Hatena::ブログ(Diary)

nagaimichikoの日記 RSSフィード

2008-06-13

カメラは銃である。それでも私は、それを他人に向ける。


書くべきかずいぶん躊躇したのですが、書くべきことがあると思ったので。


6月8日の秋葉原の事件は、本当に驚きました。

亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、怪我をされた方の一刻も早い回復を願っています。



秋葉原は個人的にもよく行く場所で、自分の親しい人たちがよく行く場所でもあるので、第一報を聞いたときには震えました。自分が直接知る人の中には被害にあった人はいないようなのですが、twitterを始めてからは名前も顔も知らない知り合いが急激に増えたので、もしかしたらどこかで知っている人なのかもしれない、と思ったりしています。


この事件については、現場にいた人たちがデジカメやケータイで写真を撮ったり、動画中継をしていたことの是非がいろいろ議論されているようです。



それで思い出したことが1つ。







1994年のこと。1枚の写真に、私は出会いました。

小さな、うずくまる黒人の少女。その奥で、彼女をじっと見つめるハゲワシ。

「Starving Sudanese Child」(スーダンの飢えた少女)と名づけられたその写真は、飢えて力尽きた少女と、それが餌になるのを待つハゲワシの姿。

1994年の、ピュリッツアー賞を取った写真です。

(こちらのリンク先の左下の写真です: http://www.hbo.com/docs/programs/kevincarter/index.html





人が、鳥の食べ物になる。


そのことが、ひどくひどく衝撃的で、何の言葉もなくただそのすべてを語る1枚の写真に圧倒されて、私は当時、カメラの道を目指したいと、そう思ったのでした。




けれどもその写真はあまりにも衝撃的で、「写真を撮るよりも先に彼女を助けるべきだった」というような批判が写真家の元に数多く届いたそうです。実際に彼は写真をとった後ハゲワシを追い払い、彼女を食料センターに届けたそうなのですが。




そして、なのか。1999年7月、彼は自ら命を絶ちました。33歳だったそうです。






ものすごく、悔しかった。

「あなたの写真のおかげで、私の人生は変わった」と、もし彼に伝えられていれば、死ぬことはなかったんじゃないかと。

たとえそれを伝えたところでどうだったかなんて分からないけど、少なくとも私は、それを彼には伝えられなかった。そしてこれからも、ずっと。







その後、カメラを学生なりに勉強したりしたけれども、どうも才能がないなぁという自分に気がついて、わりとあっさりカメラマンの道は閉ざしつつ、何かしらの形で戦場を走り回れないものかとは、ずっと思ってた。それは、彼の写真に「出会って」しまった者の義務として。


今は、その義務感に縛られるのもおかしい気がして、ちょっと冷静に見ようと思っているところ。でもそのおかげで世界や争いや人間や貧困と正面から向き合おうという覚悟ができたし、やっぱり彼の写真は、自分の人生を大きく作ってくれた存在だと思う。





戦争写真家の写真やコメントは、いまでもよく見ます。その中に、「カメラを構えたら銃だと勘違いされて撃たれた」という話は、わりとよく出てきます。一眼レフを構える姿と、そのレンズの反射は、遠目で見たらライフルを構えている姿とあまり変わらないのかもしれません。




そしてそれは、写真を撮られるほうから見ても、同じような気がするのです。




自分が写真になることは、自分がただの記号になることでもあります。

自分が通りすがりの観光客に写真を撮られれば、それは「私」ではなくただの「珍しい生き物」でしかありません。それが許されるのは、信頼関係の下であるべきでしょう。




だから、私は人の写真を撮るのが今でもすごく苦手です。



けれど、私は一枚の写真の力を知っているし、信じているし、いつか自分もそんな写真を撮りたいと思っています。

だから、写真を撮ることをやめるわけにもいかないのです。






そして写真は1回だけ撮ってうまくいくものでもないから、

何枚も何回も、撮る必要があります。


撮った写真の数だけ、相手を傷つけたり、悲しい思いをさせているのだとしたら、


それは誰かを喜ばせたり、幸せにしたり、感動させたりするような、

そんなものをできるだけたくさん、たくさん作ることでしか、お返しできないのだと思っています。




言いたいことは2つ。

1.他人にカメラを向けるときはそれ相応の覚悟を持て。

2.メディア(マスじゃなくても)を通じて他人を批判するときはそれ相応の覚悟を持て。


この2つは、誰よりも自分に。





最後に、これを書こうと思うきっかけとなった文章を2つ紹介。ここに書かれていることが本当なのかどうか、私にはわかりませんが。

これは、2008.06.08に僕が遭遇した秋葉原通り魔事件の全記録です

閾ペディアことのは - カズ←金欠(’A`)さんのmixi日記

ロスペドロスペド 2008/06/18 20:02 信念とそれが「意味」することを知っていれば、特に問題はないかと。

>>現場にいた人たちがデジカメやケータイで写真を撮ったり

こういう連中は仮にあの時被害にあっていたとしても文句など言えるはずも無いゆとりさんですから。。。

木乃伊木乃伊 2008/06/20 19:24 >ロスペドさんへ。「ゆとり呼ばわり」は相手を見下した言い方になりつつ…いや、もう貶める言葉になっていると思います。「被害者」の中にもゆゆとり教育を受けて育ったかたがいらっしゃったかもしれませんし。「銃」なんですよ、「言葉」だって。

ロスペドロスペド 2008/06/20 22:29 一つの記事に対して二言以上申すのは避けていましたが・・・

そう、だから「あえて」その言葉を使ったわけです。

冷静な(本当の)オタであれば今のアキバが近寄っていいか場所どうか判断がつく筈であり
「いや、今は普通の人も・・・」
という意見に関しては
「じゃあ、そもそもその状況を作ったのは誰(国。メディア。組織。言っちゃってますが、まあ想像してください。)」
とまあこれはスレ違いになるのでキリが無いわけです。

これ以上は方針に反するのでもう何も言いませんが、本当の「原因」はどこにいる(ある)のか
ここを解決しない限り(ry

アリフォルニアアリフォルニア 2008/07/01 14:46 >ロスペドさん
>>「こういう連中は仮にあの時被害にあっていたとしても文句など言えるはずも無いゆとりさん」
ゆとり教育を受けた人間は殺されても仕方がない、と誤解されても仕方がないことを自信満々に言うあなたの考えは非常に危険だと思います。

くぁせくぁせ 2008/07/02 01:38 「ゆとり呼ばわり」は、自分のアイデンティティを保てる唯一にして最高の薬なのです


副作用として、ネット切断後の虚しさがありますけどね

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証