル文学小史』】

平明な言葉が織り成す不可知迷宮

──エンリーケ・ビラ=マタス『ポータブル文学小史』

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20120502#p3


>>>初校戻し(2012年07月11日)

コラム連載 第3回 オヴァルOval)=マーカス・ポップ(Markus Popp)】

矛盾とアンビヴァレンスを焦点とする奇妙な楕円(ルビ:オヴァル

――オヴァル=マーカス・ポップについての覚書

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20121008#p6