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あたまがわるいひとのブログ

2018-05-27

[]Mr. Children天ぷらの話 00:43

村上春樹は、上手な自己紹介の文章を書くコツとして「天ぷらについてかくように」といった。これは、あまり特別でないものに対して、自分との関係を書くことによってオリジナリティを出していく、というような文意だったと記憶している。

ここでMr. Childrenについて書くというのは、僕と天ぷらについて書くようなものである。桜井和寿論、みたいなことを言い出せるほどMr. Childrenを聞いてない。さらに、そこまでエポックメイキングだったように思わない。もし僕がエポックメイキングだと真に信じているミュージシャンのうちの一人Jeff Beckについて書くなら、自分との関係というより、他の音楽との関係について書き、どれだけJeff Beckはオリジナリティのある挑戦を繰り返したのか、ということを説得するために書きたい。だが、別にMr. Childrenはそのような位置付けが可能であると僕は思っていない。

ミスチルを聞いています、といいだすのは微妙に恥ずかしい側面がある。一方で、別にエポックメイキングではあると思わないけれど、いろんな恥を忍んで書けばミスチルは少なくとも僕の多感な時期の数ページを彩ったことは否定できない。僕個人文脈の中に、いろんな彼らの曲が整理されている。今日はそういうものについて書きたい。僕と天ぷらについて書くように。

僕が聞き出したのは、優しい歌や君が好きの時期であったように思う。初めてのベストアルバムを出す程度に仕事がまとまり、暗い歌を歌うことをある程度やめた時期であるように認識している。いろいろ聞いたけど、特に深海前後が好きであった。勝手にベストアルバムについていた解説などのうろ覚えの知識でこの前後の時期をさっと振り返る。

Cross roads, innocent world などJ-pop黄金時代の時流に乗りつつヒットを重ねて、これなら売れると書いた瞬間に確信したらしいtomorrow never knowsを出して見事ミスチル史上最大の売り上げをあげたが、そこからどうやら桜井本人の生活が乱れ、方向性を失ったらしく、その混乱の果てに出てきたものが深海である。深海はサウンドが重く、また結構バンドサウンドのものが多い。そして歌詞はやたらと暗いし、最近のファンからは考えられないくらい歌詞が暗い。tomorrow never knowsを含む、この時期に出ていた明るめのポップスは、このアルバムには入らず、二枚組構想とも呼ばれていたboleroに収録されている。boleroの後、活動休止し、一年後に終わりなき旅や光の射す方へなど希望があるようなシングル曲を含むDiscoveryを出し、同じような路線でQを出し、ベストアルバムとして10年くらいの仕事をまとめ、そのあとはIt’s a wonderful worldなどのファンを増やす応援歌のようなポップスへと向かっていく。

たしかミスチルを聴いていたのは中学生くらいの時だった気がする。当時ギターを始めたばかりで、B’zが好きだった。B’zはウルトラソウルを出していたころである。ベストアルバムを一通り聞き、耳障りの良さが気に入り、よく聞くリストに入っていた。しかしそのままハードロックに傾倒してししまい、B’zは生き残ったものの、聴いていたゆずミスチルは奥へと追いやられた。

高校生になると、バンドを始めた。うまくいかなかったけれど。この時に何かできるものがないかなと思い、ミスチルを聞き返してみると、ポップス路線のものは金もテクもない高校生が再現するのにはすごいつらかったが、深海やBORELOやニシエヒガシエの時期の曲はバンドサウンドが前に出てくることが多く、ハードロックから一周回ってこれらはよく聴いていたように思う。

その後、何のきっかけだか忘れたが、多分高2くらいで深海は僕の中で再発見される。深海はブックオフで安く、CDとして持っていたことも影響していると思う。また、アトミックハートもBORELOも偶然持っていた。逆に、それ以外は持っていなかった。全体的に暗く、何かもがくようなものが自分の心を掴んでいた。そして、大学に入って、何度か「桜井さんの歌詞は本当に素敵」というようなミスチル好き女性を見かけるたびに、この時期のミスチルが何と無く愛すべき対象のように思えた。

終わりなき旅に励まされたことがないといえば嘘になる。HEROのようなポップス路線に心が動かなかったといえば嘘になる。だけど、深海のような、混乱から出てきたり、その前のダンスダンスダンスやラブコネクションのようなあからさまなイライラや人間の微妙に汚い部分が暗に伝わるような曲の方に、心は惹かれる。

そして、音楽は自分の生活の大きなパートからは外れてしまったが、つい最近ミスチルはネット配信されているらしいことを知り、もう一度聞いてみるか思った。そして、深い混乱にあった桜井和寿の年齢を実は少し超えていることに気づいた。

深海の前後では、エポックメイキングでないもののtomorrow never knowsを自分の推測よりあて、ジミヘンやカートコバーンが経験したものと似た混乱が桜井を襲い、その混乱を深海に放ったのだと思う。その後、活動休止を経て、混乱から回復したような歌詞である終わりなき旅を放ち、仕事をベストアルバムとしてまとめ、そして「憎めよ生まれてきた悲劇」とも言ったこの世界をIt’s a wonderful worldというカウンターとも言えるアルバムを出しポップ路線となり、大学で出会った僕よりまっすぐな人たちの心にまっすぐ届くようにメッセージをだすようになったと思うと興味深い。

別に混乱したいとは思わないけれど、自分にもこういうヒットを経てある程度優しくなれたらなと思う。ただのおっさんまっしぐらだけど。こういう目線ミスチルの深海前後を見て、彼らの年表と自分のキャリアを重ねると、自分は実は勝負所はいまなのかもしれないと思っている。

2018-03-10

[]シャイニングスコーピオン的光景 03:31

ちょっと前にまとめた文章を公開してみる。とはいえ今とあまり変わらない。まぁまぁ久々の行き場のない思いである。特に行き先のない思いが交錯し、行き先のない自分がいる。

今現状の何に対して/何がきっかけでそう思ったか、という具体的な話は直接は語らない。だけど、今何を思っているかについて記したい。

行き場のない思いは久々である。

行き場のない思いを最初に感じたのは、あるいは僕の中で「行き場のない」の定義となっているのは、小学生のシャイニングスコーピオンというゲームの経験である。ミニ四駆のゲームで、レースに勝つことを目的としたゲームである。レースで勝つことによりたまるポイントでパーツを買い、強く(速く)なっていく。大きいレースを勝ち進むと、次の大きいレースに進める。一方で、負けると修行街のような街に送られ、そこでのレースに勝たないと本編に戻れない。一度負けると、負けて送られた先で勝たないといけないのだが、一つ注意しないといけないポイントは、買ったパーツが磨耗し、弱く(遅く)なるという点である。レースをするも勝てないとポイントも手に入らず、パーツだけが摩耗し、もういちどレースに挑戦しても負けて戻れない、ということがおこる。小学生ながらに「ああもうここで俺は終わりなんだな…」という気持ちになって、ついぞ29歳になった今に到るまでクリアしていない。また、僕の「行き場のない思い」や「絶望」の基礎を作るに至っている。

この「もうどうしようもない」のような思いを実際に経験したのは、人生の中で今の所2回である。高三の時に東大に落ちたときとスイスにいたときである。

東大に落ちた時、真っ先に思い出したのはシャイニングスコーピオンだった。少し背景について補足しておくと、高校は上20%くらいにいたら高確率で現役で東大に合格する高校で、高三の時は成績がだいたい上20%くらいだった。また、現役生で取れたら受かると言われていた東大模試でのA判定も出していた。僕以上に、周りが受かると思っていたと思う。一方で当時東大に落ちること自体は許容していた。別に落ちても死ぬわけではない、ともともと思っていて、現役で受かった大学に行こうと思っていた。でも問題は落ち方で、苦手だったセンター試験が1点足らずに一次で切られた。現役で決めようと強く思っていたけれど、ここまで不完全燃焼感が残るとは想像していなかった。「受かる」と言われていたのだから、最低限挑戦したかった。「あと1点あったら」という思いが頭を駆け巡るが、その思いがいくら僕の頭の中を駆け巡ってもその1点は動かない。結局他に合格していた私立大学には行かずに浪人することになったが、あの時の「どこにも行けない」気持ちはシャイニングスコーピオンに近い。またそのあと「あの時1点あったら」 のようなことは思わなかったが、もう少し曖昧な行き場のない思いを一年間抱えていた。

#別にいまだに浪人したことに対してコンプレックスがあっていまだに大学受験の細かい点数を覚えている…のようなことでは全くない。むしろこれ以外のことはもうほとんど覚えていない。ただこの時に「受かると言われていたんだから挑戦したかった」と思ったことに付随する感情を強く覚えているという話であるし、それでしかない。

時は過ぎて、大学院生の時にスイス交換留学した。これは本当に何もうまくいかなかった。寮に入っていた日本人は上手に日本人コミュニティを作って盛り上がっていた。一部の日本人はインターナショナルコミュニティを作っていた。それを尻目に、僕は細々と授業で仲良くなった人とたまに遊びにいったり、たまに日本人コミュニティに顔を出すもあまり溶け込めず徐々にフェードアウトした。結局最初半年は英語は勉強したけどそれ以外はチューリッヒ湖の辺りでウィンナー食べつつ白鳥パンを与えながら1日が過ぎていったこと以外あまり記憶がない。そんな中で何かインターンシップや研究したいと思った。まずは研究がいいかなと思い、先生にメールして、受け入れてもらえるということだったが、事務手続きがうまくいかずにポシャってしまった。インターンシップをしようと思い、いろいろ書類を出したが、やはり交換留学生がいきなり職を見つけるのは難しく、履歴書出しても返事は来ないし、返事が来て選考進めようと言われても「スイスの大学はいつ卒業するんだ」と聞かれて、東大の所属であることを説明したらそのまま流れた。「今までどうにかなってきたし、今回もどうにかなるだろう」と思っていたが、ついぞどうにもならなかった。「こんな思いをするためにスイスに来たんだっけか?」となんども思ったが、帰国してもすることないと思い、何もできなかった。時間があったので本当に本当にあちこち旅行した。ヨーロッパは行き尽くしたし、もうヨーロッパに旅行に行きたいと思わないのだけは人生のなかでプラスだと思ってはいる。ただただ時間は過ぎていくが、どこにも行けない思いが、ふとシャイニングスコーピオンを思い出させた。本当に履歴書的には何も大した経験をしないまま、日本に一年経って戻った。残ったのは、微妙に英語に対して物怖じしなくなった根性だけである。そしてそれは英語を操る技術自体とあまり関係がない。ヨーロッパに対していろいろ視点はできたが、直接それが飯の種になることは多分ない。

「何かしようと思っても、どこにも行けない」という思いに、今徐々に近づきつつある。今の場所から俺はどこにもいけないのでは、と思うような出来事が多い。スイスから帰ってきてからは、もうこういう思いはしないと強く念じ、積み上げていったと思っていた。積み上げが微妙にうまくいかないところもあったけど、とりあえず現状ではある。一方で、現状からだんだん行き止まりに衝突しそうになっているのを何もできずに見ている立場になりつつあり、積み上げてきたものが全部間違っていたのでは、という思いが微妙に交錯する。

もう若くない。大学受験なんてどうでもいい。スイスはもう少しやりようがあったと思うが、クソが、インターナショナルな環境でもっとうまくやってやる、って思えなければ今とは違っていたかもしれず、そういう観点からは自分には必要な一年だったのかもしれない。でも、今、ここで積み上げたものが全部間違っていた場合、あるいは間違っている割合がクリティカルな量を超えていた場合、どうしたらいいのかよくわからない。今出口がないのか、それともただただ運が悪いのが少し続いているのか、よくわからない。

2017-08-03

[][]1月: 日本の修士スイス修士の話 23:58

よく聞かれるのが,「日本の修士スイス修士どっちのほうがいい?」という質問だ.この質問は簡単に聞かれるけど,答えるほうは一筋縄ではいかない,と話していて思う.話していて,特にヨーロッパの学生に聞かれるとずいぶんキャリア観に対する差が出るなぁと思う.

まずこの質問に答える前に,必ず学部について話をするようにしている.学部は,スイスの学生は多様な人たちが一様な教育を受ける場,日本は一様な背景を持ったやつが多様な活動をする場だと僕は思っている.スイス学部生は,僕が経験しているのはETHというごく限られたサンプルしか無いのだけど,ほぼ全員が本当によく勉強している.これを言うと,「海外の学生は…」という夢想につけ込んだ海外喧噪野郎と同じ文言になってしまうので,言葉を変えると,スイス学部生は一様であって,勉強以外の選択肢があまりない気がしている.大学とは勉強するところであって…という文言は日本で聞いたけど,スイスに来てから聞いたことが無い.それくらいに当たり前のことなんだと思う.彼らは毎日きちんと授業に出席し,逃したらノートを借り,毎週講義の内容をきちんと復習している.厳しく管理されていて,学生もさらにそれに応じて,大学で学んだことに関しては一様なクオリティを保っているなぁというのが印象として強い.

スイスの学生は一様によく勉強している,と言ったけれど,いる人間は結構多様である.国内だけでも言葉の違う人たちがいて,その人たちがチューリヒに集まるのに,さらに西側ヨーロッパからの移民もいれば,東側ヨーロッパからの移民もいる.アフリカ移民も少数ながらいる.肌の色も違うし,言葉も違う.さらに生い立ちも違う.年齢も違う.高校,こっちで言えばギムナジウムという進学校を卒業してからすぐに入るやつもいれば,軍隊をやってから入ってくるやつもいる.

他方で,僕が過ごして来た日本での学部生は,これもまた東大という限られたサンプルしか無いのだけど,勉強している人もいれば遊んでいる人もいる,という印象が強い.サークル活動に精を出している人もいれば,キャリア用の徳を積んでいる人もいれば,勉強一筋のやつもいれば,学問一筋のやるもいる.ラケットバックを持ってだらだらしているやつと,スーツ着ているやつと,試験勉強に必死なやつと,自分の興味あること以外は興味ありませんといった学者肌のやつが一同に会していたのが日本の学部だった気がする.勉強したいやつには,きちんと大学が門戸を開いている.あるいはしたくないやつには,そいつらを支える仕組みがすでに出来上がっている.そういう生態系が日本の学部にはあったと今にして思う.

だけど,こういう連中のふたを開けてみると,かなり一様だと思う.ほぼ全員が日本人,あるいは日本人とほぼ同化できる外国人で,年齢もほぼ同じくらいで,一浪したかしてないかくらいの違いしか無い.全くタイプの違う人間が,同じ高校だったりすることは本当によくある.同じような出で立ちでこんなに大学生活が違うのか,とも思ったりする.

さて,学部に関して言えば,僕は日本で取ってよかったと思っている.勉強がまわりの東大生にくらべてできないことに気付き,その中で埋もれずに生き抜く方法について考えてきた.自分のしてきたことに一貫性があったとも思えないし,お勉強らしいお勉強にはあまり励んでいないし,胸を張って主張できる確固たるものもないけれど,してきたことのいくつかは知恵となって今の自分に欠くことのできないものになっている.これらは環境が許してくれたものだと今になって感じている.

修士になると,スイスに関しては,多様にさらに拍車がかかる.学部を出て働いてから修士を取りにくる,というキャリアプランも一般的で,さらに留学生も多くなる.グループワークをすると,年齢が全くバラバラということもあった.だけど,授業はかなり一様で,すべて試験なりなんなりで一様に評価される.この授業を終えた,ということがかなり一様にチェックされ,受講者全員が成績順に一列に並べられる.

これの効用として,修士号職業訓練の意味合いが強い.仕事を始めた人が,もう一度体系的に知識を整理する場として利用する人が多い気がしている.あるいは,体系的な知識を獲得して,あらたなキャリアに挑戦するということにも利用されることが多い気がしている.

他方で,日本の修士は,あまり授業に重きを置かないので,多様みたいな議論がどうでもよくなる傾向がある気がする.博士過程の準備期間のように捉えられ,学問の訓練をされる.かなり一人の作業が多くなるので,専攻の人間に誰がいるか,というより,自分のしていることは何か,の方が重きが多い.そして職業訓練に直結するかといわれると微妙な線が多い.少なくともスイス修士号と比べると,学問を除く職業の訓練としての意味合いは低いと言わざるを得ない.

修士は,このような点で,性格が違うから,比べろと言われても無理がある.さらに,修士号は,平たく言えば「もっとも簡単に取れる有効な学位」で,その国でそのまま生きていこうと思うと,修士号のあるなしはかなり違うし,その国で働きたいなら修士号を取るのが戦略のうちの一つだと思われる.スイスで働きたいならスイス修士号があると便利だし,デンマークで働きたいならデンマーク修士号があると便利である.ずっと日本で学位を取って来た人間がいきなり例えばフランスで働くのと,日本で学部スイス修士を終えた人間がフランスで働くのでは,よく知らないけれど,後者のほうがキャリアという観点で有利な点が多い気がする.

さて,どちらがいいのか,という質問に戻る.一般論ではなくて,僕個人に関して言えば「日本の修士は研究できるから,その点において僕は日本の修士プログラムのほうが好きだ.だけど,キャリアという観点からは,学部東大で取ったから,修士スイス,あるいは他の国で取ってもよかったという後悔がある.」という話をしている.

やっていることそれ自体は,日本の修士のほうが僕は好きだ.先述した通り,おつむが優れず勉強ができなかった学部生活の中で,最後に救いだったのは卒論だった.研究はそれなりにしがいがあったし,これによって訓練された部分はかなり大きかったし,もう少しこの方法で訓練されたいと思えた.

しかし,学問を職業にしたいか,と言われたらそんなことは無いなぁと感じている.それなら社会に自分の仕事を求めるという観点から,海外に機会を広げたほうがよかったかなぁと思わなくもない.そしてそれは言ってしまえば交換留学という選択肢の中から来たスイスでなくても良かった,というのが本音である.日本の学士,日本の修士で自分の出で立ちが国内で固まっているのを見て,柔軟性が足りないのかなぁというちょっとした後悔が浮かぶ.そしてさらには,くるべき国がスイスでなくてもよかったかもしれないし,もっと広く検討できたんだなぁと少し思う.

どちらがいいのか,と一概には言えないけれど,僕個人に関して言えば,「日本の修士でなくともよかったのかな,と一抹の後悔を持っている」という返答を必ずしている.聞いた側がそこまで真剣に答えられることを予想していなかったのか,ちょっと面食らったようになっているのをいつも見ている.

余談:

就職活動CVと成績表出させるスタイルと,「大学時代頑張ったことは?」といくつか聞かれる質問を埋めていくスタイルの違いはこういうところから来ているのかもなぁと思ったりもする.生い立ちの違う人たちを評価する方法として,成績表と出で立ちを記したものが必要なのもなんとなく理解できるし,一様なバックグラウンドを持った人が異なったことをしているのであれば,背景の質問より「何してきましたか」のほうが有効な気がする.

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昔のメモを整理したら出てきた。

結局、実はあまり大陸ヨーロッパにはなじめなかった。彼らの自分の人生をとにかく第一に考える姿勢は、目を見張る物があったが、結局それにあまりなじめなかった。イギリスアメリカのような、少しは仕事でもするか、という感じの方があとあと少しだけ自分に近い感じがしている。その中で、何か自分のために修士に来ている人が多く、そういう受け皿があるのはすばらしいことだと思うし、またそれを測る方法は成績だなという感じがする。

最近また勉強したい欲が少し出てきて、昔こんなこと考えていたんだなと思っている。

2017-03-29

[][]12月:言葉と間借りの話 居候の言葉としての英語 01:52

スイスは国の中で4カ国語話されており…という教科書的な説明はさておいて,こと僕の住んでいるチューリッヒでは,母語であるドイツ語に加えて,フランス語イタリア語が通じるかは試したことないが広く英語が通じる.大学教授はもちろんのこと,スーパーのおばちゃんやら市役所のおばちゃんまでわりかし広く英語が通じる.僕も生活言語が英語になりつつあるし,今のところ何も困っていない.

僕のドイツ語に関して言えば,その昔ドイツ語をかじっていたのだけど,結局ものにならないまま終わってしまった.やり直そうかと思って文法書やらなにやらを持って来たのだけど,こっちに遅れて来た関係で外国人向けドイツ語の授業はどれも満員,自分でやろうにも時間もない.もともとドイツ語は偶然の重なりで始めたもので特別な動機付けがなかったことも相まって,結局ドイツ語を勉強し直す機会がなくなってしまった.大学の授業は外国人が割に普通にいるので英語で行われていて,友達とも英語で会話することになる.ここでわざわざ俺のできないドイツ語を出す必要はどこにもないし,ただでさえ英語でも言いたいことがいえないのだから,さらに不自由な言語を出すつもりもない.じゃあ街で話せばいいじゃん,となるのだけどそうもいかない.わざわざドイツ語がよく分からない俺がドイツ語を使うと混乱するし,結局最後複雑なことを言おうとすると英語になる.相手も英語で十分に通じるし,本当にいざという時以外はだいたいこれで済む.さらに言えば,英語も別に彼らにとってはネイティブ言語ではないから,わからないということもあまりおこらない.たとえ英語のミスコミュニケーションが起こっても,そのこと自体にはとても寛容である.

外国に住んでいるのにこの上なく快適だなーと思うことがことスイスでは多い.そしてそれが来た時から違和感としてあって,だんだん表に出て来た.今まで旅行して来た外国というのは,僕にとってだいたいが苦労の集積だった気がする.どこいっても何も通じないから,仕方なく地球の歩き方ロンリープラネットの後ろの方についている言葉の便利帳みたいなのを移動時間でしこしこ覚え,ボディーランゲージやらを駆使しながら現地の人とやりとりする,というのがだいたいの僕の旅行の記憶であった.それゆえに,外国で住むというのは,そういう苦労と一緒になってやってくるものだと思っていたのだが,スイスではこれとは全く違っていた.

スイスでは英語が通じるから,ついつい甘えて英語で話す.ただ,このままだと本当に深いところでスイスの人とは友達になれないかもなーという疑念が生じている.僕はグループワークの授業のパートナーがスイス人であることが多かったのだけど,彼らはとても流暢に(僕以上に流暢に)英語を話す.だけど,僕が議論からドロップアウトしたり,雑談が始まるとドイツ語になる.こうなるととたんに分からない.彼らはさっき英語で議論していたより心地良さそうだ.それを破ってまで,わざわざ英語にして俺を加える意味がどこにあるのだろうと自分でも考えてしまう.ドイツ語が話せないがゆえに,最後の一枚の布みたいなのがとても厚いなーと感じる機会がとても多い.その布の向こうには何があるのかは今のところ知る術もないのだけど.

そういうわけで,いつも使っているはずの英語って何だろうな,何の役に立ってるんだろうなってたまに思う.地図をよく見ると,英語を母語とする国は割に少ないことがわかる.その割に,リンガフランカとしての性格が強い.英語を話せば世界中の人とコミュニケーションがとれる…というと大上段に構え過ぎだろうけど,それに近いことを日本で思っていたことを記憶しているし,そう信じている人や吹聴している人が多かったように記憶している.だけど,これは,ごく控えめにいってただの思い上がりであることが最近になって感じられてきている.

この間モロッコに行って来た.モロッコでは,母語アラビア語だが,学校教育フランス語で行われているらしく,広くフランス語が通じる.彼らにとっての第一外国語は,ちょうど日本人の英語がそうであるように,フランス語である.なので,街中の客引きも「お前フランス語話すか?」とフランス語で聞いて来たり,当たり前のように外国人だからという理由でフランス語で話しかけていたりする.英語で話しかけてきたとしても,こっちがちょっと複雑なことを言うと「ごめんごめん俺英語苦手なんだ,フランス語ならできるんだけどね」くらいのことを言われてがっくり肩を落とす.同行していた友人がフランス語を話す人だったので,もう最後は彼に任せっきりだった,ごめんね.

このことから分かったことは,英語を話せば…は半分くらいはただの幻想であるということだ.彼らの半分くらいは外国人を見かけたらフランス語で話しかければよいということを心底信じている.英語がちょっと話せる人でも,途中であきらめる.英語は,別にそれで何かを伝えたいわけでもなんでもなく,ただのツールにつきている.いろんなものから独立した,無色の言語であることが大半だなぁと感じた.

かといって,英語が裏にある文化と全くひっついてないわけでもないのだなぁ,と思う機会も多い.英語の勉強がてらアメリカのホームコメディを見ているのだけど,アメリカスラングをいったり,アメリカ人しかわからないネタが所どころに落ちている.こうなると,もはやアメリカ語ともいいたくなるような会話がそこには繰り広げられている.しかし,これらを「あぁ面白いなぁ」と思って謙虚になって学び取ったところで,僕のスイスでの生活に還元したとしても通じず終わる.凝った言い回しをしたところで「えっ」ってなるのは目に見えているし,何より(当たり前だけど)スイスの文化はアメリカの文化ではない.アメリカ語はアメリカ語にすぎないし,アメリカとその言語を盲信したところで,それより広い世界では通じない.世界の人と話せるだのグローバルだのという触れ込みで学んだはずの英語が通じない様を見て,なんとも不思議な気分になっている.

今僕がおかれている状況は,居候の言語としての英語なんだろうと思う.英語圏でない国で,英語を使って生活しているということは,かなり傍若無人な振る舞いだなーと最近になって思う.この国の隅っこに間借りしながら英語を使って生活しているわけなんだけど,その代償は,結局のところスイス人とそれ以外の埋めにくい差となって出てくるように最近思う.そしてストレンジャーはストレンジャーのままでしかいられない気分がしている.この埋められない差を前にして,外国で暮らしているってどういうことなんだっけか,と最近になってまた思うようになっていながら,今日も選択の余地がないかのように英語をしこしこ勉強している.

時間があって,もう少し英語がちゃんとできるようになったら,英語圏の国に旅行に行きたいなと海外旅行を人並みに繰り返した末に思うようになってきている.

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このブログからシリーズで書き出したスイス見聞録シリーズの続き.もう4年前の文章の続きを投稿しようとしている笑.というより,Evernoteをあさっていたら出てきて,自分で言うのもなんだけど,面白かったというか昔はものを真剣に考えていたんだなぁと感心してしまったので投稿笑.

このときは真剣に上にあげたことに悩んでいた.この後,結局この文章であげている英語圏への関わりが多くなった.イギリスに住むことになり,今はアメリカ企業で働きアメリカに行くことが多くなった.スイスにいたときにすこしかじったアメリカ文化風知識は,なんとなく活きているものの,今はいい意味でも悪い意味でも英語を使うことにいろんな意味で抵抗がなくなり,真剣に何か言語について考えることがなくなってしまっている.

この文章で論じていたような,文化のすれ違いやねじれを気にしなくてもいいのは,一つのアドバンテージというか,物事の面倒な部分を一つ飛ばしてくれていると思う.イギリスに住んでいたときは,きちんと彼らのネイティブ言語でいろいろ触れられたこともあって,一つ一つアクセントの違いや,文化などに触れることに上で感じたような歯痒さを感じなかったことに,スイスとの大きな違いを感じていた.一方で,最近はアメリカに行くことが多くなったものの,上のような着眼点を自分では何も思わなくなってしまっている.これはただ旅行者として眺めるだけだからなのかアメリカだからなのかは,わかっていない.ただ,真剣に考えなくなってしまったのは事実で,隙間に落ちた物はたくさんあるような気はしている,

2017-03-26

[]夜の話 01:07

いくつか人恋しかったり、考えたり、思いが詰まったりする夜が人生にはあると思うが、こういう夜が来るたびに夜は不思議な時間だなと思う。

小学生の時には夜は大抵怖いものとして認識されて、九時に寝たりする。中高にもなると、なにかしらか、本だったり漫画だったり音楽だったりしたのだけど、それらに熱中して夜更かしをしていた。これはこれでいま人生の貴重な財産である。

大学生になると、いくつか夜の過ごし方に幅が出てきたように思う。魔の言葉「オール」に誘われ、コミュニティの人と飲み明かしたりもした。自分の将来について思い詰めることもあった。人間関係で悩むこともあった。布団の中にくるまってあーだこーだ考えるだけの時もあれば、いてもたってもいられず、自転車であちこち走り回ったりもした。また特に院生になってからは、研究で追い詰められたりもしていた。

社会人になっても、夜を過ごしてしまう理由はあまり変わらない。ただ、周りに友達と呼べる人が減ったからなのか、人恋しくなって、一人で誰かを求めて飲み屋にいくこともあった。

バーのマスターなど、夜に所属している人とそれなりに出会う。そういう人と話すのも楽しい。そこに集う人とも、儚い感じは刹那的な哀れさと楽しさが同居する。けれど、僕のような多くの人のうちの一人の場合、なんとなく危険な香りのする、夜をただひと齧りするだけであり、所属はしない。そのうち、過ごせていた夜も、体力的な理由であったり、その人を取り巻く事情も年齢を重ねることによりしがらみが多くなる方向へと変化し、夜から卒業していくように思う。

村上春樹のいうように、「夜は何か起こりそうで起こらないから過ごしても無駄だ」というのは至極名言であると信じている。僕の人生で、夜に夜的理由で物事が良い方向に向かったことは一度もないとおもう。夜に思いつめていたものに妙案が浮かんだりするのは、その人の知力、胆力、あるいは人間力がなせる技でしかなく、夜遅くまで耽っていたことそれ自体は別にどこにも導いてはくれない。

夜は時間だけを飲み込み、膨らんでいく。多くの場合、夜の出来事は切り上げる方が上手くいく。夜や夜に引きずり込んだ因子に囚われて抜けられないことの方が多い。夜に引き込まれてしまう程度のものを個人の中に抱えられるのは幸せなことであると気付くものの、夜が教えてくれることは、物事解決するにせよそうでないにせよ、必ず終わるということのみである。

本来文章を書いた場合、ある程度おいてから見返すなどしたほうがよいものの、この文章にはそうしない。これは夜の思考の垂れ流しであるし、そのことに価値がある。

目が冴え切る思いとともに、夜がそろそろ終わりそうであることを認識しつつある。

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この文章は大切な人と喧嘩して、夜の街をひたすら歩いていた時にまとめた。

この文章を書いた頃とは状況も変わり、孤独感に苛まれ、バーで飲むことなどの、夜に所属する人との交流を久々にしてみたものの、刹那的な楽しさは多少あれど、夜はやはり本質的なところで救ってくれないと再び感じている。