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2016-07-30 文字霊日記・2126日目

 2126日目・・・「語訳葉の転向・填納・転応」の「キク」の「妄想整理」の妄想・・・自由な妄想は「妄想次元」にとどめるべきが「人間」の生き方である・・・ムシ採りに夢中で、ムシ駕籠の虫の死にざまを「残酷」に弄びながら観察する夏休みの子供達にアイツの「刺青・入れ墨・文身・黥」を小刻みに剥ぎ取らせてヤレ・・・そして、「人間社会での我が身の痛さ」を教えてやれッ・・・マボロシは視えても喰えないコトも・・・幻影、幻想、幻覚、夢幻、幻獣、変幻・・・「変幻自在」にもなれないコトを・・・「幻=幺+𠃌」・・・

ーーーーー
 訳葉(訳葉転向)
 ↓↑
 鳥羽天皇
 (とばてんのう)=鳥の羽
         類字=刄刄・刃刃・・・𠃌+二+𠃌+二
            𠃌=(司)-(一口)=𠃌
            羽=𠃌+〃+𠃌+〃
            刁+一+刁+一
            刁=刀
           「石刁柏」=アスパラガス
            幻=幺+𠃌
            羽→翅・羽根・翼・刃
            𠃌=乙=乚=L・・・?
 康和五年一月十六日
 (1103年2月24日)
 〜
 保元元年七月二日
 (1156年7月20日
 第74代天皇
 在位
 嘉承二年七月十九日
 (1107年8月9日)
  〜
 保安四年正月二十八日
 (1123年2月25日)
 諱は宗仁(むねひと)
 堀河天皇の皇子
 母は
 皇太后
 藤原苡子・・・苡=イ・シ・ワ・くさ(草)
          芣苡(フイ)=おおばこ
          薏苡(ヨクイ)=はとむぎ
       薏苡=ハト麦・白くて食用、薬用
          薏苡明珠(ヨクイメイシュ)
          無実の疑いをかけられること?
          故事
          後漢の馬援(バエン)が
          交趾(コウシ・ベトナム)
          に遠征し
          薬用に
         「薏苡」を持ち帰ったが、
         「苡明珠」の宝を私服していると
          讒言(ザンゲン)された
 子の
 崇徳天皇
 近衛天皇
 後白河天皇
 の
 3代28年に渡り院政
 ↓↑
 母の
 藤原苡子(ふじわら の いし)
 承保三年(1076年)
  〜
 康和五年一月二十五日(1103年3月5日)
 第73代堀河天皇女御
 第74代鳥羽天皇生母
 父は大納言
 藤原実季・・・・・・実は季(イ・すもも)
             禾+子
 母は
 藤原睦子
 (藤原経平女)・・・睦=目+坴
            坴(リク)=十一八十一
 同母兄は藤原公実・・・実を公(おおやけ)にするハム
  ↓↑
 承徳二年(1098年)
 堀河天皇に入内
 女御宣旨
 康和二年(1100年)
 従四位下
 康和五年(1103年)
 第一皇子
 宗仁親王
 (鳥羽天皇)を出産し
 難産のため死去・・・・難産(ナンザン)
 同年
 従二位を追贈
 嘉承二年(1108年)
 鳥羽天皇即位
 皇太后を追贈
  ↓↑
 苡子は
 白河院の従姉妹で
 (院の生母茂子の姪)・・・茂子(もし)
 28歳で死亡・・・・・・・・二十八
 苡子の兄
 公実は
 鳥羽天皇外戚
 姪の
 璋子は・・・・・・・・・・璋(王の章)子
 鳥羽天皇中宮
 閑院流
 発展の元・・・
  ↓↑
 宗仁親王(鳥羽天皇)は
 祖父
 白河法皇・・・・・・・・・白い河
              牛乳の河
              銀河・天河・漢河
              ミルキーウェイ (Milky Way)
 の下に引き取られて養育
 誕生から
 7ヶ月で立太子
 父
 堀河天皇の死後
 5歳で即位
  ↓↑
 摂関の
 藤原忠実
 白河法皇の風下にあり、
 政務は白河法皇が執った
 永久五年(1117年)
 白河法皇養女
 藤原璋子(待賢門院)が入内
 翌年には中宮
 5男2女を儲ける
 保安四年(1123年)一月二十三日
 第一皇子の
 崇徳天皇譲位・・・・崇う徳
 実権は
 白河法皇
 堀河天皇の在位中、
 鳥羽天皇の治世において
 白河院政が本格化
 ↓↑
 鳥羽天皇
 白河法皇崩御
 大治四年(1129年)
 院政を敷く
 白河法皇の勅勘を受け
 宇治
 蟄居していた
 前関白
 藤原忠実
 天承元年(1131年)に呼び戻し
 娘の
 泰子(高陽院)を入内させ・・・泰の子
 上皇の妃として異例の皇后とした
 白河法皇の側近であった
 藤原長実・家保兄弟らを排除
 院の要職を自己の側近で固め
 藤原顕頼
 藤原家成
 有力な院司とし
 伊勢平氏
 平忠盛の内昇殿をゆるし
 政権に近づけた
 白河法皇の後ろ盾を失った
 待賢門院璋子にかわり、
 鳥羽天皇
 長承二年(1133年)頃
 藤原得子(美福門院)を寵愛・・・得の子
 永治元年(1141年)
 23歳の
 崇徳天皇譲位させ
 得子所生の皇子
 体仁親王近衛天皇)を
 3歳で即位させた
 康治元年(1142年)に
 東大寺戒壇院で受戒し
 鳥羽法皇となる
 ↓↑
 久寿二年(1155年)
 近衛天皇が早世
 第四皇子で
 崇徳上皇の同母弟である
 雅仁親王後白河天皇)を即位させ
 崇徳上皇
 院政を敷く
 可能性は失われ、
 崩御の直後に
 「保元の乱」が勃発
 ↓↑ ↓↑
 (71)後三条天皇
 ↓↑
 (72)白河天皇―(73)堀河天皇
 ↓↑
 (74)鳥羽天皇―(75)崇徳天皇―(76)近衛天皇
 ↓↑
 (77)後白河天皇―78 二条天皇―(79)六条天皇
 ↓↑
 (80)高倉天皇
 (81)安徳天皇
 ↓↑
 (82)後鳥羽天皇
 ↓↑
 (86)後堀河天皇
 (83)土御門天皇
 (84)順徳天皇
 (87)四条天皇
 (88)後嵯峨天皇
 (85)仲恭天皇
 ↓↑ ↓↑
 語訳葉の転向(ゴトバテンのコウ)
  ↓↑
 後鳥羽天皇
 治承四(1180)七月十四日
  〜
 延応一年(1239)二月二十二日
 第82代の天皇 (在位1183〜1198)
 名は
 尊成 (たかひら)
 戒名
 良然(りょうぜん)
 高倉天皇
 第四皇子
 母は
 准后
 七条院
 藤原殖子・・・・・殖子(ショクのシ)
   (やすこ・坊門信隆の娘)
 高倉天皇
 第四皇子、
 後白河天皇の孫、
 安徳天皇の異母弟
 ↓↑
 土御門(つちみかど)天皇譲位
 三代にわたって院政
 1221年(承久三)
 北条義時追討の院宣
 ↓↑
 安徳天皇が退位しないまま
 後鳥羽天皇即位
 寿永二年(1183年)
  〜
 平家滅亡の
 文治元年(1185年)
 まで在位期間が
 2年間重複
 ↓↑
 「壇ノ浦の戦い」で
 平家が滅亡した際
 神器のうち
 宝剣が海中に沈んだ
 文治三年(1187年)九月二十七日
 佐伯景弘
 の宝剣探索失敗の報告
 建久元年(1190年)一月三日
 再度の宝剣探索失敗
 承元四年(1210年)
 順徳天皇践祚に際して、
 上皇になっていた
 後鳥羽天皇
 三種の神器
 京都から持ち出される
 前月に伊勢神宮から
 後白河法皇
 献上された剣を・・・・献上された?
 宝剣とみなし
 後鳥羽天皇は2年後の
 建暦二年(1212年)
 検非違使
 藤原秀能を西国派遣して
 宝剣探索をさせた
 ↓↑ ↓↑
 承久の乱
 承久三年(1221年)五月十四日
 後鳥羽上皇は、
 執権
 北条義時追討の院宣
 「承久の乱」・・・何故、天皇なのに「乱」なのか?
 幕府の大軍に完敗
 7月9日
 19万の大軍を率いて上京した
 北条義時の嫡男
 北条泰時によって
 後鳥羽上皇
 隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島海士町
 に配流
 父の計画に協力した
 順徳上皇佐渡島に配流
 土御門上皇も自ら望んで
 土佐国に遷った
 三上皇のほかに、
 院の皇子
 雅成親王但馬国
 頼仁親王備前国
 に配流
 在位わずか3ヶ月足らずの
 仲恭天皇(当時4歳)も廃され
 代わりに
 高倉院の孫、
 茂仁王が皇位に就き
 その父で皇位を踏んでいない
 後高倉院
 院政を行った
 ↓↑
 後鳥羽院
 隠岐に流される直前に出家して
 法皇となった
 「明月記・文暦二年(1235年)」に
 春頃に
 摂政
 九条道家
 後鳥羽院と順徳院の
 還京を提案したが、
 北条泰時は受け入れなかった
 ↓↑
 四条天皇代の
 延応元年(1239年)二月二十日
 配所にて崩御
 5月
 「顕徳院」と諡号が贈られた
 北条泰時が死亡した
 仁治三年(1242年)六月
 九条道家追号を改めることを提案し、
 「後鳥羽院」の
 追号を贈ることとなった(平戸記)
 後高倉皇統の断絶によって
 後嵯峨天皇(土御門院皇子)
 の即位となった
 仁治三年(1242年)七月
 正式に
 「院号」が
 「後鳥羽院」・・・語訳葉隠(音)・・・?
 とされた・・・
 ↓↑
 歌人としての
 後鳥羽院(ごとばいん=ごとば の いん)
 歌作は後代にまで大きな影響を与えた
 建久九年(1198年)一月の譲位
 同八月の
 熊野御幸以降急速に和歌に志す
 正治元年(1199年)以降
 盛んに歌会・歌合などを行うよう
 新儀非拠達磨
 と
 毀誉褒貶
 相半ばしていた
 九条家歌壇
 の中心人物だった
 藤原定家の歌風に憧憬
 正治二年(1200年)七月に主宰した
 正治初度百首和歌
 式子内親王
 九条良経
 藤原俊成
 慈円・・・・・ジエン
 寂蓮・・・・・ジャクレン
 藤原定家・・・テイカ
 藤原家隆・・・いえもり
 ら、
 九条家歌壇
 御子左家系の歌人に詠進を求めた
 百首歌を機に、
 院は
 藤原俊成に師事
 藤原定家の作風の影響を受けた
 同年八月以降、
 正治後度百首和歌を召す
 対象となった歌人
 飛鳥井雅経
 源具親
 鴨長明・・・
 後鳥羽院宮内卿
 ら院の近臣を中心とする新人
 院は新たな歌人を発掘して周囲に仕えさせ
 後に
 九条家歌壇
 御子左家
 の歌人らとともに代表的な
 新古今歌人として成長する
 院近臣一派の基盤となった・・・
 ↓↑
 二度の百首歌
 和歌に志を深めた院
 勅撰集の撰進
 建仁元年(1201年)七月
 和歌所を再興
 寄人は
 藤原良経
 慈円・・・・・・ジエン
 土御門通親
 源通具・・・・・源を通り具(そなえる)
 釈阿(俊成)・・シャクア・シャア
 藤原定家・・・・テイカ
 寂蓮・・・・・・ジャクレン
 藤原家隆
 藤原隆信
 藤原有家(六条藤家)
 源具親・・・・・源を具る親
 藤原雅経
 鴨長明・・・・・鴨の長の明(菊大夫)
 藤原秀能
 の14名
 (最後の3名は後に追加)
 開闔(かいこう)は
 源家長
 これ以前に
 歌合千五百番歌合を主宰
 当代の主要歌人
 30人に
 百首歌を召してこれを結番
 歌合形式で
 判詞を加えるという企画
 この歌合は
 新古今期の
 歌論の充実、
 新進歌人の成長
 同年十一月
 藤原定家
 藤原有家
 源通具
 藤原家隆
 藤原雅経
 寂蓮
 の6人に勅撰集の命を下し
 「新古今和歌集」撰進を始め
 実質的に
 後鳥羽院
 撰者の一人であった(明月記)
 ↓↑ ↓↑
 室町時代の
 皇族
 貞成親王後花園天皇実父)が著した日記
 「看聞日記
  応永三十一年二月二十九日条
 (高松宮家旧蔵本)」
 には
 後鳥羽院
 「宸記(日記)」のうち・・・・宸記=日記
 建保三年五月十五日・十九日
 および
 十一月十一日条
 の一部が引用
 院が御忍びで
 地下連歌の席に出向き
 当時自らが出していた
 銭禁令(宋銭禁止令)に
 反して銭を賭けて勝利した
 後日、
 「見苦し」としながらも
 再び連歌で賭け事をした・・・「連(聯)歌の賭け」?
 ↓↑
 配流後の
 嘉禎三年(1237年)
 後鳥羽院
 「万一にもこの世の妄念にひかれて
  魔縁(魔物)となることがあれば、
  この世に災いをなすだろう。
  我が子孫が世を取ることがあれば、
  それは全て我が力によるものである。
  もし我が子孫が世を取ることあれば、
  我が菩提を弔うように」
 との置文を記した・・・明治維新までは長かったが?・・・
 同時代の公家
 平経高の日記
 『平戸記』には・・・・なぜ、「平戸の記」なのか?
 三浦義村
 北条時房
 の死を
 後鳥羽院
 怨霊が原因とする記述・・・
 ↓↑ ↓↑
 後鳥羽院
 御所焼・菊紋
 刀を打つことを好み、
 備前一文字派の
 則宗をはじめとして諸国から
 鍛冶を召して
 月番を定めて鍛刀させた・・・
 また
 自らも焼刃を入れそれに
 十六弁の
 菊紋を毛彫りした・・・
 「御所焼」、
 「菊御作」
 などと呼ぶ
 天皇家の菊紋のはじまり・・・語訳葉転応
 在位中の元号
 寿永 (1183年8月20日)〜1184年4月16日
 元暦 1184年4月16日〜1185年8月14日
 文治 1185年8月14日〜1190年4月11日
 建久 1190年4月11日〜1198年1月11日)
  ↓↑ ↓↑
 色葉字類抄(いろはじるいしょう)
 平安時代末期に成立した古辞書
 橘忠兼編
 三巻本のほか二巻本の系統もある
 十巻本『伊呂波字類抄』もある・・・
 ↓↑ ↓↑
 和語漢語を第一音節によって
 イロハ
 47部に分け
 更に
 天象・地儀など
 21門
 の意義分類を施した
 発音引き辞書
 イロハ引きの日本語辞書として最古
 オとヲの区別は
 アクセントの
 高低によって区別されている・・・
 オが平声(低)、
 ヲが上声(高)
 に偏るとされ、
 これは
 藤原定家
 仮名遣への影響が指摘されている・・・らしい・・・
 ↓↑
 当時の日常語が多く収録
 特に
 漢語が豊富に収録
 また
 社寺
 姓名
 など固有名詞も収録
 それらの
 漢字表記の後に
 片仮名で訓みが注され、
 時に簡単な漢文
 意味・用法が記されるものもある・・・
 ↓↑
 天養年間〜長寛年間
 (1144年〜1165年)
 二巻本『色葉字類抄』が成立
 後、増補が行われ
 治承年間
 (1177年〜1181年)までに
 三巻本『色葉字類抄』が成立
 その後
 大幅な増補が行われ
 十巻本『伊呂波字類抄』
 も鎌倉初期までに成立した・・・
 『世俗字類抄』
 『節用文字』
 も祖本の同じ異本とされる
 「前田尊経閣蔵六巻本」があり
 室町時代の語彙を増補・改編している
 花山院本(3冊本)は
 二巻本と十巻本の取り合わせ本
 後世に与えた影響としては、
 『字鏡集』
 『平他字類抄』
 『節用集』
 『塵袋』
 などが・・・・
 ↓↑
 諸本
 二巻本『色葉字類抄』
 尊経閣文庫
 永禄八年(1565年)写本がある・・・
 三巻本『色葉字類抄』
 尊経閣文庫
 鎌倉初期写本(前田本)
 中巻及び下巻の一部を欠く・・・
 黒川真三男蔵
 江戸中期写本(黒川本)・・・完本
 十巻本『伊呂波字類抄』
 学習院大学図書館
 鎌倉初期写本・・・・・・・・零本・・・・?
 大東急記念文庫蔵
 室町初期写本・・・・・・・・完本
 その他
 江戸時代の
 写本多数・・・
ーーーーー
 ・・・「日本文学」の興隆は「木版の江戸時代」である・・・?