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枕流亭ブログ

2016-08-06

[][]秦の大将軍について

キングダムで信・王賁・蒙恬は大将軍になれますか?(Yahoo!知恵袋)

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11162587416

無粋な歴史の話をすると、そもそも秦に大将軍の官がなかったんじゃないかという深刻な疑いがありましてな。

『通典』は大将軍の官が戦国時代の楚に置かれたことを指摘しています。

「大將軍、自戰國時楚置」(『通典』巻19職官1)

「自戰國置大將軍,周末又置前後左右將軍,至秦,將軍之官多矣。漢興,置大將軍、驃騎將軍,位次丞相。車騎將軍、衛將軍、左右前後將軍,皆金印紫綬,位次上卿」(『通典』巻28職官10)

時代的には秦に大将軍があっても良さそうなんですが。

しかし秦代についての根史料というべき『史記』には、秦の「将軍」の例が複数あるものの、秦の「大将軍」の例をひとつも見出せないんですよね。

「秦昭王怒,使將軍摎攻西周」(『史記』周本紀)

「八年,使將軍羋戎攻楚,取新市」(『史記』秦本紀)

「其十月,將軍張唐攻魏,為蔡尉捐弗守,還斬之」(同上)

「五十一年,將軍摎攻韓,取陽城、負黍,斬首四萬」(同上)

「麃公等為將軍」(『史記』秦始皇本紀)

「晉陽反,元年,將軍蒙驁擊定之」(同上)

「十月,將軍蒙驁攻魏氏畼、有詭」(同上)

「五年,將軍驁攻魏,定酸棗、燕、虛、長平、雍丘、山陽城,皆拔之,取二十城」(同上)

「將軍驁死」(同上)

「八年,王弟長安君成蟜將軍擊趙,反,死屯留,軍吏皆斬死,遷其民於臨洮。將軍壁死,卒屯留、蒲鶮反,戮其屍」(同上)

「桓齮為將軍」(同上)

「秦使將軍王賁從燕南攻齊,得齊王建」(同上)

「始皇乃使將軍蒙恬發兵三十萬人北擊胡,略取河南地」(同上)

「右丞相去疾、左丞相斯、將軍馮劫進諫曰」(同上)

「將軍章邯、長史司馬欣、都尉董翳追楚兵至河」(『史記』六国年表)

「誅丞相斯、去疾,將軍馮劫」(同上)

「昭王即位,以冄為將軍,衞咸陽」(『史記』穰侯列伝)

「穰侯力能立昭王,為將軍,衞咸陽」(同上)

「今扶蘇與將軍蒙恬將師數十萬以屯邊」(『史記』蒙恬列伝)

ちなみに『史記』にも、戦国時代の楚の大将軍の記述は見えます。

「秦大敗我軍,斬甲士八萬,虜我大將軍屈匄、裨將軍逢侯丑等七十餘人」(『史記』楚世家)

また戦国時代の趙の大将軍も出てきます。

「趙王與大將軍廉頗諸大臣謀」(『史記』廉頗藺相如列伝)

「趙乃以李牧為大將軍,擊秦軍於宜安」(同上)

さらに漢代になると、出典省きますが、韓信・劉沢・灌嬰・陳武・竇嬰・衛青など大将軍の官に就いた人々がやはり複数確認できます。

なぜ秦の大将軍だけ確認できないのかという疑問が湧くわけです。

最後に李信がらみで言うと、『新唐書』に問題の記述がありまして。

「生信,字有成,大將軍、隴西侯」(『新唐書』宗室世系表上)

これを信じるなら、李信は大将軍になっているじゃないかという話になります。ですが残念ながら、『新唐書』の世系表の史料的信憑性はきわめて低いとみなされていることを申し添えておきます。

[]唐の最盛期より後漢の領域が広いとみなされている?件

史上最も領土が大きかった帝国トップ20(哲学ニュースnwk)

http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/5047264.html

このときも思ったのですが、唐の最盛期より後漢が広いってことはないはずなんですね。

帝国の最大領域一覧(Wikipedia日本語版)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%A4%A7%E9%A0%98%E5%9F%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7

なんとWikipedia記事でも、唐の最盛期より後漢が広いことにされているようです。

突厥・高昌・高句麗・百済を滅ぼし、西突厥を降した唐の最盛期より、朝鮮半島北部とヴェトナム北部を除けばほぼメインランド・チャイナの領域にとどまる後漢の領域が広い??ですと。ありえないですね。

考え得る誤認の理由を以下に列挙してみました。

1.羈縻政策下あるいは都護府統治下の領域を算入しない。一番ありえそうな理由ですが、これだと唐は相当不利になります。州県(郡県)に編入されていない領域は認めないというのは、基準として厳しすぎると思われます。

2.雲南や朝鮮四郡の領域を過大評価する。これだと後漢はやや有利になりますね。

3.西のローマ帝国、東の漢王朝というくらいだから、後漢は広いに違いない。問題外の言い分に聞こえますが、俗な印象論としてはありうるのかもしれません。古代の帝国は偉大なりですよ。

2016-07-18

[]「邑姜」の墓出土か

陝西省宝鶏市の石鼓山墓地4号墓の被葬者が、太公望の娘で、周の武王の后である「邑姜」ではないかという説が出ています。

http://ex.cssn.cn/wh/wh_kgls/201607/t20160714_3121143.shtml

4号墓の副葬品から被葬者は女性らしいこと。4号墓と相似し、密接な関係のある3号墓出土の青銅器の族徽から、西羌の首長の有扈氏の墓であるらしいこと。3号墓出土の「中臣鼎」の銘文に「帝后」とあり、これが亡くなった王の配偶者を指す用語であることなどが、比定の根拠となっているようです。

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2016-05-16

[]秦信梁軍

趙の慶舎は『史記』趙世家に2カ所出てきます。

孝成王十年の条の「趙將樂乘、慶舍攻秦信梁軍,破之」という記述と、悼襄王五年の条の「慶舍將東陽河外師,守河梁」という記述です。

ちなみに後者について、岩波文庫の『史記世家中』P177が「慶舎は東陽に在り、黄河の南岸の地の兵をひきいて、黄河の梁(はし)を守っていた」と訳しているのは誤訳でしょう。ここは「慶舎は東陽と河外の地の兵をひきいて、黄河の梁(はし)を守っていた」と訳すべきでしょう。三家注のひとつ『史記正義』は、「東陽は(唐代の)貝州に属し、黄河の北岸にある」「河外は黄河の南岸にある(唐代の)魏州の地である」としています。『史記』本文では、ふたつの地名が並列されているので、慶舎はふたつの地の「師」を「將」(ひき)いたと読むべきです。

さて本題ですが、前のほうの「趙将の楽乗と慶舎が秦の信梁の軍を攻め、これを破った」件についてです。『史記集解』は、徐広を引いて「年表のいう新中軍である」としています。『史記索隠』は、「信梁は秦将である」としています。『史記正義』は、「信梁はおそらく王齕の号である。秦本紀が『昭襄王五十年、王齕が張唐に従って寧新中を抜き、寧新中は安陽と名を改めた』というのは、今(唐代)の相州理県のことである。年表が『韓と魏と楚が趙の新中の軍を救い、秦は兵を罷めた』というのがこれである」としています。

『史記』秦本紀の昭襄王五十年の条に「即從唐拔寧新中,寧新中更名安陽」という記述と、『史記』六国年表の魏の安釐王二十一年の条に「韓魏楚救趙新中軍,秦罷兵」という記述が確認できます。『史記正義』の説ももっともに思えるわけですが、しかしこれは年表上では1年ずれているのです。秦本紀のいう王齕が寧新中を攻め落とし、安陽と改名した翌年、六国年表と趙世家のいう秦軍が撃退されるという整理は、それなりに筋が通ってはいます。しかし信梁が王齕の号であるという推測は、かなり怪しいものともなるでしょう。

ええと、何が言いたいんでしたっけ?あっそうそう、慶舎は伝世文献的には実在するよという話でした。

2016-03-24

[]皇帝墓二題

呉の「孫休墓」の出土が、全然話題になってないなあ。といいつつ、亭主も一報をスルーしたんですけど。現時点での情報が少なすぎるんですね。盗掘の跡があるみたいですが、朱然墓の名刺みたいな何かが出てくるといいですねえ。

http://news.searchina.net/id/1604882

http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20160315/Searchina_20160315075.html

http://www.chinanews.com/cul/2016/03-11/7793595.shtml

南昌海昏侯墓は前漢廃帝劉賀の墓ということで決まったみたいですね。

http://www.recordchina.co.jp/a130270.html

http://culture.people.com.cn/BIG5/n1/2016/0318/c22219-28210633.html

2016-01-15

[]周原遺跡から「姫生母」の銘をもつ青銅鼎が出た件。

http://www.chinanews.com/tp/hd2011/2016/01-14/600565.shtml

http://news.xinhuanet.com/photo/2016-01/14/c_128628777.htm

http://www.china.com.cn/education/2016-01/15/content_37582171.htm

陝西省宝鶏市の周原遺跡の西周末期の墓から「姬生母作尊鼎,其万年,子子孫孫永保用」という銘文をもつ青銅鼎が出土しているらしい。ということで墓主の呼称は「姫生母」とみられている。

以下きわめて個人的な感想。「姫」は周の国姓だが、「生母」という諱や字は知られていない。そういう諱はなさそうな気がするので、どういう呼称だろうかと。もしかすると、「姫生の母」なのかもしれないけれど、なにか直截的すぎて、違和感がある。時代的には女性の呼称としては「〜姫」とかのほうが違和感がないんですけどね。

追記:感想部分削除。コメント参照。(2016.1.31)

Viva Technoliberation!
就是这股生命的泉水,日夜流穿我的血管,也流穿过世界,又应节地跳舞。
就是这同一的生命,从大地的尘土里快乐地伸放出无数片的芳草,迸发出繁花密叶的波纹。
就是这同一的生命,大潮汐里摇动着生和死的大海的摇篮。
我觉得我的四肢因受着生命世界的爱抚而光荣。我的骄傲,是因为时代的脉搏,此刻在我血液中跳动。
We historians are tomb raiders, who search for the truth.
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