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2018-11-23 文字霊日記・2635日目

 2635日目・・・片仮名英語・・・わッかりまッせん・・・モチロン、アルファベットの言語(language・speech・vocabulary=ボキャブラリー=語彙)も、文字(character)も・・・リカイフノウ・・・

 ・・・collocation(コロケーション)・・・古賂(拠賂)経処務(書夢)・・・?
 「調整=adjust・coordinate・modulate・tune up」・・・
 帝国主義者の「国際条約」・・・「阿片(鴉片・Opium War)戦争・アロー戦争(Arrow War)」・・・「allow War(アラウ ワァ)」って、「洗うわッ!」・・・?「 cannot allow such conduct. 」・・・
 ・・・「混濁度」・・・納得いかない・・・理不尽な社会だけれど・・・ゴ〜ン・・・108・・・
ーーーー
 ガバナンス(governance)
 統治のあらゆるプロセス
 統治・支配・管理
 そのための機構や方法
 ↓↑
 コンプライアンス(compliance)
 遵守・従順
 企業コンプライアンス
 企業の法令遵守
 服薬コンプライアンス
 患者が薬を薬剤規定どおりに飲むこと
 規格に適合すること
 機械的コンプライアンス
 物体の変形しやすさを示す物理量
 バネ定数の逆数で単位
ーーーーー
 法令遵守コンプライアンス体制・・・
 ↓↑
 法令遵守できない人びと・・・人間・・・
 公私にワンサカ・・・
 市民、国民、官僚、企業・王様・政治家、軍人・・・
 ・・・C・NK・SK・R・G・T・・
 ↓↑
 1842年の8月29日
 南京条約締結
 アヘン戦争終結
 イギリスへの香港の割譲
 清にとって不平等条約
 「アロー戦争」
 を第二次とみなして
 第一アヘン戦争とも呼ばれる・・・
 ↓↑
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 1840年6月28日〜1842年8月29日
 阿片(鴉片)戦争
 (第一次鴉片戰爭・First Opium War)
 清は
 1757年以来
 広東港でのみヨーロッパ諸国と交易
 「公行」
 という北京政府の
 特許を得た商人にしか
 ヨーロッパ商人との交易を認めなかった
 (広東貿易制度)
 イギリス東インド会社
 現地に
 「管貨人委員会
 (Select Commitee of Supercargoes)」
 代表機関を設置
 管貨人委員会
 公行を通じて「稟」という
 請願書を広東地方当局に提出
 ↓↑
 イギリス東インド会社
 1773年
 ベンガル阿片の専売権を獲得
ーー↓↑ーー
 1775年4月19日〜1783年9月3日
 アメリカ独立戦争
 (American War of Independence)
 ↓↑
 干支=乙未
 日本
 安永四年
 皇紀2435年
 中国
 清=乾隆四十年
 朝鮮
 李氏朝鮮=英祖五十一年
 ↓↑
 1700年〜1775年・・・1702年元禄十五年元禄赤穂事件
            (赤穂四十七士討入)
 の誕生人物
 ↓↑
 与謝 蕪村 1716年〜1783年(享保元年〜天明3年)59才
 田沼 意次 1720年〜1788年(享保5年〜天明8年)55才
 ↓↑
 平賀 源内 1728年〜1779年(享保13年〜安永8年)47才
 杉田 玄白 1733年〜1817年(享保18年〜文化14年)42才
 ↓↑
 中川 淳庵 1739年〜1786年(元文4年〜天明6年)36才
 ↓↑
 伊能 忠敬 1745年〜1818年(延享2年〜文政元年)30才
 ↓↑
 長谷川 平蔵1745年〜1795年(延享2年〜寛政7年)30才
 ↓↑
 塙 保己一 1746年〜1821年(延享3年〜文政4年)29才
 ↓↑
 司馬 江漢 1747年〜1818年(延享4年〜文政元年)28才
 並木 五瓶 1747年〜1808年(延享4年〜文化5年)28才
 大田 南畝 1749年〜1823年(寛延2年〜文政6年)26才
 蔦谷 重三郎1750年〜1797年(寛延3年〜寛政9年)25才
 笠森 お仙 1751年〜1827年(宝暦元年〜文政10年)24才
 桂川 甫周 1751年〜1809年(宝暦元年〜文化6年)24才
 ↓↑
 喜多川 歌麿1753年〜1806年(宝暦3年〜文化3年)22才
 鶴屋 南北 1755年〜1829年(宝暦5年〜文政12年)20才
 ↓↑
 大槻 玄沢 1757年〜1827年(宝暦7年〜文政10年)18才
 松平 定信 1758年〜1829年(宝暦8年〜文政12年)17才
 ↓↑
 葛飾 北斎 1760年〜1849年(宝暦10年〜嘉永2年)15才
 山東 京伝 1761年〜1816年(宝暦11年〜文化13年)14才
 ↓↑
 酒井 抱一 1761年〜1828年(宝暦11年〜文政11年)14才
 ↓↑
 高橋 至時 1764年〜1804年(明和元年〜文化元年)11才
 ↓↑
 十返舎 一九1765年〜1839年(明和2年〜天保10年)10才
 滝沢 馬琴 1767年〜1848年(明和4年〜嘉永元年)8才
 ↓↑
 雷電 為衛門1767年〜1825年(明和4年〜文政8年)8才
 佐藤 信淵 1769年〜1850年(明和6年〜嘉永3年)6才
 近藤 重蔵 1771年〜1829年(明和8年〜文政12年)4才
 徳川 家斉 1773年〜1841年(安永2年〜天保12年)2才
 ↓↑
       1774年安永三年 杉田玄白中川淳庵
               解体約図を刊行
       1775年安永四年 解体新書が刊行
 ↓↑
 間宮 林蔵 1775年〜1844年(安永4年〜弘化元年)0才
ーー↓↑ーー
 1797年
 イギリス、阿片(鴉片)の
 製造権を獲得
 同社は中国への組織的な阿片売り込み開始
 北京政府は阿片貿易を禁止
 地方の中国人アヘン商人が
 官憲を買収して密貿易
 ↓↑
 1823年
 阿片がインド綿花に代わって
 中国向け輸出の最大の商品
 阿片貿易は広東貿易制度を崩壊
 ↓↑
 アヘン貿易
 「三角貿易
  英国インド清国
 イギリス
 茶、陶磁器、絹を清から輸入
 時計、望遠鏡富裕層向けの物品を輸出
 イギリスは大幅な輸入超過
 イギリスは産業革命による
 資本蓄積
 アメリカ独立戦争
 (American War of Independence
  1775年4月19日〜1783年9月3日)
 の戦費確保
 のため、銀の国外流出を抑制
 植民地
 インド栽培した麻薬アヘン
 清に密輸出する事で超過分を相殺
 インド→(阿片)イギリス→(阿片)清国
         三角貿易
 ↓↑
 明代末期
 アヘン吸引の習慣が拡大
 清代の
 1796年(嘉慶元年)にアヘン輸入禁止
 アヘン密輸入
 アヘン吸引拡大
 アヘンの代金は銀で決済
 アヘンの輸入量増加により
 貿易収支が逆転
 清国内の
 銀保有量が激減し銀の高騰
 ↓↑
 清
 許乃済から
 『許太常奏議』といわれる「弛禁論」
 「アヘンを取り締まりは無理
  輸入を認めて関税を徴収」
 反対を受け一蹴
 アヘンを吸引者は死刑
 黄爵滋らの意見で
 道光帝は
 1838年
 林則徐を
 欽差大臣(特命全権大臣)に任命
 広東に派遣
 アヘン密輸の取り締まりに当たらせた
 ↓↑
 林則徐
 アヘン密輸取り締まり
 1839年(道光十九年)
 アヘン商人たちに
 「今後、一切アヘン清国国内に持ち込まない」
 という旨の誓約書の提出を要求
 「持ち込んだら死刑
 と通告
 イギリス商人のアヘンを没収、夷館閉鎖
 同年6月6日
 没収したアヘンを処分
 焼却処分ではなく
 阿片塊を海水に浸し
 塩と石灰を投入
 化学反応によって無毒化
 処分アヘンの総量は1,400トン超
 その後
 誓約書を出さない
 アヘン商人たちを港から退去させた
 ↓↑
 1836年
 英国外相
 パーマストン子爵
 現地イギリス人の保護のため、
 植民地勤務経験が豊富な外交官
 チャールズ・エリオットを
 清国貿易監察官として広東に派遣
 パーマストン子爵
 海軍省を通じて東インド艦隊に対し
 清に対する軍事行動の規制を
 大幅に緩めるので
 エリオットに協力するよう通達
 1839年3月
 林則徐
 阿片取り締まり開始
 エリオットは
 イギリス商人の所持する
 阿片の引き渡しの要求には応じたが
 誓約書の提出は拒否
 5月24日
 広東在住の全英国人を連れて
 マカオに退去
 林則徐は
 九竜半島での
 イギリス船員による
 現地民殺害を口実に
 8月15日
 マカオ武力封鎖し
 市内の食料を断ち
 井戸に毒を撒いた
 イギリス人を毒殺の企て・・・?
 ↓↑
 エリオット
 8月26日
 マカオを放棄し
 船上へ避難
 東インド艦隊の
 6等フリゲート艦
 (ボレージ
  ヒヤシンス
 2隻が到着
 これらを使って早速に反撃
 ↓↑
 アロー戦争(Arrow War)
 1856年〜1860年
 清
 と
 イギリス・フランス連合軍
 との間で起こった戦争
 北京条約で終結
 第二次アヘン戦争(Second Opium War)とも呼ぶ
 ↓↑
 1839年9月
 1839年天保十年
 蛮社の獄(渡邉崋山、高野長英、尾関三英ら処罰)
 1840年天保十一年
 清でアヘン戦争が勃発する
 ↓↑
 武力行使が始まった
 アヘン戦争の講和条約
 1842年
 に締結された南京条約の規定により
 英国清国に対し
 従来の
 広東(広州)に加え
 厦門、福州、寧波、上海
 の計5港を開港させ
 それぞれに領事を置くこと
 香港の割譲
 を認めさせた
 広東十三行のような
 特許商人が貿易を独占し
 徴税請負を行い
 外国商人や外国船の保証人となって
 統制下に置く、という従来の制度を廃止させた
 南京条約締結後
 約一年の間に結ばれた諸協定により
 公正公平な関税率の設定
 領事裁判権最恵国条項、開港五港
 に
 それぞれ軍艦一隻を停泊できる権利
 などが取り決められた
 清国中央政府は公式には認めていないが
 当時の
 欽差大臣
 耆英が
 長江河口以南の
 アヘン貿易を非公式に黙認
 ↓↑
 南京条約及びその後結ばれた諸協定
 香港駐在する
 英国公使香港総督に対する
 中国側の外交の窓口は
 広東(広州)常駐の
 広東欽差大臣が担うこととなった
 英国側の清国官吏との接触方法が
 大きく改善し、直接接触が可能となった
 開港五港の
 各英国領事は
 道(省の下の行政区分)
 に置かれた
 道台(道の長官)と接触することが可能となった
 しかし
 北京外交使節が常駐することは認められなかった
 ↓↑
 アヘン戦争後
 広東(広州)内外の住民の間で
 外国人排斥運動
 1842年12月
 広州英国商館焼き打ち事件
 英国人対象の暴動が頻発
 1846年1月
 両広総督
 耆英
 広東巡撫
 黄恩彤
 は広州の城壁で囲まれた中国人町に
 英国人が入城することをいったん認めたが
 反対する群衆
 広州府知府の執務処と住居を焼き打ちし
 英国人入城許可を取消
 1847年3月
 広州に近い仏山鎮で
 英国人6名
 米国人1名
 が住民から投石
 これへの仇戦として
 香港から軍艦派遣
 広州港の英国商館街を占領
 1847年12月
 広州から3マイル上流の
 黄竹岐で
 英国青年6名が切り殺される
 その後再び入城問題について再提起され
 後任者が交渉を開始
 清国側の方針が定まらず
 入城問題は一時棚上げ
 排外主義活動を取り締まるよう
 英国外務大臣
 パーマストン
 北京の清朝政府に抗議
 ↓↑
 南京条約改正交渉
 1854年
 英国公使香港総督
 と
 清国広東欽差大臣
 との交渉
 後に北京
 常駐外交使節団
 常駐公使
 の設立を志向
 ↓↑
 通商
 既存の徴税機構に代わり
 公正公平な徴税機構を
 新たに作ることが課題
 ↓↑
 英国外務大臣
 パーマストン
 これらの問題の解決を図るために
 清国に対し再び武力行使をする決意
 1851年12月
 外務大臣を辞職し
 1855年1月
 首相として政界に復帰
 武力行使準備
 ↓↑
 アロー号拿捕の清国
 1856年10月8日
 清の官憲は
 イギリス船籍を名乗る
 中国アロー号に臨検
 清人船員12名を拘束
 3人を海賊の容疑で逮捕
 残りは釈放
 広州領事
 ハリー・パークスは
 清の両広総督・欽差大臣である
 葉名琛
 に対して
 イギリス香港)船籍の船に対する
 清国官憲の臨検は不当であると主張
 逮捕の時に
 清の官憲が
 イギリス国旗を引き摺り下ろした事は
 イギリスに対する侮辱だと抗議
 葉名琛は
 国旗は当時掲げられていなかったと主張
 パークスは
 強硬に自説を主張
 交渉は決裂
 事件当時に既に
 アロー号の船籍登録は
 期限を数日過ぎており
 アロー号には
 イギリス国旗を掲げる権利は無い
 官憲による
 アロー号船員の逮捕は全くの合法
 清国側の
 葉名琛は
 基本的な事実関係の調査を全く行わず
 事実に気がつかなかった
 パークスの方も
 期限切れの件は知らなかった
ーーーーー
 組織の日算ギム
 アライアンス(alliance)
 同盟・提携・縁組み
 マスメディアでは
 企業提携
 業務提携
 資本提携
 戦略的同盟
 の意味
 ↓↑
 コンプライアンス
 要求・命令などへの承諾・追従
 法令遵守
 企業活動において
 社会規範に反することなく
 公正・公平に業務遂行すること
 服薬遵守
 処方された薬剤を指示に従って服用すること
 ↓↑
 コンプライアンス(compliance)
 遵守、従順
 企業コンプライアンス
 企業の法令遵守
 服薬コンプライアンス
 患者が薬を薬剤規定どおりに飲むこと
 規格に適合すること
 機械的コンプライアンス
 物体の変形しやすさを示す物理量
 バネ定数の逆数で単位はm/N
 弾性コンプライアンス
 ↓↑
 コンプライアンス
 服従心理
 2012年のアメリカ合衆国の映画
ーーーーー
 ・・・1867年12月10日(慶応三年十一月十五日)・・・
 坂本龍馬・中岡慎太郎が襲撃暗殺(近江屋事件)・・・
 ↓↑
 1867年
 干支=丁卯
 日本(天保暦
 慶応二年十一月二十六日〜慶応三年十二月六日
 皇紀2527年
 清国
 同治五年十一月二十六日〜同治六年十二月六日
 ・・・