そうやって「ピクミン3」を堪能していると、もう他のゲームはしなくても良いくらいになっていったし、時々思い出してはまた遊んだりしていた。そのうち「ピクミン4」が出たらしいが、3DSでしか遊べないらしい。3DSの類は一人の世界に入ってしまうし、テレビの画面で遊ぶものではないので、それでは遊ばないことにしている。
 そして、そういう気持ちへ割り込んできたのが「スプラトゥーン」である。すごく好きなゲームだった。でも「だった」のだ。もう過去形だ。多分もう遊ぶことはないだろうと思う。あれはなんだかワカモノのゲームだという思いになっている。特に今は「2」も出ていて、どんどん更新されて新しくアップデートだとか遊ぶ人を飽きさせない工夫とかをしているのを見ていると、そうやってゲーム制作側の意図に巻き込まれてしまうというか、思うつぼな気がしてしまう。どんどん更新されていく様子は、仕方ないことだと思いつつ、私みたいなタイプの人間にとっては、面白さが半減なのだ。何しろ、同じことを繰り返したいもので。面白い、楽しいと思ったことは、何度も何度も味わいたいもので。そんなにどんどん変化していくことに喜びは見いだせないのだ。これは昔からで、年取ってきたとか中年だからということではない。幼い頃から気に入った物は、いつまでも気に入るし、執着心があるのかもしれない。関係ないけど食べ物もそうだった。あるレストランが気に入れば、しつこく同じところに行きたがるし、あるメニューが気に入ればそればかりを注文する。新しい物にチャレンジしたくないわけではないが、「あれが食べたい」と、前に「美味しかった」という記憶を実感したいのである。この考え方はあらゆることに発揮されてしまい、ゲームもどうやらそうらしい。同じ場面を楽しむ。 
 「あの場面」に出会いたいと思う。だから何度も同じゲームをする。ゲームに関しては、「そうそうこれこれ」と思いつつ、ほんの少しずつ上達しているのである。緊張感もなくなってくる。でも私はスリルなんて味わわなくて良いのだ。そんな刺激のないもので楽しめるのかと思われそうだが、私は日常生活の中で色々考え感じることで、充分楽しい。刺激を無理やりは欲さない。だからドキドキするのは苦手である。これは映画やドラマに関しても言える。傍から見ると面白味がないかもしれないけど、私は充分楽しいのだ。
 さらには、最近「ゲーム依存」のことが問題になっている。ある記者が自分を実験台にした記事を読んで、かなり気持ちが引いた。どういう状態になるか、どのようにそこから抜けたかという内容。その記者は「スプラトゥーン」で依存症になりかけたのだ。
 負けたらもう一度、としたくなる。勝ったらもう一度、としたくなる。記者の彼はゲーム内でフレンドも作ってしまったので、そのフレンドと遊び始めると抜けることができないムードにもなると書いていた。私はフレンドなど作りたくなかったので、いわゆる「野良」という遊び方だったが、それでも抜けにくくなる感覚は知っているし、勝って気分良くてもう一度、負けて悔しくてもう一度、と思う感覚もとてもよくわかる。
 記者の彼は、思い通りにいかないと、相当イライラしたと書いていたが、心当たりのある人も多いのではないだろうか。私はほとんどイライラしない方だけど、「スプラトゥーン」は充分、依存性をたかめるゲームなのだ。と思うと、スッと冷める。