佐々木さん×磯崎さんトーク受付終了のお知らせ・内田かずひろさん×枡野浩一さん選書フェアのお知らせ

7月18日のトーク、満員御礼につき、受付を締め切らせて頂きました。キャンセル待ちは不可となります。ご了承ください。今回、ものすごく早い満員御礼でびっくりしています。ご予約頂いたお客様、有難うございました。

また、歌人枡野浩一さんにお話を頂き、この度、枡野さんと「ロダンのココロ」でおなじみの漫画家内田かずひろさんによる選書フェアを7月1日(もう今日ですね)から、8月31日まで行うこととなりました。場所は新宿店の7階東側フェアコーナーです。(なお、書籍ですが、これから続々搬入されるものもありますので、最大の充実度となりますのは7月の10日あたりかそれ以降となるかと思います。ご了承ください)

内田かずひろ×枡野浩一
「絵と言葉のあいだで」フェア



枡野さんにはおすすめ漫画を50冊以上、内田さんにはおすすめ絵本を50冊以上、選書していただきました。そもそも、なぜこういう企画になったかというのも、枡野さんの名著「漫画嫌い」(二見書房)があったという理由に遡ります。

漫画嫌い―枡野浩一の漫画評(朝日新聞1998?2000)

漫画嫌い―枡野浩一の漫画評(朝日新聞1998?2000)

朝日新聞(1998年4月〜2000年3月)に掲載されていた漫画評を、加筆修正されて1冊にまとめられたのがこの「漫画嫌い」です。初め、中学生のころこの本を友人に借りて読んだのが初めで、全く漫画を読まなかった(それ以前はインディジョーンズごっことか)のですが、「西村しのぶはハードボイルド小説である」という漫画評が凄すぎ、そこに載っている漫画をいろいろと読むようになりました。

「漫画嫌い」のはじめには晄晏隆幸さんのこの言葉があります。


マンガというのは絵や物語やさまざまなものからできていて、
ひとつのマンガが自分の魂のかたちに沿ってるかどうかは、
すぐに分かってしまいます。
だから、マンガについてなにかを言うことは、
各々の魂のかたちを告白するという側面を
免れることができません。          

―晄晏 隆幸


「漫画嫌い」中にも登場する漫画家、内田かずひろさんは朝日文庫より「ロダンのココロ 春」「ロダンのココロ 夏」を出版されています。

ロダンのココロ 春 (朝日文庫 (う21-1))

ロダンのココロ 春 (朝日文庫 (う21-1))

ロダンのココロ 夏 (朝日文庫)

ロダンのココロ 夏 (朝日文庫)

ロダン」を初めて読んだときも衝撃でしたが・・・。福永信さんのフェアでもこれは面にされています。

枡野さんは漫画家今日マチ子さんの表紙が素晴らしい!これを刊行されました。

僕は運動おんち (集英社文庫)

僕は運動おんち (集英社文庫)

フェアですが、置く本、ビジュアル共に、日々いろいろと変化してゆく棚となるかと思います。ぜひ棚の変化にもご注目頂きたいです。あまりにも選書リストがおもしろいので、フェア中の2ヶ月、フェア情報と共に、枡野さん、内田さんが今回の選ばれた書籍1冊+選ばれていない(フェアに置かれていない)書籍1冊を勝手に選んで読みます。↓

フェア担当の勝手に2冊読むコーナー(ある本とない本の対決)



上記でも内田さんは意地でも取り上げたいと思いますが・・・何の漫画と組み合わせるか、悩み中。
ぜひぜひご来店ください。枡野さん、内田さん、お忙しい中、ほんとうにありがとうございます。お二人のサイトはこちら。

枡野さん

「枡野浩一公式サイト ますので」

「枡野浩一公式ブログ 枡野書店」

内田さん

「内田かずひろホームページ」
「内田かずひろ今日このごろ」

勝手に2冊のコーナー

2回目 今そこにいる子供と今そこにいない子供の漫画(よつばと×愛がいそがしい)←「愛がいそがしい」は枡野さん漫画リストに入っています。

よつばと! 7 (電撃コミックス)

よつばと! 7 (電撃コミックス)


よつばと」(あずまきよひこメディアワークス)7巻目の44話。
翻訳家の「とーちゃん」と二人で暮らす「よつば」(5歳)。「よつばと」では時折面白い時間の切り取り方をする。この漫画の季節が夏限定だからだろうか?よつばという子供の夏の1日を描く漫画だが、夜(屋内で父と話すよつば)⇔昼(屋外、もしくは自分の家ではない屋内で父以外の人←《近所の人とか》と話すよつば)という構図がしばしば取られる。「よつばと」で私が一番好きなところ。

内と外、夜と昼が1話のなかに隣り合って両方書かれている。人数の増減がある夜と昼を行き来している。当たり前といえば当たり前だが、どうしてだろう、「サザエさん」と比較してみると物凄く違う。

サザエさん」も家族の話だが、この家族は人物が何人か屋外に出ていてもどうしてか全員が屋内にいるような感じがする。マスオさんと波平が外で二人で飲んでいても、家にいる家族と同じ屋根の下にいるような、二人の上にある屋根がアーケードで、あの家まで実は続いているような錯覚にとらわれる。雨や暗さはあってもアーケードには及ばない。人数が多いってそんなにすごいことなのか?「サザエさん」のアニメには心の声があって、みな家族のことを言及しているのがまるわかりだから、そういう気持ちがするのだろうか?永遠に登場人物が年を取らないからだろうか?考えてみたらすごい話だと思う。

よつばと「夜」(少人数)⇔「昼」(大人数)の構図が逆転するのが44話である。夜、「とーちゃん」と、その友人の男性とよつばは牛乳を飲んだり、肩車をしたりして遊ぶ。翌日。夜更かしをしたせいで彼女は熱を出す。
「ぼくじょう」に行く計画は取りやめになり、昼、よつばは「とーちゃん」と、家の中にいることを余儀なくされる。

「ぼくじょうぼくじょうぼくじょうぼくじょうぼくじょう」と抵抗しても外には行けない。布団の上に寝かされ、よつばは布団ごとひっぱられて部屋を移動する(テレビの部屋まで)。布団の上でよつばが見るビデオ。それは南極のビデオである。「よつばとーちゃんとここにもいく」とよつばは言う。「とーちゃん」もビデオの画面に目をやる。それは屋内から見る屋外の風景である。

子供が、夜遊んだことで昼遊べなくなるのはなんだか凄いな、と思う。外に行きたいとはしゃいだせいで外には行けなくなる。外には出ないでそれでも短い距離を移動して外を見る。いけるかもしれないしいけないかもしれない屋外を見る。できたこととできなかったことの提示は、夜と昼のように静かに隣りあわせで起こっている。

「愛がいそがしい」(さそうあきら双葉社)においても父子家庭が出てきますが(父と暮らす息子)。この漫画においても、やはり屋内と屋外の意識の差は顕著に表れていると思います。さそうあきらさん、今回のフェアでは入っていませんが、私が一番好きな単行本はこれ。↓「ユーランと岩田くん」という、歌舞伎町を舞台にしたなんかものすごい短編があるのですが、ユーランという、大変な方法で子供をおろそうとする主人公の名前がいきなり、漢字で判明したときの美しさといったらありません。

親が子供につける名前にも願いをこめるのだとしたら、それは部屋の中で見る南極みたいなものだろうか。








1回目 たかが洋服、
されど洋服の漫画(モテキ×ハルチン)←ハルチンは枡野さん漫画リストに入っています。


モテキ (1) (イブニングKC)

モテキ (1) (イブニングKC)



物語というよりも、これは出てくる女の子が着ている服が秀逸だと思う。

すごいリアルさというか、歩いているというか・・・何よりも二番目に出てくる女の子(細くて胸のない人)の着る服。髪はボブ、夏はジーンズに、和柄のTシャツ。和柄・・・彼女は何百枚洋服があってもこの服しか選ばないだろう、着れないだろう、というか、この服を着ているからこそ彼女なのであって、私も彼女を好きになったとしたらこの和柄のTシャツのことは、彼女の部分の30パーセントくらいだと真剣に思って愛す、別れた後はあのようなTシャツを見ればある程度は思い出してしまう、そうせざるをえないであろう、そういう洋服の人が出ていました。

別れたとき服が残っていたとして、それがホルターネックと、和柄Tシャツのどちらかだったとしたら、絶対に和柄のほうが忘れないような気がするのも偏見でしょうか。

服と人のつながりについて、恐ろしいほど見ている人が誠実に描かれた話です。セックスありき(そして障害が多い)の物語だからこそ、また服にも関連してしかるべきなのですが。他にも何人か女性は登場しますが、やはり和柄の彼女のことしか考えられない。和柄のTシャツを着ている人は他の服は着れない(偏見)ような気がするのです。ギャルからコンサバへの移行などは比較的容易な気がしても、和柄の人がコンサバになったりはあまりしないと思うのです。そしてそういう風にしない女性の性質が好きな人も、もちろんいると思います。

主人公の男がちゃんと事を成し遂げられるかとかは、服のことばかり頭にあって、どうでもいいような気もする。服のせいで彼女が取った行動、全てに納得がいきました。凄い漫画だ。服が全てを語る。何で和柄なんだろう。ペイズリーの子とか、水玉模様の子とかでは、そのようにならない気がする。和柄→日本→紫式部みたいな構図なんだろうか。そこに感づいた人々がその痛々しさをひそかに知るのだろうか。

そもそも何で和柄を購入するの?着物じゃないのに、と言ったら前、ものすごい友人に怒られました。どうださいのか言えと言われたが、和柄を購入する人はあまりその理由についても語ってくれない場合が多いような気もする。「可愛かったから」とかじゃなくて、「適当に」とか、そういう理由でつっけんどんに返されるケースがほとんどのような気もするのです。いいじゃないか可愛かったからで。たかが服でしょうも。

服がださいかださくないか云々ということと、その人の服が好きか嫌いかということは(私の中では)ちがいます。

またこれは少し違う話になりますが、漫画のもつ多くの素敵なところのひとつとして、登場人物の服に大きく読者が判読できるよう、著者による遊び心の文字が書かれていたりするところがあげられます。(最近だと「聖☆おにいさん」(講談社)、「パリパリ伝説」(祥伝社)とかか。)数年前、「ドラえもん」を読んでいたとき、全く日常のシーンでのび太のお母さんの服に「FLY」と唐突に描いてあり、ものすごくバカみたいですが、それだけで泣いてしまうことがありました。お母さんもいつかは死ぬということ、でも今はそこでまあ実際にフライを揚げたり、いろいろしているということ、だいたい、人が人の胸に文字を書くという行為自体が恐ろしすぎる行為なのだ、だからこそ藤子という人はこの人の胸に「FLY」と描かざるをえなかったのだ、と思ったのが目にして泣くまで5秒くらい。漫画は本当に怖いと思いました。


今回枡野さんが挙げられた漫画の中でも、特にハルチンは洋服面でビシビシ迫ってくる度合いの強い漫画だと思います。ハルチン、和柄着そうだ。必読。

ハルチン

ハルチン