分かり合えないということ

 最近の世の中、何でこんなことになってしまったのか、というような老人の愚痴みたいに思われるかもしれないが、日々の生活での違和感をちょこちょこ書いている。

よく炎上しているらしいブロガー氏が「ちゃんと説明すればわかりあえる」とかいうことに対して、そんな必要はない、時間とエネルギーの無駄、お断りとの記事を読んで、少し暗くなってしまった。

 やっぱり世の中分かり合えないんだなあと。自分もそんな風に思うことがあるけれど、でもやっぱり心の中では仲良くしたいな、と思う。

 このブロガー氏はわりとハッキリ物事を言われる方のようで、ある意味炎上商法的なところ、わざときつめのことを書くような職業柄もあるのだろうけれど、こういう発言力の強い人の発言に感化される人も少なくないんだろうなあと思う。「そのとおりだ、分かり合えない奴とはそもそも関わらなくていいんだ!」みたいな。こうして、どんどん人と人は疎遠になり小さな世界をもつグループが各地に点在していくのだろう。

 たしかに最近の世の中はこのような風潮があるように感じる。分かり合えない人に分かってもらう努力なんて時間と労力の無駄とばかりに。しかし、そのような境地に至るまでどれほどの努力をしたのだろう。たとえば、ひたすら人と分かり合おうとしてきた60代の人が報われずに最終的にたどりついた結果、そんなことを言うのはまだ分かる。しかし、人生経験も浅い、20代、30代の人間がそんなことを言えるのだろうか、と思う。

 規模は大きくなるが、パレスチナイスラエルの終わりなき紛争、憎悪の連鎖に和平に従事している人は時に絶望して「人は分かり合えない」と思うかもしれない。しかし、普通の若者が、「人間なんて分かり合えないし、そういう奴はお断り」なんて軽々しく言えるのだろうか。そんなに今までの分かり合えなさの蓄積があるのだろうか。

 そこで思うのが、人生経験の浅い若者がなぜ、さも分かったかのように「人生こんなものさ」を思えるのかだ。考えられるのは、①本やメディアなどでそういう境地に達したという可能性、②個人の経験だけで達するためにはよほど分かり合えない経験をした、③人生経験のある大人に相談したらそういわれた、④世の中の風潮、といったところだろう。①と④は同じかもしれないが。最近の子どもは何でも知っているな、とか、何かやたら返しがうまいな、と思ったりするが、やはりバラエティー番組の影響だろう。

 話は変わるが、あるお笑いコンビのネタで「ちょっと何言ってるかわかんないです」というフレーズがある。自分も好きでちょこちょこ使っているのだが、どういうものかというと、コントにおいて、まずツッコミ担当の常識的な人間が、ちょっと間抜けなボケ担当の店に入ってのやり取りをするという設定で、ボケがちぐはぐなことを言い、ツッコミがキレつつも説明をすると、ボケが「ちょっと何言ってるかわかんないです」と言って、ボケが「何で分かんねーんだよ!!」とツッコんで笑いになる、という流れだ。視聴者はツッコミが大声でまくし立てている内容が至極常識的なことは分かっている。それに対し、ボケは釈然としない顔で顔を斜めにしながら「ちょっと何を言ってるかわかんないです」と言う。視聴者も「何で分かんねーんだよ!!」と思うのだろうけど、これがある種の共感を呼ぶのは、分かり合えない、という経験があるからだろう。職場や、家庭や、仲間内で話しているとき、一方的にバーっと話をされて、相手は一生懸命話しているのだが、こちらとしては「一生懸命話してるけど、一体何を言ってんだ、この人は?」と内心思っていることはないだろうか。どこの職場にもまったくズレたことをしてくる要注意人物みたいな人はいるだろうし、オタクの人が非オタクに対し、自分の趣味の話を一方的に話される場合もあるだろう。
 「ちょっと何言ってるか分かんないです」という言葉は、実生活では人間関係があるから言えないことを、言ってくれたことがこのネタが支持される(爆笑をとる)理由なのだろう。
 だが、これも恐ろしい言葉ではある。ハッキリ言うと、これは全否定の言葉なのだ。言うほうは「あなたの言っている意味がわかりません」とバッサリと切り捨てているのだ。(「ちょっと」というのはあなたの話している内容の一部は分かりません、という意味の「ちょっと」ではなく、単なるクッション言葉であり、「何言ってるか分かんないです」というと強すぎるので、それを少しだけ緩和するための「ちょっと」である。)また、言われた方としては一生懸命話した(説明した)にも関わらず、全く通じなかった、という、絶望すら感じてしまう言葉なのだ。お笑いでは単に笑って終わりだが、実生活で、ガチにこれをやられてしまうと、相当ショックだし、ダメージも大きく、人間関係も悪化するかもしれない。
 これを見て笑ってしまう、ネタとして実生活でも使ってしまう時代に実は何か大きな断絶が起こってしまっているのではないか。

 異なる2つの話題ではあるが、ともに人間関係における断絶、分かり合うということを考える契機ではある。

兆候

先日の日曜に市議会議員選挙が行われた。

投票の際にふと候補者の一覧を見ると、みごとに平仮名のオンパレードだった。たしかに難しい漢字の名字、名前は平仮名でよいとは思う。しかしながら、どう考えても、一般的な成人であれば(義務教育を修了していれば)書けるような漢字の候補者までも平仮名なのだ。

ハッキリ言って、ナメすぎだろ。

というか、もはやこれは日本人が壊れてきているのではないか、と思った。誤字による取りこぼしをなくすため、なのか?いや、誤字や名前の間違いがあったとしても、その候補者と分かる範囲内だったら、そうみなすはずだし、だったら強制的に全員、全文字平仮名でいいではないか。

それとも、難しい漢字の候補者だったら、有権者が投票を諦めるとでも思っているのか?その場で一覧を見て、画数が多い候補者は有権者がスルーするとか。仮に有権者がそれで決めているんだとしたら、もう投票じゃなくて適当にルーレットでもして決めてろ。そんなことあるはずがないし、候補者がそんなに心配なんだったら芸名でもペンネームでもいいだろうから一一(いちはじめ)とかいうナメた名前で立候補すればよい。

このブログでも日本の劣化を感じることを折に触れてつぶやくように書いているが、今回はこうしたことで一抹の不安を覚えた。

「鬱薔薇 繁麿(うつばら しげまろ)」とかいう名の骨のある候補者でも出ないものか(笑)。

大変報道への違和感

先日、Nスペで老後の厳しい現実を取り上げていた。

こういう番組は以前から興味を持って見ていた。NHKは結構世の中の情勢をドキュメンタリーで取り上げていて、2000年代中盤からの流れは、ワーキングプア規制緩和によるタクシードライバーの厳しさ、無縁社会、消えた高齢者、老人漂流社会というところで、最新はSNEP、無業社会といったところか。

こういうので見ていると、「ああ、可哀想だな」「大変そうだな」ということで見ている人も多いだろうし、他人事には思えない人、明日はわが身な人もいるだろう。

しかし、である。私はそうも思うが、しかし疑問に思うこともあるのだ。たとえば、彼らとは一体どこでどうやって知り合うのか。一人でいるところを声をかけ、一通り世間話をして状況をチェックし、合致すれば、番組の趣旨を説明して出演に取り付けるのだろうか。

また、一人ぼっちだとか引きこもり系の人を取り上げる時、いや一人ぼっちちゃうやん、とも思う。

また、番組的にはより極端な人(つまり悲惨な状況の人、ただし放送できる範囲で)がいいわけで、これが世の中のすべてだ、真実だ、と思うのは危険ではないか、と思う。

この番組で出てきた人にも思うのだが、たとえば2ヶ月で20万円の年金があり、家賃で12万円引かれるという。そうすると残り8万円で2ヶ月生活することになり、大変だ、という。しかも電気は止っているから夜は暗闇での生活だ。

大変なのは大変かもしれない。しかし本当に家賃以外で1ヶ月4万円で生活できないのか?果たして電気が止められる事態にまでなるのか?男1人暮らしで、彼は冷麦を食べて生活していた(ガスと水道はOK)が、一見してはぜいたくをしているようには見えない。でも電気代なんて月2千円程度だろう。パソコンとかはないだろうから(少なくとも映らなかった)通信費もかからないはずだし、車もないから保険も含む車両費も不要。そうするとでは一体何に使っているのか?ということになる。食費でも閉店間際なら惣菜なんかで半額のものもあるし、切り詰めれば1ヶ月1万円でも生きていけるだろう(料理をしなくてもだ)。

もちろん、健康で文化的な最低限度の生活の観点から彼にそれをしろというつもりはないが、私にはなぜ人生どん底という映され方をするのか分からない。こういう番組等で思うのは彼らの家計簿が見えてこないことによる疑問がある。プライバシーの問題もあるからかかもしれない。この番組で、ちらっと画面に映ったのがタバコだった。メシは食えなくてもタバコは吸うのか?と思えた。ま、生活保護受給者に酒は飲むな、タバコは吸うなという議論に重なるかもしれないが。しかし、それで悲惨だ悲惨だというのもどうかと思う。番組側で巧妙に編集されているのでは、という疑念もある。

10月に入り、物価上昇で食料品の値上げがニュースで報道されている。
そこでは決まって「大変だ」「給料は上がらないのに物価だけが上がっている」という街角インタビューが映される。そりゃ値上げして喜ぶ消費者はいないだろうけど、また思うのである。「じゃあ一体いくらあったら大変ではないのですか?」と。マスコミはいつもいつも大変な時代だ、と叫ぶ。じゃ大変じゃない時代ってあったんですか?人々も会うたびに「景気はどうですか?」「いや〜苦しいですわ」というのが定型句になっている。日本人の性質として「儲かってしゃーないですわ、がはは」とは言えないかもしれないが。正直私はそういうのにもううんざりしている。だからあまり真に受けないようにしようと思う。「こんにちは」「いい天気ですね」と同じようなもんだと。

人間は金がいくらあっても欲しいものだ。満たされることはない。もっと、もっとと飽くなき欲望が湧いてくる。だから他の人がうらやむような人でも「生活は苦しいですわ」「カツカツですわ」と言う。結局、その人の収入の枠内で生きているわけだからカツカツになるのだ。年収200万の人と年収1000万の人はそういう意味できっと同じだろう。200万の人が1000万になっても多分苦しいというに決まっている。

なかなか難しいけれど、世の中の流れに流されないように、自分の分を知ることで生きるときっともっと生きやすくなるだろう。

また生きにくくなる世の中

 神戸でまた痛ましい事件が起きた。

 また神戸かよ、とも思う。17年前にも猟奇的な事件が発生した。
 近くでこうした事件が起こったら否が応でもまたあの時のような不安がよみがえる。同じように思った人もいたのではないだろうか。

 犯人は想像以上に早く逮捕された。しかし、まだ詳細は分からない。

 報道される内容からは容疑者はおかしいことが分かる。これまで近隣とトラブルを起こしてきた、周囲の人も明らかにおかしいと思い、避けていたというようなことだ。

 これによりまたおかしな奴の凶悪な犯罪ということがことさらクローズアップされて取り上げられるのだろう。
 それで知的障害者精神障害者への風当たりはますます強くなるのではないか。最近の人権意識の高まり(もしくは要請?)から「隔離せよ」や「もっと管理すべし」ということはさすがに声高には言われないだろうが、小さい子どもを持つ親は地域レベルでは求めるかもしれない。
 親の警戒心は高まり、子どもを一人では外に出さなくなる家庭は確実に増えるだろうし、学校に配備される警備員や地域のパトロール(ボランティアなど)も増えるだろう。

 さらには無職、アル中、地域のトラブルメーカーなども要注意とされるかもしれない。無理もない、彼らによる犯罪によるものが一体どれだけあるのか、犯罪全体の中での割合はどれだけなのか、なども提示されないまま、日々のニュースで取り上げられるのを見ているだけで感覚として「また無職の犯罪か」と思えるからだ。それは人々を漠然とした不安に駆り立てる。

 先日も知らないおじさんからもらった飴をなめた女の子が気を失った、という報道があった。昔は地域のおじさん(知った人であろうがなかろうが)から子ども達がお菓子をもらうことなど当たり前にあったことだ。それがこうした事例があれば、たとえ知人であってももらったものを食べるな、という家庭も当然出るだろう。
 街で小学生を見かけたらいつの間にかみんな警報ブザーを持っているし、保護者の携帯には不審者情報が配信されるようになっている。
 今では声をかけただけで変な人が出た、と言われかねないし、場合によっては職務質問、最悪逮捕もありえるかもしれない(たとえば手を引いたりしてことで誘拐未遂など)。

 こうしてごくまれに出てくる凶悪な犯罪者や不可思議なことをする奇妙な人の犯罪により我々の社会はますます生きにくくなってくるのである。

 犯罪者は目的を達成できたかもしれないが、彼のいない世界の我々は自分たちで自分たちの社会をルールや監視でがんじがらめにしていくのだ。

 この流れは元に戻らないかもしれない。SFみたいだが、多分ますます子どもを守るためなどと言ってすぐに通報されたりする世の中が近づいているのかもしれない。
 ここからは飛躍かもしれけど、だから田舎がいいとか言われるのかもしれない。田舎の人の優しさや誠実さに触れて感動したりするのだろう。
 戦後日本が目指した他人同士が生きる都会からの転換、小さな集落で顔見知りの人たちによる生活、それがこれからのコミュニティのヒントになるのかもしれない、と思う。まだ全然まとまっていないけれど。

スーパーあるある

 スーパーに行って会計の際、どこのレジに並ぶかは難しい。私はこの見極めが極めて苦手であり、下手である。

 「ここだ!」と思って並んだら、遅いことがよくある。隣のレジを見れば、もし自分が並んでいればもう済んで、さらに2人も済んでいる、なんてこともある。

 レジ側の要因は、パート(多分)が「何でこんなに遅いんだ!」という人もいるし、やたら1個1個の動作が丁寧すぎる人もいるし(お辞儀とかええねん!!!)、「空いているな〜」と思って並んだら“研修中”というワッペンが付いている人でやたら遅かった、なんてこともあった。

 また、客側では、なぜか私の前の主婦(多分)が会計時に1万円札を出すのにかなりの確率で出くわす。「何で1万円出すんだよ!!」と。今は店側もきちんと客に「1、2、3、4…」とおつりのお札を一緒に数えさせる時代だからやたらと時間がかかるのだ。「お前、前に1万円札くずしたやつは何に使ったんや!!!」と別に前も同じレジの前後だったわけでもなんでもないのに叫びたくなる。皆さん2千円ぐらいの買い物に1万円札を使ったらおつりは捨ててるんですかね…

 それでやっと自分の番になったらただでさえイライラしているのに酒類の年齢確認にタッチパネルを押させたり、部分的に袋に入れられたり(豆腐とか)、「もう自分で入れるっちゅうに!!」と叫びそうになる。叫んだら通報されます(多分)


 とまぁそういうわけで「レジどこに並ぶかの見極め」は大変苦手な私ですが、特技は「レジ袋何枚もらっても1枚に収めてしまうこと」です(^_^)v

清潔観について(その2)

昨日はトイレや地べたの話をした。

さらに進めると、たとえば靴紐がほどけてそのまま歩く人がいる。かく言う私もそうなのだが、気づいたらほどけていた、ということがある。そんなとき、その紐が汚いな、と思ってしまう。だから紐を結んだら手を洗わずにはいられない。だって道路って見えなくなっていても犬の糞尿だってあると思っちゃうし。

料理をしているときにあちこち触るのはどうでしょう?もちろんそのときに扱っていたものにもよるけど、油とか肉とか魚を触った手でたとえばドアノブとかリモコンとか触るのってどうよ。私の体験では家人がお好み焼きを作る時に豚肉を触った手を布巾などで拭くこともなくリモコンでチャンネルを替えるのを見て、嫌だというかもはや怒りをおぼえる。そんなとき、たとえ家族であっても清潔観って違うんだなと思う。

地べたの延長で玄関も同様だと思う。人が訪ねてきたときに家人が玄関のドアを開けようと、ふっと足をついて、ドアに手を伸ばす。「それ汚いじゃないか!!」と叫びそうになる。外出先とかでも靴を脱ぐとき、はくときに地面に足をつく人がいますが、理解に苦しみます。何とも思わないんでしょうか。

図書館で借りた本でたまにめくることによって指が当たる部分が黒く変色していることがある。一体どうやったらそんなことになるのだろうと不思議に思う。高校生のとき、参考書がそんな感じになっていたら「おお勉強しているな」と思うし、また人がそんなのを持っていたらちょっとびびってしまう。しかし、図書館の本がそんなにヘビーに扱われるのだろうか。そうするとよっぽど指が汚いとしか思えないのだけど。

ま、突き詰めていうと、生きていく限りこうしたことは避けられないのかもしれない。自分だけが清潔に保つよう心がけていても、人がやることに制限はかけられないから、汚い人が知らずに撒き散らすことにはもはや避けようがない。電車で靴のまま乗っている小さい子をたまにみかけるが、それを知らずに座ってしまうこともあるのだ。そして今度は自分がそれを広げていってしまう。だから精神衛生上、あまり気にしすぎるのもよくないのかもしれない。究極的には人間が一番汚いのかもしれない。微生物まみれだし、死ねばあっという間に蛆虫が湧き上がって来るし。
さらにより根源的に言うと一体何が“きれい”で何が“汚い”のだろうか。汚いといっても、排泄物はいつかは分解されてしまう。発掘現場で古代のトイレの跡とかで古代人が何を食べていたのか、どんな病気を抱えていたのかを分析したりするのを読んだことがあるが、不思議と汚いとは思えない。
ポテトチップとか食べた後の手でキーボードを触ったりするのは個人的には絶対嫌だが、それも本当に“汚い”のだろうか。人が口にする、食べるものなのにそれが付着した指を汚いと言ってしまっていいのだろうか。
血は汚いのだろうか。フケは汚いのだろうか。このように考えていくと、実はそんなに思い悩むことではないのかもしれない。でもやっぱり嫌だな。

清潔観について

もともと潔癖症の傾向はあったが、ここのところさらにひどくなってきているように思う。

しかし、実際こんなのってどうなの?嫌じゃない?と思うことをつらつらと書いてみる。

たとえば、いきなりだけど、この前会社で見たのだけど、男性がトイレに入って小用を足した後手を洗わないってどうよ。これは結構議論になるみたいで、ネットとか見ていると(信じられないのだけど)男性は比較的OKみたいな意見で女性は結構拒絶反応を示すようだ。肯定派曰く、人体の一部で汚くはない、尿はかかっていないなど…。そうなのか?

私は嫌だ。百万歩譲って大の場合も嫌だけど、まぁ手についていないという言い訳は成り立つが(最近のノロの報道でそれも怪しいけど)、小用は直ではないか!!その人と握手したくないし、パソコンのキーボードも触りたくないし、触れた書類も触りたくない。先の人はそのまま非常階段のドアを開けて下の階に行ったのだが、そのドアノブを触りたくないと思った。しかし、私は降りるときは階段で降りるからそのドアノブを触らざるをえないのだが。そういや昔トイレで一番汚いところはどこか、という話で小用の水を流すボタンだ、と言っていた同級生がいた。私は触れていない部分で押すようにしているけど普通そこまで考えずに押すでしょう。

トイレの話のついでに男性用トイレの周りがビショビショな時があるのだけど、あれはなぜなのか?ものすごい離れてしているのか(たまに目線のところに「もっと前に」みたいなプレートが貼ってあったりするし)、発射する時暴走しているのか…しかしそれではズボンにもかかっているのではないか?と思う。で、思うのだけど、靴の裏も汚れるけど、そのズボンで例えば座布団に正座とかしたら汚いなぁと思う。

また、最近よく話題になるが、家庭で男性でも座って小用を足すことについて、やはり洋式トイレに立って用を足すとハネは大きいと思う。我が家も結構前から座ってするようになったが、たまに離れて暮らす家族が集まって食事などすると、大酒を飲んだ者がジョボジョボと派手な音を立ててする。そんな時、気が狂いそうになる。それ以外でもまだトイレ用のスリッパを履けばいいのだが、家人は自分以外はそのスリッパを履かないのだ。そんな足であちこち歩き回られることに強いストレスをおぼえる。
ま、尿は汚くない、汗と同じ、最悪飲むこともできる、体から生成されるものだとかいう考え方もできるかもしれないけどね。それは大もそうなのかもしれないけど、あなたは触ることに何の抵抗もないですか?

長くなってきたので続きは分けることにするが、あと1つ。

地べたってどう思いますか?汚いと思うんですけど。道路とかって犬の糞尿とか誰かが吐いた痰やガムとかもう色々あるじゃないですか。不特定多数の人々が行き交う道で座ったりとかできるってすごいと思う。高校生とか駅で座ってしゃべったりしているけど、信じられない。駅だったら酔客のゲ○だってあるだろうし。しかしそこで座った後、電車のシートに座っていると思うと、自分も座る時躊躇してしまう。ここで座った人って一体どんな人なんだろう、その前どこに座ってたんだろう、と。ひょっとしたらズボンにうん○がついているのかもしれない。そんなことも知らずに次から次へと人が座って、またその人がどこかに座って…とたった1人からいつしかどんどん拡散していくのではないか、と思う。人の動きとかは制御できないから仕方ないのだけど。地べた座った人に電車で座るな、なんて言えないしな。

と言っても仕方がないし、考えすぎてもよくないのかもしれないけど、こんな風に言われたら「そうかも」と思う人やもっと言えばこう言われたことにより「そんなこと言われたら触られなくなったじゃないか」と言われるかもしれないな。

続きはまた。