吉田調書報道問題の本質は、「思い込み」でも「チェック不足」でもない

 吉田調書報道問題を「記者の思い込み」「チェック不足」「特定新聞の体質」と狭くとらえると、ことの本質を見誤りかねません。いち科学技術記者として、同問題への検証や批判の内容に危惧を覚えたので、ちょっと短く書いてみます。

 
 朝日デジタル版の「吉田調書」報道を読んで、私が一番違和感を覚えたのは、「(事故調査委員会は)772人もの関係者から聴き取りをおこなったのに、『個人の責任を追及しない』との方針を掲げたため、事故の本質に深く切りこめなかった」(『吉田調書』プロローグ http://www.asahi.com/special/yoshida_report/ )という箇所でした。


 「個人の責任を追及しない」という方針は、事故調査委員会のなかでも、おそらくは事故調査に詳しいジャーナリストの柳田邦男委員が提案したものと思います。そして個人の責任を追及しないことは、事故調査の基本でもあります(正確には、資料の公開は妨げないが、その資料を刑事事件の証拠には採用しないことを保証する)。


 というのは事故調査において、その証言が個人の刑事責任の追及に使われると、皆が口をつぐんでしまい、かえって事故原因の究明を妨げてしまうためです。実際、家族を失った遺族が「真実を知りたい」と刑事告訴した結果、関係者が一様に何も話さなくなり、真相を十分に究明できなかった残念な事例は枚挙に暇ありません。


 実際、鉄道や飛行機の事故、医療事故などで「事故調査委員会」方式の採用が増えているのは、これまで警察、検察やマスコミが個人の責任を重視するあまり、真の原因の追及がおざなりになっているのでは、との反省があります。(最近では、情報漏洩などIT分野でも増えていますが・・・)


 朝日新聞が「吉田調書」をデジタル版で解説付きで公開したこと自体は、大きな意義があったと今でも思います。やや無味乾燥で読みづらい事故調査報告書に代えて、臨場感があり、かつ幅広い読者にとって読みやすいコンテンツに仕立てた取材班の力量には、今読んでもうならされるものがあります。

 
 ただそれは、NHK共同通信、ノンフィクションライターらが別の方法で試み、それぞれ成功を収めていたこともでもあります。新聞一面の「スクープ」に当たる新味な情報があったわけではありません。


 一方で、この事故調査資料を使い、事故の拡大につながった官邸、東電幹部、東電職員個人の行動を明らかにするという取材班の方針は、一概に否定はできないものの、極めてリスクの高い、慎重の上にも慎重を期するべき取材手法であったと思います。そのことにもう少し自覚的であれば、今回の事態に至ることもなかったかもしれません。


 警察による供述調書の作成では、供述者は黙秘権を行使できるほか、後で読み合わせや署名などで、供述者の見解と相違がないか確認が行われます。これは、調書が後に刑事裁判の証拠として使われる以上、供述者の人権を保護するための当然の措置です。これに対して事故調査の調書は、記憶違いや言い間違いなどを含め、言ったことが「そのまま」反映されます。


 事故調査資料を個人の責任追究という目的で使うと、どこかで「誰かが判断の誤りを犯していたはず」という予断や、その思い違いを補強するための「資料のつまみ食い」が行われやすくなります。それに反する発言(例えば、吉田氏の「2Fにいったほうがはるかに正しい」という発言)が資料にあっても「当人をかばっているのでは」と軽視しがちです。その結果として「命令の伝達ミス」でなく「9割の職員が逃げた」と解釈できる記事につながった可能性があります。


 デジタル版「吉田調書」記事からは、「原発は本当にヒトが扱えるのか」という取材班の問題意識が(その当否はどうあれ)ひしひしと伝わってきます。その初志に殉じていれば、優れた報道として歴史に残ったのにと、いち読者としても思わずにはいられません。