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腐フェミニスト記-801 Feminist Diary- このページをアンテナに追加 RSSフィード

  

2010-07-10

待機する労働者−無職と主婦のあいだ−

6月30日をもって、わたしは今まで勤めていた会社退職した。

 

主婦ではなく「無職」という言葉を選ぶ


結婚後、仕事を離れていたが復帰した人が開口一番、

「私、いままで無職だったんだけどさ」と後ろめたそうにいう。

結婚後、退職して「無職」の場合、夫の扶養に入り「主婦」と自称するのではないだろうか?

彼女は「主婦」を経済的な依存関係ととらえており、「主婦」と自分を名乗ることはそれからも一切なかった


一方、結婚後もデザイナーとして仕事をこなす人が、「いや、わたしも主婦ですからね」とたびたび話す。

ある日、出社時間を1時間遅くして欲しいと上司に申し出た理由に度肝を抜かれた。

「朝に洗濯物をきれいに洗って干したりする時間が欲しいから」

彼女にとって「主婦」であることと「有職」であることはどちらも共存している。

主婦であることは「仕事をしているけれども、家庭のこともやっている」という意味で語られる。


一方、わたしは自己紹介をするときに「主婦です」と名乗ることができない。

選び取った主婦ではないからかもしれない。

そのような状況に意図せず、落ち込んだ「主婦」だからかもしれない。

私は「有職/無職」の関係において、「無職」だと名乗る。


「有職/主婦」も「無職/主婦」もあるだろうが、己の「主婦的」部分は一切、披露しない。


ずるがしこいのか?

自分尊厳を保ちたいのか?

見栄を張っているのか?


いつか、戻る、戻れると思っている労働市場へ。

でも、働きたくない。

働くのは苦痛だと思う、労働市場へ。


待機する


時に人からのすすめですばらしい本に出会うことがある。

シモーヌ・ヴェーユの著作と出会ったのは晴れた夏前のあっけらかんとした庭を見ながらであった。



失業者家族中の就業者に対して絶対的な依存関係にあるが、それがすべての家族関係を悪化させている。就業者を家族にもつ失業者は、二十歳に達せぬ若者までも例外なしに、いかなる手当ても受けられない。

この依存状態の不快さは困窮のためにのぼせ上がった両親の非難でさらに増大し、しばしば若い失業者を親の家から追いたて、放浪や物乞いの生活に押しやる。

みずから家庭を作ること、結婚して子どもをもうけることなど、一般の若いドイツ人にとっては考えるにも及ばない。

将来を考えてみても、その内容となるようなものは何も彼らには思い浮かばない。


「待機するドイツシモーヌ・ヴェーユ著作集戦争革命への省察ー初期短編集ー



「待機するドイツ」は1932年ヒトラー政権へとゆれるドイツの様子をヴェーユが旅行したときに書き留めたものだ。


何も歴史に学ぶことがないのならば、記録などしても無駄だ。

私は私の状況で、すべての本を「私に向かって書かれたもの」として受け取る。

読書はどんなに広く流通しているものであろうとひどく個人的な出会いであり、

きれいに磨かれた床に正座し、著者と正面から話すようである。

著者の目は私をしっかりと見てはいないが、わたしに語りかけてはいる。

そういう本に出会うことは幸運以外のなにものでもない。


「待機するドイツ」と労働者イメージが心に茶色く浮き上がった。


求職、無職失業給付


失業給付をもらう基準をおさらいしよう。


次のような人は、失業給付を受けることができません。

1.病気やけが等で今すぐ就職することができない人

2.妊娠出産育児看護等で今すぐ就職することができない人

3.定年等により退職し、しばらくの間休養する60歳以上の人

4.結婚、転居、旅行などの予定があり、その後でなければ就職するつもりのない人

5.昼間、学校などに通っている人

6.家事に専念する人

7.現在就職している人

8.会社の役員等に就任した人

9.自営業を開始している人

失業給付は失業の状態にある人、つまり積極的に就職しようとする意志といつでも就職できる能力があり、仕事を探しているにもかかわらず、現在職業についていない人に支給されます。


わたしの今の状態をなんと呼べば「失業給付」を受けられるのか考える。

たくさんあるわたしのことば。

無職失業、求職、主婦、鬱、フェミニスト、妻、娘、事実婚・・・・」


このなかで、わたしが失業給付を選ぶために選んではいけないことばがある。

それは「主婦」だ。


ああ、そうか、と「主婦」と名乗らなかった人のことを思い出す。

きっと、彼女失業してこの項目を見たんだろう。

主婦」と名乗ると失業給付に該当しないことを覚えていたんだろう。

「名乗らない」のではなく、「名乗ってはいけない」のだ。


働くと対極にあるものが「主婦」なんだろうか?


待機する無職


会社を辞めてから、今日まで1年位の期間が開いてますよね?その間、何してたんですか?」


その質問に答えるために、求職中の日常を「やがて就職する会社のための準備」というありように構築しなければならない。

会社仕事労働、に接触していない時期もそれらのためにあろうとする「言い訳」なくして、職探しはできない。


仕事を何でやめたのか?やめた後何していたのか?をちゃんと説明できないとだめだよ」と職安の職員に言われる。


わたしは生きるために仕事を探しているだけで、

仕事をするために生きることを調整しているのではない。

就職活動の苦しさとは「生きてきた時間」をすべて何らかの「求職中」である体に接続しなければならないところにある。


働けることを常に証明しつづけなくてはならない。


待機する労働者は「無職」という職業についている。

もしくは、無職は「待機する労働者」になって初めて「求職」という状態に近づいていくことができる。

無職という労働可能性をもつわたしは、数多の職場に向かって開かれた求職という労働をする。


「いつまで生き延びればいいのか?」


「なんか、いつまで生き延びればいいのんだろうって思うよ」

8年余り、専門職として働き続ける彼女ビール片手にぽつりといった。

わたしもまさにその心境だった。

会社退職して、次に職につけても職場環境待遇がよくなる見込みはない。

というのも、わたしの「キャリア/職歴」からつけ環境待遇はどこも大差ないからだ。

いつまで、この苦痛が続くのか。


「わたし、自殺する大黒柱の父の気持ちがやっとわかった気がする。失業してもしなくても、転職してもしなくても、生きている限り、そう生き延びるために「仕事」をしなくてはならない。労働者だから。転職した先でも「労働」は延々につづく、生きる限り。そう考えたとき、死んだほうがましかな?とか思うかもしれない。朝のラッシュアワーの中で、帰りの終電の中で」


求職者としての、体の作法を考える。

スーツは黒か紺。男性は足を開き、両手は軽く握って、それぞれの膝におきましょう。女性は足を閉じ、少し斜めにして、両手は軽く重ねて、膝におきます」


職業という扉は「男性/女性」の身体表現をかなり明確にし、際立たせる必要がある。

一流のビジネスマン/ビジネスウーマンは「身だしなみ」としての、「男らしさ/女らしさ」を再度装着しなおす。


それぞれに、内面から調教しなおした体で、次の面接の扉をあけるのだ。