『魔法少女まどか☆マギカ』12話再考

12話のまどかの願いが成就した瞬間に、暁美ほむらの5回以上のループはなかったことになっている。まどかの願いは「全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい。全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、この手で」というものであった。この願いが叶えられる以上、魔女のいた宇宙は存在しない。「全ての宇宙」という縛りが、平行宇宙論多世界解釈としてさえ魔女のいる宇宙を許容しないのだ。魔法少女が魔女と戦う世界はなかったことになっており、ほむらがループで体験した世界はどこの宇宙にもなかったことになっているのだ。まどかはあらゆる宇宙で魔法少女を絶望から救済してのけたのであり、12話の提示したデウス・エクス・マキナの壮絶さはここにある。世界改変などというチャチなものではなく、宇宙の再構築と呼ぶべきであろう。

女神まどか…と仮称する。正確には魔女を滅ぼす概念的存在であるが、12話のまどかはそのような存在になった。「今の私にはね、過去と未来の全てが見えるの。かつてあった宇宙も、いつかあり得るかもしれない宇宙も、みんな」と女神まどかは言っている。この「かつてあった宇宙」とは、過去・現在・未来という時間軸上の過去のことではない。魔法少女たちが魔女と戦う過酷な世界の宇宙であり、視聴者が熟知する1話から11話の物語の宇宙であり、ほむらの記憶の中の体験的過去に属する宇宙である。しかしこの宇宙は12話のまどかの願いによって上書きされてかき消され、わずかな痕跡が残るのみである。いや「だから、元の世界に戻っても、もしかしたら私のこと、忘れずにいてくれるかも」「きっとほんの少しなら、本当の奇跡があるかもしれない。そうでしょ?」 と女神まどかが言うように、ほむらとタツヤがまどかの記憶を保持しているのは奇跡と魔法に属している。「この世界に生きた証も、その記憶も、もう何処にも残されていない」というキュゥべえが本来正当である。ここに奇跡と魔法が存在することを忘れてはならない。

女神まどかもやはり魔法少女である以上、その絶望は呪いを生み、魔女を生むはずである。しかし魔女は生まれる前に消し去られる以上、まどかに絶望は不可能である。一般の魔法少女は呪いを生み始める前にまどかに連れ去られるが、まどかはまどかを連れ去ることができず、絶望不能のまま存在し続ける。不死であるだけでなく、「これからの私はね、いつでもどこにでもいるの。だから見えなくても聞こえなくても、私はほむらちゃんの傍にいるよ」というように汎神論的性質も明らかである。あたかも人間の人格のように見えることもあるが、それは女神まどかのわずかな一面にすぎず、その全貌を推し量ることはできない。

女神まどかはなぜ生まれたのか、暁美ほむらと物語の視聴者にとっては、その因果は自明であると思われる。しかし先に述べたように魔女のいた世界が実は存在しないとなると、とたんに説明が不能になる。鹿目知久と鹿目詢子の娘の鹿目まどかなる人物はどこにも存在しない。女神まどかは宇宙のはじまりから存在し、宇宙の終わりまでそこにある。まどかは正しく「始まりも終わりもなくなって」いるのだ。キュゥべえが「因果律そのものに対する反逆だ!」と叫ぶのも道理である。女神まどかが因果をいったん破壊していることを正しく理解すると、物語の妙味はより深まる。

さて、ここまで基本的なことを述べた。むろん12話には解釈の分かれる部分が多々ある。たとえばマミと杏子の出てくるメタティータイム空間はあれは何かとか、Cパートはいつのどこなのかとか、多様な解釈が可能である。しかし、上に述べたことはそのような種類のことではない。基本の理解を踏み外したオレ解釈がはびこるのは看過できない。

ところで、わりと深刻な話だが、12話のまどかの行為を「自己犠牲」と捉える見解がある。その見解には反対の意見を表明しておく。むしろ「うまくやりやがって、まどかめ」と大嫉妬すべきところだ。まどかは契約を利用して魔法少女たちを絶望から救っただけでは飽きたらず、まんまと神的存在にまで成りおおせたのである。まどかがいったい何を犠牲にし、何を捨てたというのか。せいぜい下等な人間の殻にすぎないではないか。まどかにできないのは絶望することと死滅することくらいであり、過去と未来の全てを見ることができ、いつでもどこにでもいられるのである。むしろ便利だろ?

以上、『まどか☆マギカ』のSF的凄さというのを解説してみたつもりである。