[特撮]ウルトラマンメビウス第32話「怪獣使いの遺産」

視聴の感想はまた後ほど。(まだ放映時間前なので)
帰ってきたウルトラマン怪獣使いと少年」はゆーつべで確認。
群集心理というのか排他的というのかはともかく
宇宙人だと誤認され大人たちに力ずくで連れていかれる少年の姿は
嫌な感じに衝撃的。この作品をどちらかといえば明るい感じの世界観
であるメビウスでどう仕上げてきたのか。


さて、見ましたよ。ネタバレしてますので未見の方は読まないで。
(修正4度)

例によってネット界隈では賛否両論あるようですが、一番気になったのは
新マン「怪獣使いと少年」でのラストカットはメイツ星人が死んでも
少年は穴を掘り続けていて、円盤を探し出して地球にお別れを言うんだろう
と郷秀樹は話している。少年の感情はかなりネガティブな感情だったと思う。
もう地球には居たくない、地球人でありたくないという・・・。
それを基点に考えれば園長先生が少女の頃に出会った少年の成長した青年は
あまりにも希望に満ち溢れてはいないだろうか。(少年から青年に成長する
間に郷秀樹やパン屋の娘さんらとの交流等があり心境の変化があったかも知れないが。)
そこがクリアされていないと少女の頃の園長先生が青年に感銘を受けるという
今回のお話の根底が成り立たないのですが、そこは描かれていないんですよね。
まぁそこまで書いちゃうと平気に2、3話分使っちゃうのでしょうが。

またリュウがメイツ星人に対して発砲してしまうところは、隊長が話し合う
ように的な事を言っていなければいきなり射殺しちゃっていたんじゃないの?
なんて気もします。それを考えればよく威嚇射撃(当ててるけど)で済ましたなと。
ただ実は30年ほど前に殺されたメイツ星人が父親だというビオにとっては
父を殺した人間たちと同じ野蛮で無理解な地球人にしか見えないだろうなと。
(ここんとこのリュウの初期と最近の宇宙人に対する意識の差を踏まえていない
と指摘するサイトが多いですね。それは確かに思うところ)

しかしながらメイツ星人が少年と過ごして育んできた優しい心が、その少年を通じ
園長先生へと受け継がれ、さらにその教え子の園児たちに息づいているという事。
ビオにとって憎しみのあまり忘れていた父の優しさを子供たちを通じて垣間見た
のだと思う。(先生が偏見染みているのに子供がそうじゃないってのも変だけど)
怪獣使いの遺産は実はこの優しい心だというのがポイント。

戦いが終わり地球を去ろうとするビオにリュウが手を差し出す、しかしビオは
その握手は父の遺産の行く末を見届けてからだと握手をせずに地球を離れていく。
あえて握手をしなかった事は良かったと思う。でも他所のサイトでも同様の意見
を見たがあのシーンは人間体ではなくメイツ星人の姿の方が良かったと思う。
完全な和解ではないが、互いにやや打ち解けあう事ができたのである。そこは
やはり人間と異形の者が並んではじめて印象付けられると思うのだけど。

劇中メイツ星人が語るメビウスを地球人の武器と捉えゾアムルチを対応策として
用意した事。ビオは地球人の事をもう一度信じてみようと思っても殺された父
の事を思うと憎しみが消えない事。思えば前者は抑止力としての核兵器と捉える
事ができたり、後者は戦争が残す人の心への傷跡と見て取れる。
そしてテッペイの言う最初からいい宇宙人か悪い宇宙人かはわからないという
言葉は自分の見知らないものに対する不安や不信感、そしてそれを排除したい
人間の心理に結びつく。だからこそ「勇気を持って話し合う事が必要だ。」と
説くサコミズ隊長のセリフは重く心に響く。

新マンの「怪獣使いと少年」を見ていれば30年前の出来事はそんな半端なモノ
ではなく殆ど救いの無い出来事であり、故にメビウスでの今日の話は園長先生の
存在もあまりに突飛だし、そもそも伊吹隊長のセリフであった「街が大変な事に
なっているんだぞ!」というセリフをリュウに言わせる必要は全く無かったと思
います。(これはある意味サービスなんでしょうが、このセリフのためにリュウ
もミライもその行動が説明不足になって、よくわからない人になっちゃっている)
が、ある意味当時よりも救えない世界になりつつある今の時代を生きる
全ての人へのメッセージとしてしっかり受け止めてほしいというのが意図すると
ころなのかなと思う次第です。

ゾアムルチはあっけなく倒されたものの、雨中で戦う様は印象的でした。
これもソフビ化希望。