留学をめぐる議論

教養のときに所属してたゼミのOBOGの集まり(継続的に活動してます、というか今でも所属感にあふれる)で、
ゼミの講師を招いて、ある一個のテーマのもとで議論をする、という活動をしている。


この間のテーマが「英語・留学」で、なかなか面白い議論だったので、
備忘録をつけておくことにする。


・オーバービュー


今回のこのテーマを設けたホストの人は、
学部を出たらMBAとMPPのjoint degreeを取りに行きたい、と言っている4年生の人だった。
日本の学生がなかなか出たがらないのは、
日本にいて満足に見えるから、だそうだ。(実際はどうか別にしてね)
しかし一方で結構興味がある人は多い。


・何のための留学か


これは僕の大学にいる人全般にいえることで、
「留学したい」っていう人が多い。
でも理由を掘り下げてみると結局は「したいからしたい」に落ち着くことが多い。
国際、というものへの響きのよさなどが関係しているのか、
結局はブランド志向ちゃうん?なんていう斜にかまえた意見が出てくるし、実際そう。
(いろんなことがブランド志向ちゃうん?で落ち着くから留学だけこれでやり玉にあげるのも変な話だけど)


文科三類に入学すると教養学部に進学したい!という人がたくさんいて、
理由は唯一といわれている交換留学制度があるから。(実際工学部にもある裏技)


文科一類に入学すると、外務省行きたい!
理由は留学したいから。


それをもう一歩ほじくり返すと「したいからする」の一発循環論法を招く。
(まぁ三大欲求には許されるのだろうけど笑)
あるいは、話の根底が
「刺激(笑)うけたいです(笑)」
「成長(笑)したいです(笑)」
「視野(笑)広げたいです(笑)」
に落ち着いて、
「なにいってるのかまったくわからなくてどこにつっこんでいいのかさっぱり」
となってしまう。
「留学(笑)」程度の突っ込みをいれておけば妥当なのかな?笑


世界がグローバル化するなかで、留学した方がビジネスできるんじゃないか。
なんていう動機をしゃべらせても、じゃあ別に英語さえあればいいんでしょ、英語勉強しろよ、となる。
いまいちこれも言ってることがわからない。


ここで一般論ばっかり据えて延々と論をこねくり回すのも卑怯なので、
僕のスタンスを述べておく。


僕は、留学したいか、と言われたら答えは「?」だ。
漠然と聞かれたとき、たぶん「したい」って答えると思う。
このときは、議論の都合上「したくない」って答えた。
その程度。
この意識の根底がどこにあるのかさぐると、
旅行が趣味なので、知らない国でサバイブすることに興味はある。
でも今することを想像すると、
うさんくさいこと言いながら、日本から来た、を強調して、
現地コミュニティのどこかしらかの首根っこを押さえて、生きていく術を確保する。
一日楽しいけれど、今日生きることに精いっぱいになる。
そんなことがしたいのであって、それを隠れ蓑の形として「留学」というのをとらえた形ですると思う。
で、視野が広がった、なんてことをしゃーしゃー述べるんだろうな笑。
金銭面とのトレードオフ、また「留学した」と言って帰ってきたあと自分に伴う責任感という形で、
何一つとして残せないという自信がある。
そういう観点で、僕は自分がすることに対して否定的だし、
多くの人が簡単にすることに単純な嫉妬を覚える。
俺だって金ありゃするさ。1年くらい「旅行」を。
(あんまり時間というものをコストとして算入してないです。
けどさすがに1年もこんなことしたくない笑。
他の国で暮らすということに意味合いを見出したいとは思うけど、
いろんな事情を勘案すれば、それよりほかにすべきことあるやろとなってしまう。)


※ちなみにこれに近いことは1年のとき1か月ほどドイツにいってしてきました。
1年のときだからこそ許されたと思っている笑。
一度こういうことしたから、そういう動機で行くのはもうおしまい、って思ってるのかも。


で、僕は総じて「留学うさんくさい」というのを激押しすることにしました。
理由は簡単、みんなしたがるから。
自分に翻らせてみると、動機が不純すぎることがよくわかるから笑。
まぁここまで不純じゃないにしても、大同小異やろ、っていう肌感覚がある。


で、自分の話を述べた上で。
うさんくささはどこから来るのか、というのが議論のトピックの主題でもありました。



このうさんくささは'for what'が激甘である、というところから来るんじゃないか、
というのがまとめとして出てきた。


なにしに行くん?に対して、ほじくり返すと甘い。ただそれだけ。
それは俺もよく把握していた。
で、多くのこの違和感がどこから来るのか、というと、
絶対的な価値観の不足なんじゃないだろうか、なんて言った人がいて思わず納得させられた。


「別にそういう留学だってアリじゃない、麻雀ばっかりやってる大学生活を否定できないように。」
という話なんだけれども、これは幸福の相対価値であって、
自分の中に絶対的なものが一個あっても背負いすぎではないんじゃないだろうか。ということ。


留学の話の翻りがなんやかんやいいながら「成長したい」((笑)抜きでも)に戻ってくることに対しての違和感は、
その絶対的な価値観(こうすればみんなよくなるといった自分を規定する価値観)に基づいた公共性的な視点が欠けている、と。


多くの話に言えることだけど、何のため、が結局は自分の中の根拠のないよくわからないところに翻ってくる。
内面的な成長、とでも名付けておけばいいのだろうか。
これが何になるのかはさっぱりわからない。リーチが非常に甘い。
したいことのリーチが結局は自己満足に翻り、いろんなことが自己満足で片づけられる。
んで、他人に対しては「まぁそれでいいんじゃん?」といった判断をする。


その返りがどこにやってくるのか、に全くもって他者性がない。
いろんなことに言えることだけど、かなりこのケースは多いと思う。
多くの「したいこと」に対して、「自己満足」というだけの結論を下すことがそれなりに多い。
そうじゃなくて、もっと公共性、他者に対するリーチがあってもいいんじゃないか、ということ。
したいこと、誰のために?


'for what' for whom.


なるほどなーと思わされる議論でした。
そんなんに裏打ちされた留学、なら納得できる、と。
もちろん、これに基づいた議論を採用すると、僕の一年の旅行計画は全くアウトです笑。


結局ほかのことと大事なポイントは変わらないね、なんてゼミの講師は言っていた。
なら、どこに留学の積極的な意味合いを見出すのか。
留学から得られる項目ってのはたくさんあって、
「世界中の人脈」とか「世界の生身の人が何を考えているか」ということがわかるそうだ。
なるほどね。
この項目は、目的意識の中に入れ込んでもいいんだろうね。
僕知らなかったよ。
まぁこれは単純な知識の問題だとしても。
結局それ、何のため誰のためなん?に答えられるようなことをしたほうがええんちゃうん?とさ。


ちなみに、僕が「うさんくさい」を述べていた時に、
「代替案がない」という突っ込みを最後にしれっと受けた。
議論のルールとして、逆張りするなら代替案持ってこい、ということだ。


この「代替案」っていうのは、結局僕がどう過ごしますか?
ということに対する答えの一つだととらえることができる。


代替案かー。
自分のことを語るのは、今の僕にとってあまりいい趣味でもないので、
辞めておきます。
でも1つ言えることは、旅行の可能性を消されると、
あとは「勝負しにいく」しか僕の中に残されてなくて、
一個武器作っておく、というのが今すべきことなんじゃないかな。