2264日目・・・シリアの「空爆サリン攻撃」・・・アメリカの「トマホーク・ミサイル攻撃」・・・「三木清(1897年1月5日〜1945年9月26日)」の「人生論ノート」、「情念」、「虚栄心」、「嫉妬(ねたみ?)・憎しみ(反知性?)・怒り(目の前?)」の「理由?」ですか・・・「偽善者」・・・「娘年=ジョウネン=常念・上念」のオモイ?・・・1930年、治安維持法違反で起訴。1945年、反戦容疑で再逮捕。終戦後、釈放されず、獄中で死亡・・・無念、残念だったろうなッ?・・・それとも、獄中往生でヨシ、としたのかな?

 モモちゃん、君に出逢ったのは「2008年10月20日(月曜日)」だったけれど・・・
  ↓↑
http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46845_29569.html
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 前回の「延長」・・・以前にも、何度も「則天武后」に関しては再三再四、言及したが・・・今回も懲りずに同じようなコトを「ウイッキペデア」などからの「記録」を参照、参考に引用添付して、これに「?」なところを「カンガエテみよう」・・・簡単、単純に云ってしまえば「則天武后の時代」は「天智・天武・持統・文武・聖武孝謙、称徳」天皇等の時代であり、これに若干遅れて、遣唐留学生「阿倍仲麻呂」の時代だった、と云うコトである・・・
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 則天武后
 ↓↑
 生年 武徳7年1月23日
   (624年2月17日)
 没年 神龍元年11月26日
   (705年12月16日)
 ↓↑
 在位 690年10月16日〜705年2月22日
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 天智天皇
 ↓↑
 第三十八代天皇・・・・三+八=十一
 推古天皇三十四年
     (626年)
       〜
 天智天皇十年十二月三日
     (672年1月7日)
 在位 天智天皇七年一月三日
     (668年2月20日
       〜
     天智天皇十年十二月三日
     (672年一月七日)
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 「孝謙、称徳」天皇・・・「安倍皇女」
             「阿倍内親王
             「宝字称徳孝謙皇帝
             「高野天皇
             「高野姫天皇
             「倭根子天皇
             (やまとネコのスメラみこと)」
 ・・・天平十七年(744年)、「安積親王(男子)」没
 ・・・天平十年一月十三日(738年2月6日)
    「阿倍内親王立太子(皇太子)・・・
 ↓↑
 史上六人目の女帝
 生年 養老二年(718年)
      〜
 没年 神護景雲四年八月四日
        (770年8月28日)
 第四十六・第四十八代天皇
 在位
 孝謙天皇 749年8月19日〜758年9月7日
 称徳天皇 764年11月6日〜770年8月28日
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 阿倍仲麻呂(アベのナカマロ)・・・「阿倍内親王」は従姉妹
 文武天皇二年
     (698年)
      〜
 宝亀元年(770年)一月・・・唐で客死
 ↓↑
 遣唐留学生・・・十七歳
         霊亀三年=養老元年(717年)
         多治比県守が率いる
         第九次遣唐使に同行
         唐の長安に留学
 姓は朝臣
 筑紫大宰帥
 阿倍比羅夫の孫
 中務大輔、
 阿倍船守の長男
 兄は
 好根・・・・・・?・好根・・・根を好む
 弟は
 阿倍帯麻呂・・・?・帯麻呂・・麻呂を帯びる
 子供は
 日本で生まれた
 満月丸・・・・・?・満月丸・・満月の丸(円)
           安倍清明の祖?
 唐名
 「朝衡=チョウコウ=晁衡」
 ↓↑
 天平勝宝四年(752年)
 衛尉少卿に昇進
 藤原清河率いる
 第十二次遣唐使一行が来唐
 在唐
 三十五年
 経過の
 仲麻呂
 は
 清河らとともに、
 翌年
 秘書監・衛尉卿を授けられ
 帰国を図った
 王維は
 「秘書晁監(秘書監の晁衡)・・・王立の図書館長
 日本国へ還るを送る」
 の別離の詩を詠んだ・・・
 ↓↑
 太学で学び
 科挙に合格
 唐の玄宗に仕え
 神亀二年(725年)・・・神の亀、ニネン・・・
 洛陽の
 左春坊司経局校書・・・皇太子(瑛王)側近の
            図書管理係り
           「校書」=書物の管理や高官の
                文筆を補佐・正九品
 左拾遺・・・・・・・・右拾遺とともに
            皇帝の過失を
            諫め補う官職
 左補闕・・・・・・・・門下省に属し、
 ↓↑         皇帝を諷諫し
            その過失を補う役人
            皇帝が見落とした
            過失や、誤りを正して、
            補佐する役人
 ↓↑        「左補闕」=皇帝の移動に伴って
                 付き従う供奉や、
                 皇帝の政治に
                 行き過ぎがある場合に
                 それを諌める諷諫、
                 高い見識を持って
                 皇帝に近侍する側近の官
                 従七品
 ↓↑        「玄宗皇帝」に近侍する官位を歴任
           「儀王友(玄宗皇帝の第十二子)の
            儀王の学友・従五品)」
            天宝十二年(753・53歳)に
           「秘書監(従三品・秘書省の長官
 ↓↑             文筆の官の最高位)」
 と任官
 神亀五年(728年)
 左拾遺
 天平三年(731年)
 左補闕
 安倍仲麻呂
 唐朝廷で
 李白・王維・儲光羲
 らの
 唐詩人と親交・・・
 『全唐詩』に
 彼に関する唐詩人の作品が現存・・・
  ↓↑
 「金烏玉兎集」は
 「安倍清明」の物語と重なる・・・
  金烏=太陽
  玉兎=月(衛星)
  ↓↑
 元名(源名)は
 「三国相伝
 (さんごくそうでん
  陰陽輨轄簠簋内伝
  いんようかんかつほきないでん
  金烏玉兎集
  きんうぎょくとしゅう)」
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 天皇
 ↓↑
 「スメラミコト・スメロキ・スベラギ」
 等・・・「シュメール」・・・「すべる=支配、統一」
 元は
 「皇帝・天子・君主」の敬称
 神格化された
 北極星=「天皇大帝」を指す
 ↓↑
 7世紀中頃以降
 中国語の
 「天皇地皇人皇
 の一つに由来
 スメラミコト・・・・素女裸見事(美事)
 の漢語表現
 ↓↑
 「天皇」の文字の初見
 天皇という二字は、
 「是、全ク漢土ノ制ニ傚ヘル故ニ、
  今目シテ漢風諡ト云フ」
 「天皇(テンコウ)」は
 三皇の一種
 他に、
 「天帝・天子」の意味
 ↓↑
 「皇天(コウテン)」は
 「天皇・皇室・天の神・上帝・天帝」
 などを意味
ーー↓↑ーー
 オオキミ(大王)
 天武天皇(672年〜686年)ごろから
 中央集権国家の君主として
 「天皇」が用いられた
 大和朝廷時代の
 大王が用いた称号であり、
 奈良時代平安時代
 政治・祭祀の頂点
 ↓↑
 摂関政治院政武家の台頭により
 政治的実権を失っていった
 室町時代には宮中祭祀の廃絶
 江戸時代末に尊王論
 王政復古、
 明治憲法下の天皇制へ
ーー↓↑ーー
 大日本帝国憲法
 天皇国家元首
 神聖不可侵、統治権を総攬する
 1936年(昭和十一年)・・・・「十一ねん」→「拾イチネン
 「天皇」に統一
ーー↓↑ーー
 象徴規定に法的意味は無く、
 国民統合の機能は
 憲法上、
 天皇にはない
 ↓↑
 天皇へ認可された権能は極めて限定
 天皇の地位は主権者である
 国民の総意に基づく(第1条)
 天皇制度は国民の総意によって
 改正・廃止できる
 ↓↑
 神勅主義は明確に否定
 天皇
 公的な宗教的活動は禁止(第20条)
 神道は特別な地位を許されず、
 皇位継承の際に行われた
 大嘗祭
 三種の神器の継承は、
 天皇家の私事・・・
ーー↓↑ーー
 天皇
 憲法が限定的に列挙している国事行為だけを行い、
 国政に関する権能は一切持たない(第4条、第6条〜第7条)
 国事行為は
 国家意思形成に関わらない形式的・儀礼的行為
 天皇が国事行為を行うには
 常に内閣の助言と承認が必要
 内閣は自らの助言と承認に責任を負う(第3条)
 ↓↑
 天皇は国事行為の責任を負わないが、
 民事責任は負う
 刑事責任を免責する明文規定は無い
 摂政はその在任中は訴追されないと
 定める皇室典範21条から、
 天皇もその在任中は訴追されない・・・
ーー↓↑ーー
 大日本帝国憲法、(第4条)
 「天皇
  国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」
 するとの明記
 日本国憲法
 元首の規定なし
 ↓↑
 象徴天皇を元首とする・・・説、
 実質的機能を重視し
 内閣(または首相)を元首とする
 元首は不在とする・・・説等がある・・・
 大多数は、
 条約締結や
 外交使節任免
 および
 外交関係処理の権限をもつ
 内閣を元首とするか、
 行政権の首長としての
 内閣代表の
 内閣総理大臣
 元首としている
ーー↓↑ーー
 女天皇
 8人10代(2人重祚
 皇室典範では
 女性は天皇になることはできない
 (第1条)
 歴代天皇は全員皇統の
 男系天皇(父方の祖先が天皇)であり、
 女系天皇(母のみが皇統)は
 未だ存在しない
 皇室典範
 天皇家親族の
 皇后、皇太后太皇太后
 ならびに
 嫡男系の嫡出の血族
 (既婚の女子を除く。親王内親王、王および女王)
 およびその配偶者
 (親王妃および王妃)を
 皇族という
 (皇室典範第5条、第6条)
 天皇と皇族の全体を総称して皇室
ーー↓↑ーー
 領域国家化を達成した大国の君主が
 周王に取って代わる天下で
 唯一の「王」を自称し、
 王が乱立
 その後、
 ↓↑
 秦が
 紀元前230年に韓
 紀元前228年に趙
 紀元前225年に魏
 紀元前223年に楚
 紀元前222年に燕
 紀元前221年に斉
 を滅ぼし、
 ↓↑
 紀元前221年〜紀元前206年
 秦朝の
 統一から滅亡までの期間
 ↓↑
 「始皇帝
 初めて
 中国を統一した
 秦(シン)王
 嬴(エイ)
 政(セイ)
 ↓↑
 「王」号をかえ
 「皇帝」号を使用
 ↓↑
 紀元前206年〜紀元8年)
 前漢成立と期間
 ↓↑
 紀元前221年
 王号は
 皇帝の臣下へ与えられる称号(諸侯王)、
 あるいは
 皇帝の天下の権威を認めて
 従属姿勢を示す
 周辺国家の長に贈る称号とした
 (漢の対等国・・・対等?
  であった
  「匈奴」の
  君主の号は
  「単于」であり
  「王」ではない)・・・
ーー↓↑ーー
 日本
 王号の初出
 漢の
 光武帝
 「五十七=五拾七」年・・・ゴを拾うシチ
 (委)奴国の王に・・・・・イヌ・いぬ=狗・戌・犬?
            「ア-イヌ」=「蝦夷」・・・?
 賜綬した
 金印に彫られている
 「漢-委-奴-国王」
ーー↓↑ーー
 『隋書』
 「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」
 開皇二十年(600年)
 第1回遣隋使・上奏文
 「俀王
  姓
  阿毎
  字多利思北孤
  號
  阿輩雞彌」
 「俀王多利思北孤」の号
 「阿輩雞彌(アハケミ・おおきみ)」・・・
  アワ・あわ・阿波・・・?
 大業三年(607年)
 第二回
 遣隋使の上表文(国書)
 「日出處
  天子
  致書
  日沒處
  天子
  無恙云云」
 対外的に
 「天子」の称号が使用
 国内においては
 「大王(おおきみ)」、
 「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」
 の号が使用・・・
ーー↓↑ーー
 唐
 高宗
 674年
 「皇帝」を「天皇」と改称
 「天武天皇」も「天皇」表記を採用した・・・?
 「天皇(大帝)」
 中国古代の
 宇宙の最高神天帝の名
 道教思想と関わりを持つ
 天武の施政
 道教的色彩
 「天武」が
 「天皇」表記を用い始めた・・・ナゼ?
ーー↓↑ーー
 飛鳥京跡から
 「大津皇・津皇・皇子」
 などの文字の見える
 木簡の削り屑が出土
 天武の子
 「大津皇子」を指す
 同時出土の他の木簡から
 天武十年(681年)のもの・・・
 天武十年に
 皇子表記が使用されていることは、
 それ以前に
 「天皇」表記が用いられていた・・・
 「天皇」という表記の訓みは
 「スメラミコト・・・・・素女裸(猿女・宇受女)見事
  スメロキ」・・・・・・蘇女(目)賂記(紀・姫)
 「スメル=統べる」の転訛・・・素女
 「上代特殊仮名遣」・・・・「上代特殊仮名遣」は
                ↓↑
 からこれは否定・・・・・・・関係無い
 現在も判然としていない・・・関係無い
            ・・・漢字自体が関係する・・・
 万葉集には
 「天皇」の表記が
 12例知られ、
 7例が
 「オオキミ」
 5例が
 「スメロキ」
 と訓ませている・・・
 文意の比較から
 「オオキミ」=「今上天皇
 「スメロキ」=「過去の歴代天皇や皇祖神」
 に対して用いられていた・・・既に死亡した
               権力者が「スメロキ」・・・
              「星(星座)=天皇」になった?
ーー↓↑ーー
 武 則天=則天武后
 中国史
 唯一の女帝
 唐の
 高宗の
 「皇后」となり、
 後に
 唐に代わり
 「武周」朝を建てた
 諱は
 「照(曌=明+空)」
 日本では
 「則天武后(そくてんぶこう)」
 この名称は
 彼女が
 自らの遺言により
 「皇后」の礼をもって
 埋葬された事実を重視した呼称
 中国では、
 彼女が「皇帝」として
 即位した事実を重視して
 「武則天」と呼ぶ・・・「天皇」=「皇后」?
ーー↓↑ーー
 王朝 武周
 在位期間
 690年10月16日〜705年2月22日
 都城 長安
 姓・諱
 媚娘→武照(武曌)
 諡号 則天大聖皇帝
    則天順聖皇后
 生年 武徳7年1月23日
    (624年2月17日)
     〜
 没年 神龍元年11月26日
     (705年12月16日)
 父 武士彠
 母 楊夫人
 陵墓 乾陵
 ↓↑
 則天武后時代の
 664年に実権〜690年に国号を武周
 年号  西暦       漢字の意味?
 光宅  684年・・・・・・ 光の宅 光沢・公宅・考拓
 垂拱  685年〜688年・・・垂の拱 垂拱之化=ナニもしない
                  スベテが順調
                  手を拱(こまね)くだけ
 永昌  689年・・・・・・ 永の昌 詠唱・永正・英商・贏相
 載初  689年〜690年・・・載の初 初めての掲載
 天授  690年〜692年・・・天の授 天からの授かり
 如意  692年・・・・・・ 如の意 イの如く
 長寿  692年〜694年・・・長の寿 オサのコトブキ
 延載  694年・・・・・・ 延の載 延長して掲載
 証聖  695年・・・・・・ 証の聖 聖(ひじり)を
                  証(あかす)・聖武天皇
 天冊万歳695年・・・・・・ 天の冊=古事記日本書紀
                  記紀の上巻、神話
              万の歳=太安万侶の歳?
 万歳登封695年〜696年・・・万の歳
              登の封=唐風・東風・当風・当諷
                  渡邉崋山(登)
 万歳通天696年〜697年・・・万の歳
              通の天=天に通じる
 神功  697年・・・・・・ 神の功=神功皇后
 聖暦  698年〜700年・・・聖の暦=ひじり(セイ・西)の暦
 久視  700年〜701年・・・久の視=櫛・串・駆使・句詞
 大足  701年・・・・・・ 大の足=オホのタリ
                  景行天皇
                  大足彦忍代別尊
                  第十二代天皇
                  大足彦尊
 長安  701年〜704年・・・長の安=オサのアン(やすんじ)
ーー↓↑ーー
 天武天皇
 生年?
 舒明三年
 (631年)?
  〜   645年=大化の改新
  ↓↑       壬申の乱
           天武天皇元年6月24日〜7月23日
      672年7月24日〜8月21日(ユリウス暦
            ↓↑
           則天武后
      655年(永徽六年)六月に皇后
      664年に実権
  ↓↑  690年に国号を「武周」
  ↓↑  690年〜692年=年号は「天授」
 朱鳥元年九月九日
(686年10月1日)
 在位
 天武天皇二年二月二十七日
 (673年3月20日
   〜
 朱鳥元年九月九日
 (686年10月1日)
 『皇統譜』の代数は
 第四十代天皇
ーー↓↑ーー
 則天武后
 ↓↑
 利州
 都督
 武士彠
 と
 楊夫人の間に
 次女
 として生まれた
 諱を
 照(ショウ)・・・曌=明+空=天「照」大神=天明
 幼名を
 媚娘(ビジョウ)・・・眉=まゆ=繭=蚕(かいこ・サン)
 ↓↑     七歳の「まゆわ=眉輪=繭輪=目弱」皇子
        父は大日下皇子(大草香皇子)
        都夫良意富美=つぶらおほみ=円大臣
              =葛城の円
 ↓↑     と共に「火宅」で自刃・・・
 12歳
 父が死去・・・・武士彠(尋蒦)=ブ-シ-カク
 14歳
 太宗の後宮に入り
 才人(妃の地位。正五品)
 当初は
 太宗の寵愛を受けていたが
 宮廷に
 「唐三代にして、女王昌」
 「李に代わり武が栄える」
 との流言が蔓延し
 「武照の聡明さが
  唐朝に災禍をもたらす」
 と疑い
 太宗は、
 武照を疎遠にした
 李君羨という武将が
 「武が栄える」の
 「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑
 太宗は
 李君羨の処刑後もなお
 武照と距離を置き続けた
 太宗の子である
 李治(高宗)が
 武照を見出し、
 太宗に殺害されることを恐れた
 武照は李治を籠絡し、
 李治は妄信的に
 武照を寵愛した・・・
ーー↓↑ーー
 太宗の崩御
 出家した
 ↓↑
 だが、
 額に焼印を付け
 仏尼になることを避け、
 女性の
 道士(坤道)となり
 道教寺院(道観)で修行
 ↓↑
 太宗の後継者である
 高宗の皇后だった
 王皇后と、
 高宗が寵愛していた
 蕭淑妃が対立
 ↓↑
 王皇后は
 高宗の寵愛を
 蕭淑妃から逸らす為、
 高宗に
 武照の入宮を推薦
 ↓↑
 武照は
 昭儀(後宮における上から5番目の地位)
 として後宮に入宮
 高宗の寵愛は
 王皇后の狙い通り
 蕭淑妃から逸れ
 同時に
 王皇后自身も
 高宗から疎遠となった・・・
ーー↓↑ーー
 立后
 永徽六年(655年)六月
 昭儀(後宮の位の一つ)だった武照を
 新たに設けた
 宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが、
 宰相の
 韓瑗と
 来済の反対で実現はしなかった
 中書舍人
 李義府などの側近が
 皇后廃立と
 武照擁立の意図を揣摩し、
 許敬宗、
 崔義玄、
 袁公瑜
 等の大臣が結託し
 高宗に
 武照立后の上奏文を送った。
 高宗は
 王皇后を廃して
 武照を皇后に立てる事の是非を
 重臣に下問
ーー↓↑ーー
 この時の朝廷の主な人間は
 太宗の皇后の兄である
 長孫無忌、 太宗に信任されて常に直言をしていた
 褚遂良、
 高祖李淵と同じ北周八柱国出身の
 于志寧
 太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた 李勣の四人
 長孫無忌と褚遂良は反対し、
 于志寧は賛成も反対も言わず、
 李勣のみが皇后の廃立を消極的に容認
 ↓↑
 10月13日(11月16日)
 高宗は詔書を以て、
 「陰謀下毒」の罪により
 王皇后と蕭淑妃の二名を庶民に落として罪人とし
 投獄した
 同二名の親族は官位剥奪の上
 嶺南への流罪
 7日後、高宗は再び詔書を発布し
 武照を立后とし
 諫言した
 褚遂良を潭州都督へ左遷
 11月初旬
 皇后になった武照は
 王氏(前皇后)と 蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きに処し
 処刑
  垂簾政治
 武皇后は
 高宗に代わり垂簾政治・・・ナゼ?
 武皇后は
 自身の権力を支える人材を
 非貴族層から登用
 狄仁傑・姚崇・宋蓂
 など
 武皇后は人材の採用に当たっては、
 身分のみならず才能と
 武皇后への忠誠心を重視
 姚崇
 宋蓂
 は後に
 玄宗の下で
 「開元の治」
 を導いた
  ↓↑
 顕慶五年(660年)
 新羅の請願で
 百済討伐
 百済を滅ぼし
 倭国(日本)・旧百済連合軍
 と
 唐軍
 が戦った
 白江口の戦い(白村江の戦い
 に勝利し、
 その5年後には孤立化した
 高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵)
 だが、
 武皇后の暴政と
 営州都督
 趙文翽の横暴により
 契丹が大規模な反乱
 河北へ侵攻
 遼東遼西の情勢は悪化
  ↓↑
 武皇后は
 娘の
 太平公主
 薛懐義・張易之・昌宗兄弟
 など自身の寵臣、
 武三思・武承嗣 ら親族の
 武氏一族を重用し、
 専横を招く
 佞臣の
 許敬宗などを任用し、
 密告政治により
 反対者を排除、
 来俊臣・索元礼・周興
 ら「酷吏」が
 反対派を監視する恐怖政治を行った
  ↓↑
 高宗は
 武皇后の廃后を計画
 武皇后は計画を事前に察知
 皇帝の権力奪還を許さなかった・・・?
  ↓↑
 弘道元年(683年)
 高宗が崩御
 子の
 李顕(中宗)が即位 中宗の皇后
 韋氏が血縁者を要職に登用したことを口実に
 太平公主を使って
 中宗を廃位し
 弟の
 李旦(睿宗)を新皇帝に擁立
 睿宗は武后の権勢の下、
 傀儡に甘んじる
  ↓↑
 武則天の専横に
 皇族が次々と挙兵したが、失敗
 反乱軍の檄文を
 詩人の
 駱賓王が書いた
 その名文に感嘆した武則天
 「このような文才のある者が
 (官職につけられずに)流落しているのは
 宰相の責任だ」と言った
 という逸話  ↓↑
 登位
 宗族の挙兵を打ち破った後、
 武后は
 女帝出現を暗示する預言書
 (仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)
 を全土に流布
 周代に存在したとされる
 「明堂(聖天子がここで政治を行った)」を
 宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、
 帝位簒奪の準備を行った
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 天授元年(690年)
 武后は自ら帝位に就き
 国号を
 「周」とし、
 「聖神皇帝」と称し、
 「天授」と改元
 睿宗は皇太子に格下げされ、
 李姓に代えて
 武姓を与えられた
 この王朝を
 「武周」と呼ぶ
 (国号は周であるが
  古代の周や北周などと区別)
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 帝室を老子の末裔と称し
 「道先仏後」だった唐王朝と異なり、
 武則天は仏教を重んじ朝廷での席次を
 「仏先道後」とした
 諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、
 自らを
 弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、
 このことを記したとする
 『大雲経』を創り、
 これを納める「大雲経寺」を
 全国の各州に造らせた
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 武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが、
 高宗の時代から彼女が実力を見い出し重用していた
 名臣、
 狄仁傑
 武則天
 狄仁傑を宰相とし
 諫言を聞き入れ、
 国内外の難題処理
 姚崇・宋蓂
 などの実力を見抜いて要職に抜擢
 この二名は
 玄宗の時代の
 開元の治
 を支える名臣
 武則天の治世の後半は
 狄仁傑らの推挙により
 数多の有能な官吏を登用
 宗室の混乱とは裏腹に
 政権の基盤は盤石
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 晩年
 武則天が病床に臥せがち
 宮廷内では唐復活の機運
 武則天は甥に帝位を譲ろうとしていたが、
 「子をさしおいて甥に譲るのは礼に反する」
 との狄仁傑の反対で断念
 子とは即ち
 高宗との子であり、
 唐王朝の復活
 武則天
 寵愛をうけ
 横暴を極めた
 張易之・昌宗兄弟を除くために、
 神龍元年1月24日(705年2月22日)
 宰相
 張柬之は
 中宗を東宮に迎え、
 兵を発して
 張兄弟を斬り、
 武則天
 則天大聖皇帝
 の尊称を奉ることを約束して位を退かせ
 これにより
 中宗は復位し、
 国号も唐に戻る
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 武氏の眷属は
 李氏を筆頭とする唐朝貴族と
 密接な姻戚関係を構築しており、
 武則天自身も
 太后としての立場を有し
 唐朝再興に伴う粛清は
 太平公主
 や
 武三思
 などには及ばず命脈を保った
  ↓↑ 武則天は死去
 706年(神龍二年)五月
 乾陵に
 高宗と合葬
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 謚号
 遺詔に
 「帝号を取り去り則天大聖皇后と称すべし」
 とあった・・・
 唐王朝での謚号はその後も変遷・・・
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 唐隆元年(710年)中宗、天后と改める
 景雲元年(710年)睿宗、大聖天后と改める
 延和元年(712年)睿宗、天后聖帝と改める
 開元四年(716年)玄宗、則天皇后と改める
 天宝八年(749年)玄宗、則天順聖皇后の謚を追加
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 史書
 少女期の媚娘は
 漆黒の髪、
 切れ長で大きな目、
 雪のような肌、
 桃色の唇、
 薔薇色の頬、 大きな胸、
 魅了する媚笑、
 聡明な頭脳
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 改称・改変
 称号や尊号、
 都市の名前など、
 人や事物に対して
 伝統的に使用されてきた呼称に
 改変を加えることを好んだ
 顕慶四年(660年)
 皇帝と皇后を
 それぞれ
 天皇
 と
 天后
 とした
 「天皇と天后」
 という相互に比肩する字義を持つ組み合わせへと
 尊号を改めさせることで
 「皇后が国政に介入しているに過ぎない状況」
 を
 「天后が正統かつ正当な支配権を行使している状況」
 へと変貌させ、
 現状における自己の政治への介入状況を追認させた
 地名の改称
 洛陽を神都
 自らの出身県である
 文水県を武興県
 と改めた
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 武則天
 新漢字の発明
 則天文字と呼ばれる新しい漢字
 その数は20字程度
 「圀」の字は日本で
 徳川光圀と本圀寺の名に使用
 「國」が国構えの内に
 「惑=或+心」を含むこと(?)を
 武則天が忌み嫌った・・・
 国構えの「囗」に「八方」とした
 彼女自身の名の
 「照」の代替として、
 「曌=明+空」を造字
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ーーーーー
 ・・・???・・・「他人のイタミ」・・・