『子どもが壊れる家』(草薙厚子著 文芸春秋社)を読んで、テレビやインターネットから受ける害について、少々過敏になり言い訳したが、作者が一番言いたいのは、親子関係との相互作用である。一つの事が悪者になるわけではない。私の子育ての中にも反省すべき点は既にあるが、今となっては、息子はテレビに振り回されない子に育っているし、ネットも話し合いの元で使っている。一生懸命遊び相手になったからなのか自分で手を動かして遊ぶことの楽しさも知っていて、そのためネットは、試行錯誤しながら親子で時々話し、使い方を考えるようにしている。
 今回はそういった自分に対する反省や言い訳もあるものの、それ以上になるほどと思った部分が強かったので、それについて書いていきたい。
 私が今まで読んできた本の中に書いてある「甘やかさず、甘えさせる」という意味のことを、この作者は具体的に上手に書いていた。
 「過干渉と放置がいけない」という表現である。甘やかすということを、この作者は過干渉と表現したと私は捉えている。どういうことが過干渉か、放置かということも、作者の見解として具体的に書いてあった。
 過干渉というのは、物を何でもかんでも与えるとかだけでなく、先回りしてその子の葛藤を消してしまうということである。例えば躾にしても、少々できないことがあっても、年齢に応じた躾以上のものを求める。或いは、年齢に応じた躾に関しても、できていないと非常に厳しく礼儀正しく振る舞わさせる。勉強も運動もそう。どれをとっても「できていない」「できない」ということに非常に執着心があり、いじめられないかと心配し、先手を打つことが過干渉らしい。何故周りと比べてできていない、ということがそんなにいじめられる対象になるのだろうか?息子の周りでもそういう意地悪な子がたくさんいる。でもそれがいじめられる対象であるのなら、いじめる方が悪いと強く思う。
 そんな中でもいかに自分の子供を守っていくか。それは、いじめられないよう、先手を打つことではない。孤立しても構わないから、周りに迷惑でなければ自分の気持ちに正直に生きることができる、と子供が思えるように育つことである。子供が「生きている」という実感を持つことである。
 いじめられないよう、苦労させないよう、先手を打つ親の気持ちはわからなくはないが、それが子供を窮屈にさせている。親の前で仮面をかぶるようになるのである。外での自分と家庭での自分と、その上、内面の自分に大きな隔たりができる。皆ある程度、外や家庭、心の中、など色々な面を持っている。友達によっても無意識に使い分けていることもある。でも、その差があまりに激しいとストレスになり得る。特に表に出す自分の面と、思っていることの違いが大きいと、子供はまだ人生経験が少ないため、自分の二面性に恐怖を感じたりストレスや違和感を抱いたり、などと気持ちに対応しきれない。溝は深まっていき、裏側の面が常軌を逸脱していっても歯止めがきかない。
 これを読んでいて、改めて自分の子供が、少々できないことがあっても構わないなあと思えるようになった。息子も無理をしていなだろうか。少し心配にすらなる。