『ミライの授業』(瀧本哲史著 講談社)を読んでいる。そう「いる」。これを書いているのはまだ読んでいる途中のタイミングである。面白くて一生懸命読み続け、最後まで読んでから感想なり、自分の文を書くのが常だけど、今回ばかりは、途中で書いている。何故なら忘れそうだからだ。
 そんな忘れそうな程度だったら、大した内容でないのではと思われるかもしれないが、この本に書かれているのは、ストーリーではないということと、エッセイにしては、一つ一つの話にインパクトがあり過ぎるので、途中で一休みしてじっくりと色々感じ、考えずにはいられない。
 この著者は、子供に向けて「ミライの授業」を話しかけており、大人にとっても充分面白い。それどころか、知らないことだらけなのである。
 一貫して書いているのは、何故勉強しなければならないのかという理由、その根本的な意味なのだが、偉人たちがどういった勉強をしてきたのかということがわかってとても面白いのだ。それは、私たちが知っている「この人ってこういうことしたんでしょ」という「知ってるよ」を充分に覆しているからである。覆すというと逆のことのようだが、そういうわけではなくて、知らないことがたくさんあって、そういう風に動いていたのか、こんなことを勉強したのか、こうやってこの発見、開発に至ったのかという発見がある。それは「知らなかった!」という発見にしては大きすぎるくらいなのだ。
 忘れないうちに今まで読んだうちの一人、ナイチンゲールについて書きたい。
 瀧本哲史さんの書いていたように、ナイチンゲールは戦場の兵士たちに対して献身的な看護をした人として知られ、多くの看護師さんたちへの憧れである、という認識しか、私にはなかった。それだけでも偉大だと思うのだが、彼女の生い立ちや時代を知り、それがいかに冒険であったかということと、彼女は統計を取って勉強を重ねていたことにちょっとしたショックを受けた。生き延びることができたはずの兵士たちの、病院での環境を考え、社会に訴える。それはただただ感情的に訴えるということではなくて、死因別の死者数を、当時普及していなかったグラフで示し統計をとり、環境の改善を訴える。どういう環境であれば伝染しにくいかを綿密に学習してそれを実現するべく政府に働きかけたのだ。
 これを読んで、心からナイチンゲールという人を尊敬することとなった。他にも次々と「えっ実際はそういうことをしていたのか」という感想を持った人が挙げられている。その中には歴史的事実として知らなかったことや、勘違いしていること、捻じ曲げられて知った事実があり、感心せずにはいられない。本当なのか?と驚くことの連続である。海軍でカレーが有名な理由も、脚気からきていたとか、知らずに食べていたけれど、その中にビタミンB1が偶然含まれていたことなど、驚くことばかりである。
 「考えても答えが見つからないとき、そんなときには、目の前にある「事実」を拾っていきましょう」という言葉が響く。これは、『知ろうとすること』(新潮文庫)の早野龍五さんにも通じる言葉だろうと思う。知性と疑い、そして知ろうとすることが改めて大事だと考えさせられる。

 息子にもその傾向があるようだが、ネットで音楽を選んで聴くこと、なんならアルバムの中の一曲や何曲かを選んで買うことについて、少し考えていた。
 私もそんな思いになることがある。
 「あの人のあの曲を聴きたい」と思うこと。「その人の他の曲には興味がないけど、あの曲だけは好き」と思うこと。そういう時に、アルバムで買うことを、ちょっともったいないと思ってしまう。アルバムを聴くと「やっぱり他の曲はどうでも良いや。あの曲が良い」と思うことは時々ある。ボーカルレッスンでも、課題曲だけ練習したいので、アルバムを買うことに抵抗ある時も。
 だから、ネットで自分の好きな曲だけ買って、繰り返し聴くのは合理的で確かにそうしたくなるのはわかる。アルバムがやっぱり気に入らないってなった時、お金がもったいないとかも思うしね! あと、アルバムが多すぎて、棚からあふれて邪魔にすら感じることもあるし。
 だけど。あえてやっぱりアルバムを買った方が楽しい。と私は思う。
 アルバムは、そのミュージシャンの色々な思いが詰め込まれていて、曲順なんかもきっとこだわって構成されているだろうし、アルバム全部をまとめて「その人のその時の作品だからだ!」
 ……とかは本気で思っていない。頭ではそうでしょうと思っているけど。
 私は単純に、色々な曲を聴きたい。
 アルバムを聴いていく作業というのは、面白いもので。
 最初は目的の曲があったり、一発目で気に入る曲があったりして、そういった曲はすぐに耳に馴染む。でも割と飽きも早い。こともある。全然飽きないこともあるけど。
 そして気に入った曲の前後の曲も気になってくる。最終的にアルバム全部の曲を聴き込む。夫なんかは聴き込まなくたって新しい発見を、アルバムの中の他の曲に見出すタイプのようだが、私は聴きこまないと気が付かない。いや、でも夫も「何度も聴いたはずなのに、だいぶしてからその曲の良さに気付くことってあるよね」なんていうようなことを言っていたくらいなので、私の言いたいことはわかってくれるはずだ。聴きこんでいるうちに、最初の頃は気づかなかった曲の良さを感じるようになる。気が付いたら口ずさんでいたりして、相当気に入っていく。なんならそのアルバムの中で「実は一番好きな曲」になっていたりする。人気のあるなしに関係ないので、その曲を歌いたくなってカラオケで探しても見つからないこともある。それくらい注目されない曲でも自分の中でお気に入りになっていたりする。だから私はアルバムを買って聴くのが好きだ。
 あと、ちょっと付け加えたいのは、映画のサントラが好きなので、必然的にアルバムになることも多いのかもしれないと思う。
 ネットで好きな曲だけ買って聴くことは、夫の言葉を借りて言うなら
 「新しく好きな曲ができる、というチャンスを逃しているよね」
 である。世の中の流れだから構わないんですけどね。

 『リメンバー・ミー』を観た。
 ディズニーピクサーの映画で、観たいと思っていた映画である。
 メキシコが舞台で、日本で言うお盆の行事のような日に起こる出来事を中心にしている。この映画で、メキシコの文化を少し知ることができて、面白いなあと思った。「日本で言うお盆」と書いたように、非常にその辺りの考え方が似ていて、親近感が持てた。
 ただ、メキシコでのあちらの世界は非常に美しいんだなあと、その景色を見ながら胸がいっぱいになる。こんな風に考えられるって素敵だ。メキシコでは、こちらの世界でもお盆の日に飾る物が色とりどりの紙の切り絵とか美しくて素敵。日本はせいぜいナスに足を生やすくらいである。と思っていたら、ああそうだ、ちょうちんがあるではないか。白地に淡い色で絵が描かれており、中から灯がともる。灯かりがグルグル回ってとても美しく、訳もわからず「あれが欲しいなあ」と幼い頃思ったものだった。
 主人公ミゲルが、家族、親族に反対されてきら自分の夢を諦めきれず、あちらの世界に行って戻ってくるという話だが、あちらの世界の考え方として、すごくわかると思うのが、「死者は二度死ぬ」といった概念である。一度目は肉体の死。二度目は、生きている人たちの記憶から忘れられた時の死である。二度目に死ぬ時の描写が漫画チックなのに、どうにも切なくて見ていて哀しくなる。そのように「二度死ぬ」と思ったことはないけど、わかるなあと思ったのは、人が死んでも、私たちの中でその人は生きている、という概念があるからだ。それはその人の思い出であり、例えば親族であればそっくりな部分や似たところを自分の中に見つけると、あの人が私の中に生きているんだなあと思う。そう感じていることで、「二度死ぬ」という考え方は、なるほど、とすんなり納得できた。
 ミゲルが、こちらの世界に戻ってきてからがこの映画の心揺さぶられるところで、ひいおばあちゃんココとの交流に、胸を打たれるのだ。元々ミゲルは、車いすで何を考えているのかわからない、ほとんど喋らない、会話もとんちんかんなココに話しかけるのが大好き。そんなココに、「知っているでしょ?」と言って、親族に禁じられている音楽、歌を歌って聴かせる。親族が止めに入ろうとしたり驚いたりしている中、ココは笑顔になって、自分の父親の写真を取り出す。その歌を覚えている。と言う。ここがとても感動的で心を動かされる。ココの心の中のお父さんが薄れていっていただけに、涙が止まらなくなる。多分多くの人が、自分の身近な誰かを重ね合わせたシーンに違いないと思う。
 しかしだ。
 ディズニーピクサーの映画に、毎度私は騙される。毎回毎回、私はアホかと言いたいくらいに、作者の思うつぼで、この人がこうだと入り込んでいたら、終盤でどんでん返しがくる。終盤のどんでん返しなど毎度考えておらずにすぐにその世界に入り込んでいるので、やっぱり「えっ? この人がこうだったの?!」と幼稚園児みたいにあっさり引っかかる。幼い頃、10回クイズに、自信満々でもれなく引っかかった当時の私を思い出す。本当に私はアホかと思うのだ。きっと映画好きな彼女ならそんなことはないに違いない。

 その後、ウミナミを含めた説明が終わると、たくさんの人には触らせられないが、触りたい人は挙手してくださいと言われ、息子は手を挙げた。大人から子供まで多くはないが決して少なくはない人数が手を挙げた。すると、ざっと見回した司会の方が全員触っても良いと言ってくれて、皆が並んだ。
 息子が自分より小さな子を先に、と譲っていたことが微笑ましく思えた。夫は座っていたのだが、さっきまで大人しくしていた隣の男の子が「動かしたい〜」とグズグズ言い出した。何度も何度も「動かしたい〜!」と言うのに、おじいさんは何もしない。夫が後から言うには、どうも遠慮気味だったようだ。近くに座っていたおばあさんや、あと母親ではなかったのだろうか、ちょっと距離感のあるもう少し若い女性も特にリアクトしない。そんなに動かしたいのなら、触らせてあげれば良いではないかと思った。それこそその気持ちを満たしたら、彼はきっと心に残ってその経験が良い思い出になるだろう。今後の彼のちっちゃいかもしれないけど原動力となる瞬間があるだろう。それともうまくできないかもと思ったかもしれない。失敗したって良いではないか。失敗を怖がってやらないのであれば、ずっと失敗を怖がって行動を起こせない子になってしまいそうだ。うまくいかなかったら、誰かがフォローもしてくれるってものだ。そういうことも含めて学習ではないか。ああ、そんなに動かしたいという気持ちがあるなら満たしてやって減るもんじゃないだろうに! むしろプラスになるしかないだろうに。私なら自分の遠慮の気持ちがあって自分がしなくても、どうやるかわからなくて気後れしても、子供のためなら一緒に立ち上がって並ぶだろう。
 歯がゆく思っていたら、とうとう「動かしたい?」と発言した、のは……なんと夫。夫が普通に聞いている。「おじさんと一緒に動かしてみる?」何度か聞いて、隣の知らないおじさんに心を開いたその男の子は、とうとう立ち上がった。夫はその男の子と手をつないで列に並んだ。
 そして息子の番が回ってきた。嬉しそうに動かしてみる息子。目がキラキラしている。
 夫と、知らない男の子の番が最後に回ってきた。嬉しそうに動かしてみる男の子。笑顔だ。良かった。きっと心に残ったことだろう。好奇心がこの瞬間に満たされたことだろう。「楽しかった?」と夫やおじいさんが男の子に聞き「ウン」と嬉しそうな男の子に「良かった良かった」と言って、夫はおじいさんたちに感謝されていた。しかし動かしている夫の表情を見て「そうか。夫が動かしてみたかったんだな」と内心ニヤニヤした。
 帰りに夫の話を聞いていると「俺が動かしたかったんだよ」と笑っていた。やっぱり!と思うと同時に、男の子の好奇心の芽を見逃さずに付き合ってあげた夫を誇りに思う。高校生になっているからと恥ずかしい気持ちを、好奇心が上回った息子も誇りに思う。
 そしてテオヤンセンの、ストランドビーストそのものは本当に面白かったです。珍しい物を見ることができた。
 夫と息子はいつ作るのかわからないプラモデルを買っていた。私は面白くて、動かした二人の動画を繰り返し見ている。

 さて、その後、水族館の通路に展示されていた、各作品を間近で見ることができた。各作品を「ストランドビースト(砂浜の生き物)」と呼び、それはオランダの海岸にて生息していることになっているとか。それらにペットボトルがついていたのも印象的だ。ペットボトルには空気を入れて、それを動力にするらしい。
 奥には決められた時間ごとに、大きな作品を動かすところを見る場所がある。近くの休憩所でちょっとした飲食物を頼むために列に並ぶ。真後ろに並んだ母娘にまたストレスがたまる。娘の小さな要求に対して、母親はキーキーした声でいちいち反論する。今はやめてよ、だってあれを既に持っているでしょ?ということを、子供と同じような位置に立って怒っている。子供がグズグズ大変ならまだしも、娘は単に「こうしたい」と発言しただけである。それに対して何故落ち着いて説明できないのか。今度にしようね、今はあれがあるからね。って。それまでイライラしたことがあったとしても、そんな言い方をすることが、どうにも子供っぽい。子供と同じ目線に立って話すとかフザけるとか、基本的にそうだけど、説明すれば済むことをわざわざ威圧的な言い方をするのはやはりその人が大人になりきっていないからではないか。娘は途中から委縮し始めた。そのキーキー声に、他人の私までストレスがたまる。ああ、ここは子供が中心になって好奇心を満たす場所ではないのか。
 何となくどんよりした気持ちで席に着くと、近くに座っていた小さな男の子が、母親の作ってきたお弁当のたこさんウィンナーの足を数えていて和んだ。夫がストランドビーストの仕組みの説明を息子に話していると、寄ってきて顔を覗き込んでくる。別れ際に夫が「バイバイ、○○君」と言うと「なんで僕の名前知ってるの?」とか言う。可愛い。「さっき教えてくれたでしょ」と夫はニコニコ。母親が挨拶してくれて、その場を後にした。こんな親子もいる。
 そして、いよいよデモンストレーションが始まった。その日の都合で、その時間は小さな施設の中で、一つだけ紹介することに。「ウミナミ」という、別の地方で子供が名付けたらしいその作品の動きも、また面白かった。不思議な動きをするが、ちゃんと仕組みがわかっていれば、当然のことなのだろう。でも大きいからダイナミックで、そして当然崩れたりしない。引っ張るとイモムシみたいに動き、丸く折りたたむこともできるらしい。テオヤンセンは、NASAでも意見を参考にされるべく呼ばれているらしい。
 そのウミナミの説明を受ける時、席の空きの関係で、夫は二つ空いている所を見つけると、私と息子に座らせて、自分は一つ空いている所に座った。ああ息子は夫と座って、夫の話を聞きたかっただろうなあと思いながら、その場の雰囲気を感じて、さっさと黙って座った。夫の横には、おじいさんと孫にあたるのであろう5歳くらいの子供が抱っこされて座っていた。寝ていたところを夫が前を通ったことによって起こされたようで、夫が謝っている声が聞こえたが、その後グズることなく司会者の説明をおとなしく聞いていた。

 テオヤンセンテンの入り口にて、一つ大きな作品があり、動かすことができるようなコーナーがあった。家族三人で近くで「ほほー」と観察していたが、列が少し空いたので、夫と息子が並んで動かした。
 でも色々な家族がいるもので、「動かしたい」と言っているのに何だかんだ言ってその場を離れようとする親。「なにあれ?」と聞いているのに「見るだけ見るだけ」と言いながら見せもしない親。ああなんてことをするのだ。子供の好奇心の芽をああやって軽く見て摘んでしまっている。何てもったいないことをするのだろう。子供がそこから「動かしてみた!面白い!」と思って、そちらの方の興味がグングン伸びるかもしれない。そちらの方じゃなくても、体験してみたという思い出が、今後違うことに関しても、「またやってみよう」という意欲につながるかもしれない。やっぱり面白くなかったとしても、興味を持ったことに親が反応したことで今後も「これ面白そう」という訴えを聞いてくれる、発言しようという心の強さを持つことになるかもしれない。そんなに難しく考えなくたって、私には子供の好奇心に付き合えない親の心理が理解できない。そんなに急がなくちゃいけないことがあるなら別だ。でも、そこは水族館が併設しているだけである。順番待ちとか関係ないし、真昼間。そこまで急ぐことなんてないではないか。あったのか? いや、そんなに急ぐなら水族館に来る必要ないではないか。水族館に魚や生き物を見に来たとして、ちょっと脱線することがそんなにダメなことなのか。親にとって訳のわからない物だとしても、子供が興味あるものに対して、説明できなくたって良いではないか。「どうなってるんだろうね」「面白そうだね」って立ち止まれないものか。親が説明できないところは、子供の好奇心で知ろうとするだけでも、子供の可能性は広がるってものだ。触らせるくらい付き合って、子供のワクワクした気持ちを味わわせたら良いではないか。どうして自分基準で、面白いかどうかを決めるのだろう。子供が興味を持っているのだ。私は、そんなことで憤ってしまう。子供の好奇心てすごい宝なのに。その子の個性そのものなのに。
 さんざん「親が説明できなくても」と書いたけど、私は説明できない。もし私が子供なら「触りたい〜」と思ったとしても言い出せないかもしれない。幼児期の頃はまだしも、少し大きくなってからは、親を待たせるのを申し訳なく思っちゃう方だった。又、兄がそばにいれば、色々嫌味を言われるのをいやがって言い出せないでいた。そして触れたとして、その先それを生かすようなことに思考が回らないというか、それに関してどうとか思わないだろうと思う。何故こんな風になるのかとか調べることも知ろうとすることもないだろうと思う。私はそんな子供だった。だけど、「やってみたい」と思う気持ちを大事にされたことは、そういう自分の気持ちや周りのそういう気持ちを受け止められるということである。そのことに対して、良いイメージを持てるということである。好奇心の芽は摘まれない。

 テオヤンセン展を観に行った。
 「テオヤンセン展」とか、当たり前みたいに書いているけど、初めて耳にした時は、テオヤンセンテンテナニ?と思っていた。テレビのCMで初めて見て、「うわっ! 何これ? どうなっちゃっているの?」とびっくりした。骨組み丸出しのでっかい物体が動いている。エンジンが見えない。どうやら風力で動いているらしい。夫は仕事柄というか好きな分野の物なので、以前からよく知っていたようだが、私はとにかく初めて見た。風でも動くし、人が動かすこともできる。この動きがどうにも不思議な気持ちになる。本当に生き物みたいなのだ。
 テオヤンセンは、オランダの人らしく、工学科を出て後に彫刻家となったとのこと。実際に観てみたい。どうなっているの、機械でもないのに、風の力とは言え、どうしてあんな風に動くの? 息子も好きなはず、見せたい! と強く熱望してみたら、息子も良いねという返事だったので、一番近い休暇の、優先順位は上の方になった。
 着いてみると、入り口手前に一つ、動かしてみる体験コーナーがあった。プラスチックでできているというそれらの作品は、近くで見ると、竹細工みたいだった。足の先のような部分は半円形になっていて、ソフトに着地するように作ってあるのか、何だか原始的。動かすとギシギシときしむ音がする。でも少し動かすだけで、足のようになっている10近くもの部分が地面を蹴り、バランスを取っている。当たり前だけど、決してパーツ同士がぶつかり合うことはない。この動きが計算づくであることに、感嘆の声が出ちゃうのである。でも目の前で見てみると「なるほど、こことあそことつながってあのように動いて」と少しわかった。多少わかっても、やっぱり不思議な気持ちになる。こんな大きな物を作るなんてすごいなあと思う。後から夫に、テオヤンセンの書いた設計図の一部を見せてもらったが、とても細かかった。そしてその中に「この部分はこのように動く」という下書きも書いてあるのだが、それが物理の苦手な私には「何故それがわかるのか」と理解できない。その辺は「よくわからないけどとにかくすごい」としか思えないのが残念である。とりあえず、どの作品も大きく、そして美しいと思った。
 最初の展示、体験コーナーの作品は、上の部分も人の倍くらいあるし、幅なんか車を横から見たくらいあるのではなかっただろうか。その中心部分を押すと動かせるようになっていた。夫も息子も列に並んで動かしてみた。割と並んでいたので、私はカメラ係で良いと思った。歩いている親子たちから色々な声が聞こえてきた。