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2017-11-23 文字霊日記・2414日目

 2414日目・・・「甲斐(かい)・甲府」⇔「会津(會津・あいづ・カイづ→蝦夷津)・若松(わかまつ・ジャクショウ)→若(もしか)したら松(木公・十八八ム)⇔若(艹ナ口)いと云う字は苦(艹十口)しいと云う字に似てる(ワッ!・アン真理子 ・悲しみは駆け足でやってくる(1969年)」・・・「徳川義直は慶長八年(1603年)、徳川家康から甲斐国に封じられる」⇔「保科正之会津松平家初代藩主・信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て陸奥会津藩初代藩主・江戸幕府初代将軍、徳川家康の孫・三代将軍、徳川家光の異母弟・家光と四代将軍家綱を輔佐」・・・そして「福島」・・・「カイ→アイヅわかまつ→尾張たかす→えぞ→・・・」の関連性はアルのか?・・・

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 會津若松福島県
ーーーーー
 地名
 会津若松市(福島県の市)・旧市名は若松
 若松区(北九州市の区)・旧市名は若松
 若松(高崎市)・群馬県高崎市
 若松 (船橋市)・千葉県船橋市
 若松 (我孫子市)・千葉県我孫子市
ーーーーー
 北九州市の若松
 ↓↑
 仲哀天皇と神功皇后が
 熊襲を征伐したとき
 洞の海に霊石を見つけ
 これを神体としてまつり
 神社の海辺に小松を植えた
 武内宿弥が
 「海原(うなばら・カイゲン)の
  滄瞑(ソウメイ)たる
  松の青々たる、我が心も若し」
 が「若松」の地名由来
    ・・・滄=氵+倉
       瞑=目+冖+日+六(亠八)
         (目を)つぶる・くらい(暗)
         メイ・ミョウ
         滄瞑(わだのはら・大海)
         瞑想(メイソウ)
若い松が多い所だったのでという説も・・・アル?
 会津若松市(福島県
 ↓↑
 「福島県」の県名由来
 明治九年
 当時の
 若松
 磐前(いわさき)県
 福島県
 が
 合併し「福島」の名称
 1593(文禄二)年ごろ
 木村吉清
 によって
 福島城の名前に使われた
 ↓↑
 信夫(しのぶ)郡は昔
 見渡す限りの湖で
 その真ん中に
 信夫山があった
 この山には
 「吾妻(あづま) 颪(おろし)」が吹きつけ
 コレを
 「吹島(ふくしま・ふきしま)」と呼んだ
     「複揣摩・覆嶋・伏嶌・副縞・附句詞眞」?
 湖が干上がり
 陸地ができ
 集落が生まれ
 吹島は
 風が吹きつける
 「吹」を「福」とし
 「福島」と呼ぶようになった・・・
 ↓↑
 「福島」の中心街一帯は
 信夫(しのぶ)・・・・忍ぶ・偲ぶ・志信・耐・恕
 の
 里(さと・リ)
 の
 杉目(すぎのめ)郷・・・杉目(サンモク)=十八彡目
 と呼ばれた
 1413(応永二十)年頃
 伊達盆地の支配者である
 伊達持宗
 がこの場所に
 杉目城(大仏城=だいぶつじょう)を築いた
 1590(天正十八)年
 伊達政宗
 の代に
 豊臣秀吉よって所領を北に移され
 蒲生氏郷(がもううじさと)
 の領地となり
 氏郷は、
 会津-黒川城
   ・・・会津-「若松城=黒川城」
   黒川(くろかわ)=福島県&栃木県を流れる
   那珂川-水系-余笹川-支流の一級河川
   福島県西白河郡西郷村大字小田倉の
   赤面山の南にある栃木県との県境の
   標高約1,250mの地点に水源を発す
 伊達盆地の
 杉目城を
 その支城とし
 黒川を若松・・・・・黒川=若松
 杉目を福島・・・・・杉目=福島⇔岑越(みねこし)
 に改名・・・
ーー↓↑ーー
 古代、
 「福島」の地名は元々が
 「岑越(みねこし)=山+今+十一ト人戍(戌)」
   越=走+戉(まさかり・エツ・オチ)⇔類字は戍戌戎成
 ↓↑        
 信夫(しのぶ・シンプ)山(やま・サン)も
 岑越山(みねこしやま)と呼ばれた
 奈良時代の律令制
 東山道福島周辺の
 駅名(馬宿)は
 南から
 安達(あだち・本宮)
  ↓
 →湯日(ゆい・二本松市油井)
 →岑越(みねこし)
 →伊達(伊達郡桑折町)
 →篤借(あつかし・宮城県白石市)
 岑越は
 松川(当時の流路は信夫山の南側)以北
 摺上川以南で
 松川以南は当時でも
 杉妻(すぎのめ・杉目)・・・「(上)杉の妻(目)」?
 であった
 安土桃山時代
 信夫郡伊達郡
 蒲生氏郷支配になったとき
 蒲生氏郷の下で
 福島城主とされた
 木村吉清が
   ・・・木(十八)の
      村(木寸)の
      吉(士口)の
      清(氵主月・氵亠十一冃・肉)
 杉妻(杉目)を
 福島と改名・・・
ーー↓↑ーー
 尾張
 慶長五年(1600年)九月
 関ヶ原の戦い終結まで
 清洲城主
 福島正則・・・・・・・・「福の島の正の則」
 が24万石で支配
 戦功により
 福島正則は
 安芸広島藩に加増移封・・・
 ↓↑
 そのあとに
 徳川家康の九男
 徳川義直(五郎太、義俊、義利)
 が入り
 尾張徳川の家祖となった
 ↓↑
 徳川義直は
 慶長八年(1603年)
 家康から
 「甲斐国
 に封じられ
 甲斐統治は
 甲府城
 平岩親吉・・・・「平の岩の親の吉」
 によって担われ
 徳川義直(五郎太)自身は
 在国せず
 駿府城に在城
 元服
 慶長十一年(1606年)
 義直は
 兄、
 松平忠吉
 の遺跡を継ぐ形で
 尾張国
 清須に移封
 家臣団が編制され
 尾張徳川家
 江戸時代を通じて
 尾張藩を治めた
 ↓↑
 徳川将軍家に
 後継ぎがないときは
 他の御三家とともに
 後嗣を出す資格を有した
ーー↓↑ーー
 六代将軍
 徳川家
 が将軍に就任して3年目で死亡
 ↓↑
 七代将軍の
 徳川家継・・・家継(いえつぐ)
 ↓↑     三歳余で将軍宣下
        八歳で死没
        在任1713年〜1716年
        幼名は鍋松丸(世良田 鍋松)
       「世良田」は徳川松平の「旧姓」
        第六代将軍
        徳川家宣の四男
        母は側室・お喜代(月光院)
        浅草唯念寺住職の娘で
 ↓↑     本名は勝田輝子
     間部詮房と新井白石の2名が将軍を補佐
     新井白石は
     六代将軍の
     徳川家宣が自身の死後
     尾張藩主を
     将軍の跡継ぎにするという考えに反対し
     家宣はその新井白石の進言を受け
     次期第七代将軍は幼少の家継と決定・・・
     ↓↑
    「絵島・生島事件」
     大奥の実力者だった
     絵島は信濃高遠藩にお預け
 ↓↑  役者の生島新五郎は三宅島に遠島
 徳川家継が
 八歳で死没後
 ↓↑
 紀州徳川家出身の
 徳川吉宗
 が
 尾張家の
 徳川継友
 を制して
 八代将軍に就任
 その後
 御三卿が創設され
 尾張家からは
 将軍は出なかった・・・
ーー↓↑ーー
 福島県
 伊達郡
 梁川-松平家(大久保-松平家
 ↓↑
 梁川藩(やながわはん)
 3万石
 福島県
 伊達郡
 ↓↑
 1683年〜1730年
 尾張徳川の
 四代目を継いだ
 松平通春(宗春)
 が
 宗家断絶により
 尾張藩
 徳川宗春
 になったため
 廃藩にした
 ↓↑↓↑
 梁川藩(やながわはん)は
 江戸時代の一時期
 陸奥国
 伊達郡
 に存した藩
 福島県
 伊達市
 梁川町
 鶴ヶ岡
 の
 梁川城跡に陣屋を置いた
 当初は
 尾張藩徳川家支藩(御連枝)
 後には一時、
 蝦夷
 松前
 が入封
 ↓↑↓↑
 梁川藩
 幕府直轄領で
 梁川には、
 天和三年(1683年)
 尾張藩二代藩主
 徳川光友の三男の
 松平義昌
 が入封
 3万石にて立藩した
 分家の理由
 ↓↑
 尾張藩
 血脈の断絶を恐れ
 同時期、同様の理由で
 尾張藩
 四谷
 川田久保家
 を分家させた
 梁川の立藩は
 有力な外様である
 伊達氏への楔(くさび)でもあり
 親藩を求める幕府の思惑とも一致
 ↓↑
 享保十四年(1729年)五月
 三代
 尾張徳川義真が卒去
 無嗣子のため廃絶で
 ↓↑
 同年九月
 尾張藩三代藩主
 徳川綱誠の十九男の
 松平通春(徳川宗春)
 に改めて
 梁川3万石が与えられていたが
 享保十五年(1730年)
 世継を残さないまま
 尾張藩
 徳川継友が死亡
 ↓↑
 松平通春(徳川宗春)が
 尾張藩相続
 梁川を一時廃藩し
 尾張宗家断絶を防止するという
 役目を果たした
 梁川藩を廃藩・・・
ーー↓↑ーー
 藩祖、義直の遺命
 「王命に依って催さるる事」
 を秘伝の藩訓とした
 勤皇家・・・?
 戊辰戦争では官軍
 ↓↑ 
 尾張徳川家の支系(御連枝)
 美濃国
 高須藩・・・「高(亠口冋・亠口冂口)
        の
        須(彡頁・一ノ目八)」
      冋=冂=けいがまえ・まきがまえ・どうがまえ
          えがまえ・えんがまえ・ケイ・キョウ
          境界
 を治めた
 高須松平家四谷松平家
 1799年
 尾張徳川家
 1801年
 高須松平家
 義直の男系子孫は断絶
 尾張徳川家
 養子相続を繰り返し
 至っている
 10代から13代まで
 徳川吉宗の血統の養子が
 藩主に押し付けられたが
 これに反発した尾張派は
 14代慶勝を
 高須家から迎え
 幕府からの干渉を弱めた
ーーーーー
 尾張藩
 初代 藩主 徳川義直-敬公
 二代 藩主 徳川光友-正公
 三代 藩主 徳川綱誠-誠公
 四代 藩主 徳川吉通-立公
 五代 藩主 徳川五郎太-誉公
 六代 藩主 徳川継友(三代藩主綱誠の子)-曜公
 七代 藩主 徳川宗春(三代藩主綱誠の子)-逞公
 八代 藩主 徳川宗勝(支藩高須藩3代藩主から襲封
          尾張藩二代藩主光友の孫)-戴公
 九代 藩主 徳川宗睦-明公
 十代 藩主 徳川斉朝(一橋徳川家から養子)-順公
 十一代藩主 徳川斉温(徳川将軍家から養子
           十一代将軍徳川家斉の実子)-僖公
 十二代藩主 徳川斉荘(田安徳川家から養子
           十一代将軍徳川家斉の実子)-懿公
 十三代藩主 徳川慶臧(田安徳川家から養子)-欽公
 十四代藩主 徳川慶勝(初め慶恕=支藩高須藩から養子
           水戸藩六代藩主徳川治保の曾孫)-文公
 十五代藩主 徳川茂徳(支藩高須藩十一代藩主から襲封
           十四代慶勝の実弟
           のち一橋徳川家十代茂栄)
 十六代藩主 徳川義宜(養子十四代慶勝の実子)-靖公
 十七代藩主 徳川慶勝(十四代慶勝の再勤)-文公
 十八代藩主 徳川義礼(高松松平家から養子
           夫人は17代慶勝の娘)
 十九代藩主 徳川義親(越前松平家から養子
           夫人は18代義礼の娘)
 二十代藩主 徳川義知(義親の長男)
ーーーーー
 ↓↑
 明治維新
 十四代藩主
 徳川慶勝が
 佐幕から倒幕に転じ
 官軍につき
 侯爵を授けられ
 第十六代
 徳川義宜が
 名古屋藩知事となった
 秩禄処分後
 約74万円という高額の
 金禄公債証書を受領
 資産のうち
 約43万円を
 第15国立銀行に出資し
 配当金を再投資
 士族授産のため
 北海道
 遊楽部原野の土地を開拓
 八雲町を開拓
 維新
 高い政治的・経済的地位を維持
ーーーーー
 「中山道中仙道)」=「東山道
 ↓↑
 豊臣秀吉による奥州仕置
 伊達政宗
 の元の本領以外を没収
 ↓↑
 会津には
 蒲生氏郷が入る
 蒲生氏郷(がもう うじさと)
 文禄四年(1595年)二月七日
 伏見の蒲生屋敷で病没
 享年四十
 「かぎりあれば 吹ねど花は
  散るものを 心みじかの 春の山風」
 幼名は鶴千代
 近江日野城主
 伊勢松阪城主
 陸奥黒川城主
   ・・・黒川城を蒲生群流の縄張りによる
      城へと改築・七層楼の天守を有し
      氏郷の幼名、蒲生家の舞鶴の家紋に
      ちなんで鶴ヶ城と名付けた
      町の名を「黒川」から「若松」へと改めた
     「若松」の名は、出身地の近江日野城(中野城)
      に近い馬見岡綿向神社
     (滋賀県蒲生郡日野町村井の神社・蒲生氏の氏神)
      の参道周辺にあった
     「若松の森」に由来し
      同じく領土であった
      松坂の「松」という一文字も
      この松に由来する・・・
 ↓↑
 氏郷は会津の領民にもキリスト教改宗を勧め
 会津若松市内には
 天子神社という教会跡があり
 支城の置かれた猪苗代には
 セミナリオがあった
 ↓↑
 六角承禎の重臣
 蒲生賢秀の三男(嫡男)
 初名は賦秀(やすひで)・教秀(のりひで)
 キリシタン大名
 洗礼名はレオン(レオ)
 子に蒲生秀行
 ↓↑
 翌年
 葛西大崎一揆の戦後処理で
 伊達政宗が
 岩出山に移封
 ↓↑
 蒲生氏郷が
 福島県中通り以西のほとんどを領有
 ↓↑
 子の
 蒲生秀行は
 会津から
 宇都宮に移され
 代わって
 越後国
 上杉景勝が
 会津120万石を得
 福島県中通り以西と
 山形県置賜地方を領有
 ↓↑
 葛西大崎一揆の原因を作ったとし
 所領を奪われた
 岩出山の旧領主の
 木村吉清は
 後に許されて
 蒲生氏郷に仕えて
 杉目城主となった
 吉清は
 杉目を
 「福島」と改称・・・・福島
 ↓↑
 関ヶ原の戦い
 上杉景勝は
 信夫郡伊達郡を除く
 福島県域の所領を失い
 30万石となる
 ↓↑
 会津
 蒲生秀行が再度入封
 会津藩60万石が成立
 2代目の
 蒲生忠郷が早世し
 伊予松山藩に移る
 ↓↑
 1627年
 加藤嘉明
 40万石で会津に入封
 2代目
 加藤明成が
 会津騒動を起こし
 領地を徳川幕府に返上
 ↓↑
 1643年
 松平氏
 保科正之
 23万石で入封
 以後
 松平氏会津藩
 戊辰戦争まで続く
 ↓↑
 信夫郡伊達郡
 1664年
 上杉氏
 米沢藩から召し上げられ
 会津藩以外の大藩はなくなり
 会津
 浜通り夜ノ森以北(相馬氏領)を除く
 県内のほとんどの地域で
 小・中藩、天領が入り乱れて激しく変遷
 この間
 白河藩
 一時、徳川譜代となり
 寛政の改革を主導した
 松平定信など
 城主が入った
 ↓↑
 江戸時代
 会津若松
 と
 日光街道
 を結んだ重要な交通路
 会津西街道(下野街道)の
 大内宿には 
 幕末に置かれた
 藩及び城郭
 交代寄合陣屋
 ↓↑
 会津藩支城の猪苗代城、
 二本松藩、棚倉藩、中村藩、三春藩
 磐城平藩福島藩、泉藩、湯長谷藩、下手渡藩、
 水戸藩支藩の守山藩、
 幕末
 徳川幕府直轄地となった白河城
 仙台藩の支城の谷地小屋
 などがあり、
 交代寄合の
 溝口家の横田陣屋
 その他に代官陣屋もあった
 ↓↑
 明治初期
 版籍奉還後の
 1869年明治二年)
 の太政官令で
 陸奥国南端である
 福島県域は
 陸奥国から分離し
 西側が岩代国いわしろのくに)
 東側が磐城国いわきのくに)
 となった
 岩代国
 福島県中通り地方の中北部と会津地方
 磐城国
 福島県中通り地方南部福島県浜通り地方
       宮城県南部亘理郡伊具郡刈田郡
 1869年明治二年)7月20日
 福島藩が
 重原藩に移封され
 幕府領となっていた
 伊達郡信夫郡管轄するために
 福島県(第1次)が設置
 1871年明治四年)
 7月(旧暦
 廃藩置県で全国に多数の県
 11月(旧暦
 福島県域は
 岩代国会津地方
 (旧会津藩領の越後国蒲原郡の一部
          東蒲原郡を含む)
 が若松県、
 岩代国
 と
 磐城国からなる中通り地方が
 二本松県(二本松県・12日間後に
      県庁が信夫郡福島町に移転
      福島県に改称し機能はしていない)
 磐城国はほぼそのまま
 磐前県(いわさきけん)
 の3つの県として統合
 1876年明治九年)8月21日
 福島県(第1次)、若松県、磐前県が合併
 現在の福島県(第2次)が成立
 磐前県北部(亘理郡伊具郡刈田郡)が
 宮城県に、
 磐前県南部の一部が
 茨城県
 移管され、
 1886年明治十九年)
 東蒲原郡新潟県へ移管
 ↓↑
 大和朝廷の勢力圏
 福島県域が北限
 蝦夷勢力圏との境界に当たる
 信夫国(福島盆地)
 などの国には防備の任があった
 ↓↑
 関東や近畿地方などから
 開拓のための移民
 その後、
 国は評(こおり)と呼び名が代わり
 陸奥国に再編
 大和朝廷の勢力圏も
 宮城県域、さらに北に拡大し
 信夫評(しのぶごおり)
 も「北端」ではなくなった
 ↓↑
 701年大宝元年
 大宝律令の施行
 陸奥国となり
 評は郡
 評司(国造)は郡司になった
 718年(養老二年)
 石城国
 と
 石背国
 が分置
 石城国=菊多郡、石城郡
     標葉郡(しねはぐん or しめはぐん)
     行方郡(なめかたぐん)、宇太郡
     曰理郡(わたりぐん)の6郡
 石背国(いわせのくに)=信夫郡、安積郡
             石背郡、白河郡
             会津郡の5郡
 現福島県域は
 石城国
 or
 石背国
 に属することとなり
 陸奥国の領域ではなくなった
 分置後も
 蝦夷との戦いが続き
 東北全体(陸奥出羽)での戦いに拡大
 724年神亀元年
 までには
 石城国
 と
 石背国
 は再び
 陸奥国合併
 後
 信夫郡から伊達郡が分割
 安積郡からは安達郡などが分割
 会津郡も耶麻郡を始め多くの郡に分割
 ↓↑
 会津の由来
 記紀の記述
 崇神天皇
 北陸道に遣わした
 大彦命(おおひこのみこと)
 と
 東海道に遣わした
 建沼河別命(たけぬかわわけのみこと)
 が、日本海側と太平洋側から遠征して
 出会ったのが
 「相津(あいづ)」だった
 この「相津」が後に「会津」と表記
 会津盆地でいくつかの川が
 合流するために舟運の拠点として
 会津
 あるいは
 日本海側と太平洋側の物産を運ぶ隊商が
 会津盆地で取引をすために
 会津と呼ばれるようになった・・・などの説
 ↓↑
 大和朝廷の勢力圏は
 福島県域が北限で
 蝦夷勢力圏との境界に当たる
 信夫国(福島盆地)などの国には
 国境防備の任もあった
 ↓↑
 移民
 国は評(こおり)・・・・評=言+平
 と呼び名が代わり
 陸奥国に再編
 大和朝廷の勢力圏も
 宮城県
 北に拡大し
 信夫評(しのぶごおり)も
 「北端」ではなくなった。
 ↓↑
 701年大宝元年
 大宝律令の施行時には
 陸奥国
 評は郡
 評司(国造)は郡司になった
 拡大した陸奥国から
 718年(養老二年)
 石城(いわき )国
 と
 石背(いわしろ・いわせ)国
 が分置された
 ↓↑
 石城国=菊多郡
     石城郡
     標葉郡(しねはぐん or しめはぐん)
     行方郡(なめかたぐん)
     宇太郡
     曰理郡(わたりぐん)の6郡
 石背国(いわせのくに)=信夫郡、安積郡、
             石背郡、白河郡、
             会津郡の5郡
 ↓↑
 現福島県域は
 石城国
 または
 石背国に属し
 陸奥国の領域ではなくなった
 分置後も
 蝦夷(えぞ・えみし・カイ)
 との戦いが続き
 東北全体(陸奥出羽)に拡大
 724年神亀元年)までに
 石城国
 と
 石背国
 は再び
 陸奥国合併
 これらの郡は、その後、人口の増加などにより
 さらに再分割
 信夫郡から伊達郡が分割され
 安積郡からは安達郡などが分割され
 会津郡も耶麻郡を始め多くの郡に分割された・・・
ーー↓↑ーー
 甲州(こうしゅう)
 令制国の一
 甲斐国の別称
 ↓↑
 慶応四年三月六日
 1868年3月29日
 甲州勝沼の戦い
 慶応四年三月六日(1868年3月29日)
 柏尾の戦い
 勝沼・柏尾の戦い
 甲州戦争
 甲州柏尾戦争
 とも
 板垣退助の軍勢
 と
 近藤勇の軍勢が戦った合戦
 ↓↑
 甲斐国
 山梨郡
 勝沼甲州市勝沼町
 甲府盆地の東端に位置
 信濃国から
 甲府甲府市)を経て
 江戸へ向かう
 甲州街道勝沼宿
 ↓↑ 
 甲州街道
 江戸から
 郡内地方
 山間部を経て
 甲府盆地国中地方)へ至り
 勝沼は盆地へ入った最初の地点
 勝沼から
 郡内地方を越えれば
 武蔵多摩地方
 新選組の幹部や隊士を多く輩出した
 多摩地方にも近い
 ↓↑
 甲斐国
 享保九年(1724年)
 幕府直轄領化
 甲府城甲府市)には
 甲府勤番が配置
 代官支配地
 天保七年(1836年)
 甲斐一国規模の
 天保騒動の際には
 勤番士
 三百数十人と
 各代官手付
 手代50余り
 ↓↑
 1867年(慶応三年)
 中岡慎太郎
 の仲介を経て
 五月二十一日
 小松清廉邸で
 薩摩藩
 西郷隆盛・吉井友実・小松清廉
 らと
 土佐藩
 乾(板垣)退助・谷干城・毛利恭助・中岡慎太郎
 らが会談
 薩土討幕の密約(薩土密約)を結ぶ
 二十二日
 乾(板垣)退助は
 薩摩藩と討幕の密約を結んだことを
 山内容堂へ報告
 乾(板垣)退助が
 江戸築地
 土佐藩邸に
 勤王派
 水戸浪士を
 匿っていることを告げられ
 これを了承
 大坂
 アルミニー銃300挺
 の買い付けを命じ
 乾(板垣)退助に
 土佐藩の軍制近代化改革を命じた
 ↓↑
 薩土密約に基づき
 1867年(慶応三年)12月28日
 京都にいる
 西郷隆盛から
 土佐
 乾(板垣)退助あてに
 「討幕の開戦近し」との伝令
 1868年慶応四年)一月三日
 鳥羽・伏見の戦い
 1月6日
 京都から
 谷干城
 が早馬で土佐に到着
 京都において
 武力討幕戦が開始されたことを
 土佐藩庁に報告
 ↓↑
 大政奉還が成って以降
 乾(板垣)退助は
 武闘派の棟梁と警戒され
 藩軍の大司令(陸軍大将)の職を解かれ
 その他総ての役職を被免され
 失脚していたが
 即日、失脚を解かれ
 藩軍の大司令に復職
 1月6日
 乾退助は
 谷干城の報告を受けて
 薩土討幕の密約を履行すべく
 土佐勤王党の流れをくむ隊士や
 勤皇の志を持った諸士からなる
 迅衝隊を土佐で編成
 1月7日
 朝廷より
 「徳川慶喜追討」の勅が出された
 ↓↑
 1月13日
 迅衝隊は
 土佐城下致道館前で出陣祈願
 土佐藩門閥派の重鎮
 寺村左膳らが
 止めに入るが出陣
 直後
 「讃岐高松、
  伊予松山両藩
  及び
  天領川之江征討」
 の勅を拝し
 「錦の御旗」を授けられ
 皇威を畏み、正式に官軍としての命を奉じた
 迅衝隊が
 高松、松山に到着すると
 両藩は朝敵となることを恐れ降伏
 京都へ上洛
 ↓↑
 総督
 板垣退助
 山内容堂は当初
 鳥羽・伏見の戦いを私闘と見做し
 土佐藩士の参戦を制止したが
 「薩土討幕の密約」に基づいて
 初戦から参戦した者も多く
 追討の勅が下った後は
 京都で在京の
 土佐藩士と合流した
 「迅衝隊」は
 部隊を再編し軍事に精通した
 「板垣(乾)退助」を
 大隊司令兼総督とし
 退助はさらに朝廷より
 東山道先鋒総督府参謀に任ぜられた
 2月14日
 京都を出発し東山道を進軍
 乾退助の12代前の先祖とされる
 板垣信方の320年目の命日で
 天領である甲府城の掌握目前の美濃
 武運長久を祈念し
 「甲斐源氏の流れを汲む
  旧武田家家臣の
  板垣氏の末裔であることを示して
  甲斐国民衆の支持を得よ」
 との岩倉具視等の助言を得て
 「乾(いぬい)」を
 「板垣」氏に姓を復し
 東山道中山道)を進軍
 東山道先鋒総督府軍は
 諏訪で本隊と別働隊に分かれ
 本隊は
 伊地知正治
 が率いてそのまま中山道を進み
 板垣退助(乾退助)
 率いる別働隊は
 幕府の天領であった
 甲府を目差した
 甲府城入城が
 決戦の勝敗を決するとし
 板垣退助
 「江戸甲府」と
 「大垣甲府」までの距離から
 東山道先鋒総督府軍の
 不利を計算し、走って進軍
 土佐迅衝隊(12小隊, 約600名)と
 因幡鳥取藩兵(8小隊, 約800名)らと共に
 1868年慶応四年)3月5日
 甲府城入城
 ↓↑
 断金隊、護国隊の結成
 板垣退助
 旧武田遺臣であると知れ
 「武田家旧臣の
  板垣信方
  の末裔が甲府に帰ってきた」
 と領民に迎えられた
 旧武田家家臣の子孫の
 浪人や神官、長百姓らが協力を願い出
 甲斐の郷士らで
 「断金隊」や、「護国隊」が組織
 武田信玄の墓前で結成式
 ↓↑
 板垣退助
 らより一日遅れ
 大久保大和(近藤勇)
 の率いる
 甲陽鎮撫隊
 は甲府についたが
 甲州街道
 と
 青梅街道
 の分岐点近くで布陣
 柏尾坂附近で戦闘となったが
 洋式兵法にも精通していた
 迅衝隊がこれを撃破
 戦闘が始まって僅か約2時間で勝敗がつき
 甲陽鎮撫隊は山中を隠れながら江戸へ敗走
 「板垣」の復姓は
 甲斐国民心の懐柔に効果
 江戸に進軍する際も
 旧武田家臣が多く召抱えられていた
 八王子千人同心たちの心を懐柔させた
 ↓↑
 新選組は
 京都守護職指揮下で
 京都市街の治安維持
 慶応四年一月
 鳥羽・伏見の戦い
 淀千両松の戦いで
 新政府軍と戦って敗れ
 江戸へ移った
 新政府軍は
 東海道東山道北陸道に別れ
 江戸へ向けて進軍
 ↓↑
 新選組局長の
 近藤勇は
 抗戦派と恭順派が
 対立する江戸城において
 勝海舟と会い
 幕府直轄領である甲府
 新政府軍に先んじて押さえるよう
 出陣を命じられた
 (江戸開城を控えた勝海舟が
  暴発の恐れのある近藤らを
  江戸から遠ざけた?)
 新選組
 と
 浅草弾左衛門(矢野内記)配下
 の被差別民からなる
 混成部隊が編成され
 甲陽鎮撫隊と名を改め
 近藤勇は大久保剛(後に大和
 土方歳三は内藤隼人
 と変名
 ミニェー銃をはじめとする
 洋式砲が多数配備されたが
 近藤らは
 剣術の腕を過信し・・・?
 隊士らに殆ど
 西洋式練兵をさせぬまま
 3月1日に江戸を出発し
 甲州街道を行軍
 ↓↑
 近藤勇は
 「甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう」
 という
 勝海舟の指令を軽んじ
 新選組70人と
 被差別民200人からなる
 混成部隊の不満をやわらげ
 士気を高めるため
 幕府より支給された
 5,000両の軍資金を使って
 大名行列のように贅沢に豪遊しながら行軍
 飲めや騒げの宴会を連日繰り返し
 移動の邪魔となった
 大砲6門のうち4門を置き去りにし
 2門しか運ばなかった
 さらに天候が悪化し行軍が遅くなり
 甲府到着への時間を空費
 沖田総司は途中で江戸に戻った
 ↓↑
 正月
 甲府城公家
 高松実村を総帥とした
 「官軍鎮撫隊」が入城
 高松隊は高松を中心に
 伊豆国出身の
 宮大工・彫刻師である
 小沢一仙らを加えた
 草莽諸隊で
 甲斐で年貢減免などの
 政策を約束しつつ甲府城へ入城したが
 官軍東海道総督府から
 勅宣を受けていない
 高松隊への帰国命令が発せられ
 小沢一仙は処刑された(偽勅使事件)
 ↓↑
 3月4日
 新政府側
 板垣退助の率いる
 土佐藩
 迅衝隊(12小隊, 約600名)と
 因幡鳥取藩兵(8小隊, 約800名)が
 東山道総督府先鋒として
 甲府城に入城
 甲府城内の勤番士は立退きを命じられ
 後に官軍
 甲府市中に残った勤番士を場内に戻し
 近藤派に属したものは入牢
 ↓↑
 甲陽鎮撫隊勝沼から前進
 甲州街道青梅街道の分岐点近くで布陣
 300名いた兵は次々脱走し121名まで減
 近藤は
 「会津藩の援軍がこちらへ向かっている」
 と騙して脱走を防ごうとした
 土方は
 神奈川方面へ赴き旗本の間で結成されていた
 菜葉隊(隊長:吹田鯛六、以下隊士:500名)
 に援助を頼むが黙殺
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 3月6日
 山梨郡
 一町田中村
 歌田(山梨市一町田中・歌田)において
 迅衝隊
 と
 甲陽鎮撫隊
 との間で戦闘
 迅衝隊が圧倒し
 近藤は
 勝沼の柏尾坂へ後退
 兵は逃亡
 甲陽鎮撫隊
 八王子へ退却し、解散
 近藤らはその途中で
 土方と合流
 ↓↑
 甲府城の迅衝隊は
 その後江戸へ向かい
 官軍側であった
 市ヶ谷
 尾張徳川藩邸(防衛省本部)を本陣とし
 新宿方面を警備
 江戸城無血開城
 上野戦争江戸を確保し
 戊辰戦争の戦場は
 関東北部の
 宇都宮
 会津
 越後
 へと移った
ーーーーー
 ・・・合図?若松の・・・