2138日目・・・「誤嚥(ゴエン)」ですか・・・この漢字の発音でイメージするのは「ゴエン」だが・・・「日本語の漢字」って、難しい・・・「食べ物や飲みものを飲み込む動作を「嚥下(エンゲ)」、この動作が正しく働かないことを嚥下障害」、「誤嚥性肺炎・嚥下(エンゲ)は飲食物が食道ではなく気管に入ってしまうこと・喉周辺の筋肉や嚥下中枢(延髄)の機能が衰えた高齢者による事故が多く、後に誤嚥性肺炎を招く・声門部に於ける局所的な神経支配の障害、物理的な閉鎖障害により閉鎖不全がおこり、誤嚥が起こる」、「嗽(うがい・gar

  ↓↑
 「嚥(エン)」は
 「口」+「燕(つばめ・つばくろ・つばくら」
 で、異字体は、
 「玄鳥・・ツバメのハネの色だろう
      もしくは、「亠(音の略)+幺(小)」
  鷰・・・鷰+鳥の合体
  䴏・・・燕+鳥の合体
  㷼・・・「灬」=火、炎だから夏の鳥?
  觾・・・角は二股の燕尾の形だろう
  𪈏・・・非の間に其か「甘+只」にも見えるが?
  鳦・・・鳥の乙だが、
      乙(オツ・イツ)は
      乚(イン)の変形で
      アルファベットならZで、Lである?」
 問題は「鷰」の分解で
 「鷰」=「廿」+「北(丬+匕七ヒ)」+「口」+「鳥」
 「燕」は、
 「燕=廿+北(丬=爿)+口+(匕七ヒ)+灬」
 文字の象形からの原義は
 「ツバメの子が餌を丸呑みにする様子」
 かららしいが・・・
 旧字の「爿=丬」は
 「寝台を立てた縦の漢字」
 で、仏教では「北枕」は凶だが、
   方位学(風水)では吉である。
   脳ミソは冷めているのがイイから
   ベット(爿)の漢字も縦で「北」を示唆している
   「北=爿+匕」で「北の政所=大奥」である。
   色々な説があるらしいが
   「北条政子」=「尼将軍」が欠落している・・・
   「御-台所」の吉方位は概ね「北」
   生年の保元二(1157)年の「丁丑年」は記録されているが
   生月日が不詳である、が
   1157年、陰暦で二月節分前なら
   「丙子年」である。
   「御台所」=「北の政所」
   豊臣秀吉の妻は「高台院
   「寧子、禰々(ねね)、於禰(おね)」で
   こちらは死亡が「甲子年」の
   寛永元年九月六日(1624年10月17日)、
   「高台院
   「ねね(おね)=禰々」は
   「北=子=ねずみ」で
   「則天武后(後周)=武照」も
   「蕭淑妃」から
   「北=子=ネズミ=鼠」と罵られた
   「北」の
   「爿(寝台)」に寝ているのは
   「匕=牝=女」だろう
 「伏(イ+犬)=ふせる=人+犬」
 は人の傍に居る番犬である。そして、
 「寝(宀爿ヨ冖又)」=「床=牀」の台に
 「伏す」で、
 「伏」の類字は
 「状=狀→状態」
 であるからイメージの連鎖としての
 「廿+丬(爿)+口+匕(七ヒ)」
 「廿(にじゅ・ジュウ・ニュウ)」=卄
                  t十+・七十→㐂(喜)
                  喜寿
    廿+口=卄+口=甘→「坩・壺・壷・瓶・壜」
 の
 「爿=巣・棲=ねどこ」
 で連鎖的な関連性あるだろう。「臥(ふ)す」は「臣=目・眼」を見張る「人」だが、「自動詞」か、「他動詞」で意味が異なってくるが・・・兎に角、「燕」は、
 ツバメの巣の形と、ツバメの雛たちが親鳥に餌をネだって、その口ばし(嘴・喙・啄)を開けている様子であるだろう・・・
 類字に「涿=水+豕」、「琢=玉+豕」がある
 涿(タク)州、「涿鹿(タクロク)」河北省の地名
 「涿鹿」は黄帝が敵と戦った場所
 そして、
 「琢=琢」=玉を削る・玉を磨く
 ・・・「涿」は「水」が「削る・磨く」なら、渓谷両岸の岩石を削り取る急流・・・「鹿」は渓谷急流に流れ込む水流の筋で、「鹿の角」の比喩。「啄木鳥(きつつき)」は喙(嘴・くちばし)で木に穴をあけるトリである・・・
 そして、
 「嚥(エン)」の音韻は
 「咽-喉(のど・イン-コウ)」
 であり、
 「圓項(エンコウ・インコウ)→韻交」で、
 「丸孔・眼孔・含口」で、
 「雁高の眼光」である・・・
 「燕」がナゼ「つば-め・つば-くろ・つば-くら」かは
 「津波目・津羽目・津葉目」、
 「津の波の目」
 「摘まめ(む)」かも・・・
 「鐔(鍔)目」、「翼(つばさ)」、「翼玄(つばくろ)」
 は、その形状と色から類似性は理解出来るだろう・・・
ーーーーー
 以下はウイッキペデアを参照、参考・・・
 ↓↑
 つばめ(燕)
 全長は約17cm、翼開長は約32cm
 背は光沢のある藍黒色
 喉と額が赤、腹は白く、胸に黒い横帯
 尾は長く切れ込みの深い二股形で燕尾形
 翼が大きく、細長い体型
 脚は短く歩行には不向き
 巣材の泥を求めるとき以外は
 地面に降りることはめったにない
 一部、越冬する
 「越冬ツバメ」
 中日本から西日本各地で越冬
 集団で民家内や軒下などで
 就塒(シュウジ)する
 日本で越冬している個体が
 日本で繁殖したものであるのか、
 シベリアなど日本より
 北方で
 夏に繁殖したものであるのかは不詳・・・
 ↓↑
 ・・・北方からヤッテきて「越冬」するツバメ・・・「越唐」かも・・・ならば「燕国(燕山山脈南方、万里の長城東端、遼東半島も含む)」で、「燕京=北京・北平・大都・京城=ベギン(Beging)・薊(ケイ)・中都」である・・・ヤッてキタのは「渤海国(698年〜926年)人=大氏一族」だろう・・・「粟(あわ・ショク・ゾク)末(すえ・マツ)-靺(たび=皮足袋・くつ・マツ・バツ)鞨(くつ=革靴・カツ)」・・・鳴門の渦(ウヅ)と泡(沫・アワ)は「阿波(安房)の国」の縁戚だろう・・・「真田一族・上杉一族・徳川一族」・・・
 ↓↑
 ツバメは
 泥と枯草を
 唾液で固めて巣を造る
 民家の軒先など人が住む環境と同じ所で繁殖
 天敵はカラス(鴉・雅・烏)・・・香良洲・唐州・韓州
 巣は通常は新しく作るが、
 古い巣を修復して使用することもある
 産卵期は4〜7月ごろ
 一腹卵数は3〜7個
 主にメスが抱卵
 抱卵日数は13〜17日間
 その後の巣内での
 育雛日数は20〜24日
 1回目の繁殖の巣立ち率は概ね50%程度
 1回目繁殖に成功した番(つが)い、
 あるいは失敗した番(つが)いのうち、
 相当数の番(つが)いが
 その後
 2回目あるいはやり直しの繁殖をする
 雛(ヒナ)を育てている間に
 親鳥のうちどちらか一方が何らかの理由で欠けると、
 番(つが)い外のツバメがやってきて
 育てているヒナを巣から落して
 殺してしまう行動が観察されている・・・
 一方で、
 番(つが)いの内
 メスが欠けた場合、
 複数の他の(メス)ツバメが集まり、
 その中から選ばれたように
 一羽の(メス)ツバメが
 新たな番(つが)い相手となって、
 子育てを継続する・・・後妻、再婚・・・
 ↓↑
ーーーーー
 前回に書き込んだ
 「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや(陳勝)」
 「嗟呼燕雀安知鴻鵠之志哉」
 であるが、
 ↓↑
 陳勝(チンショウ)
 ?〜紀元前209年
 秦代末期の反乱指導者
 字は渉・・・・交渉・渉外・渉(わたる)
 ↓↑       「渉禽類 (ショウキンルイ)」
        徒渉・跋渉 (ばっしょう)
        あちこち歩き回る
       「渉猟」
        かかわる・関係する
       「渉外=干渉・交渉」
 ↓↑     ↓↑
    「三国干渉は1895年(明治二十八年)4月23日に
     フランス、ドイツ帝国ロシア帝国の三国が
     日本に対して行った勧告
     日本と清王朝の間で結ばれた
     下関条約に基づき日本に割譲された
     六日後に
     遼東半島
 ↓↑  清に返還することを求めた干渉」
 陳勝
 劉邦項羽に先んじて秦に反乱
 秦の討伐軍に攻められて敗死
 ↓↑
 陳勝(チンショウ)・・・陳(つらねて)勝つ
 汝陰郡・・・・・・・・・汝の陰の郡
             水の女(おんな)の
             阜(阝・邑)の
             今を云(二のム)う
 陽城県出身
 若い頃は日雇い農夫
 仲間に対して大言壮語を吐いて馬鹿にされたが、
 「嗟呼燕雀安知鴻鵠之志哉」
 (ああ、燕や雀のごとき小鳥にどうして
  鴻(ひくい・コウ)や
  鵠(白鳥・コク)・・・鴻鵠=コウコク=興国?
  といった
  大きな鳥(とり)の志がわかろうか)
 と意に介さなかった・・・
 ↓↑
ーーーーー
 燕国
 前漢の時代に設置
 広陽国
 広陽郡
 燕郡
 と名称を変遷
 春秋戦国時代
 燕の首都
 薊(ケイ)
 紀元前222年
 燕が
 秦によって滅亡
 上谷郡・漁陽郡・右北平郡・遼西郡・遼東郡
 が置かれた
 秦末
 各地の諸侯が独立
 趙王武臣の将軍であった
 韓広が独立して
 燕王となったが
 秦を滅ぼした
 楚の
 項籍によって
 韓広は遼東王に遷され、
 項籍に協力した
 燕の将軍
 臧荼が
 燕王となった
 ↓↑
 高祖
 劉邦前漢を建国
 引き続き
 臧荼が
 燕王であったが、
 紀元前202年
 に反乱を起こし殺され
 代わって
 高祖の幼馴染である
 盧綰が・・・・・・・・盧の綰(糸の官)
 燕王に封ぜられたが
 高祖がこれら
 異姓の諸侯王たちを粛清
 親族たちを諸侯王に立てる
 郡国制を施行し
 盧綰は廃され、
 高祖の八男
 劉建が
 燕王となった
 以降、
 燕国では
 劉氏一族が
 燕王となった
 元狩六年(前117年)・・・元を狩る六(むつ)の年(とし)
 8代目燕王
 劉旦は
 後継問題で父の
 武帝と揉め
 所領の
 良郷・安次・文安の三県は没収され
 元鳳元年(前80年)
 燕王
 劉旦は謀反し失敗、自害
 燕国は一時
 広陽郡となった
 宣帝の
 本始元年(紀元前73年)・・・本の始めの元の年(とし)
 劉旦の太子であった
 劉建が燕王から改称して
 新たに
 広陽王に封ぜられ、
 広陽郡は
 広陽国となり
 薊・方城・広陽・陰郷の4県を領した
 ・・・薊=艹+魝(魚刀)=枸杞(コク)=ナス科の植物
                    楕円形の赤い実
      あざみ・ケイ・カイ・ケ・ケチ・ケツ
      wolf-berry(ウルフ-ベリー)
 ↓↑
 王莽の時代
 「新」王朝を建国
 広陽国は
 広有郡と改名され、
 県名も
 薊県は伐戎県、
 方城県・広陽県・陰郷県
 は
 陰順県と改名・・・・・陰(偶数)の順の県(懸)
 ↓↑
 光武帝後漢を建国
 広有郡は上谷郡に合併
 和帝の・・・・・・・・和の帝→和の綴
 永元八年(96年)
 広陽郡として復活
 薊・広陽・昌平・軍都・安次
 の5県を領した
 幽州刺史治(州都)は
 薊に置かれた
 ↓↑
 西晋時代
 広陽郡は
 燕国となり
 薊・安次・昌平・軍都・広陽
 潞・安楽・泉州・雍奴・狐奴
 の10県を領した
 八王の乱後、
 燕国は
 燕郡となったが
 燕郡・右北平郡・遼西郡
 には、
 鮮卑族
 段部・・・・・・段の部
 が割拠していた
 ↓↑
 338年
 後趙
 石虎・・・・・・・・・石の虎
 によって滅ぼされ
 燕郡は
 後趙の領土となった
 その後、
 後趙の後継争いに乗じて
 前燕
 慕容儁・・・・慕(した)う容(いれ)る儁(すぐれる)
              雋れる=すぐれる=俊れる
 が
 後趙に侵攻し、
 薊を奪って、
 前燕の都とした
 ↓↑
 前燕・・・・前燕(337年〜370年)
       五胡十六国時代鮮卑族
       慕容皝によって建国
       国号は燕だが、
       同時代に同じく国号を
       燕とする国が4つあり、区別し
       初めに建国したので前燕
       慕容部
       4世紀前半〜5世紀中期
       中国東北方、遼東・遼西地方より
       華北地方にかけての地域で勢力を有した
       鮮卑系の部族
       五胡十六国時代
       前燕後燕西燕南燕
       の各王朝を建国した慕容氏一族
 ↓↑
 384年〜407年
 華北を統一した前秦
 383年
 淝水の戦いで東晋に大敗後、
 前燕の将軍だった
 慕容垂によって
 華北東部と遼西を領有
 中山(都)に
 建国
 ↓↑
 西燕(384年〜394年)
 鮮卑慕容部の
 慕容泓によって建国
 ↓↑
 南燕(398年〜410年)
 鮮卑慕容部の
 慕容徳によって建国
 ↓↑
 北魏時代
 燕郡は
 薊・広陽・良郷・軍都・安城
 の5県を領した
 ↓↑
 隋の時代
 涿郡に合併
 ↓↑
 以降、
 燕(紀元前1100年頃〜紀元前222年)
 燕国の名は
 記録から消滅・・・
 ↓↑
 当時は
 「燕」ではなく「匽」
 国名の
 「燕(エン)」は
 「奄=匽=燕」とも記録
ーーーーー
 ↓↑
 三国、魏・呉・蜀
 と
 燕国
 と
 邪馬臺(台)国・卑弥呼、壹與
 ↓↑
 景初二年(238年)12月
 卑弥呼、難升米らを魏に派遣
 魏から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えられた
 正始元年(240年)
 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ
 詔書印綬を奉じて倭王に拝受させた
 正始四年(243年)12月
 倭王は大夫の
 伊聲耆
 掖邪狗
 ら八人を復遣使として魏に派遣
 掖邪狗らは
 率善中郎将の印綬を受けた
 正始六年(245年)
 難升米に
 黄幢を授与
 正始八年(247年)
 倭は
 載斯
 烏越
 らを帯方郡に派遣
 狗奴国との戦いを報告
 魏は
 張政を倭に派遣
 難升米
 に詔書、黄幢を授与
 卑弥呼の死亡
 墓が作られ
 男王が立つが、
 国が混乱、互いに誅殺し、千人余が死んだ
 卑弥呼の宗女
 「壹與」を
 十三歳で王に立てると国中が鎮定
 倭の女王
 壹與は
 掖邪狗
 ら20人に
 張政の帰還を送らせ、
 掖邪狗
 らはそのまま都に向かい
 男女の
 生口30人
 白珠5000孔、
 青大句珠2枚、
 異文の雑錦20匹
 を貢いだ
 泰始二年(266年)
 倭の遣使、
 邪馬台国から最後の入貢
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 晋 西晋
 卑弥呼の時代(175年〜247年、248年頃)の
 燕国
 公孫延
 公孫度・・・189年
 公孫康・・・204年
 公孫晃
 公孫淵・・・228年
       238年
       太尉
       司馬懿
       の討伐を受けて
       国都
       襄平に包囲されて降伏
       一族ともども処刑され
       公孫氏の勢力は消滅(遼隧の戦い)
 弟の
 公孫恭が後を継いだ
 公孫脩・・・公孫淵の子
 『新撰姓氏録』は、
 「常世連」帰化人の氏族は
 「公孫淵」の末裔であると記述・・・
ーーーーー
 ↓↑
 越(エツ)
 紀元前600年頃〜紀元前334年
 春秋時代
 中国浙江省にあった国
 首都は
 会稽(浙江省紹興市)
 ↓↑
 黄河流域の
 都市国家群の周辺民族とは異なる
 ↓↑
 長江流域の
 百越
 に属する種族・・・百越or越族
          古代中国大陸の南方、
          江南と呼ばれる
          長江以南から
          現在のベトナムにいたる地域
          に住んでいた越諸族の総称
          越、越人、粤(エツ)とも呼ぶ
 越は
 楚、
 呉
 など
 長江文明を築き
 稲作
 や
 銅の生成で栄えた
 ↓↑
 夏の少康の庶子
 越に封じたことを
 越の君主の起源とする・・・
 ↓↑
 紀元前515年
 楚に遠征した
 呉王の
 闔閭の留守を狙って
 越王の
 允常が
 呉を攻め、
 混乱に乗じて実弟の公子
 夫概が兄に対して謀反
 紀元前496年
 允常が死去
 勾践が即位
 呉の闔閭が
 越を攻めたが敗死
 闔閭の次男の
 夫差が報復の準備し
 勾践は、
 先手を打って仕掛けたが大敗
 越は滅亡寸前になったが
 勾践が臣従し
 越は滅亡は免れ
 勾践は呉で使用人となったが
 家臣の
 范蠡の助けられ帰郷
 越は呉への復讐心から
 呉が
 伍子胥を殺害し
 夫差が中原に諸侯を集めて
 会盟を結びに行っている隙に呉を攻め、
 紀元前473年
 呉が滅亡した
 呉を滅ぼした勾践は、
 越の都を
 山東省の
 琅邪に遷し(江蘇省連雲港との説も)
 諸侯と会盟して
 中原の覇者となった・・・
 勾践の4代後の
 翳のときに
 呉(蘇州市)に遷都した・・・との説も
 ↓↑
 勾践は讒言によって腹心の
 文種を粛清
 范蠡は勾践の猜疑心を知り
 斉に逃亡し
 陶朱公と称して富豪となっていた
 紀元前465年
 勾践は死亡
 ↓↑
 紀元前334年
 勾践の6世の孫
 無彊の代に
 楚の
 威王の遠征によって、
 無彊王は逃亡したが
 楚の追撃を受けて捕虜にされ処刑
 後、
 楚懐王の代の
 紀元前306年頃までに、
 楚の王族
 卓滑によって滅ぼされた
 ↓↑
 越では銅の生成技術に優れ
 1965年
 銅剣が
 湖北省
 江陵県
 望山1号墓より出土し
 その銅剣は表面に
 硫化銅の皮膜が覆って
 錆ていない状態で出土
 稲作は越人による・・・
 『荘子』逍遥遊篇によると、
 越の人々は
 頭は断髪、
 上半身は裸で入れ墨を施していた
 『墨子』公孟篇
 『史記』越王勾践世家
 などにも同様の記事・・・
 ↓↑
ーーーーー
 新潟(越後)・・・越国=高志国
 燕市
 古くは
 「津波目」と表記
 「津」は港、
 「目」は中心地を意味
 燕市は内陸部にある
 港とは信濃川の河岸の船着場の一つ
 燕市周辺が米の集積地とされ
 水運の中継基地として栄えた
 伝説では川上から流れてきて
 燕が群れていたことから
 見出された祠を建てた地とされる
 「燕」の文字に置き換えられた
 時期や由来は不詳・・・らしいが、歴史上の記録で、「つばめ」である越後(新潟)の「黒鳥兵衛」の姓の「黒鳥=くろとり・コクチョウ=玄鳥=燕・鷰・䴏・㷼・觾・𪈏・鳦」である・・・
 ↓↑
 飛鳥時代
 飛鳥時代中期、弥彦神社創建
 709年(和銅2年)、国上寺創建
 奈良時代
 733年(天平4年)、西生寺創建
 平安時代
 947年(天暦元年)、弥彦神社で勅額を貰う
 955年(天暦8年)、村上天皇の皇子と
          桜井親王が和納に
          楞厳寺を建てる
 1060年(康平2年)、康平年間
          「黒鳥兵衛」が
           弥彦の桔梗城を攻める
 1063年(康平5年)。黒鳥兵衛滅びる
 1100年(康和2年)。御立八幡宮の建立
ーーーーー
 ・・・佐々木小次郎の「燕返し」と、宮本武蔵の「二刀流」・・・巌流島・・・「フイルムは生きている」って・・・キカンシはフタマタ・・・