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2015-03-19 ラジオの新たなかたち・私論 〔第31話〕

このブログ全体は「民放ラジオの行方」にスポットを当てて書い

います。この項は、民放ラジオ90年代〜セロ年代を振り返るため、

“失われた20年”という社会潮流についてスポットを当てます。


■“閉塞感”を生み出した社会システムの大きな変化とは・・・

 “閉塞感”の現象を探ってみると社会の構造的変化であることがわかる。生活者の身近な事柄では、生活困難者救済の制度受け生活保護世帯数が大きく変化している。その現象は90年半ばから増加に転じ、10年間で倍の数字に上昇する。また非正規雇用者数の増加も著しいことは前回触れたとおりである。やはり生活に必要な所得と保障が得られないところに生活の不安定さが生まれ、格差拡大に繋がっていく。ゼロ年以降はさらに増加していく。

 上記のような生活環境から、一億総中流といわれた意識が薄れ、格差社会が登場してくるのは80年代後半から90年代だ。中流意識の崩壊と格差社会の登場はコインの裏表であると同時に、上述した「努力しても仕方がない社会」「努力する気になれない社会」という人々の意識こそ“閉塞感”を生み出す元凶だったことがわかる。萎えてしまうような気持ち、掴みどころのない空気、「生きづらさ」が徐々に広がり、90年代から20年間にわたる社会的空気=閉塞感が蔓延し続ける社会現象となっていく。

 もともとバブル経済が崩壊したことにより社会全体が沈滞ムードを陥り、さまざまな分野で構造変化が進み、人々に不平等感をもたらしていく。その状況を研究者たちは格差の社会問題として明らかにした。橘木俊詔著「日本の経済格差」はジニ係数に基づいて、80年代末以降の日本社会における不平等化の進行を明らかにし、佐藤俊樹著「不平等社会日本」はSSM調査を基に、同時代の職業の階層間移動が狭まってきている現象を指摘した。これは比較的自由に就職する機会があった成長社会に対して、停滞社会では階層を越えて職に就くことが困難になり、下流層ほどその可能性が縮小していった。この場合の階層とは職業階層として捉えている。

山田昌弘著「希望格差社会」のなかでは90年代以降の格差拡大が質的な変化していることを指摘した。この質的な変化こそ90年代以降日本の社会構造を変えていくさまざまな社会現象に結びついていく。たとえば、企業における雇用システムの転換など。時間を掛け職能を磨き、年功所列で賃金が上がるシステムは後退し、専門的能力の職種とマニュアル化できる職種と大きく2極分化、前者は正社員、後者は非正規雇用者に委ねる職業的区分が広がっていった。こうして生まれた社会格差現象を幾つかの調査データでみてみよう。

 よく指摘されるデータが「ジニ係数」である。「ジニ係数」は不平等さを客観的に分析・比較する際に用いられる代表的な指標の1つであるが、橘木俊詔著「日本の経済格差」はこのデータを主に分析したもの。「ジニ係数」には、完全な平等を「0」、完全な不平等を「1」となる指標である。その係数は雇用者や事業所が得る所得を2つの種類に分けて算出。1つは「当初所得」で、税や保障料など支払う前の所得、もう一つは「再分配所得」で、税、社会保険負担を控除し、公的年金医療介護、保育などの現物給付を加えたものをいう。

当初所得」のジニ係数は92年調査で0.439であったのが04年には0.526に上昇している。一方の「再分配所得」では92年には0.365に対して04年は0.387である。95年はやや減少するものの上昇気味になっている。(橋本健二著「格差の戦後史」P51参照。)なお、所得再分配ジニ係数については日本社会の不平等度が上昇している意見と上昇しているわけではない意見とが研究者の間にはある。

 NHK放送文化研究所が70年代以降5年毎に全国規模で実施している「日本人の意識」調査は、同一の質問事項を長期にわたり調べ、信頼度の高い資料となっている。この調査から見えてくるのは、未婚率の増加や子供を持つことの減少など、日本人の当たり前とされてきた感覚が大きく変化していることだ。これは少子高齢化問題に結びついていく大きな背景となっていることがよくわかる。(NHK出版「現代日本人の意識構造」〔第八版〕より)

 結婚感に関する意識についての項目では、「結婚するのは当たり前」と「必ずしも結婚しなくてもよい」の割合が、93年は前者45%と後者51%、10年後の03年では36%と59%、13年は33%と63%となり、「必ずしも結婚しなくてもよい」が20年間で12%上昇している。未婚率は95年男子9%女子5.1%に対し、10年後の05年では16%と7.3%、そして10年には20.1%と10.6%といった具合に男女とも倍増している。

 子どもについての意識では、結婚したら「子どもを持つのが当然」と「必ずしも持たなくてもよい」が、93年では40%対54%、03年は44%対50%、13年には39%対55%と「持たなくてもよい」が20年間で下がったり上がったりしているが、特に最近は上昇気味になっている。結婚観や家庭と子供に関しては、時代の影響を多分に受けるようで、この20年間で05年辺りから高齢化率世界最高となったり、出生率が死亡率を下回り、日本の人口では初めての自然減になり、06年には年少人口率(14歳以下の人口の割合)が世界最低を記録したりと、これから家庭生活を持つ若い人たちに心理的影響を与える事象が起きている。

 格差を現す数値はさまざまあるが、上記「ジニ係数」や「被雇用者数の増加」あるいはNHKの「日本人の意識」調査に見られるような傾向が失われた20年間の“閉塞感”を生み出す社会的不安感が現れた数値と読める。世の中は栄枯盛衰といわれるが、こうして眺めてくると戦後の日本社会は、目標に向かって努力した高度成長時代、そして安定の時代へ移行するはずが、バブル崩壊を期に政治政策が戸惑い経済が停滞し、失われた10年が失われた20年となり、安定した時代=成熟社会を築くはずのつもりがその前に不安定社会、不平等社会が生まれていてしまった、そんな感じのする20年間であったのではないだろうか。(つづく)






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2015-03-04 ラジオの新たなかたち・私論 〔第30話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

暫く間が空きましたが再開します。

このブログは「民放ラジオの行方」にスポットを当てて書いています。

この項は、民放ラジオ1990年代〜2000年代を振り返るため、

“失われた20年”の社会潮流についてスポットを当てています。


ミレニアムを挟んだ時代の社会潮流を振り返る 《 Part4 》その1

 我々が歩んできた“失われた20年”を社会・文化の面から振り返ると、大きな社会現象や自然災害に見舞われた時代で、短文にまとめるにはあまりある。ここではその一端を紹介しながら、時代の転換期を経験する事象に触れておく程度にしたい。この20年間は明暗を分ける事象が噴出するとともに、流れの早い時代でもあった。大河に例えると、川幅が狭く、ゴツゴツした岩礁にぶつかりながら流れる怒涛のような時代だったといえるかもしれない。


■ 多分野を転換させた“失われた20年”

90年代前後に起こった、昭和天皇崩御ベルリンの壁崩壊と冷戦終了、バブル崩壊など、時代を画する出来事が起こり、どんな時代が巡りくるのか不安を抱く最中、阪神淡路大震災オーム信者によるサリン事件が発生し日本中を震撼とさせる。一方、皇太子雅子さまのご成婚や大江健三郎ノーベル文学賞受賞は、国民に暖かな思いと誇りを抱かせたことではあるが、政治経済バブル不良債権に悩まされ、明日への希望という思いが吹き飛んでしまったのが90年代=“失われた10年”であった。

2000年代になると、2回にわたる新潟県中越地震中越沖地震に見舞われる一方、JR福知山脱線事故秋葉原無差別殺傷事件などこちらも戦慄が走る事件が起こっている。明るい出来事は白川英樹教授、小柴昌俊教授などのノーベル賞受賞や「サッカー日韓W杯共同開催」「北朝鮮拉致被害者5人帰国」は鮮明な記憶として残っている。

この20年間は、70年代80年代と比べてさまざまな点で相反する傾向が生まれてきと思える。あたかも自然の見える景観からトンネルに入り視界が途切れる。また開けるといった感覚である。我々の身近な生活から数字をあげてみると、たとえば国民の全世帯平均所得金額推移では94年を境に15年間減少傾向が続く。自殺率では90年代が平均2.2万人に対してゼロ年代は平均3.2万人と一気に1万人増え、現在もその数字は続いている。

非正規雇用者の対比をみると、90年代平均は23%であったのがセロ年代では31.5%となり8.5%も増加する。全雇用者の3割以上が非正規雇用者になっている計算だ。これはその後も増加を続け、最近の14年では37.9%にも高まっている。日本の全労働者の4割近くが非正規雇用者と聴くと、安定した社会などとは程遠い現状が現れている。安倍内閣は現在でもこの傾向をさらに高めようとしている。(注:上記所数字は厚生労働省警視庁総務省などの資料による。)

70年代80年代の家庭では、一家の主が正規雇用で働き、母や姉(兄)が家計のサポートとして非正規雇用=アルバイトやパートで働いていた。生計を成り立たせる柱がしっかりいた。それに比べて、90年そしてゼロ年代は働かないと維持できない生活環境である。ここにも大きな違いが現れており、石川啄木の詩「一握の砂」を思い起こさせるほど、貧困層が増加の一途を辿っている。こうした社会状況をみるにつけ、“閉塞感”という時代の雰囲気が漂ってこない方が不思議なぐらいである。

社会的雰囲気としては、庶民の生活感も少しずつ行き詰り、何かが蔓延していった背景には、少子高齢化の拡大や格差社会がもたらす、努力しても報われない状況が次第に社会を覆いはじめていた。時代全体を包み込む空気として“社会の閉塞感”というキーワードは上述した生活感から生み出されるばかりではなく、むしろこちらの方が本筋といえる社会の変容がある。その大きな特色が次に触れる中流意識の崩壊と格差社会の拡大だ。


■“閉塞感”の背景は中流意識の崩壊と格差社会の広がりが大きい!

高度経済成長時期と安定性成長時期の20年を経験した日本の社会は、一億総中流=国民の大方が中流意識を抱いていたといわれる。これは内閣府の「国民生活に関する世論調査」に現れた傾向で、50年代後半と60年代後半の同調査による。前者が7割、後者が9割という数字に基づいている。もちろんこのほかにも国民の中流意識を表すデータはさまざまあるが、このころ、安定成長が継続していた60年後半から70年代は、平和で安定した社会や家庭生活について「努力すれば何とかなる」という“将来に対する期待”が多くの人々に息づいていたといえよう。

 それに比べて、バブル崩壊以降(90年代)は「努力しても仕方がない社会」「努力をする気になれない社会」という雰囲気が漂っていた。この言葉はバブル以降混乱する社会を象徴しているが、1年毎に変わる政治、政策の棚上げ、不良債権を抱えたまま身動き取れない経済状況、そのなかで阪神淡路大震災オーム信者によるサリン事件など、国民を取り巻く社会情勢は人々に閉塞感を抱かせる出来事ばかりの90年代だったといえる。       (つづく)







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2014-12-03 ラジオの新たなかたち・私論 〔第29話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

     このブログは「民放ラジオの行方」にスポットを当てて書いています。

     現在は民放ラジオ60年の姿を社会の歩みと共に振り返っていますが、

     この項は“失われた20年”の社会潮流についてスポットを当てます。



ミレニアムを挟んで我々が歩んだ時代の社会潮流を振り返る 《 Part3 》


経済分野:経済成長の停滞とグローバル化の波 〉


 失われた20年の経済について触れるのは容易ではないが、戦後の経済を2つに分けるとしたならば、1945年からスタートした戦後復興期そして高度成長期へ、これはアメリカに追いつき追い越せの姿勢で発展してきた時期だったが、1980年、特にバブル崩壊の1990年以降は、世界第2位の経済大国から転げ落ちるように経済成長は行き詰まり、苦難の道を歩むことになる。言い換えると、1990年以降はこれまでの高度成長と安定成長を遂げた時代の社会システムに大きな変動が生まれ、新たな社会形態へ移行しなければ適合しない時代に突入していたといえる。

 その変動はバブル崩壊という大きなアクシデントから始まる。80年代中頃から変化の目は出始めていたが、バブル崩壊によって庶民には明確になる。これまで高騰していた株価不動産価格が暴落し、各企業が抱えていた金融資産不動産資産不良債権化してしまったのだ。融資していた金融機関が次々と破綻、庶民にとって潰れないはずの銀行が潰れるという大きなショックであった。深刻化する不良債権問題、破たんする大手金融機関、不況の度合いを深めていく実体経済、90年代の日本経済はにっちもさっちもいかぬ状況を呈した時代である。しかしその状況が2000年に入っても続くことになり、失われた10年が20年と呼ばれるようになる。

 不良債権を抱えた銀行は、1995年兵庫銀行の破綻をきっかけに、87年から88年にかけて大手銀行、大手証券会社が次々に倒産する。北海道拓殖銀行日本長期信用銀行、日本試験信用銀行、山一證券三洋証券などである。こうした大手銀行の倒産はメインバンクとしていた企業にも多大な影響を与え、倒産する企業も続出した。住専の破綻も一般市民を困惑させた。住専住宅金融専門会社:個人向けの住宅ローンを主に取り扱う貸金業)は7社あったうち、その6社が破綻するとあって、政府も対策として資金融資していた農林系金融機関や銀行を保護するため公的資金が注入していった。

 1994年の流行語大賞で特選造語賞を受賞した「就職氷河期」は、企業倒産や企業縮小のあおりを受け、求人倍率が上昇し就職できない人々が多数生まれた。1994年〜2004年頃の期間である。企業の雇用抑制である。これは終身雇用を重視した企業社会が新規雇用を抑制したことによるが、新規雇用の対象者が主に第二次ベビーブーム世代だっただけに、競争が激化し就職は極めて困難であった。職を得られなかった若者はフリーターニートとなり、彼らには社会保障の負担が十分できず、セーフティネットから外れる状況が生まれるようになり社会問題化する。格差社会の顕在化した現象の1つである。

 失われた20年の経済成長率を表すGDP(国内総生産)の平均は0.91%で、ほとんど動きがない。90年代の10年間は98年99年がマイナス成長、2000年代の10年は08年09年がやはりマイナスとなっている。日本と中国と比べると、90年には日本が中国の12倍だったGDPも、2010年には追い抜かれてしまう。この成長スピードが続けば、10年後の中国経済規模は日本の3倍程度になる推計が成り立つという。GDPの推移はそれから4年ほど経った現在でもそれほど大きな変化はない。失われた20年の経済動向がいかに深刻な問題を抱えているかが分かる。

 どの分野でも物事に限界があることを歴史が教えてくれているが、失われた20年の時代背景にはグローバリゼーションがある。すでに80年代から現れていたことではあるが、最も顕著になってきたのが90年代であろう。日本企業海外進出の傾向を3つの段階に分けられるという。「産業空洞化の克服」(小林英夫著)によると、第一段階は70年代から85年のプラザ合意までの期間。急激な円高により競争力を失いかけた産業が輸出企業を守るため海外に展開し出した時期である。第二段階はプラザ合意から90年代前半までの期間。円高傾向に拍車がかかり、家電や自動車などは系列外会社や下請け会社までこぞって海外に展開する。そして第三段階は90年後半からは、アジア諸国の技術力向上のなかで、主力生産部門も海外へ移転し展開していく。いまや日本の輸出総額に匹敵する額が海外拠点で生産されるようになっているという。


 〔注〕「プラザ合意」=1985年の先進5か国蔵相会議で合意した円高ドル安を

   誘導する内容。アメリカには対日貿易赤字の顕著化を是正する目的があった。

   この年1ドル235円が1年後には150円と なった。

   円高不況は日銀の政策もあり、金融界、企業界は不動産株式投資を促すこと

   になり、バブル景気へと繋がったといわれる。


 日本企業海外進出は、結果的に日本各地の地域社会を衰退や崩壊に結びつく現象へ結びついていく。多くの中小企業零細企業は存続基盤を失うと同時に、地場産業の崩壊に繋がり、雇用先が消失する。農家では後継ぎまで留めおけなくなり、限界集落に近い状況が生まれる。一方、グローバル化する日本人は海外旅行や長期滞在する人々が急増し、日本人の海外旅行者は75年に年間100万人を超え、80年では400万人、バブル景気に乗って90年には1000万人となる。95年には1500万人を超え、2000年には1700万人を超える(国土交通省「平成20年度 観光の状況」より)。一方、訪日観光客の状況は95年335万人、5年後の2000年は476万人、05年673万人、そして10年には861万人に増加している。5年毎に150万人から200万人ほど増えている。

 失われた20年は日本の経済地殻変動をもたらしたその一片を上記の内容から知ることができる。まだまだ触れねばならない事柄が多く、紙数に制限があるため省略する。グローバリゼーションという時代の大きな流れと共に、新自由主義経済市場原理主義)の全面化がこの20年間我々を包み込んできたが、この経済環境はさまざまな問題をも提起している。国民の平均所得の減少や一億総中流の崩壊、格差社会の登場と問題化、日本的経営の縮小と成果主義経営の拡大など、こうした経済構造の変動は国家モデルの変換と強く繋がっている。我々はもう一度失われた20年の歩みと問題点を理解することが重要と思えてくる。(つづく)







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2014-10-15 ラジオの新たなかたち・私論 〔第28話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

       >>このブログは「民放ラジオの行方」にスポットを当てています。

       現在は、民放ラジオ60年の姿と社会の歩みを振り返っています。

       この項は“失われた20年”社会の潮流について書いています。<<



ミレニアムを挟んで我々が歩んだ時代の社会潮流を振り返る 《 Part2 》

“失われた10年”というと、主に経済の停滞を指しているが、“失われた20年”というと、経済ばかりでなく、政治分野も社会の分野もすべてを含むような印象を持つ。実際、政治では例外を除き、国を代表する首相が1年足らずで交代するありさまで、政策は先延ばしされることが多かった。社会面は少子高齢化を始め、格差社会の広がりや地方産業、農業の衰退、学校、家庭の崩壊など、かつての安定社会が音を立てて崩れる時代でもあった。


〈 政治分野:自民党政治の行き詰った時代 〉

 この20年間、政治分野での最も大きな出来事は、実質的に統治していた自民党政権が続かなくなったこと、言いかえると「55年体制」が崩壊したことであろう。1993年自さ社連立政権の誕生で、38年にもおよぶ支配体制が崩れ、これ以降政治のあり方に大きな変化が生まれる。変化をもたらした原因は、80年代深く静かに進行していた社会構造の変化であり、それが90年代に表出したものである。たとえばグローバル化による多くの企業の海外進出と産業の空洞化であり、利益優先の企業活動、個人化を尊重する国民意識の深化、コミュニティ社会の溶解などを背景に、企業献金による腐敗政治の横行は自民党から有権者の信頼を大きく失っていった。

 自民党政治凋落の直接的な原因は、自民党型分配システム(集票システム)が行き詰まったことによる。地方の政治家は企業・商工会・町内会といった中間団体に支えられていた。それは地域・業界単位で行われる保護や公共事業によって繋がる仕組み、すなわち利益配分によって結びつきを維持してきた。しかし、地域還元として公共事業新幹線を整備すればするほど、地域共同体の弱まりと共に、ストロー効果で人口流出が進む。ストロー効果とは高速道路新幹線の建設により、人々が大都市へ吸い上げられること。地元への利便性が逆効果を生む結果となっていった。こうして政治家個人の選挙区への影響力を低下させていったことが直接の低落原因である。(小熊英二編著「平成史」参照)。

 55年体制の終焉自民党政治の衰退であるが、政治全体の混乱ぶりは次の数字が物語っている。昭和後期(戦後)の東久邇宮稔彦総理から竹下登総理までの43年半の総理数と竹下総理から安倍晋三総理まで25年間の数が同じという。(竹下内閣は、昭和62年11月〜平成元年6月の期間、昭和と平成を繋ぐと内閣だった。)小泉純一郎総理の5年半という時機を除き、およそ20年で17人の総理が変わっていることになる。平均すると1年ちょっとだ。失われた20年の自民党政治がいかに不毛だったかが理解できる。

 一方、政治の統治面で特徴的なキーワードをあげておきたい。1つは政策決定に影響を及ぼす政治的思想=新自由主義と、もう1つはグローバリゼーションである。新自由主義の考え方は、1980年代の中曽根内閣と20年後の小泉内閣が積極的に取り組み、経済・社会に大きな影響力を与えた。新自由主義を一言でいうと、「民間でできることは民間で」が小泉総理のキャッチフレーズであったが、政府の機関を民間に移し、「小さな政府」にすることが望ましいという考え方だ。

 具体的にいえば、新自由主義では市場が自由に活動できるよう、これまでの規制を緩和し、公的機関民営化し、公共事業の削減など、国や政府が関わってきた事業を民間に移し、競争原理のもとに運用することこそ市場が活性化し、経済成長に結びつくというものだ。新自由主義は70年代から80年代にかけてアメリカはレーガン大統領、イギリスサッチャー首相によって取り入れられた政治思想で、日本ではほぼ同じ時期に誕生した中曽根政権の政策に取り入れられていく。そして実施されたのが、「国鉄」「日本電信電話」「専売公社」などの民営化だった。同じように20年後の小泉内閣が行った「郵政民営化」はじめさまざまな民営化である。

 「郵政民営化」を衆議院参議院を同時解散してまでも実施した政策は成功したのだろうか。論議は現在も続いているが、小泉内閣は「郵政民営化」をはじめ、新自由主義の政策を次々に打ち出した。道路関係四公団の民営化、公共サービスの民営化政府職員の非公務員化(国家公務員数を半減させる)など、また「中央から地方へ」として国の義務的経費を地方へ移譲する“三位一体の改革”などもその1つ。いずれも「官から民へ」「中央から地方へ」を柱とした構造改革の実施であった。

 失われた20年の政治的諸要素のなかで、今日まで大きな影響を及ぼしている政策が新自由主義という経済政治思想によるさまざまな政策であるところに触れたかった。上述したように、失われた20年のエレメントのもう一つに「グローバリゼーション」がある。次回からこの分野について触れてみたい。(つづく)






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2014-09-25 ラジオの新たなかたち・私論 〔第27話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**“失われた20年”といわれる時代と民放ラジオの生き方**


ミレニアムを挟んで我々が歩んだ時代の社会潮流を振り返る 《 Part1 》

 未来を考えるには歴史を振り返ることが最も大事であるが、民放ラジオの明日を考えるために60年の歴史を振り返っている。今回から1990年頃より直近の2010年頃まで、よく使われる“失われた20年”を取り上げていく。政治、経済、社会が停滞し、社会全体に閉塞感が漂う時期である。民放ラジオの営業収益も、90年代は横ばい状態を維持したものの2000年代に入ると年毎に下降線を辿っていく。その間、現代史にどんな動きがあったかをしっかり見詰めながら、明日のラジオを考える糧としていきたいと思う。


〈 1990年代以降の社会とそれ以前の社会とはどこに違いがあるのか 〉

 1989年が平成元年であるから、この年生まれの人は2014年で24歳、2015年では25歳、四半世紀過ぎることになる。平成育ちの若者がすでに社会で活躍する時代となった。若者の両親は50歳前後で今や社会の中核だ。両親の親たちはすでに高齢化社会に突入し、大きな戸惑いのなかにいる。一方この時代を生きてきた同世代には、身の回りの人々や接触した社会状況、そして生活経験が思い出とともにしっかりと存在している。それだけにこの20数年間の出来事は世相とともに血となり肉となっている。

 平成生まれの人でも、幼少の頃ではあっても、映画やテレビ、ラジオといった視聴覚で確認できる記録が数多く存在するので、関心を持つならば生きてきた時代の感覚を肌で知ることができるだろう。しかし、歴史としての存在や位置づけ、意義といったものはこれからの優れた研究を待たねばならない。ここでは90年(平成2年)からの20年間を現在の研究者知識人の考え方に触れながら、歴史的潮流の一端を眺めてみよう。これまで経験したことのない歴史的転換期に我々が立ち合った経験を認識し、その時代に生み出された課題というものを見詰める姿勢を持ちたいものである。

 慶応義塾大学の小熊英教授による編著書に「平成史」がある。このなかで戦後の時期区分を55年前後、73年前後、91年前後を重要な時代とし、「平成」はその3つの区切り以降に相当するとしている。そして、90年前後の前は「工業化社会」、後を「ポスト工業化社会」と区分している。前者の“物づくり日本”といわれた工業化社会は、65年(昭和40年)からで、それは製造業の就業者が農林水産業のそれを追い抜いた時、分かり易くいえば、「東京オリンピック」から「バブル崩壊」までおよそ30年の時代ということになる。政治の流れや人口動態からも符号するところが多いという。

 これに対して、90年代以降のポスト工業化社会は、サービス業就業者が製造業のそれに追い抜く93年(平成5年)からで、「バブルの崩壊」というエポックメイキングな出来事を境に、経済成長は横這いから減少に、そして10年後には幾分持ち直すといっても不安定な状況が続き、長期不況、高い失業率、蔓延する閉塞感が社会を漂い、失われた10年が20年になり、それを越えようとしている現在までの期間だ。ミレニアムを挟んだこの時代は、政治、経済、社会とも工業化社会と大きく異なった時代を形成していく。

 東京大学吉見俊哉教授は「ポスト戦後社会」(岩波新書/2009年)では、90年代以降をポスト戦後社会とし、それ以前と比較して大きな変化をこう記している。これまでの高度経済成長の結果、社会全体のパイが大きくなり、幅広い中流意識が形成されていた。しかし90年代以降は予想もつかなかったほど収入や資産、将来性の格差が目に見える社会に変化していった。「このような社会構造の根本にかかわる変化をもたらした最大のモメントは、いうまでもなくグローバリゼーションである・・・戦後日本社会を突き動かしてきた最大のモメントは『高度経済成長』」であったとするならば、『ポスト戦後社会』とは、グローバリゼーション日本的な発現形態であると言っても過言ではない」といっている。

 90年代以降、世界的に急速に進行したグローバリゼーションが、日本の国勢を左右するほど国民の生活に深く影響する時代を創り上げた。社会全体を構成しているシステムや国民の意識に構造変化をもたらし、工業化社会に創造された「安定社会」を根底から崩されて、「不安定社会」を生み出している。その不安定要因をさまざまな対策で取り去ろうとしているが、結果的に日本の行く末を左右する国家的問題や課題を抱えて今日に至っている。

 日経新聞は、2010年8月よりシリーズとして掲載した記事「日本この20年」を書籍化し、長期停滞から何を学ぶか、というテーマで多くの提言を纏めている。そのエピロークはこう結ばれている。日本は問題を先送りしてきたが、戦後蓄えてきた「遺産」でどうにか豊かさを維持してきた。しかし「失われた30年」にはおそらく耐えられないだろう。そうならないよう、「この20年」が与えてくれた教訓をくみとって、意思の力で自分を変えていかなければならない。それが政治家だけではなく、今の世代の大人たちすべてに課せられた使命のように思える、と記している。

 この20年間で生まれた社会全般の課題は、我々日本のこれからの姿に大きくかかわっている。それほど重要課題が多く残されている。次回からはさまざまな分野を俯瞰しながら、時代の軌跡と結果的に生まれた重要な課題を点描していくことにする。(つづく)






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2014-09-08 ラジオの新たなかたち・私論 〔第26話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


民放AMはFM競合時代にどのように取り組んだか!《 Part4 》


〈 民放FMの開局ラッシュとともにラジオ事業全体が成長した時期 〉

 事業面からみた80年代の民放ラジオは、営業展開においてもAM/FM競合時代であった。 80年代初頭の民放FMは東阪名九の4大都市のみであったが、82年エフエム愛媛の開局を皮切りに、85年までに21局、89年には32局が開局、総務省のFMチャンネルプランである1県一波体制が急速に進んでいった。89年のAM/FMの局数を比較すると、AM47局に対してFM32局、6対4の比率になっている。これは当然AM営業の展開に影響を与えたが、結果的にはラジオ全体の収益を押し上げる結果となっている。具体的に営業収益について触れてみよう。

 民放連の資料によると、民放ラジオ全体の営業収入は、81年度が1489億円、85年度が1862億円、90年度には2827億円と倍増している。各年にバラツキはあるものの年平均7%台の成長率を示している。民放ラジオ史上最高の収益を挙げたのが翌年91年度の2866億円(地上波のみ)で、前年より40億円ほど増えている。この収益の流れを考えると、80年代の民放ラジオは事業としていかに順調な成長を遂げていたかがよくわかる。この収益からAMとFMを比べると、81年度のAMとFMは9対1の割合が、90年度には7対3の割合になっている。FM局の開局ラッシュと収益の伸長が民放ラジオ全体にしっかりと足場を構築したことがわかる。

 民放ラジオ全体の営業収益の最高が91年度の2866億円と記したが、この数字がどの程度のものかを理解するため民放テレビと比較してみよう。同年度の民放テレビ全体は1兆6626億円で、テレビとラジオは8.5対1.5となる。事業規模からみる民放ラジオは、放送事業のなかで最も収益が高かった時点でもテレビの1.5割(15%)程度の事業規模である。これは事業収益という視点からだが、社会における影響力の大きさという点では一般の企業と比較し得ないが、両面からラジオの位置づけを理解する必要がある。

 上記数字は、80年代の民放ラジオの事業面からみているが、因みに、現在の状況を記しておくと、2013年度ではテレビが約2兆800万円、ラジオが約1450億円で、ラジオ最高収益時と比べると50%ダウンしている。地上波放送全体の7%のシェアでしかない。この数字は現在もあまり変わっていない。民放ラジオの危機が叫ばれているのはこうしたラジオ事業の著しい低下ゆえである。話を80年代に戻そう。

 放送産業からみた民放ラジオの位置づけをみてきたが、もう少し広げて、日本のGDP及び日本の総広告額と比較してみると、民放ラジオはどの辺に位置づけられるだろうか。80年代の最後の90年を取り上げよう。90年の民放ラジオ全体の営業収益は上記に記した2827億円(民放連資料)、この年の日本の広告費は5兆5648億円(電通資料)で、ラジオは5%のシェアである。なおこの年の電通発表による日本の広告費ラジオ広告費は2335億円で、ラジオのシェアは4.2%になる。因みにこの年のGDP(実質国民総生産額)は524兆円で、日本の広告費は5兆5648億円であるから1.3%である。

 同様の比較を近年の2013年でみると、民放ラジオ民放連資料によると1450億円、電通資料によると1243億円となっている。日本の広告費5兆9762億円(電通資料)のなかで、前者は2.4%程度、後者は2.1%程度となっている。またこの年のGDPは525兆円であり、日本の広告費は1.1%程度になる。国民1人ひとりが生産する生産額(GDP)からみるとラジオ事業の小規模さがわかるが、やはり事業規模と情報伝達による国民への影響力の大きさを併せて民放ラジオという事業をみていかないと本当の姿がみえてこない。この点を留意して上記数値をご覧いただきたい。なお、電通の「日本の広告費」によるラジオ広告費と「民放連資料」によるラジオ収益額では数字が異なるのはラジオ局の事業外収益に対する計上の仕方にあると思われる。

 1990年時点で民放ラジオ収益は日本の広告費のなかで5%のシェアであったことは上述した通りで、この時点では5%メディア、後にシェアが下がり3%メディアといわれるようになる。これは主に広告業界で言われた表現ではある。宣伝広告分野においてよく4大メディアといわれるのはテレビ、ラジオ、新聞、雑誌のことだが、このころよりラジオと雑誌はメイン・メディアというより、サポート的メディアとして位置づけられていった。しかしラジオも雑誌もメイン・メディアにはないメディア特性を持っており、宣伝広告商品にとってかけがいのないメディアであったことは、ラジオと雑誌の宣伝によって価値が認められ、広告主に還元された多くの商品を忘れることはできない。

 以上長々と綴ってきたが、80年代の民放ラジオは70年代を含めてラジオ黄金時代を形づくってきた様子を理解していただけると思う。(つづく)





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2014-08-22 ラジオの新たなかたち・私論 〔第25話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


民放AMはFM競合時どのように取り組んだか!《 Part3 》

 80年代の東京キー局「TQL」(TBS・QR・LF)の取り組みは、前項に記したとおり、これまでにない大胆な取り組みを展開し、それが全国のローカル局にさまざまな形で影響を及ぼしていく。ローカルに行けば行くほどFM局と競合する度合いが大きくなるため、ラジオ局の意識は相当高いものであった。特に80年代後半は、東阪名九という大都市の4FM局による聴取率と営業収益の伸長はAM局に脅威を与えずにはおかず、ローカル局は開局間もないFM局とはいえ、いずれ対峙するシェア争いを想定せざるをえなかった。


〈 育んだAMの強みを積極的に打ち出したローカル局

 民放AMのキー局であるTQFの取り組みは、当然ローカル局に大きな影響力をもたらしたが、ローカル局ローカル局としてこれまでの育んできたAM放送の強みを再検討すると同時に、その強みを新たな形で番組編成やイベント展開に発揮していく。その主なポイントをあげるなら、〈a〉時間をかけて育んできた地域からの信頼感の再構築、〈b〉“AMらしさ”を強調する地域報道・地域情報・地域スポーツへの重点など、地域密着情報を積極的に取り組み、(c)“頼れるパーソナリティ”の更なる育成に力点をおいた対策、など新しい地域密着ラジオのあり方にチャレンジしていった。

 ローカル局において「リスナーからの信頼感」はNHKラジオへの信頼感と優るとも劣らない高さを持っていた。それは地域情報の確かな伝達や地域リスナーと深いつながりをつくり出してきたパーソナリティの存在、そして番組やイベントでのリスナー交流であろう。なかでも長寿ワイド番組をより大切に扱う姿勢により強く現れていよう。たとえば、中部日本放送「おはようCBC」(月〜金ベルト7:15〜9:00 )は76年4月開始の番組、当時10年目を迎えており、中島公司アナウンサーの個性的な話し方で通勤、ドライバー、主婦の朝の生活情報を提供し人気を博した。この番組は「聞いたら他人に話したくなる話題を提供」というテーマを設定、更なる強化策を打ち出している。

札幌テレビ放送「河村通夫の桃栗三年」(月〜金10:00〜11:55)は、85年当時で番組開始20余年を経ている。この番組の強化により「米ぬかブーム」や「自然塩ブーム」などを起こし全国に広めている。「日常生活と密着したコトやモノから関心事を盛り上げる番組」として、主婦から大きな反響を呼んだ。熊本放送「こちらは九州ラジオ村」(月〜金15:00〜17:30)はパーソナリティ小松一三を村長にして綴る村感覚の決め細かい情報番組。村民取材者の協力を得て、番組情報誌「村民しんぶん」を発行し、リスナーとのコミュニケーションに役立てている。これらはローカル局取り組みの一部であるが、生活感覚を大切にし、パーソナリティの親しみあるコミュニケーションによって信頼感を深め、絆を強めていった。

 ローカル局の“信頼感”はパーソナリティの力量によるところが多いが、局の姿勢として取り組んだ地域報道の視点も重要で、“信頼感”の深さを形づくる大きな要素といえる。山梨放送は「ワイン有毒事件」の発生から営業禁止処分解除に至るまで多角的に取材し放送、リスナーからの意見を多数紹介するなどして、ラジオらしい取り組みが高く評価された(85年)。南海報道は当時の白石愛媛県知事による地元新聞の取材拒否の問題を取り上げた。番組「ラジオドキュメンタリー取材拒否の論理」を放送、評判を呼ぶ(85年)。栃木放送は、地域住民と建設業者の利害の対立で、流血騒ぎに発展した産業廃棄物場建設問題について20日間にわたり放送した(85年)。これはどこの地域でも起こりうる問題として注目された。

 地域情報として関心の高い分野は「スポーツ番組」である。プロ野球に関してはキー局より提供される中継が中心となるが、地域スポーツとしては、冬期スキージャンプ競技、マラソン駅伝陸上競技高校野球、夏期冬期国体高校サッカーなど県下で行わる大会、競技会を積極的に取り上げている。なかには栃木放送のように、こども相撲大会といった番組もある。「わんぱく相撲宇都宮場所」がそれで、30分の番組を放送し、親からの録音テープの催促が多くあったという。このように扱うスポーツは大小さまざまだが、中継を通じて地域密着姿勢を鮮明に打ち出し、FMとの差別化を図っていく様子が見て取れる。

 もう一つ取り上げておきたいのが“特別企画”と“イベント展開”だ。特別企画は性格上単発番組が多い。87年度はその当たり年で、各局とも創立〇〇周年を迎えるところが多く、社をあげてと取り組んでいる。周年企画はお祭り的要素が多く入るため、長時間放送とイベントとのドッキングが多い。東北放送35年記念企画は「I LOVE みやぎリクエストラリー」として一週間5時間番組を展開、パーソナリティラジオカーで県内各地を廻りリスナーのリクエストを紹介する。

北陸放送は35周年記念「ドーンと電リク480分」を8時間にわたり実施。あらゆる年齢層とジャンルを問わない音楽リクエストによる地元触れ合いとボランティア募金を実施した。長崎放送ラジオ35周年特集として社屋玄関を「好き勝手市」とし、繁華街のサテスタと結んで多元中継を展開、番組テーマは「NBCラジオは今後どう歩むか」という結構シーリアスな内容もあるが、いずれもリスナーとの接触を大切に展開する企画が多かった。このようにAMローカル局は、FM競合時代をキー局と連携しつつ、また独自の発想でリスナーへのアプローチを展開していったのが80年代後半の姿であったといえよう。(つづく)





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2014-08-04 ラジオの新たなかたち・私論 〔第24話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


民放AMはFM競合時代にどのように取り組んだか!《 Part2 》

〈 AIDMAをラジオ実践するニッポン放送

 わくわくすること、楽しいこと、参加したくなることは、人間に行動を起こさせる基本と思うが、このエレメントを知り尽くしているのがニッポン放送(LF)だ。消費行動の法則AIDMAを放送活動の根底においてラジオの持つ力を実践してみせたのがニッポン放送といっていい。1984年にLFは開局30周年を迎え、4月の編成コンセプトに「いますぐ逢いたかった♡ニッポン放送」とした。「楽しさ、やさしさ、面白さ、感動――理屈ではない共感こそニューメディア時代のAMラジオのあり方であり、だから“いますぐ逢いたいニッポン放送”でありうると確信する」と当時の編成部はコメントを出している。

 そのコンセプトを実現させるために、番組改編を早朝から夕方番組に掛けて、大胆に手掛けていくが、なかでも84年度の30周年記念企画「ビックリウィーク“ラジオが変わる!こんな番組欲しかった‼”」は、番組とイベントをドッキングさせ、話題を作り出すLFならではの企画の実践であった。7月中旬に行われた1週間の放送は、さまざまなターゲットに合せ、曜日別の企画編成を採用。総合プロデューサーも各界の有名人を据えて展開した。たとえば「ティーンズ放送局」(大滝詠一P)は24時間の音楽専門放送局として展開。「レディース放送局」(橋田寿賀子P)は女性たちの感性に訴える企画とブランド品展示即売会実施。「ニュース&スポーツ放送局」(竹村健一江本孟紀P)ではニュース報道スポーツ情報の新たな試みを展開、24時間のなかにワイドなトーク・セッションを作り上げる。ほかに野末陳平渡辺美智雄船村徹嵐山光三郎などが各曜日をプロデューサーとなり、画期的な番組を放送し、多方面から大きな反響を呼んだ。

 これからのラジオはどのような形があり得るのか、さまざまな角度から実験的に取り組んでいる姿勢は、おそらく80年代以降のラジオのあり方を考えるヒントを、実践しながら会得しようとするLFならではのチャレンジ精神に満ちたものだった。そして、翌85年もこの路線を踏襲し、大胆に取り組んだ。74年以来10年以上も首都圏トップの聴取率に君臨する自信が、「また おまえか!ニッポン放送」というキャッチフレーズに現れている。85年はこのコンセプトを中心に編成全体のコンセプトにおき、局全体で取り組んでいく。「イベントを多発しラジオの活性化を求め、流行現象を創造して行く」と同局の資料にある。遊び感覚というか、面白くなくてどうする?といった雰囲気を局全体で共有し合い、メディア戦国時代ラジオを広くアピールしようという狙いだったといえよう。

 その後の編成コンセプトには86年度「もお!たーいへんニッポン放送」、87年度「今年度もニッポン放送にまかせてチョンマゲ!」、88年度「トンデモはねてるニッポン放送」といった具合である。いずれも基本は特別番組を編成、それをイベント化し、世間の話題をさらう、それも四季にわたって展開する。それらの内容をここで詳しく紹介するスペースはないが、一部に触れておこう。

 85年度のフジサンケイグループが毎年総力をあげた「国際スポーツフェア」は5月の連休中に開催、LFは会場から「ニッポン放送 また おまえか!ステーション」を設置し、放送展開すると同時に一日中イベント展開を実施した。おもしろドカン、ドカン!アニメヒーロー大集合」「輝け!パーフォーマンス・グランプリ」などなど連日展開し、まさに来場者に見せるラジオ演出してイベントラジオ本領を発揮した。こうした大型企画を夏にも番組企画として展開している。86年度は、春企画は同様に実施、夏に「もお!たーいへん放送局」と題して1か月間スペシャル企画、特集企画を組みながら大移動する生活者に交通情報をふんだんに提供する編成を組んでいる。

87年度は期間限定のイベントラジオをはじめ、レギュラー番組のイベント化に力を注ぐ。前者は「イベントならニッポン放送にまかせてチョンマゲ!」を合言葉に大型企画「コミュニケーションカーニバル 夢工場‛87」を東京大阪で開催している。レギュラー番組では「ヤングパラダイス」のリスナー投書から“若者による若者のためのラーメンづくり”をイベント化。日清食品と連携して商品化。そして5万個を完売。そのほか「オールナイトニッポン」を核とした大型音楽イベントを野球場で実施するなど数えきれない。88年度は1年通じて祝祭日を「ホリデイ・スぺシャル」として編成し、スポーツあり、ドラマあり、歴史あり、ドキュメンタリーありと、あらゆる分野を手掛けながら、イベントと連動できるものはすべて実施するという勢いだ。

 こうみてくると、LFというラジオ局の姿勢はFM競合時代の対策という視点よりも、メディア戦国時代ラジオがいかに生き残るかという、メディア存続を前提としたチャレンジ姿が浮かんでくる。そのチャレンジ姿勢を端的に現わしている言葉を引用しておこう。当時LFの常務取締役であった亀淵昭信は「放送批評」87年4月号にこう発言している。「俺たちはゲリラだ。野球で言えばテレビは4番バッター、3番は新聞だろう。ラジオは5番か6番か。いやそれよりも俺は1番を打ちたい。1番バッターってのは塁に出てグルグルかき回して、3番、4番に打たせてホームへ帰ってくる。そういう意味では流行の発火点、その役割をやりたいなって思う。これはずっと教えられてきたうち(LF)の伝統じゃないかと思う。」80年代に打って出たLFのさまざまな戦略戦術にはこうしたチャレンジ精神が背景にいつもあったようである。(つづく)






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2014-07-18 ラジオの新たなかたち・私論 〔第23話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


民放AMはFM競合時代にどのように取り組んだか!《 Part1 》


 80年代の民放ラジオは70年代と比べ、メディアとしての存在を鮮明にしていったといっていい。特にAM局は積極的な取り組みを展開する。その要因は、?70年代よりも聴取率が低迷ないし下降気味に推移し出し、従来のあり方に危機意識を抱いたこと、?民放FMが84年には21局、89年には31局になり、本格的なAM/FM競合時代に入ったこと、?営業収益の伸び率がFMに比べAMの低さがはっきりしてきたこと、などが上げられる。こうしたAMを取り巻く環境の変化に対応すべく、ステーションのあり方や編成方針の立て直しといった基本的姿勢の変更に取り組んでいった。

「激化するメディア競争のなか、ラジオには固定観念の打破が迫られ、起死回生の企画が要求される。ラジオメディアの先頭に立って話題づくりを起こすことが運命づけられている」(新聞「民間放送」85年10月3日号)と札幌テレビ:大森秀美ラジオ局長は記している。恐らく当時の民放AM局は媒体力低下という危機意識を背景に、新たな取り組に立ち向かう姿勢がうかがえる。そこで最も見直された視点は、民放AMがこれまでに築き上げた報道力であり、企画力であり、人材力をという特性をバックにリスナーを喚起する“話題づくり”のラジオにあったようだ。


報道への力点と大人を意識したTBSラジオ

  キー局といわれるTQL(TBS、QR、LF)3局の動向は、多かれ少なかれ地方局に影響を与えてきたので、まずTQLの新たな取り組みから触れてみたい。“報道のTBS”といわれたTBSは、80年代半ば生活情報の充実を図る編成方針メディア多様化時代のなかで“信頼と共感”のTBSラジオ“をモットーに、リスナーの生活感覚に共感する“活きのよいラジオ”をめざす」と打ち出した。そして85年4月編成には全放送時間の40%もの番組改変を実施、特に注目されたのは朝スタートして夕方まで7時間半のワイド番組「スーパー・ワイド・ぴいぷる」を月〜金ベルトで編成、パーソナリティも曜日別担当というこれまでの習慣聴取、固定聴取を打ち破る戦略に出た。時間とともに変化する首都東京の出来事を、報道・情報面から随時伝えていく流れを重視した姿勢である。

 この新たな試みは、聴取率低迷という結果を招き、開始1年で打ち切られることになったが、様々な課題を提起した番組として記憶されている。生活時間とワイド番組のあり方、生活情報の取り組み方伝え方など、ワイド番組に不可欠な情報と演出の課題が提示され、その後の番組改編の度に検討し、課題を克服していく。番組は午前中の「大沢悠里のゆうゆうワイド」、午後は小島一慶起用の「一慶の歌謡大行進」という、編成は従来型のワイド番組の形態に戻るがそれぞれの課題は番組のなかで消化されていく。

 一方、深夜帯の時間にも斬新な編成番組を組む。それは“大人向けラジオ編成”で、代表番組が「ハロ−ナイト」(月―金ベルト21:00〜23:00)である。深夜ラジオといえばヤング対象の番組と決まっていたこの固定概念を一掃するような番組で、大型ニュース枠や夜間初の交通情報導入、専任ニュースキャスターの起用など、従来のヤング路線から大人路線に変え、新たな聴取者を開拓する思い切った番組編成を行なっている。

他に忘れられない番組として連続ホームコメディ「ウッカリ夫人とチャッカリ夫人」が月〜金ベルト15分番組として新設され大きな話題となった。また、今でも続いている毒蝮三太夫の商店街訪問の中継番組はこの頃スタートしているが、当時の番組は「土曜ワイド商売繁盛」だ。いずれも1986年のことでる。80年代のTBSラジオはリスナーとの庶民的コミュニケーションを構築しながら、報道性の重視と大人のラジオを編成の基本において、さまざまな番組編成に取り組み、はっきりしたTBSのステーションイメージを構築していったといっていいだろう。

〈 思い切って個性化を図る文化放送番組群 〉

 文化放送(QR)はどうであったろうか。85年4月編成で打ち出した番組「文化放送ライオンズナイター」は番組コンセプトに「ハッキリいってライオンズびいきです」という思い切った姿勢を打ち出す。ライオンズ応援中継番組である。スポーツの客観報道を基本としていたラジオ界はビックリ仰天、論議を醸し出した。スタート当初は抗議の電話や投書が多く寄せられたが、スタッフは「どうぞ他局を聴いてください」という徹底ぶりだったという。それが功を奏し徐々に評判を高めていった。こうした番組の個性化は各番組にも現れていく。

これまでラジオは属性で分ける「オーディエンス・セグメンテーション」がリスナー分析の主流を占めてきた。しかし、成熟化した80年代は「感性によるセグメンテーション」を重要視していく。当時のQR駒井編成局次長はリスナーの「絞り込みとは、言いかえれば“感性”のセグメンテーションということです」といっている。個性化=リスナーの絞り込みを徹底した戦略だ。86年4月“海のみえるスタジオ”を設置し、番組「サントリー港区海岸1丁目」(日曜朝7:00〜8:30)を開始する。夜ではなく朝に、感性豊かな若者へ向けて、このスタジオから音楽とファッション情報を提供する狙いである。これまではスタジオを飛び出してリスナー(商店街など)を訪ねるという姿勢を、サテライトスタジオへ若者を呼び寄せようという逆の発想だった。こうした徹底ぶりがリスナーに認められていく。

QRには、個性化=リスナーの絞り込みという視点で見逃せない番組がある。86年10月スタートの「日曜の夜はTVを消して 落合恵子のちょっと待ってMONDAY」(日曜21:00〜23:30)である。“女性スタッフ”による“大人の女性”を対象とする思い切った番組で、夜はヤングという常識を破る編成であった。番組は予想通り評判を呼び、各方面から話題となった。番組は90分ワイドで、女性の関心を呼ぶ話題を多方面から取り上げた。なかでも社会性に富む事象を取り上げた「ちょっとコモンセンス」コーナーは多方面から注目され、86年度のギャラクシー賞、87年には日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞している。

 また、この番組で特質されるのは、番組を中心とした会員組織「おとな倶楽部」(有料会員)が作られ、1000人余の会員で運営されていたという。月1回のイベントと隔月の機関誌発行など、有意義な活動が展開された。この番組は90年に終了したが、現在25年も経っている。いまラジオが行き詰り、明日の世界が見出せないでいるなか、過去の民放ラジオ番組を振り返ると本当に多くの示唆を与えてくれる。落合恵子のこの番組もその1つだ。

リスナーを囲い込み、グルーピング化し、送り手と受け手が見える形で交流し、共に地域社会の貢献を目指すという活動によって、地域女性の活性化やコミュニティづくりに生きがいを見出していく、現在全国各地で求められている地域活動こそラジオがサポートできる分野ではないか。この点は「これからのラジオの視点」として重要な位置づけにあると思う。このことについては後述することになるが、こうした視点でみると「落合恵子のちょっと・・・」は、大いに参考になる。(つづく)






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2014-06-30 ラジオの新たなかたち・私論 〔第22話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


全国に開局した民放FMはどんな存在だったのか

 さて、首都圏民放ラジオ4局による共同調査でみえてくる姿は、80年代の民放AMが70年代に比べてSIUが少々下がる傾向を示していることだ。しかし時間帯別や属性でみると高い数値を維持しており、AMの特色が放送時間帯によって聴取者の変化が鮮明になっている。特に、年齢層の高いリスナーに受け入れらえる傾向がこの資料からみて取れる。一方、JRN共同調査によるAMとFMの聴取状況は、84年から89年の5年間で確実にFM聴取が増えている。

全体で「AMをよく聴く」が26.6%から24.9%へ減りつつあり、「FMをよく聴く」が8.5%から15.0%と倍近い数値に増えている。18才〜24才の男女では特に数字が高くなっており、80年代後半は確実にFM聴取の傾向が高まっていることがわかる。

80年代の民放FMが10代後半から30代をメインリスナーにターゲッティングした方向性と一致する。若い世代は新しいものに抵抗なく取り組む性格があり、良質な音楽を自由に聴けるラジオには関心が向けられていったことは自然の流れかもしれない。

 1つのラジオメディアを創り上げた民放FM。なかでもエフエム東京のキャッチフレーズがマーケティング分野で注目を引いた。「FMをラジオと呼ばないでください。FM放送と呼んでください」というキャッチコピーだ。都会の香り、文化的雰囲気、上品なイメージなどをステーション・イメージとして打ち出し新鮮なラジオ・イメージを構築するため、既存のラジオ・イメージを払拭する狙いがあったのだ。都会生活に憧れるAMの若者層がFMに移っていったのは自然な流れであったといえよう。民放ラジオはAM対FMの構図を取りながら全体としてリスナーの活性化を図っていったのが80年代であったといえる。

 その一端をFM雑誌隆盛にみることができる。FM専門誌は当時4誌も発売されている。「FMfan」「週刊FM」「FMステーション」だ。最も注目された80年代中頃は平均25万部、後に情報雑誌「ぴあ」も掲載するようになり、100万部を遙かに越えるFMファンを獲得していった。FMの雑誌連動はリスナーに番組内容を詳しく伝え、好きな楽曲のエアチェックを促進させるという、これまでのラジオにはなかった聴衆方法が開発していった。そして、このメディア連動はより良き音質で聴取すべく音響メーカーによるオーディオセットの開発を促し、また音楽業界にはCD売上の増進や音楽イベントの隆盛に繋がり、ラジオメディアとしてこれまでにないマーケットを開拓するという、正にラジオにおける新しいメディアの構築だったといえる。これは社会の潮流である「個性を求める」消費者ニーズに適ったメディアづくりだったことがわかる。

 民放FMの番組といえば、世界旅行を夢見た番組「ジェットストリーム」を代表として、来日アーティスト生収録番組「ゴールデン・ライブ・ステージ」、クラシックでは国内国外のトップ奏者やオーケストラの生演奏を収録して綴る「オリジナル・コンサート」、あるいは洋楽邦楽のベストテン番組「コーセー歌謡ベストテン」「ダイヤトーン・ポップベストテン」など多くのFMファンに人気を集めた。

なかでもエフエム東京の開局15周年(1985年)を記念した番組企画は特に注目を集めた。それは、「デジタル・ステレオ衛星生中継、いま世界のコンサートホールから」というプラハベルリンボストンで行われたクラシック演奏会を生中継で放送した企画番組だ。世界一流の指揮者オーケストラの演奏を直接リスナーに届け大きな反響を呼んだ。NHK−FMも番組には力を入れ、NHK交響楽団の定期演奏はじめ、EBU(ヨーロッパ放送連盟)通して各国の室内楽オーケストラの生演奏を放送、ポピュラー音楽では米ヒット曲集、ジャズラテン音楽など他分野にわたり、音楽ファンのニーズに応えていった。

 こうした音楽に特化したラジオが可能となった社会的背景について少し考えてみたい。80年代は一般生活者に「量から質へ」の転換を促す傾向が様々な分野で進行する。「大衆から少衆へ」というマーケティングウォークマンの普及はその象徴的現象であったが、それは「自分らしさの追求」の現れで、より個人的に、より個性的な感性を磨いていく傾向を強めていった。こうした傾向は消費傾向にもはっきり現れ、当時の西武デパートパルコなどのあり方は大いに注目された。また家庭では、たとえば音響装置にしても、父親はリビングステレオを、子供はそれぞれの部屋にミニコンポやラジカセを聴き、それぞれが求める音楽を楽しむ姿は日常的であった。

 ラジオで音楽専門放送=FM放送が成立した背景には、国民一人ひとりの生活の質を向上させる意識と同時に、「自分らしさの追求」という社会的成熟度を示した時代要素があったからに違いない。特に「音楽」という分野がラジオという放送で成立し、「スポーツ専門ラジオ」や「演劇・映画専門ラジオ」という分野ではなかったのは、音楽が個人的趣向に求められる性格であり感性的であると同時に、いつでもどこでも接触できる文化であったことに起因するところが大きいと思う。また、日本における音楽環境も、戦後30年を経て広い範囲に普及したことにもよるだろう。洋楽といわれるアメリカ音楽やヨーロッパ音楽の浸透、家庭における子供の音楽学習、そしてステレオ機器やレコード・CDの目覚ましい普及など、音楽が個人の世界に強く深く浸透した文化であったからに相違ない。

 もう一つ触れておきたいことは、NHK−FMの放送が1970年代に全国の都道府県に開局しており、音楽を中心に番組編成し放送していたことは、FM受信機普及の役割を担う一方、ラジオ・リスナーに対してFM放送=音楽放送というイメージを創り上げる役割を果たしたことを忘れるわけにはいかない。マーケティング的にみれば、なぜ「音楽分野」がこれほどまでにラジオ化できたのか、専門化できたのか、という疑問もあるに違いないが、一般生活者の質的変化とFM放送の普及は大いに相関関係があり、80年代のメディアの特色として取り上げることができよう。いずれにしても、80年代のラジオを語る時、メディアとしてのFM放送の存在は大きく、また戦後の音楽文化を語るに際しても触れねばならない存在であった。(つづく)






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2014-06-19 ラジオの新たなかたち・私論 〔第21話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

・・・・・・当ブログは、暫く時間をいただいたが、再開することにします。

・・・・・・これからの民放ラジオのあり方を考える上で、過去の歩んだ道に学ぶ

・・・・・・必要があると思い、振り返っています。参考になることが多くあり、

・・・・・・これから考えていく糧にしたいと思います。


**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


個性を求める時代と民放ラジオの変化

 80年代の民放ラジオの特徴は、民放FMが全国各地に誕生し、民放AMとともに民放ラジオの聴取機会の拡大を促したことである。またラジオ業界では民放AM対民放FMの競合が鮮明になり、それぞれが「個性を求める」リスナー=消費者のニーズに応えるべく、番組開発に挑戦していった。民放FMは音楽を主軸にしながら様々な企画番組を投入、たとえば来日アーティストの徹底したライブ録音番組や世界のクラシックオーケストラの生演奏シリーズなどを放送し、新たなラジオメディア存在価値を構築していった。

 一方、民放AMは、これまでのラジオ経験を生かした番組づくり、FMにはできない番組づくりを考えの基本として、行動的な情報番組、スポーツ番組、特に報道部門には積極的に力を入れ、様々な番組を開発した。この内容はAMの番組開発のところで詳しく触れる。


〔1〕 民放FMの登場とその影響

 簡単に民放FMラジオの登場と普及に触れておこう。1969年NHK−FMが本放送を開始し、民放FMではFM愛知が同じ年、翌70年にはFM東京、FM大阪、FM福岡と4局が大都市に開局し先鞭を切った。それから12年、82年にFM愛媛を皮切りにそれ以降8年間に31局が開局。本格的な民放FM時代に入っていく。リスナーにとってラジオ番組の選択肢が広がり、より自分好みの番組を聴くことができるようになった。もちろん民放FMだけでなく、NHK−FMの全国開局も進み、より多くのリスナーに選択の機会が与えていった。

 現在のラジオ界では、一般に聴取者をリスナーというが、ネットを利用するユーザーとも深いつながりがある。リスナー=ユーザーと捉えることが多い。80年代のラジオはリスナーを消費者であると捉え、リスナー=消費者と捉える傾向が強かった。消費者とは高度経済成長で生産された商品を購買し消費する人々、すなわち消費社会の担い手たちである。これは一般の人々の1つの側面からみた表現だが、高度成長時代から低成長時代にかけてよく使われていた呼び方である。消費者の動向はスポンサーである様々な企業に影響力をもたらすため、民放ラジオ業界にとってスポンサーと同様に大きな存在であった。その動向を把握するものとして「聴取率調査」があり、ラジオ局では殊のほかその動向を気遣った。

 民放ラジオにおける「聴取率調査」は、常時全国に実施される統一調査はない。東京圏関西圏、県別などそれぞれの民放ラジオが自主的に行っているため、民放ラジオの聴取状況を全国で判断する資料は少ない。JRN共同調査のように、ネットワーク局が共同で調査している資料は存在する。NHKが全国で行う調査もある。民放ラジオの動向を把握する時には、影響力を持つ東京大阪ラジオ局の調査が参考にされることが多い。ここでも当時の東京を中心とした首都圏での調査を参考にして概要を伝えたい。調査を実施する会社はビデオリサーチ社という専門会社が多い。テレビとラジオの調査を実施している会社で、80年代の民放ラジオは大方この調査会社で行っている。

 民放ラジオがリスナーにどの程度聴かれているかを判断する目安は、SIU(セットインユース)を参考にする。これは全日(月〜日)12才〜59才のリスナーがラジオと接触している数値である(90年代の調査は69才まで広げている)。ここで取り上げる数字は首都圏AM4局(TBS.QR.LF.RF)が実施している共同調査を参考にする。当時この調査には民放FM局は参加していない。首都圏ラジオ全体を把握するには各ラジオ局の調整がつき、共同で調査するようになった90年代以降である。

 さて、80年代のSIUであるが、上記共同調査によると81年9.8%を境に漸減傾向がつづき、84年から89年までは平均7.0%台に減少している。時間帯別の平均値では、朝(5時〜12時)が9.0%台、昼(12時〜19時)が9.3%台を維持している。ここで大切なのは、「心の豊かさ」「個性ある生活スタイル」を求める80年代の人々がラジオを聴取する場合、自分の好みに合ったメディア選択、プログラム選択の影響を受けるので、ラジオ全体の聴取傾向をみるほかは年齢別、性別、職業別などより細分化した視点が必要であると思われる。しかし、より正確さを追求するには、AMとFMの共同調査を待つしかなかった。

 阪神地区の調査は、民放AM4局が共同調査を行っているが、首都圏と同じスペックでないため比較することは難しい。近いものとして1日1人当たりの聴取時間がある。それによると1日平均100分〜110分の聴取が80年代も維持されているようだ。しかし世代別ではヤング層が低減する傾向がみられる。恐らくFMの影響が生まれているのだろう。

 なお、上記首都圏の資料は民放AM4局が共同で年4回実施していたデータに基づいている。FM局はそれぞれ独自の調査を実施していたため、首都圏の民放ラジオ全局を表す数値とは言えないが、80年代の民放ラジオの傾向をみるには参考となるだろう。  (つづく)






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2014-03-30 ラジオの新たなかたち・私論 〔第20話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**80年代の社会潮流に民放ラジオはどう取り組んだか**


〔物の豊かさから心の豊かさへの変化と民放ラジオ

 民放ラジオの歩みを振り返ると、1950年代は揺籃期であるが、すでに受信機の普及していたこともあり、新聞と同じマスメディアとしての影響力を持つようになっていた。50年代後半には全国的な普及のなかで茶の間の首座の地位を確保し、第1期のラジオ黄金時代を迎える。しかしテレビの急速な普及によってその地位を少しずつ譲り渡していく。テレビは高度経済成長下にあってその普及は目覚ましく、間もなく一般家庭ではテレビとラジオが逆転してしまう。そして苦難の時代へと移っていく。

 65年から70年代、ラジオは家族聴取から個人聴取へ新たな活路を見出し、ラジオ復興と第2の黄金時代を迎える。ワイド番組の有能なパーソナリティの登場や野球のナイター中継、若者を捉えた深夜放送など、個人を対象としたリスナーに寄り添うメディアとして変身していく。80年代はそうしたメディア価値を更に伸長させ、身近な存在のマスメディアとして影響力を持つメディアとなる。民放ラジオが現在のようなリスナーの傍にいて、社会の窓口として情報収集でき、いつでも好きなパーソナリティと会話でき、世間に開かれた窓の役割を果たすようになっていった。

 メディア論的にいうと、ラジオはマスでありながらリスナー個人とのコミュニケーションが成立するという、マス・パーソナル・コミュニケーションの世界ができあがった。80年代のラジオとは、現在のラジオが持つメディア価値(個人ユーザーを対象としたメディア)の開発開拓時期から一歩進み、安定成長期へと自ら育んでいった期間といえよう。それでは80年代が戦後と一区切りつけ、あらたな日本を模索していく社会潮流のなかで、民放ラジオマスメディアとして社会にどんな役割を果たしたのであろうか。

 80年代社会の1つの特色は、一般生活者が社会の大きな変化のなかで“物の豊かさ”から“心の豊かさ”を求めていったという、生活感覚の大きな転換が進行した時代である。これは家庭生活から学校生活から社会生活まで、幅広く影響を及ぼしていった。“心の豊かさ”の追求は、取りも直さず生活者一人ひとりの心のあり方であり、個人の内面に帰するものである。この価値観の変化を支えていた世代は、50年代から60年代に全国の地方から大都市に移住した人々、高度経済成長時代に「金の卵」と称され集団就職で都会に移り住んだ人々とその家族たちといっていい。

 この“心の豊かさ”の追求は消費生活の面ではっきりと現れている。藤岡和賀夫は著書「さよなら、大衆。」(PHP研究所/1984年)でこう記している。彼は、戦後の豊かさイメージは所有の豊かさ、しかし身の回りには物が溢れている。人々は持つことではなく、いかにあるべきかという自分らしい豊かさを求めざるを得なくなった。「自分らしさ」を求める感性欲求が消費社会の中心的概念になっていく。そこにはもはや大衆は生まれず“少衆”という、趣向を同じくした人々によるグループとして“少衆”という概念を提示した。高度成長時代の大量生産大量消費は“物の豊かさ”の追求だが、“心の豊かさ”=“自分らしさ”に応えるには少量多品種生産と消費でなければマーケットは応えられなくなっていた。

 「自分らしさ」の背景には変貌する日本人の意識にも少し触れておく必要がある。NHKは1973年から5年毎に日本人の意識調査を行なっている。それによると家庭内での役割の変化や男女関係の意識変化、あるいは血縁=親戚関係、地縁=地域関係、会社=職場関係など社会的結びつきがさまざまな分野で弱まっている傾向が伺える。また現在を中心に考える傾向が次第に強くなり、未来志向の発想が弱まっている。こうした潮流を吉見俊哉は著書「ポスト戦後社会」(岩波新書/2009年)のなかで「戦後社会という域を越えて近代社会地殻変動が始まっていたことを示している」と指摘している。

 現在を中心に考える発想とは、いま生きている社会のなかでいかに楽しく有意義に過ごすか、という意識であり、そのためには他人と違う「自分らしさ」に意識の中心があったのであろう。こうした社会生活の意識に対して、民放ラジオラジオ局の多局化とラジオ番組の多様化することによってリスナーの趣向に合致する放送活動を展開していったのが80年代ではなかったろうか。(つづく)







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2014-03-13 ラジオの新たなかたち・私論 〔第19話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**昭和の終わりと時代の転換期20年代(その3)**


専門家による戦後史としての80年代〕つづき

 1880年代を専門家はどのように捉えるか。前回は近現代史に詳しい半藤利一の見方を紹介したが、今回は京都大学教授の佐伯啓思の見方を掻い摘んで紹介する。佐伯の著書「日本の宿命」(新潮新書)によると、戦後という時代は大きく2つに分けられるという。前半が終戦から1980年代までと、後半の1990年から現在までの期間で、80年代と90年代では大きく時代が変化する。それは昭和の終焉冷戦体制の崩壊やグローバリズムと重なっていること、また日本人の精神史的にみても、戦後という意識そのものの変化とも重なるという。昭和から平成への移行は1つの時代の終わりと始まりを伝えている。

戦後昭和の前半期は、民主化平和憲法経済発展などは、第2の「文明開化」のようなものであった。しかしその成功の過程では、意識しようとしまいと「アメリカ」という存在があった。日米安保体制という軍事上の依存があり、圧倒的な経済力が日本を支え、民主主義自由主義アメリカをお手本とした。それだけではなく、アメリカ的豊かな生活をモデルにして貪欲に働いたのではなかったか。アメリカという影は歴然と存在していたと思う。

佐伯はこうもいう。明治の「第1の文明開化」を成功させたように、戦後は「第2の文明開化」を見事に成し遂げる。

一方、国民の精神史から眺めると、欧米に追い付き追い越せという物質的豊かさを求めて、寸暇を惜しみ働いた世代、高度成長から安定成長を経験し豊かになったが、その中心になった世代には戦争犠牲に対する“深い思い”というものがあり、この思いが残る限り「戦後」の繁栄を無条件で受け入れ、肯定することはできない意識があった。80年代とは経済繁栄のなかにこうした「戦後の精神」も終わりとなっていったという。

佐伯は戦後の前半と80年代を以上のように語っているが、半藤一利と通じるところがある。戦後の時代の転換期として80年代を認識することは、これから時代を考えるうえで、貴重な示唆を与えてくれるであろう。これまで80年代の社会状況を多少多めに触れてきたが、60年代のアメリカに追付け追い越せの高度成長期、70年代の低成長ながら豊かさを追求したポスト高度成長前半、そして80年代はアメリカ経済の面で追付いた我々は新たな価値観を持たねばならない時期ながら、後半はバブルに浮かれる時代を過ごしてしまった。

 こうした稀にみる体験から、後の長期不況を予期することなく、バブル景気の崩壊という現実を迎えた。バブル景気崩壊という予測は専門家の間で察知されていたのであろうが、一般庶民にはある日突然訪れたという印象が強い。こうして国民的な浮いた気持ちがツケとして長い不況を経験することになる。この珍しい体験の時代に、民放ラジオはどんな活動をし、何を社会に提供していったのか、詳しく見ていく必要がある。なぜならば、この時期の体験が、この後続くことになり長期不況(失われた10年)と現在苦しんでいるラジオの衰退状況の発端を見て取れるかも知れないからである。(つづく)









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2014-03-01 ラジオの新たなかたち・私論 〔第18話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**昭和の終わりと時代の転換期20年(その2)**


〔永遠に続くと信じた経済成長からバブル崩壊へ〕

 80年代後半のバブル景気について触れておこう。「バブル景気」とは、86年から91年まで4年と3ヶ月続いた資産価格上昇と好景気のこと、またそれに伴う社会現象である。資産価格が一時的に泡のように膨らみ弾けてしまう様子からこのような呼び方をする。実体経済ではなく、資産の高騰による好景気なので、資産を持たない一般市民には無関係ではあった。しかし、資産の運用で資金を手にした多くの企業は、税務対策として新たな投資や厚生施設の購入、様々な交際費に資金を使い、企業内では浮れた気分が蔓延していたことも事実であった。

 この時期為替市場は、80年ごろは1ドル250円程度であったが、86年には120円の円高になり、輸出の後退と企業の東南アジアへの工場移植が急激に増加し、また国内の公共事業への投資が進んだ。「東京湾アクワライン」プロジェクトが発足したのもこの時期である。リゾート地開発が活発化も同時期で、リゾート法成立とともに、全国各地のリゾート開発や財的ブーム、消費ブームが過熱した。企業の資産価値として芸術品購入や一般消費者は新車購入、旅行など消費に走り、消費こそこの世の美徳と言わんばっかりのお金の使いようであった。20年近く続いた豊かな社会のあだ花といっていいかもしれない。

 こうした稀にみる世の浮れようは、後の長期不況を少しも予期することなく、ある日突然バブル景気の崩壊という事実を迎え、国民的な浮いた気持ちのツケは長い不況という形で経験することになる。こうした珍しい体験の時代に、民放ラジオはどんな活動をし、何を社会に提供していったのか、詳しく見ていく必要がある。なぜならば、この時期の体験が、この後続くことになり長期不況(失われた10年とも20年ともいわれる不況)と現在苦しんでいるラジオの衰退状況の発端を見て取れるかも知れないからである。


専門家による戦後史としての80年代〕

 80年代という時代は、社会全般にわたって戦後の大きな転換期であったといえそうだが、この時代に青春を過ごした人々が現在日本社会の中核を担っている。特に民放ラジオ経営者はこの世代が多いと思う。それだけに、自らの体験とともに、これからの社会を考え、民放ラジオの発想を豊かにして行くためには、80年代という時代を検証しておきたいものである。また、ブログのテーマ「新たなラジオのかたち」を考えるためにも貴重な年代である。大きな時代の流れとある時代の終わりに立つ80年代を、2人の専門家の捉え方を紹介しながら考えてみたい。

 昭和史を研究する半藤一利(作家)は、「昭和史/戦後編」(平凡社)で、40年周期で勃興と衰退を繰り返しているのが日本の近代史という視点の上からみると、明治時代の国家目標は富国強兵で、国家の機軸は立憲天皇制、このシステムはうまく機能し成功したが、その後、軍部を中心とするうぬぼれのぼせた権力者が天皇制を世界の中心であるかのように仕立て、国家目標をアジアの盟主にしようと幻想をいだき、結果として国家を滅ぼしてしまった。戦後の国家の機軸は平和憲法、国家目標は民主主義であったが、いつの間にか軽武装経済第一主義となり、経済大国を完成させていく。しかしその後バブル崩壊経済国家は崩れていくという。

 株価の最高値を記録し,DNP世界第2位を誇り経済大国となった日本、戦後から数えると1952年(昭和27年)独立してから40年目の1992年、その前の年にバブルが弾けてしまう。明治時代日露戦争に勝ち(1905年)、国家づくりに成功し、結果的にうぬぼれのぼせて国際的に孤立し、ついに世界を相手に戦争し滅びてしまう。丁度40年後であった。こうして40年周期をみると、1980年代は崩壊する最後の繁栄した10年で、過剰に自信をもって日本を動かした人々による、いわば第2の敗戦になってしまった。この40年周期説では2032年、後18年で迎えることとなる。現在の政治情勢、国際情勢、社会現象など、しっかりみつめていかねばならないが、不安要素が年毎に増えているような感がしてならないと思うのは私だけだろうか。(つづく)






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2014-02-11 ラジオの新たなかたち・私論 〔第17話〕 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**昭和の終わりと時代の転換期20年〈その1〉**


一億総中流といわれた80年代の社会諸相〕

 70年代の社会の動きと民放ラジオの歩んだ道について、長い時間をかけて記してきた。それは高度成長から安定成長へと時代の流れが変わり、社会生活の上で戦後という意識が薄れていく一方、テレビに押された民放ラジオが衰退を経験し再興を遂げていくという、ドラマチックな変遷があり、この歴史から現在衰退を経験している民放ラジオにとって立ち直る糸口が発見できるのではないかという理由からであった。この時期を振り返り、メディアの基本的なあり方のところで、これからのラジオに示唆を与えてくれる重要な視点を見出すことができる。この点については詳しく後述したいと思う。

 80〜90年代の民放ラジオを一言でいうならば、70年代に開発し発展させたメディアイノベーションを更に進化させた時代であったことだろう。このラジオ展開と社会の繋がりを探っていくために、80年代の社会の動きを簡単に触れておきたい。

 1980年代は、歴史的エポックメイキングな出来事に遭遇した時代だったといえる。そのキーワードを幾つかあげてみよう。「中曽根政権」「デズニーランド開園」「日航ジャンボジェット機御巣鷹山墜落」「チェルノブイリ原発事故」「バブル景気」「昭和天皇崩御」「ベルリンの壁崩壊」と、時代を象徴するような社会的出来事が出来している。しかし社会全体としては安定した雰囲気のなかで、レジャーに浮れる国民、経済的満足こそすべてであるような生活感覚が蔓延していた時代であった。特に後半の「バブル景気」に乗った世相は、後にやってくる長期不況の原因を内包しながら進行していたのである。

80年代は経済的に安定成長を続け、後半は大型の景気拡大が持続された時代である。政治では中曽根内閣が中心となり、「戦後政治の総決算」をスローガンとして取り組んだ。このスローガンは後に著した「自省録」では自民党内のバランスの取れた政治から、強力なリーダーシップを持った総理大臣という政治手法といっている。具体策では「臨時行政改革審議会」の発足と提案の実施、国営企業民営化(電電・専売・国鉄など)など着手する。経済面では輸入の拡大や規制緩和などを促進させ、後のバブル経済へと繋がっていく。

 規制緩和国営企業民営化は、「大きな政府」から「小さな政府」を提唱する新自由主義ネオリベラリズム)の政策の1つであるが、中曽根内閣は、財政赤字で苦しんでいたイギリスサッチャー首相アメリカレーガン元大統領が採用した新自由主義市場原理主義を路線に近い政策を採用していく。特に日米安全保障政策で日米両国の強化を図った中曽根首相は「ロン・ヤス」関係と呼ばれるほど親交を重ね、5年間に12回の会談を開いている。この間、重要な防衛政策経済政策などを決定していった。新自由主義については後に触れることにする。

 国民の生活はどうだったのか。70年代の2度に渡る「オイルショック」を切り抜け、安定成長を遂げていた80年代は、国民にとって「豊かさ」を実感する環境が進んでいた。ある銀行が84年にサラリーマンの持ち家について調査したところ、大都会の東京大阪に住む30代が37%という結果を出している。地方は持ち家率が高いが、都会に限定しても4割近くの人が持ち家である結果は、「豊かさ」の象徴ともいえるであろうか。都会で結婚する人はマンション住まい、あるいは郊外の一軒家に住むことが普通に受け止められていた。

また家族における夫婦の役割も変化して、夫が家事や育児の手伝いをするのも普通の週間となってきた時代、更に職場では男女雇用機会均等法の成立に伴い、男女の労働条件がかなり変化してくる。職場でも家庭でも男女関係の意識に変化が生じていった。たとえば「現代日本人の意識構造〔第6版〕」(NHK調査)によると、「父親は仕事、母親は家庭」という(昭和の家族的)性役割分担では79年38%に対し93年には20%に減少、女性で「結婚後も仕事を継続した方が良い」という両立は78年27%に対し93年37%に増加している。日本人の社会意識がポスト高度成長の70年代から80年代の20年で、夫が妻に、父親が母親に優先する昭和型家族像は確実に崩壊していった時代であろう。(つづく)







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2014-01-24 〔第16話〕ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


** 現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 6〉**


 前項の〈1〉報道情報番組とラジオジャーナリズム、〈2〉ラジオ評価と聴取率調査、〈3〉民放FMラジオの誕生と普及、についてレポートしたが、もう一つ〈4〉民放連ラジオ委員会」とその活動、について触れておきたい。


〈4〉民放連ラジオ委員会の活動

 60年代初頭の民放ラジオは、テレビの影響により急速に事業規模が低下、苦難の道を歩んでいた。民放連ではラジオ復興を目指し「ラジオ強化委員会」を設置、各局は人材を派遣し様々な施策を提案し実施していった。その成果によって60年代後半にはラジオ各局とも事業の回復を実現し、70年代には安定成長期に入ることができた。「ラジオ強化委員会」は大きな役割を果たすとともに、新たな環境変化に対応する必要が生まれてきた。そこで、この委員会を発展的移行として71年4月に「ラジオ委員会」と改組した。民放連放送業務部に置かれ事務運営を担当することになった。

 新たな「ラジオ委員会」は70年代のラジオの方向性を見出すべく、専門家を交えながら民放ラジオの社会におけるポジショニングとその戦略戦術を練っていった。71年12月に発表された報告書には次のような方向性が示されている。まず民放ラジオの位置づけとして「コミュニティ・ステーションとしてのラジオ」を掲げ、このコンセプトを実現するために「これからのラジオは全地域住民のコミュニケーションの軸として発展しなければならない」という視点を打ち出している。いま考えると誠に斬新で進取の気象に富んだ発想であり、21世紀のラジオ像を考える上で重要な示唆を与えてくれる。この点は当ブログの核心となるもので、しばらく後に詳しく触れ、新たな提案をしてみたいと考えている。

 この報告書にもう少し触れると、このレポートの視点は当時注目されつつあった「ニューローカリズム」に視点を当て、地域メディアとしての役割を打ち出したもので、かなり先見性のある発想であった。地域ラジオ特性を(1)生活レーダーとしての機能(レーダー性)(2)人々の対話を活性化する機能(広場性)として示し、「この2特性を日々の放送に十二分に生かしつつ、人びとのコミュニティ意識を、どうプロモートしていくか、それも閉ざされた地域エゴをではなく、外に向かって身を開いたコミュニティ意識をどうプロモートしていくかが、民放ラジオにとっての最大の課題である」と報告している。

 そして翌72年から「移動研究会」を開催し、「コミュニティ・ステーションとしてのラジオ」から「コミュニティマーケティング実践と展開」に広げて各局とともに実施している。これはその後のラジオセミナーのメインテーマとして取り上げられ、実践的な検証を加えて深化させていった。70年代の民放ラジオラジオ委員会が提示した「コミュニティメディア」という位置づけが徐々に浸透し媒体力をはかる理論的支柱となったのである。

 上記の内容は「民間放送30年史」(民放連発行)を参考としているが、現在の民放ラジオを考える時、70年代のような理論的支柱となるものが何もない。ない以上さまざまな方向性が提案されても、議論百出ばかりで方向性は見い出せていない。これが民放ラジオの現状だが、過去の歩んだチャレンジを調べてみると、何と勇気があり進取の精神に富んでいたか驚かされる。民放ラジオ誕生30年という期間はやはり若い時代、若さが充ちていた時代といえるのではないだろうか。それから30年、冬の時代が訪れている。

 ラジオ委員会の活動はさらに広がっていく。その1つがラジオメディアのPR活動である。各種「公共キャンペーン」の実施や「ラジオ月間」を設定し、全国展開を行なっている。「公共キャンペーン」では73年5月から展開された「ベトナムの子供らに愛の手を」だ。キャンペーン・ソングや特別番組の放送は勿論のこと、募金活動では1億3,000万円余の義援金を集めるという大きな成果を得た。74年には日本赤十字社と連携した「はたちの献血」(第1回)が民放ラジオ全社で実施され、献血において前年比率13.6%の増加という実績も上げた。大きな成果は日赤はじめ各方面から高く評価された。このキャンペーンはその後も継続していった。

 「ラジオ月間」の方は、75年度から毎年10月に定められ、イベントの実施、統一番組の全社放送、ラジオセミナーの3本柱として、民放ラジオの集中的PRが実施され、その後も継続していった。実施された3本柱の内容をピックアップしてみると、第1回(75年)はイベント「災害から市民を守る」特別番組「戦後30年・日本人を育てた歌」ラジオセミナー「50年代のラジオを考える」、第4回(78年)はイベント「各社自主企画」特別番組「きみはUFOをみたか〜子どもの未来の詩〜」ラジオセミナーラジオ新世紀への挑戦」などとなっている。いずれも勢いを感じる。

 こうしてみてくると、「ラジオ委員会」が取り組み全国のラジオ局が連携した「公共キャンペーン」あるいは「ラジオ月間」は、民放ラジオというメディアを対外的に強くPRするとともにラジオ業界という内に向かってラジオの可能性を探り実践するバイブレーションを与えていったといえる。70年代の民放ラジオは業界が1つになってメディアの価値を高め、社会に影響力を持つメディアであることを、身をもって実践していった輝ける時代ではなかったろうか。(つづく)







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2014-01-09 ;”>〔第15話〕ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

** 現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 5〉**


他に指摘しておきたい70年代の放送活動

70年代の民放ラジオは、ラジオのあり方自体に変革をもたらしただけに、触れておかねばならない事象が多い。これまでエポックメイキングとなった政策を紹介してきたが、それ以外のもので大切な事象に触れておきたい。それは〈1〉報道情報番組とラジオジャーナリズム、〈2〉ラジオ評価と聴取率調査、〈3〉民放FMラジオの誕生と普及、そし〈4〉民放連ラジオ委員会とその活動、などである。

〈1〉報道情報番組とラジオジャーナリズム

 民放ラジオが60年代に、テレビの影響を受けて苦難の道を歩む最中、2系統の全国ネットワーク組織が誕生する。65年5月、TBSを基幹局とするJRNとLF&QRを基幹局とするNRNである。全国のリスナーが“注目する番組”を聴くことを可能とするこの組織は、ラジオ復活の大きな手段となった。プロ野球ナイター中継番組はその代表的なものだが、ラジオジャーナリズムとして注目させ発展させていく報道情報番組や共同キャンペーン活動などを上げておきたい。

 その代表的な番組がJRNのニュース番組「ニュースハイライト」であり、NRNの「ニュースパレード」などであった。これらの番組はテレビとの差別化を意識した放送機関としてラジオの持つ機動性、速報性、柔軟性といったメディア特性を前面に出した番組づくりに徹し注目を集めた。こうしてテレビとは異なったラジオジャーナリズムを提供することによって大きな成果を築いていった。一方、ローカル放送でのラジオジャーナリズムも各局が力を注ぎ、良質な報道番組を放送し地域リスナーから好評を得たことも、ラジオ報道情報分野における高い評価に繋がっていった。

 和歌山放送では76年「海の気象ニュース」をスタートさせた。紀伊水道から潮岬沖、熊野灘にかけての海上気象情報、 漁業情報という地域性の強い情報番組を放送した。これは1つの例に過ぎないが、各局とも地域に密着した情報を様々な視点から取り上げていった。各自治体選挙報道であり、高校入試速報あるいは地域の社会問題などを取り上げ、リスナーに問題提起し、地域ジャーナリズムの創造メディアとしてその地位を築いていったのである。「民間放送30年史」(民放連発行)には「市民と一体となって問題解決に取り組む姿勢を確立したのも、40年代後半のラジオジャーナリズムの特筆される事項であろう」と記している。

2〉ラジオ評価と聴取率調査

 70年代の民放ラジオは営業収益の面で著しく伸長しているが、リスナーの増大と強く結びついている。それはセット・イン・ユースの上昇からはっきり知ることができる。聴取率調査で分かるセット・イン・ユースは、全人口(地域によって数が異なる)に対するラジオに接している人の割合をいうが、これはラジオの価値、ラジオの力を表している。電通ラジオ聴取率調査によると、東京地区は73年の夏期9.3%、冬期8.0%に対して74年夏期10.3%、冬期10.2%と夏冬通じて10%台に乗せている。この数字が現在の6%で推移している状況と比べると、いかに高い数字かが分かろうというものだ。

 名古屋地区では73年が9.9%に対して74年が11.7%(年1回調査)、九州地区も73年の夏期12.4%、冬期9.8%に対して74年は夏期12.4%、冬期11.3%と冬期が伸びている。(大阪地区は聴取率ではなく1日平均の聴取時間量で表しているので、同様の比較はできない。)聴取率にみるセット・イン・ユースはどこの地区も夏高冬低の傾向があるが、これは主にナイター中継番組があるかないかによると思われる。冬期がアップしているということは、ナイター・オッフの番組が如何に活躍しているかがわかる。

 このようにセット・イン・ユースの上昇は広告メディアとしての存在の高さにも通じ、74年の広告費はテレビ・新聞・雑誌と比べてラジオが111.7%と、最も高い伸び率を示している。75年から80年までの6年間を平均しても平均113%の成長を遂げている。ラジオの評価の高さが判断できる。この評価は広告メディアとしての高さだけではなく、ラジオメディアの影響力の高さとして多くの事例が示している。

〈3〉民放FMラジオの誕生と普及

 70年代のラジオ界の出来事としてもう一つの動きは、民放FMラジオが本放送を開始したことであろう。民放FMラジオが実験放送を開始したのは1958年に遡る。東海大学が免許を取得してその年の12月26日に電波を発射する。NHKは丁度一年前の1957年12月24日放送開始している。そして、民放FMラジオとしてスポンサー提供ができるようになったのは63年暮れで、東海大学にモノラル放送の実用化試験局とステレオ放送の実験局(スポンサー提供は不可)として免許が与えられ、NHKとともに日本のFMラジオの開拓と普及に尽力する。

 東海大学放送局名は〈東海大学超短波実用化試験局〉通称〈FM東海〉として放送した。FM東海の送信所とスタジオは渋谷区富ヶ谷東海大学施設内に設置、その後スタジオは港区虎ノ門に移った。東海大学がFM波を申請した理由は、科学、教育、福祉に貢献する新たな放送局づくりであった。電波は1kwの出力で東京都の一部をカバーし、放送番組では望星通信高校を放送するとともに、熱心なオーディオファン、音楽ファンを開拓する良質な音楽番組を放送していった。

 全国的には65年NHK−FMが26局開局し、FMファンを広げていった。そして民放では69年に「FM愛知」が開局、翌年の70年には「FM大阪」「FM東京」「FM福岡」がそれぞれ開局し、主要機関地区に民放FMラジオが出揃ったのでる。この結果、大都市圏における民放ラジオはAM対FMという構図が出来上がり、それぞれのメディア特性に合致した番組編成と営業展開を実施、70年代の民放ラジオを彩ったのである。なお、本格的なAM対FMの事業競合は、民放FMの全国的開局をみる80年代に入ってから現れてくる。(つづく)






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2013-11-22 〔第14話〕ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

** 現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 4〉**

〔数字で見る深夜放送の威力〕

 70年代の民放ラジオの大きな特色の1つに「深夜放送」であったことに異論はないだろう。若者に絶大な影響力を築いた様子を数字でみてみよう。72年(昭47年)文化放送(日本リサーチセンター調査)によると、深夜放送を「よく聞く」「ときどき聞く」が12〜14歳は52.7%、15〜17歳は78.8%、18〜21歳」は71.3%という圧倒的な数字を示している。首都圏の調査であるが、「深夜放送」が若者にとってどんな存在であったかがよくわかる。

 また全国的にみても深夜に起きている若者が多かった。少々遡るが、NHKの「国民生活時間調査」(1965年)によると、高校生が〈午前零時台〉に起きている人が9.9%に〈午前一時台〉が5.4%、〈午前2時台〉が3.5%、〈午前3時台〉でも2.9%となっている。全国調査なので首都圏より低いように感じられるが、高校生という若者にとっての深夜時間は大きな意味を持っていた。恐らく「深夜放送」聴取という位置づけはかなり高かったように思われる。この世代前後(団塊の世代前後)が現在のラジオの中心的リスナーになっていると思うと、当時の「深夜放送」の役割がいかに大きかったかがわかる。

デイタイムの番組開発とパーソナリティ

 民放ラジオは60年代後半から70年代前半にかけて、「生ワイド番組」が主流となる。テレビの影響下にあって苦難の時期を経験し、その打開策として打ち出されたパーソナリティ中心主義、それは直接「生ワイド番組」へと繋がっていった。いい方を変えるとラジオの新しい領域を開拓したともいえる。この開拓方法は、一足早くテレビ影響下の苦しい時代を経験し、その打開策をパーソナリティの威力によって乗り切ったアメリカを参考にしたもので、日本のラジオに適したパーソナリティ像を創り上げたのである。

 朝、昼、夜、深夜と24時間パーソナリティの名前を冠としたワイド番組が流れた。番組の比重が、企画中心からパーソナリティ中心へと変わったのである。その代表的な例をあげてみよう。「こんにちワ近石真介です」(東京放送)、「山谷親平のお早うニッポン」(ニッポン放送)、「芥川隆行のオハヨー!日本列島」(文化放送)「おはようパーソナリティ中村鋭一です」(朝日放送)、「阿部牧郎とその一味」(大阪放送)、「おはよう小城まさひろです」(九州朝日放送)などである。こうしたパーソナリティ中心の番組づくりは全国のラジオ局へ広がっていったのは当然であったろう。

 名前を冠としたラジオ番組は、現在では当たり前のように映るが、この時代に個人がラジオを聴くようになったとこと、個人聴取こそがラジオのあり方を変え、パーソナリティ中心の番組を登場させ主流にしていったが、パーソナリティとリスナーのコミュニケーションがマスであるけれどもパーソナルに繋がるというラジオならではのコミュニケーション形態=マス・パーソナルコミュニケーションが出来上がっていく聴取形態を生み出し、ラジオ番組を大きく変えていったといえる。

〔個人の聴取形態の多様化の進行〕

 この背景にはもう一つの物理的環境があった。60年代初頭にラジオ受信機が真空管式からトランジスタ式に代わり、携帯化が可能となり、いつでもどこでも聴取可能な時代になったという背景がある。50年代の半ばに登場したトランジスタラジオは60年代に入り急速な普及をみる。真空管ラジオ受信機(据え置き型ラジオ)の生産を追い越したトランジスタラジオは60年には生産1000万台を超え、その後商業用自動車から自家用車にも搭載されるようになる。

 70年代に入り、ラジオの小型化やラジカセ(ラジオカセットレコーダー)など製品が各社から発売され、急速に普及していく。60年代はオープンテープのレコーダーが中心だったが、70年代に入りカセットレコーダーが急速に普及する。民放FMラジオの開局とともに、ラジオ付カセットレコーダーはエアチェックブームを引き起こしたことは、1つの社会現象となったほどである。

 個人聴取は、ラジオ受信機の小型化でいつでもどこでも聴ける環境やラジカセの普及により録音して聴くという習慣が広がっていく。ラジオのながら聴取拡大の一方、録音して聴くという傾聴型聴取形態も復活し、自己聴取の多様化が進んでいった。70年代ラジオ黄金時代はこうした聴取形態が広く深く浸透していった。(つづく)



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2013-11-01 〔第13話〕ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

** 現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 3〉**

〔70年代の番組編成と注目された番組群そして民放連の活動〕

 テレビの急速な普及により大きな影響を受け、経営的に苦心していた民放ラジオは、1960年代後半から1970年代にかけて独自の番組編成を構築し、再起を図っていった。また、同じラジオでもFM放送が本格的に放送開始し、ラジオ多様化と特色ある番組編成が展開されていく。大都市ではAM対FMという構図のなかで、AMは媒体開発に積極的に取り組んだ。たとえば、内容のあるトーク番組へ、パーソナリティの育成、地域メディアとしてのラジオ強化など番組編成に取り入れていく。

 一方FMは、音楽中心の番組編成により新たなリスナーを獲得していった。そうしたなかで民放連ラジオ委員会ラジオ統一キャンペーンを展開、“はらちの献血”キャンペーンは75年から10年間継続され、ラジオの社会的貢献を世間にアピールした。また、媒体開発の一環としてCM効果と広告料の相関関係を説明する「リーチ&フレキュエンシー(到達と頻度)」理論の導入と実用化あるいは消費者側に立った調査分析なども資料化し、広告主への説得を図っていった。

 その結果、広告メディアとしてテレビと異なるラジオメディアが定着していった。民放ラジオのこうした対策がラジオ復活の大きな原動力となり、テレビ主流の時代のなかで、民放ラジオの新たな存在を構築したのが70年代のラジオといえる。また70年代はポスト高度経済成長という時代にあって、人々は「モーレツからビューティフル」へと意識が変化した。個人のライフスタイルが求められ、豊かさのなかに個人的趣向を追求する生活が広まった。民放ラジオがリスナー層をクラスタ―に分類できたのは、豊かさに支えられた消費者の個人化という社会的背景が広がっていったからである。

 音楽で例えると、団塊の世代が大人になり、音楽への関心が飛躍的に方高まったことから、個性豊かな“ニューミュージック”という新たな邦楽を生み出して行ったことも同じ背景を持つ。この結果レコード産業が成長するとともに、新たに登場したFMラジオに音楽ファンが殺到する。「FMfan」などFM雑誌が3誌も発行され、100万部近い発行部数を誇っていた。ポスト高度経済成長時代の消費者が個人のライフスタイルを求める傾向がAM/FMのラジオを支えていたといっていい。

 ここから民放ラジオがどのような番組を放送し、支持を集めていったのか、具体的に取り上げたいと思う。民放ラジオがテレビによる低迷から抜け出し、復活を遂げた66年ごろからラジオ編成は大きく変わり、その基礎となったポイントがテレビではできないラジオの優位性を番組化したこと、すなわち番組がマスではなく限定多数へのアプローチするため、ワイド番組と魅力あるパーソナリティに焦点を当てた番組づくりだ。70年代はそれら60年代後半に生み出された番組要素を強化進展させた。その例を具体的にあげよう。

 (a)オーディンス・セグメンテーションの更なる追求、(b)重要性を増すパーソナリティと新たな発掘育成、(c)ワイド番組の充実と生活情報へ力点、(d)主婦・ドライバー・若者など新たなリスナーの開拓と進化、(e)地域ラジオとして地域リスナーの聴取拡大、といった言葉が当てはまる番組編成に構築されていった。まずビジネスマン、オフィスレディを対象として朝ワイド番組パーソナリティの登場、日中の主婦・ドラーバー対象としたワイド番組と女性に好まれるパーソナリティの育成、深夜の若者向け番組群などなど、全体が生放送を前提とした番組編成に組まれていった。

 こうした編成のなかで特質されるのが「JRN」と「NRN」に代表されるラジオネットワークの役割である。民放ラジオの全国放送を可能としたこれらのネットワークは「ナイター中継番組」「ニュース報道番組」「深夜放送」に力を発揮した。現在の民放ラジオもそうであるが、全国放送と地域放送の2つの役割を果たすことにより、ラジオの影響力を発揮できるメディアとなって行った。70年代に「深夜放送」の基礎が創られていったのである。


〔70年代の注目された番組群〕

 まず、最初にあげねばならないのは、民放ラジオが開拓の目標としたリスナー層の1つ「ヤング・ジェネレーション」の開拓があったが、これはすでに知られている通り各局が取り組んだ「深夜放送」である。60年代の後半に番組開発され、徐々に人気をあげていく。その代表格がニッポン放送の「オールナイトニッポン」、東京放送(TBS)の「パック・イン・ミュージック」、文化放送の「東京ミッドナイト」(後セイ・ヤング)などで、ネットワークを通じて全国に放送されていった。

 各番組のパーソナリティ変遷をみると60年代と70年代にある変化が生まれている。 60年代の代表的パーソナリティ糸居五郎高崎一郎土居まさる亀淵昭信、斎藤安弘、斎藤務、落合恵子野沢那智白石冬美増田貴光、戸川昌子田中信夫北山修矢島正明といったアナウンサーや俳優声優が中心となって音楽を中心とした番組が展開された。70年代になると、パーソナリティの性格が各局とも大幅に変化する。「オールナイトニッポン」は異色の芸人・タレントを起用した。小林克也泉谷しげるあのねのねカルメン笑福亭鶴光タモリ所ジョージつボイノリオなど、「パック・イン・ミュージック」は山本コータロー、愛川欣也、河島英五南こうせつ小室等杉田二郎など、「セイヤング」は岸田智史谷村新司吉田拓郎グレープなどだ。

 一言でいえば、60年代のアナウンサー中心から面白トークやタレント性を出せるパーソナリティへのシフト変更である。それは深夜=音楽メディアから深夜=共感メディアへのチェンジであったといえる。深夜自室に1人でいる若者が、信頼する兄貴分のパーソナリティに可笑しな話を聴かせてもらったり、悩みを聴いてもらったり、同世代の出来事に共感したり、と若者生活と一体になった番組づくりが爆発的なブームを起こし、若者への大きな影響力を持つに至ったのだった。(つづく)






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2013-10-11 〔第12話〕ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 2〉**

〔70年代の総広告費に占めるラジオの位置と営業展開〕


 70年代のメディアは、テレビ・新聞・ラジオ・雑誌という現在4大マスメディアといわれる形がほぼ出来上がった時代といえるが、このことは日本の広告費のシェアをみると分かりやすい。日本の総広告費は1960年頃から国民総生産の1%前後に定着している。たとえば、1970年では73兆円のGNPに対して総広告費は7500億円(1.03%)、10年後の1980年には3倍成長してGNP235.7兆円に対して総広告費2.28兆円(0.97%)となっている。因みに2012年のGNPは475.87兆円に対して総広告費は5.89兆円(1.24%)とである。

 では、総広告費のなかでラジオ広告費の占める割合はどのぐらいか。70年代10年間の総広告費は3倍に伸び、毎年平均18%成長した時代である。そのなかでラジオのシェアは10年間4.6%〜5.0%の推移である。雑誌は5.3%〜5.6%、ラジオよりちょっと高いがほぼ同じ状況である。70年の新聞が35%から徐々に下降、逆にテレビが32%から徐々に上昇していく。ほか20%前後が屋外広告などそのほかの広告費である。こうして総広告費からラジオの位置づけをみると、70年代のラジオは5%メディアであったといえる。広告業界ラジオが3%メディアといわれたのは少々後の時代である。

 ラジオの5%メディアと社会的影響力とは相関関係にあるとはいえないが、聴取率調査における聴取人口、あるいは実際の影響力として現れた数字や成果を総合的に判断しないと社会における影響度は定まらない。日本の総広告費に現れた数字が5%である。しかし、民放ラジオ経営資源であるラジオ広告費は、一般企業からみたメディア価値として位置づけられているのは現実であり、ラジオ局の経営規模を位置づける数字でもあった。その意味で5%メディア、後の3%メディアという表現はラジオ業界の規模を判断できる数字といえなくもない。

 さて、民放ラジオの復活はラジオ広告費の復活であるが、ラジオ営業としてどのような政策を推進し、結果的に広告メディアとして復活していったのであろうか。民放ラジオの営業展開を見てみよう。テレビの急速な普及によって低迷を余儀なくされたラジオの1965年以降、民放ラジオ局経営者と社員が一体となって、ラジオメディアの価値を再認識させる活動に奔走した。それ1つがラジオ資料でリスナーの研究と調査、あるいはスポンサーの販売に結びつくケーススタディづくりなどである。

まず、最初に触れなければならないのは、ラジオ衰退の最中に民放連が取り組んだ活動は「ラジオ白書」(1964年)を刊行したことであろう。ラジオメディアとして再認識のきっかけとなったもので、タイトルが「ラジオ白書――ラジオに変貌と再認識」である。その内容は(1)ラジオの変貌と実態を明らかにすること、(2)ラジオの番組と事業の両面から実態を描くこと、(3)ラジオ復興の問題点を指摘すること、の3点である。特に(3)で触れられている従来の見方―ラジオはマス・コミュニケーション不特定多数」を対象にしたメディアではなく、「限定多数」を対象としたマス・パーソナル・コミュニケーションとみるべきであるという考えを提起したことであろう。

 これは後に番組編成で取り入れられる「オーディエンス・セグメンテーション」(リスナーを属性によって区分する方法)や「ラジオ聴取の個人化」、あるいはテレビに不向きで、ラジオ特性となった「ながら聴取」などラジオ特性や機能を新たに生み出していった。それを営業分野では、スポンサー側の「マーケティング・セグメンターション」と結合させる企画開発と実施、地方局では「エリア・マーケティング」に繋がる調査や番組と連動したイベントの開発など積極的に生み出し展開していった。

 たとえばTBSラジオ東京放送)はラジオ調査シリーズ「マーケットに浸透するラジオ文化放送「市場におけるラジオの位置」、朝日放送の資料「12の誤解・ラジオは変貌しつつある」、東海ラジオ「ドライバーマーケットと東海ラジオ」といった資料を次々に作成し、広告主、広告代理店を積極的に説得していった。これらの資料はマーケティング理論を背景にしたものや、市場調査の結果からラジオの有効性を示したものなど、科学的な説明や分析が施された内容であった。

 こうして民放ラジオ業界全体の努力が実り、広告代理店は積極的なラジオ営業を展開するようになり、いっぽうスポンサーである広告主は「ラジオ営業は理論武装した存在」として認識され、ラジオへの出向を再開していったのである。ここではラジオ営業の面から触れているが、番組編成における「オーディエンス・セグメンテーション編成」「ワイド番組パーソナリティの活躍」「主婦層の番組開拓」「深夜放送による若者開拓」そして「2系列のネットワーク組織」など、営業展開と表裏一体となって新しいラジオメディアを構築したところに70年代に謳歌する民放ラジオの基礎が生まれていることを知っておきたい。(参考資料は民間放送年鑑、電通年鑑、民間放送30年史など。)(つづく)






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2013-09-27 〔第11話〕ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**現在の原型を創った70年代の民放ラジオ〈Part 1〉**


〔データにみる70年代の民放ラジオ

 民放ラジオが苦境を乗り切り復活を遂げた経緯については【第6話】と【第7話】で触れているが、60年代後半から70年代にかけて、第2の民放ラジオ黄金時代を迎えていく状況をみていこう。1970年代前後は、高度経済成長の終わりの近づいていた時代で、大方の国民は豊かになった社会生活、個人生活をどのような形で謳歌していくかに焦点が当っていた時期である。民放ラジオは、苦しい時代を乗り越えて新たなメディア価値を見出すことによって国民に注目され、経済成長の波にも乗ることができた。新たな社会的価値とマーケット価値を整っていった。その状況を民放ラジオの事業面からみてみよう。

 民放ラジオ事業は企業の広告費を原資としているので、60年代から70年代の媒体別広告費の推移をみると、その盛衰がはっきりわかる。61年全民放ラジオに投下された広告費は、178億円で前年度比100%とこれまでの成長が止まり、その後4年間にわたってマイナスとなっていく。5年後の66年に105%となりやっと回復する。この時期がラジオの「苦境の時代」である。それに反してテレビの成長は目覚ましく、ラジオの広告費を追い越した59年は238億円、そしてラジオが回復した66年には1247億円にも達し、8年間に5倍の成長をみる。以降も73年のオイルショックまで8年間平均115%の伸び率を示し、金額も3522億円と3倍近く成長する。いかにテレビが国民の生活に深く浸透し、企業がこぞって宣伝広告費を投下したかがわかる。

 民放ラジオの方は回復した66年169億円(105%)で、以降73年のオイルショックまで毎年平均115%伸ばしていく。金額にして496億円、66年時の3倍である。73年の時点でテレビとラジオは3対1、ラジオはテレビの3分の1のシェアであった。その後70年代の2度のオイルショックにも係らず、国民総生産が伸び、広告費の総額も増加しつづけ、10年間で3倍以上になる。80年にはテレビ7883億円(3.2倍)、ラジオ1169億円(3.4倍)の成長を遂げている(数字は「日本の広告費電通による)。

 こうして民放ラジオは、苦境を乗り切り、回復から成長への軌道に乗った70年代だが、この劇的な推移をどのような営業政策をもって対応していったのか、現在民放ラジオが再び苦境に陥っている状況下にあって、当時のラジオ界の姿勢に学ぶところが大きいので、具体的に触れてみよう。「電通年鑑」1970年版のラジオ面はこの状況を的確に纏めているので引用する。苦境以降チャレンジしてきた政策は、ラジオ体質改善に取り組み、新しいラジオ理論を構築、あるいはPR活動などを積極的に展開したことによるが、ラジオに携わる人たちの意識改革と活発な政策展開が大きいと記している。

 その政策を遂行する営業展開は、(1)ラジオ・リスナーをセグメントコンシューマーに組織化、活性化、そして調査など、スポンサーの販売ツールに関与した営業企画の拡大。(2)国民のレジャー志向に対応した土・日のワイド番組編成とその販売といった積極的な取り組み。(3)情報収集のためのシステム化(ヘリコプター、FMカー、ステーション・ワゴン、通信システム)を使用するマシン・プログラムの全国普及、(4)タイムランクの変更(料金表の改定)、による増収、およびカロリー・アップによる増額など。

(5)おびただしい数の販売資料配布。各社がそれぞれ作成配布したばかりでなく、〈ラジオラジオである〉という意識から、たとえば東京3社TQL(TBS、文化放送ニッポン放送)による共同作成資料と配布などが上げられる。(6)民放各社の番組、営業上のケース・ヒストリーあるいはラジオ理論について、多彩な話題づくりを新聞、雑誌、レポート、屋外キャンベーンなどチャンスを捉えて展開した。(7)ラジオはヤングとドライバーばかりではなく、「ニュー・ホーム・レディ」という命名で、主婦層の存在をクローズアップし、巨大な消費者群を捉えるべくチャレンジしたことも忘れられない。以上当時の営業政策を箇条書きにして詳しく記している。

 ともかく、60年代の末から70年代にかけて、民放ラジオが実際にどんなリスナーに聴かれていて、どのように影響を及ぼしているかを調査し専門家とともに科学的分析を展開し、世のスポンサーに問うていった。そして各放送局が全社を上げて、情熱を持ってその資料を積極的に活用しスポンサー開拓に励んだ姿勢がそこにあったといえる。(つづく)

2013-09-17 〔第10話〕 ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**ポスト高度成長期と民放ラジオの活躍**


◎ポスト高度経済成長期という時代 〈1970年代〉 (Part 3)


 1970年代は2度の「石油ショック」を経験する。最初の「石油ショック」は73年、これまで謳歌してきた高度経済成長をストップさせ、新たな時代に代わっていくエポックとなった。この原因は中東戦争によるものだが、第2次太平洋戦争の時と同様、石油に由来している。高度経済成長期の日本は石油の80%をアラブからの輸入に依存していた。その価格が4倍に跳ね上がってしまった。

日本の経済はお手上げ状態になり、国内の物価が急騰する。成長、成長と現を抜かしていた政界財界そして国民は、どう切り抜けるか真剣に取り組まねばならなくなった。折しも日米経済摩擦の浮上や変動相場制への移行(1ドル=360円の終焉)など、国際関係に広がる懸念が多発し、日本の状況は政治経済はじめ社会・文化の分野も大きく変わらずを得ない時代になったのである。

 この時代のテレビコマーシャルボンカレー大塚食品)の「じっとがまんの子であった」というセリフがある。ともかく庶民はじっと我慢して、嵐の通り過ぎるのを待つほかない世相であった。銀座のネオンは消え、テレビは深夜放送の中止、スーパーからトイレットペーパーが消えるという事態も起こった。この時の国民は自分たちの生活を見直し、節約、貯蓄、贅肉を落とす、という姿勢に取り組み、この苦境を乗り切った。この経験が2度目の「石油ショック」に生かされる。世界的に大騒動となっているにもかかわらず、日本は国民の自粛と巧みな対応で乗り切った。

 70年代は、豊かになった生活環境を〈これでいいのか〉と国民が問う時代になっていく。そして豊かな生活のなかで意識が大きくかわっていく時代でもあった。日本人の意識の変化についてNHK放送研究所が行っている調査からその一端を紹介しよう。NHK発行の雑誌「放送研究と調査」(2009年4月号)より、日本人の意識の変化を拾ってみる。たとえば、家族のあり方について〔望ましい家族〕では、夫婦の役割が旧来の分担ではなく《家庭内協力》に比重をおく意識が強くなる。73年の21%が83年には29%へ、93年には41%へ増加している。

また子供たちの教育程度については次のような結果がある。男の子の場合〔大学まで〕の進学が73年では64%、83年では68%、93年では70%と多少上がっていくが、女の子は〔短大・高専まで〕が73年では30%、83年では43%と13%もアップ、93年では40%と多少の減少、それに代わって〔大学まで〕という希望が増えていく。

人間関係について、親戚づき合いでは全面的つき合いの減少や形式的つき合いが増えている。職場での付き合いにおいて、全面的つき合いは全体的に数値が多い割に減少しているが、形式的つき合いは徐々に数値を増している。このほか興味ある項目が多数あるが、スペースの関係で触れられない。関心がある方は上述した雑誌「放送研究と調査」2009年4月号の記事と調査結果を参考にされたい。ネットで閲覧できる。

 この調査結果にも現れている通り、日本人の意識は高度経済成長期を経験し、安定成長へ移行した1970年代に大きく変化していく。その変化の仕方を「ポスト戦後社会」(岩波新書)の著者である吉見俊哉は上記調査結果からこう記している。

 「変化は家族と企業の全人格的な結合が、同時に弱まっただけではない。同時期に『しっかりと計画を立てて、豊かな生活を築く』や『みんなと力を合わせて世の中をよくする』といった未来中心の考えが弱まり、『その日その日を自由に楽しく過ごす』や『身近な人たちとなごやかに毎日を送る』といった現在中心の考え方がより支配的になっていった。」「〈未来〉を基準にして現在を位置づけることは、近代社会の根幹をなす価値意識であったわけだから、70年代以降に顕著になるこの変化は、戦後社会という域を超えて、近代社会地殻変動が始まっていたことを示している。」と記している。

 70年代は多くの分野で振り返る必要があるが、ひとことで言うならば、戦後60数年のなかで70年代は、日本の社会と日本人の意識が大きく転換した時代だったといえるであろう。この70年代こそ、4大マスメディアが日本の社会に大きな影響力を持つ存在として揺るぎない地位を確立するとともに、民放ラジオが60年代後半から70年代にかけて第2の全盛期を謳歌していくのである。その辺を次回は触れてみたい。(つづく)







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2013-09-09 〔第9話〕ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**ポスト高度成長期と民放ラジオの活躍**


◎ポスト高度経済成長期という時代 〈1970年代〉 (Part 2)


 高度経済成長の結果、社会全体のパイが大きくなり豊かさを感じた時代、「中流意識」が国民全体に広まっていく時代。70年代はそうした状況のなかで国民の意識が次第に変化し、アメリカをモデルに、理想を追いかける時代、豊かさの夢を追い求める時代を経て、自分たちの手による時代の構築へと変わっていった。このゆとりと前向きの姿勢が、「重」から「軽」を尊重するという形で変化、工業製品では機能やデザインを重視、流通革命といわれた販売店も東京渋谷街に象徴されるような、ファッション化する街づくりと一体化して進む。「重厚長大」から「軽薄短小」へという価値観の変化、その変化を現わす言葉に当時よく使われた「消費社会」がある。

 新たな社会デザインを提案している三浦展は著書「第四の消費」で消費社会を四段階に分けて、1975年以降を「第三の消費社会」としてその特徴を示す。 (1)家族から個人へ(車の家族に一台から個人に1台へ) (2)物からサービスへ (3)量から質へ(大量生産品から高級化、ブランド商品へ (4)理性、便利さから感性、自分らしさへ (5)専業主婦から働く個性へ という5項目を上げている。

 当時の社会生活の傾向がよくまとまっていると思う。「戦前のムラと軍隊という共同体が企業という『生産共同体』として再編され、かつその従業員は『消費共同体』としての家族を形成し、二つの共同体が相互に補完し合いながら、社会を発展させる推進力となった。国民はその両輪の上に乗り、両輪を動かし、二つの共同体への所属感情を持つことによって、みずからのアイデンティティを獲得した」と記している。

 その頃注目を集めた広告コピーに「消費は美徳」「大きいことはいいことだ」といった消費を促す雰囲気が社会全体を包んでいたように思う。こうして消費社会はますます広く深く浸透していくが、一方で忘れられない社会問題も多く発生する。それは経済成長負の遺産ともいえる公害問題やベトナム戦争を支援してきた政府への反発など、社会問題として国民の前に大きく横たわることになる。高度経済成長の最後の大イベント「大阪万博」が終了すると同時に、開かれた国会は「公害国会」といわれ、公害関係法規が整備されていった。熊本水俣病、イタイタイ病、新潟水俣病四日市公害森永ヒ素ミルク中毒、カネミ油症など大きく報道され、裁判が注目された。

 こうした公害問題が大小社会に広まることにより、加害者と被害者の区別が付きにくいケースが多発し、単位に公害として捉えるには不適切となった。そこで自然環境、都市環境などを含めて環境問題として捉えることとなり、政府も即応して「環境庁」(1971年)を設ける。70年代の前半はまだ高度経済成長期(衰退期)にあったが、70年のNHK世論調査によると、「今のような経済成長が続くことは望ましくない」という人数が「望ましい」とする人数を大幅に超えた結果が出ているという。国民の大半はすでにこの頃公害により多くの被害者を生み出しながら、「豊かさ」を維持し続けることに疑問を抱いていたのではないだろうか。そして73年に突然「オイルショック」が起き、これまでの社会生活がガラリと変わっていく。(つづく)





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2013-09-02 〔第8話〕ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**ポスト高度成長期と民放ラジオの活躍**


◎ポスト高度経済成長期という時代 〈1970年代〉 〈Part 1〉

 これから1970年代の社会と民放ラジオについて考えていこうと思うが、その前に「東洋の奇跡」と言われた高度経済成長をもう少し触れておこう。高度経済成長期間を整理してみると、長くみて戦後復興期を過ぎた年(1954年)から第1次石油ショックの年(1973年)のおよそ20年、あるいは実質的期間として、「所得倍増」を打ち出す池田勇人首相誕生(1960年)から第1次石油ショックの翌年(1974年)の14年間と捉えることもある。いずれにしても経済成長によって大きな社会に変化が生まれる時期は後者の期間である。ほかの言い方をすれば、池田勇人首相佐藤栄作首相田中角栄首相と3首相の任期時代で、これを胎動期、躍動期、衰退期と分けることもある。

 特にこの期間、軍事日米安保条約に頼る形で、主に経済成長に重点をおいて政策が取られていった。その背景には戦争イメージを払拭し、民主主義国家として世界に存在感を示すものが経済の豊かさであり、敗戦で味わった苦しい生活を跳ね除ける国民の希望を具現化することこそ当時の為政者官僚大企業の姿勢であったといえる。その象徴東京オリンピック開催であり、東京大阪新幹線開通であり、高速道路の拡張といった目で見える光景である。国民が肌で感ずることこそ重要で、成長政策の可視化であった。そうした政策が「大阪万博」へと繋がっていく。高度経済とは「大量」という言葉でもある。大量生産、大量輸送、大量販売、大量伝達、と何事にも「大量」が付いて回った。テレビCMで「大きいことはいいことだ」というキャッチフレーズが印象に残っている時代である。

 さて、1970年代初頭であるが、この頃は、衰退期にあったがまだ高度成長期であり、時代の潮流を変える大きな出来事が社会の注目を集めた。1970年春「大阪万博」の開催、1972年2月「札幌冬季オリンピック」「浅間山荘事件」、同年5月「沖縄本土復帰」、同年7月「田中角栄首相に就任」、1973年2月「変動相場制への移行」、同年11月「石油ショック」など、この時代のエポックメイキングな社会事象が多く発生している。特に「大阪万博」は世界へ向かって進む日本の産業界の姿を、「田中角栄首相」は高度成長に甘んじて日本列島改造計画提示、その後狂乱物価を招く。「札幌オリンピック」はスポーツを通じての世界へ前進する日本人の表出、「変動相場制」はグローバル経済新自由主義へ繋がる端緒をつくり、そして「石油ショック」による辛酸を舐めるなど、日本の社会が大きく変貌していく時代であったといえる。

 70年代から80年代にかけて大きく変わった価値観は、「重厚長大」から「軽薄短小」へという変化、工業生産に支えられた工業化社会が金融やサービスなど中心としたポスト工業化社会へ、社会体制の基軸が移行していった時代でもある。この時期、国民は成長時代の3C(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)から新たな3C(カラーテレビ、クーラー、カー)へグレードアップし、自動車保有台数などは1960年46万台に比べて1970年には878万台へ19倍もの普及をみせている。ほぼ5人に1人の保有率である。住まいはといえば、郊外団地や新興住宅地に住み、様々な電化製品に囲まれた消費生活が営まれていった。

 この時期、政治経済の分野では、自民党政権による安定政治、60年代実質経済成長率の2桁経済成長から一桁成長に変わり、安定した社会を形成されていく。人口動態からみると、地方の若者が都会に移動した55年代から60年代そしてほぼ75年頃には終了する。都会に出た若者は 家庭を持つと、アパート暮らしからマンションや郊外住宅に住むようになり、都会生活こそ文化生活の最先端でもあった。都会、会社勤務、核家族という環境のなかで伝統的な生活共同体が崩壊し、新たなコミュニティ共同体)が形成されていく。会社という組織を中心に核家族化が急速に進み、これまでにない生活空間を作り出していく。思い返せばこのころの会社生活には、家族も参加できる運動会や社員旅行などがあり、人との繋がりという点では、会社がコミュニティの役割を担っていた時代であったといえる。(つづく)






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2013-08-25 〔第7話〕ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**苦難の時代を乗り切った60年代後半の民放ラジオ**


〔民放ラジオ1960年代に衰退と復活を経験する〕その3

 ラジオが苦境から復活するその戦略を綴っているが、(1)個人リスナーのセグメンテーション、(2)個人に訴える番組出演者=パーソナリティの強化については前回触れた。今回は、(3)番組のワイド化と大型企画の編成、(4)ラジオネットワークシステムの構築、を取り上げる。

 (3)番組のワイド化は生番組を中心とした午前、午後、夜、深夜と時間帯に見合ったターゲットを対象に、スタジオとリスナーを結んで生放送で展開する方式が中心となる。またFMカーが街中、商店街、住宅街などへ繰り出し、リスナーにマイクを向けて、リスナーの生活や反応を伝え、リスナーとの距離を短くしていった。生活感と世の動きを巧みに掬い上げる“井戸ジャーナリズム”としての力量を発揮していく。大型企画の編成は、なんと言っても「プロ野球ナイター中継」であろう。以前にもナイター中継は放送されたことがあるが、1960年代以後は各局とも連日レギュラー番組として放送に踏み切っていった。

 また、ラジオはテレビに影響を受け、各局とも制作費削減に取り組まざるを得ず、現場は少ない制作費のなかでより話題性ある番組づくりに腐心した。その点ナイター中継は放送権以外にアナウンサーと解説者で進行するというシンプルな番組づくりであったことや、朝の番組、日中の番組もワイド化を図り、制作費負担削減に対応する一方、むしろ、少ないスタッフと個性あるパーソナリティの存在がラジオの新たな特性を引き出していく結果となった。言ってみれば現在のラジオ番組の原型というものがこのころ出来上がっていく。

 当時のラジオ現場の雰囲気を、当時は広告代理店に勤め、ニッポン放送担当だった作家の半村良は「放送局の社員でもないのに、スポンサーさえ見つけてくれば勝手にキー局の時間枠を取って番組が作れる時代だった」「結局自分でパーソナリティを見つけてきて、自分で台本を書いて、自らディレクター代わりにキューを振ったりしていた」と後のインタビューで語っている。苦しい状況に置かれていた民放ラジオの雰囲気が伝えってくる。

 一方、60年代後半から“いざなぎ景気”に支えられ大型消費時代が形成される時代背景とともに、ラジオの営業収益も向上をみる。そして編成主導のもとに様々な大型企画やラジオ媒体価値の指標づくりなどが登場する。民放連内に「ラジオ強化委員会」が設置され、統一キャンペーンの実施やCM効果と広告量の相関関係を説明する「リーチ・アンド・フリクエンシー」(到達と頻度)理論の導入・実用化など、ラジオメディアの有効性の実証的研究がなされ、ラジオ復活に大きく貢献した。  

 (4)ラジオネットワークの構築は1960年代中頃に誕生する。これは上記の大型企画や民放連ラジオ強化委員会などとも呼応し合って、ラジオの影響力を全国に広げていくと同時に、広告メディアとして全国展開を可能としていった。ネットワーク組織はキー局であるTBSが中心となって「Japan Radio Network」(JRN)が、65年2月に加盟30局で発足(現在34局、単独加盟4局、クロスネット30局)。また同じ年の3月、やはりキー局であるニッポン放送文化放送が中心となり「National Radio Network」(NRN)が加盟23局でスタートする(現在40局、単独加盟10局、クロスネット30局)。ここにラジオにおける2大ネットワークが誕生したのだった。

 このネットワークの特色はクロスネット局が30局に達していること。基幹地域(東京大阪名古屋福岡など大都市の地域)の局は単独加盟、それ以外は両ネットワークに加盟している形態をとった。その形態は現在も続いている。いずれにしても、ラジオ苦境からの脱出は、“メディアの存在を変える”という4つの戦略が大きく功を奏して復活を遂げた。すなわち、ラジオメディアそのものを問い直す姿勢とそこから探り出された新たなメディア価値の創造だ。複数のリスナーからセグメントされた個人リスナーを対象に、個性あるパーソナリティが親戚の人や学校の先生といった親しみを感じるキャラクターで情報や話題を伝え、大型企画はラジオネットワークを通して全国に展開するという、ラジオがこれまでに考えもしなかったメディアのかたちを生み出し、新たなメディア価値を創造していった。

 このメディア価値を生み出していく背景の1つとして、真空管ラジオからトランジスタラジオの転換と普及があった。トランジスタラジオは受信機の小型化と車載化が可能となり、ラジオがいつでもどこでも聴ける体制が整っていったことは、ラジオの新たな価値の創造に計り知れない役割を果たしたといっていい。因みに電子機械工業会資料によると、1957年真空管ラジオの生産台数は263万台に対してトランジスタラジオが94万台、しかしその翌年にはトランジスタラジオの方が上回り、1960年には真空管式は189万台に対してトランジスタ式は1071万台と圧倒的な数となっている。ラジオが低迷と復活の時期に、ラジオ受信機は真空管式からトランジスタ式へと大きな転換を図っていく時期でもあったのである。

 60年代のラジオの衰退と復活は、上記の4つの戦略のほかに現場ではさまざまな試みが実施されたことはいうまでもない。経営者と現場社員とが一体となったチャレンジ精神の存在も大きかったであろう。民放ラジオは60年代後半から70年代へ向けて、第2の黄金時代を迎え、その再起した様子を“ラジオルネッサンス”という名前が付いたほどであった。現在のラジオの低迷を考える時、40年前のラジオの奇跡に学び、これからの情報革命と社会再構築に合致した構想と戦略を持って新たな民放ラジオづくりに邁進すべきこと教えてくれる。(つづく)






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2013-08-18 〔第6話〕 ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**苦難の時代を乗り切った60年代後半の民放ラジオ**


〔民放ラジオ1960年代に衰退と復活を経験する〕 その2

 民放テレビの急成長と反比例するかのように、衰退の一途を辿る1960年代の民放ラジオは、苦境をバネに新たなメディアとしての生き方を研究する。主に対象となった編成ポイントは、「家庭で聴くラジオ」から「個人で聴くラジオ」への大きな変化があり、その環境に即した編成として、(1)個人リスナーのセグメンテーション、(2)個人に訴える番組出演者=パーソナリティの強化、(3)大型企画の編成、そして(4)ラジオネットワークシステムの構築、といった現在の民放ラジオの基礎となる対策が次々と打ち出し、テレビというメディアとは異なったラジオメディアづくりに挑戦していった。

 これらの対策をもう少し詳しく触れよう。(1)個人リスナーのセグメンテーションについて〜アメリカでは「オーディエンス・セグメンテーション」といわれ、既に存在していた。しかしアメリカでは、ラジオ局の専門局化の基本として用いられていた。日本のそれは一つのラジオ局の番組編成内のなかで採用されたものでアメリカとは多少異なる。リスナーの細分化は放送時間帯に合ったリスナーをメインターゲットとする方式。たとえば、午前中は主婦を、午後は主婦・商工自営・ドライバー、深夜はヤング世代を、といった時間帯別リスナーセグメントであった。因みにこのリスナーセグメンテーションの手法は64年3月にニッポン放送が打ち出した編成で、ラジオ復活に大きな影響を与えていった。

(2)個人に訴える番組出演者=パーソナリティの強化〜番組出演者を主にパーソナリティと呼ぶようになり、人口に膾炙するのはこのころで、聴取率をアップする最大の要因はパーソナリティであるとして、各局とも総力を挙げてパーソナリティ育成に乗り出していく。当時の深夜放送パーソナリティを見れば一目瞭然で、東京放送パックインミュージック〕は戸川昌子、野澤那智白石冬美など、文化放送〔セイヤング〕は落合恵子土井まさるなど、ニッポン放送オールナイトニッポン〕は糸居五郎高崎一郎、斎藤安弘など、最初の深夜番組パーソナリティとしてヤング層に大きな影響力を持ったパーソナリティであった。

 その後深夜放送パーソナリティとして注目された人々は、笑福亭鶴光山本コータローさだまさし谷村新司タモリせんだみつおビートたけし吉田照美など、その数たるや図り知れない。因みに1965年のラジオ調査で、15歳〜20歳前半ヤング層がシェア50%を越えたというから凄まじい。リスナーのセグメンテーションを採用し大成功させたのは他ならぬヤングを対象とした深夜放送であった。当時を経験したリスナーがいるとしたら、いまの深夜放送、いやいまのラジオをどのように受け止められるであろうか。

 このリスナー・セグメンテーションは、深夜に限らず朝、昼、夕方、夜とそれぞれ採用され、またセグメントされたターゲットに対して提供する番組内容に重点が置かれる。その最も重視されたのがラジオの持つ特性である同報性であり速報性であった。同報性とは送り手である番組(パーソナリティを含めて)と聴き手であるリスナーが同じ時間を共有すること。ラジオでは生放送である。速報性は名の通りできる限り早く情報を提供すること。この2つが尊重され、生放送番組におけるパーソナリティとリスナーの同時性、そしてニュース・トピックスの速報性が尊重された番組が多く創り出されていく。

 情報番組として挙げられるものは、ニュース番組交通情報、天気予報、マーケット情報、スポーツ情報などなど、家庭の主婦、商工自営、ドライバーなどセグメントしたリスナーに対してきめ細かな速報として伝達すべくあらゆる分野の情報を取り上げていったのである。1960年代はモータリゼーションが急成長する時期で、乗用車の普及は60年の16万5千台が70年には318万台となり、いかにマイカーブームが凄まじく、カーラジオの聴取が多かったかが察しられる。ドライバーというセグメントされたリスナーが日毎に増加していったかが分かる。(3)大型企画の登場と(4)ラジオネットワークの登場は、次回につづく。





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2013-08-10 〔第5話〕ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**苦難の時代を迎えた60年代の民放ラジオ**

〔民放ラジオ1960年代に衰退と復活を経験する〕 その1

 1955年以降日本は、戦後復興期を脱し経済成長の道を走り始める。民放ラジオも成長環境に支えられ、急速に普及していくが、この背景には放送分野でNHKラジオが戦前戦中における社会状況や戦時状況を把握する唯一の手段として国民の間に普及をしていた。因みに終戦時の1945年のNHKラジオ契約数が750万契約、民放ラジオが開始された51年には920万契約、1,000契約を越えるのはその2年後である。民放ラジオがスタート早々黒字経営を迎えられたのは、すでに受信機の普及により広告メディアとしての価値が備わっていたといえる。そして民放ラジオは1960年頃まで順調な成長を遂げていく。

 50年代の家庭における欲求は「三種の神器」(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)で、50年代後半の普及率は目覚ましいものがあった。特にテレビは、59年の「皇太子ご成婚記念パレード」を見ようと購入、電気店からテレビ(モノクロ)の在庫が一掃されたというエピソードが残っている。そして60年代には「3C」の時代となり、カラーテレビ・クーラー・乗用車という新しい耐久消費財にとって代わる。NHKの受信契約数の流れをみると、59年ラジオ契約数が1,460万件の最高数字を示し、この年を境に毎年減少し、8年後の68年には220万(最高時の15%)まで低下し、ついにラジオ受信料が廃止されテレビのみとなっていく。

 それに対してテレビの普及率は凄まじく、58年から59年の1年間の契約数は198万から1,980万へと10倍に跳ね上がっている。皇太子ご成婚記念イベントをテレビで見ようとする国民の期待がいかに大きかったかが分かる。その後は毎年2〜3割の伸び率を示し、10年後の70年には2,200万を突破する。当時の全国世帯数が2900万余なので、75%の家庭に普及したことになる。ここで60年代の重要なポイントは、国民がラジオからテレビに一家団欒の中心を移した時期、NHK受信契約からみると、62年の年にラジオが945万件、テレビが1,020万件であり、契約数でラジオとテレビが入れ代わった。

 この状況を民放のラジオ・テレビの広告費からみてみると、ラジオの営業収益が59年に162億円、テレビが238億円となり、ここでも入れ代わっている。その後ラジオはほぼ横ばい状態に対してテレビは平均13%の割合で伸びていく。横ばいといっても時代は高度成長期で、60年〜70年の10年間に国民総生産(GDP)が4.5倍、日本の総広告費が4.3倍も成長した時期だけに、民放ラジオの営業収益がいかに衰退したかが分かろうというものでる。

 NHKラジオの受信契約数の減少も民放ラジオの営業収益の衰退も、非常に厳しい状況であったことが上記の数字で分かるが、ラジオの大きな流れとして、50年代のラジオが第1期全盛期を迎え、その勢いは60年代に入る急速に縮小し、民放ラジオは衰退の一途を辿っていく。言ってみれば現在の民放ラジオが置かれている状況と非常に似ている。ラジオが置かれている社会環境や生活環境が異なるものの、本質的には「ラジオの衰退」という状況は共通である。民放ラジオはこの苦境をどのように乗り越えて行ったか、民放ラジオの取り組み、そして何を生み出して行ったかを次回に触れてみたい。なお、記載数字は日本放送協会「NHK年鑑」民放連「日本民間放送年鑑」民放連ラジオ白書」などを参照。(つづく)






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2013-08-03 〔第4話〕ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**高度成長期:民放ラジオの基礎ができた時代**


高度経済成長期〈1955年〜1970年〉

 1955年頃の雰囲気を知る人にとっては、本当に懐かしい時代である。島倉千代子「りんどう峠」春日八郎「別れの一本杉」などが街中に流れ、映画ではジェイム・ディーン主演の「エデンの東」が大ヒットする。衣食に瀕した時代の影はもうそこにはなく、誰もが前を向いて走り出していた。1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」ということばが登場し、当時のマスコミを賑わせた。象徴的なのは、当白書の結語で「回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」としている。

 このことばを裏付けるように1955年から「神武景気」が始まり、その後好況不況を繰り返しながらプレ高度成長期は進んでいく。そして翌年、日本が国連に加盟し世界から認められる。59年には皇太子ご成婚(現天皇陛下)が執り行われ日本中が沸いた。当時“三種の神器”の1つに数えられた白黒テレビは爆発的に普及する。国民はご成婚の様子をテレビで見ようとテレビに飛びついた。その翌年は60年安保で国を2分するほど大きく揺れ動く。そしてこの年、池田勇人内閣は“所得倍増”を唱え高度経済成長政策を推し進めていく。映画「ALWAYS・三丁目の夕日」はちょうどこの頃の雰囲気を再現している。64年には“東京オリンピック”が開催され、日本中を熱狂させた。こうした世界的な催事が実施できる国として、国民は大きな自信を持った時代である。

 また、政府経済成長を促進させるため、公共投資を積極的に推進、新幹線の建設、高速道路の建設は急ピッチで進められた。物の豊かさを追求する世相は止まるところを知らず、この年の家庭における普及率は白黒テレビが90%、洗濯機56%、冷蔵庫62%を示しており、60年代末には経済成長を示す国民総生産(GNP)が、自由主義諸国のなかでアメリカに次ぐ世界第2位までに登り詰める。この経済成長の影では、社会問題として環境汚染を広く生み出し、大気・河川・海水の汚染が各地で発生し、公害病が多発する。

 社会学者見田宗介によると、戦後復興期を〈理想の時代〉と名付けた。〈理想の時代〉とは、多くの場合American Way of Life(アメリカ人みたいな生活)の渇望が人々を動かし、現実の世界に対する理想を追求した時代であったという。そしてプレ高度成長期を〈夢の時代〉と名付けている。〈夢の時代〉は60年代前半の〈夢〉と60年代後半の〈夢〉に分かれるという。さまざまな背景はあるものの、前者は「幸福な家庭」を実現する夢を追い求めた時代、後者の〈夢〉はむしろ出来上がりつつある「近代合理主義」や「豊かな社会」という管理社会に対するレジスタンスが、理想の形に対する反乱といて現れた。ヒッピームーブメントやフラワーチルドレンのような行動もそうした現れで、新しい時代のかたちを求める姿であった。いずれも「熱い夢」の沸騰であったといっていい、と表現している。

 成長期で忘れられないことは、経済成長に伴い大企業中小企業は多くの働き手を必要としたことで、地方の農家や小事業者の家々から若者が大量に大都市へ移動したことである。集団就職の名に代表され、地方の中学高校の卒業生が送り込まれたのだが、その数たるや大変なもので、55年から65年の10年間に東北地区と九州地区では青年男性の50%前後、女性が40%前後に達したというから凄まじい。その結果、日本の社会構造や人口分布において大きな転換点を迎えることになった。これは家族のあり方や地域の共同体コミュニティの形態に大きな影響を与える一方、都会における雇用労働者と新たな生活環境の誕生が顕著になっていく。この現象はメディアを考えるうえで、その後重要なポイントになっていく。これは別項で詳しく触れたい。(つづく)





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2013-07-27 〔第3話〕ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


**戦後復興期:民放ラジオの基礎ができた時代**

 

1期は戦後復興期(1945年〜1955年頃)、2期は高度経済成長期(1955年〜1970年頃)、3期はポスト高度経済成長期(1970年〜1995年頃)、そして4期は現在の経済社会停滞期である。1期と2期を一緒にするケースもある。もちろんこの経済の変遷とともに、政治分野、社会分野もそれぞれ表裏一体となって時代潮流を創り上げてきた。そうした時代の流れと民放ラジオの誕生から普及までの期間を次の触れる。


◎戦後復興期〈1945年〜1955年〉


 〔廃墟から独立国として歩み出した時代〕

 東日本大震災津波で丸ごと流失した市町村の跡は、B29の爆撃にあった各都市の廃墟を思い起こす人々が多かったというが、あの廃墟が全国の都市を覆ったのだが、そのなかから国民は立ち上がった。苦しいなかにも連合軍の指導する民主主義言論の自由を受け入れ、戦前とは比較にならない自由の下で復興に努力していった。GHQ(連合軍最高司令官総司令部)は、(a)婦人の解放(b)労働者団結権の保障(c)教育の自由主義化(d)圧政的諸制度の廃止(e)経済民主化を図るため五大改革指令を発して、非軍事化と民主化の政策を推し進めていく。

 一方、国際情勢が大きく変化し始めた。毛沢東中国台湾中華民国の対立、ソ連をバックにした北朝鮮韓国の対立など、アジアにおける共産圏と自由圏の軋轢が激しくなっていた。GHQは占領政策の転換を図り、経済の再建と自立を求めるようになり、前者は経済安定九原則の実行を、後者は警察予備隊(のちの自衛隊)の発足を促していく。そして1950年、朝鮮戦争が始まり、連合国軍アメリカ軍を中心に韓国と共に参戦し、日本は連合国軍の補給基地となり、にわかに朝鮮特需として好景気が訪れる。

 1951年には、日本の鉱工業生産は戦前の平均水準を回復した。この年サンフランシスコ平和条約が締結し翌年発効し、連合国軍の占領は終わって日本は主権を回復した。しかし国内政治は安定せず、保守革新の対立が激しく、社会を騒がす事件が多発した。1955年には保守合同といわれる自民党が結成され、社会党と共に2大政党として保守・革新対立関係、いわゆる55年体制ができ上がった。このころの国民は、貧しい生活から抜け出すために、アメリカのような生活物資の豊富な暮らしを夢見て、一心不乱に働いた。戦後のさまざまな政策と一体になってこの難局を乗り越えたといえる。新たな国づくりのなかでアメリカ・ドリームを追い求める〈理想の時代〉であった。


〔1951年誕生した日本の民放ラジオ

 民放ラジオが誕生したのはこの時期で、1951年9月1日名古屋中部日本放送(CBC)が第一声をあげた。続いて大阪新日本放送、現毎日放送(MBS)が放送を開始、すでに放送していたNHKとともにNHKと民放の並列時代を迎えた。テレビは、ラジオに遅れること2年、1953年にNHKと日本テレビが放送開始している。民放ラジオはNHKとともに国民的メディアとして普及に拍車がかかり、急速に普及していく。しかしテレビはあまりにも高価で一般家庭に普及するには時間を必要とした。

 民放ラジオ(AM)は1955年に全国40局を数え、現在のAMラジオの原型がほぼ出来上がった。番組編成はNHKと真っ向から勝負を挑んだ局とNHKより話題性に力を入れる局とがあったようで、ラジオが競争時代に入り、全国のリスナーに対しラジオ喚起が大きく進んでいった。メディア的にみれば、このころマスによる情報伝達手段は大手の新聞とNHKラジオであり、その後活字メディアの普及と民放ラジオの開局・受信機の普及によりマス・メディアとして広がりと影響力を持ち始めるようになった。一般生活者にはこれらのメディアが貴重な情報源となり、また文化娯楽に接触できるメディアとしても大きな役割を果たしながら発展した時代であった。

 いずれにしても民放ラジオは開局1年余で黒字化できる局が生まれ、好調の滑り出しをみせたようだ。企業がスポンサーとして番組を提供することに、企業自体もリスナーもあまり抵抗なく受け入れたようで、黒字化を推進する大きな要因となった。番組編成はNHK同様「総合編成」といわれる報道、教育教養、娯楽の番組が万遍なく編成され、幼児から高齢者までを対象に放送された。因みに番組編成時間をみると、朝の時間=家族全員、午前中=主婦、午後=主婦・商工自営、夜時間=家族全員、といった具合であった。

 また、放送番組はそれぞれ都会の局と地方局が連営して番組を協力し合うという、現在のネットワークとは異なった民放同士の協力体制で放送されたという。この時代は放送用通信回線ができておらず、主にテープネットといわれる録音番組を交換するものであった。ラジオネットワーク化の原型とでもいえる形態で、その後ネット系列と組織が生まれていくが、こうしてテレビが登場する以前のラジオ全盛時代の基礎を構築していった。(つづく)





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2013-07-20 〔第2話〕ラジオの新たなかたち・私論 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

**民放ラジオの立ち位置を再認識するために 〈Part 2〉**

〈1〉 歴史的転換期にある21世紀初頭と民放ラジオ

 ラジオに携わっている人と会合した折に、いま自分がどんな時代の立っているのか分かり難いという人が案外多いと聞いた。不況の長期化、政治の混迷、格差社会、就職難などどれをとっても前向きなものがなく、行き詰った雰囲気=閉塞感のなかで、誰もが時代を把握するのに難しい世相と思われる。川の流れが堰き止められ淀んでいるような感覚だ。安倍政権による政策が良いか悪いかは別として、前向きによる影響が多少出始めてはいる。しかし民放ラジオの将来を考える時、いま動いている時代の底流をはっきり把握しておかねばならない。その手懸りとして専門家の分析する幾つかの歴史的状況に触れてみたいと思う。

 現代という時代は歴史の転換点にあり、“歴史の峠”といえる、と神野直彦東大名誉教授)は著書「『希望』への改革」「分かち合いの経済学」のなかで触れている。近代という社会は3つのサブ・システムから構成されている。経済システム、政治システム、社会システムという3つの領域で、これらが有機的な結びつきによって社会全体が機能している。このシステムは、時代の転換と共に新たな形態を創り出していくことを過去の歴史は物語っているとして、歴史は世紀の変わり目に、「歴史の峠」を演出するという。

 19世紀から20世紀の転換期に大不況(グレイト・デプレション)を経験し、「総体としての社会」が崩壊の危機に陥ってしまった。現在の20世紀から21の世紀転換期にも同様な大不況が起きている。100年単位で起きる時代の転換期である。これは世界の歴史に現れている現象で、前者20世紀は軽工業中心の産業時代が終わりを告げ、鉄鋼業を基軸とする重化学工業の時代が始まろうとする時期であった。後者21世紀はその重化学工業を基軸とした産業構造の時代から、情報や知識を基軸とする情報産業の時代に変わろうとしている。

 この転換期に対して情報・知識産業による経済システム、政治システムそして社会システムという社会の総体を構成している分野が、どのように転換し推進すべきなのかを見い出せていないのが日本の「失われた20年」の姿であったようだ。明治時代は西洋化することに国家ビジョンがありその実現に邁進した。これを第1期とするならば、太平洋戦争後の民主主義国家の形成が第2期で、21世紀に入った日本は第3期を迎えているが、前2回と比べ、新たな時代の国家ビジョンが描かれていないのが現在である。社会の閉塞感の根本的原因は明日の姿を描けないところにあるのではないか、と分析する。

 それは民放ラジオにとっても同じことがいえると思う。時代認識を深めるために、ここ60数年の歩みを簡単に振り返ってみることにしよう。1945年に太平洋戦争は日本の敗戦で終結し、連合軍(主導権はアメリカ軍)に占領されたところからはじかる。300万人余の戦死者を出し、500万人もの在外邦人が無一文で帰国せねばならなかった国民、全国の多くの都市を焦土化した我が国は、全くといっていいほど何もないところからのスタートだった。その後半世紀を超え68年を数える。この時代を3つないし4つに区分されることが多い。それに従って概略を記していこう。(つづく)




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