口の中の腐れ茸

2011-01-09

石川啄木「一握の砂・悲しき玩具」苦患の共同体

|

1/11ちょっと加筆しました。


一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)


はたらけどはたらけど…の一節が有名な「一握の砂」ではあるが、自負に耐えかねるあまり死への誘惑を見いだすに到る歌人の哀切に私はいっそう心を打たれた。

一度でも我に頭を下げさせし

人みな死ねと

いのりしこと

死にたくはないかと言へば

これ見よと

咽喉(のんど)の痍(きず)を見せし女かな

もちろんたった二片から確言するわけにはいかないけれども、これらの短歌においては、たわいもない自己愛が切り取られると同時に、底の方に青年特有の身勝手な感傷趣味が流れているのを推察するのはさほど難しくはない。実際、詩集は「我を愛する歌」に始まっており、また「歌は私の悲しい玩具である」と自身が表明するように、それは啄木にとって唯一といっていい慰み草であった。しかし、自意識の内攻による懊悩を塗炭の苦しみとともに歌で吐き出したとしても、数瞬後には安っぽいエゴに成り下がってしまう。というのも、煩悶を形作っているのが他ならぬ自己愛なので、言語化したところで陳腐なプライドを俎板の上でのた打ち回らせる結果に終わるだけだからだ。なので自身の凡俗に辟易しつつ、かれは半ば捨て鉢となって自尊心を自嘲気味に茶化せずにはいられない。これはそのまま、世代を超えた青春の共通土台とも言えるべきものなのだが、ところが啄木の場合、対立があまり先鋭化されることはないのである。

たとえば、「一握の砂」には

東海の小島の磯の白砂に

われ泣きぬれて

蟹とたはむる

「さばかりの事に死ぬるや」

「さばかりの事に生くるや」

止せ止せ問答

というような歌も詠まれている。これなどは、自我の確執と空虚な詠嘆の両天秤が、独りよがりの手助けを借りることで後者に傾斜しすぎたと見ることができるだろう。このようにかれの歌には、相克が回避されたまま高踏的なパセティックに逃げ込む傾向がしばしば見られるのだ。その意味で、詩集から実存的な誠実さを汲み取ることはまずできかねるだろう*1

とはいえ、情緒豊かな哀れみが戦闘意欲を凌ぐゆえだろうか、郷里の友人の観察や、旅路ですれ違った人びとへの思い入れにこの上なく優しい手触りをその全体から感じる。それは、エゴイズムが嘲笑されて虚無的な退嬰を余儀なくされたとき、風光や純朴な生活へと何気なく視線を向かわせたかれの諦観が、思いもかけず他者のそれと通い合うからではなかろうか。ここで歌われる他者は、歌人の心情を反映しているのか、誰もどことなく虚勢ぶっていて、病弱で、敗残意識を抱えている。拘泥を失くし悲哀を人に投影させるとき、かれは、いやわれわれは間主観的な上部の視点を初めて獲得する。そしてその想像力が、かれらの純情な連帯という新領域をほのかに匂わせてくれるのだ。だから、「死ねといのり」つつ、その裏に「頭を下げさせし人」への郷愁にも似た親しみがこもっているのを私たちは図らずも期待してしまうし、歌い手が「咽喉の痍を見せし女」と互いの身を暖めあうように寄り添う姿をまざまざと目に浮かべることもできる。エゴイズムに敗北した者たちが死の一線を意識したとき、地平の向こう、自己の消失点に弱者同士としての隣人愛を看取するのである。この不器用な感情のさらけ出しが、健気ないじらしさをもって不思議と身につまされるのだろう。おそらくはそこに、百年を経てなお人を涙させる個人主義の孤独と憐憫というリアリズムがある。

*1:別にしいて汲み取る必要はないのだけれど、現代人の共感がどこに向けられているかを吟味しておきたかった。