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2018-12-06 文字霊日記・2642日目

 2642日目・・・徐福が向かった地・・・


ーーーーー
 郢書燕説
 郢書燕説(韓非子外儲説左上)
 郢の人が
 燕の大臣へあてた手紙の誤った部分を
 燕の大臣がいいように解釈し実行し
 国が良く治まったという故事
 郢の人が
 燕の大臣に手紙を書いたとき
 周りが暗かったので
 「燭を挙げよ(挙燭)」
 と言うと、その言葉を
 書記がそのまま手紙に書いて送った
 燕の大臣は
 「賢人(燭)を重用(挙)せよ」
 と解釈し実行した
 ↓↑
 「鶏肋=大して役に立たないが
     捨てるには惜しいもの」
 「鶏肋」・・・鶏=鷄=雞
        家鶏(カケイ)・錦鶏(キンケイ)・ 軍鶏(グンケイ)
        群鶏(グンケイ)・闘鶏(トウケイ)・野鶏(ヤケイ)
        養鶏(ヨウケイ)
 「後漢書(楊修伝)」
 鶏(雞)のあばら骨には食べるほどの肉はないが
 捨てるには惜しい
 たいして役に立たないが、捨てるには惜しい
 鶏肋=ニワトリ(鶏・雞)の肋(あばら)骨
 ↓↑
 持久戦の
 劉備軍に
 曹操軍が苦戦を強いられ
 曹操・・・曹(つかさ・役人・役所の部局
 ↓↑     部屋を意味する
        ↓↑
        李氏朝鮮における六曹
        法曹
        司法権が付帯
        長官は判書
        以下
        参判、参議、正郎、佐郎
        吏曹 - 官制と人事担当
        戸曹 - 財政担当
        礼曹 - 王室業務・儀礼担当
        兵曹 - 軍事担当
        刑曹 - 刑事担当
        工曹 - 公共事業その他の社会事業担当
 ↓↑     ↓↑
 ↓↑     軍隊などの階級の一
        曹長・軍曹・兵曹・陸曹
        なかま・ともが・へや・つぼね
        曹司・我曹・爾曹・曹達=ソーダ・重曹)
 ↓↑   操(あやつる)
 が食事中無意識に発した
 「鶏肋」を伝令が触れ回り
 誰もその意味を理解できなかったが
 側近の
 楊修は・・・楊=十+八+昜(日一勿)・・・昜≠易
 ↓↑      やなぎ・ヨウ
         かわやなぎ・楊弓・楊柳
         黄楊(つげ・コウヨウ)
            つげ=柘植・都祁・柘
         水楊(スイヨウ)・垂楊(スイヨウ)・白楊(ハクヨウ)
 ↓↑    昜=日+一+勿
         あがる・ひらく・ヨウ
         異体字「暘・陽」
         日がのぼる・揚
         明るい・日なた・日があたる・あたたかい
         陽・ひら(開)く・とびあがる
 ↓↑    易=日+勿
         やすい・かえる・エキ
         とりかえる
         改易・交易・不易
         うらない
         易学・易占・易断
         儒教の経典・五経の一
         やさしい・やすい・てがる・やすらか
         易易・簡易・容易
         あなどる・慢易
       修=イ++攵+彡
おさむ・おさめる・シュウ
 ↓↑      修得・修業・修学・修辞
 撤退の準備をさせた
 理由を
 夏侯惇に
 問われた
 楊修は
 「鶏肋(鶏のあばら骨)は、
 ↓↑ ・・・肋骨(ロッコツ・Rib)
    胸腔を囲む、細長くて湾曲した骨
    骨は12本ずつが一対になっていて24本
    心臓や肺臓を保護する胸郭を形造
    肋骨が痛い時、肋骨の病気、内蔵の病気
    肋間神経痛・肋軟骨炎
    咳、くしゃみ(嚔・sneeze)で
   「肋骨骨折・肋骨罅(ひび)」
    気胸
    気管支炎・肺炎・肺塞栓症
    狭心症・心筋梗塞・・・
 ↓↑ 肋骨の骨髄では造血
  鶏肋
  捨てるには惜しいが、
  食べても腹の足しになる
  肉(にく・ジク)はついてない
 ↓↑  
  進むに勝つあたわず
  退くに人の笑うを恐れるが
  曹操の
  心中は
  漢中郡は惜しいが
  撤退するつもりだろう」
 と説明
 撤退準備に
 オドロいた
 曹操は
 楊修を
 軍規を乱したとして処刑し
 戦争を継続し、結果、敗北
 殺してしまった
 楊修の才能、機転を惜しんだ・・・
 ↓↑
 楊修は
 曹操の言動から
 彼の真意を見抜き・・・「読心・揣摩(シマ)」
 曹操はその機転の才を危険視していた・・・?
 加えて
 楊修が
 曹操の後継者として世子の
 曹丕でなく
 庶子の曹植を支持し
 曹操の不興を買っていた・・・
 ↓↑
 「鶏肋」・・・阿毎王朝の「阿輩雞彌」
 「にわとり(雞・鶏)」を助ける・・・
  庭鳥・丹羽鳥・二羽鳥・・・二話取(採り)
 ↓↑
 「開皇二十(600)年」
 「俀王-姓-阿毎・字-多利思北孤・號-阿輩雞彌」
  天子の
  姓は阿毎・・・アマイ・アバイ・アブ・アベ
         海人意・阿波意・阿武・阿部・阿閉・海部・海女
  名は多利思北孤・・・内裏(ダイリ・宮中)仕置拠?
  妻の名前は「雞(鶏)彌」・・・景見?・・・
 ↓↑
 雞=にわとり・ケイ=鶏
 『通典(801年)』
 隋文帝開皇二十年
 倭王
 姓
 阿毎
 名自
 多利思北孤(タリシホクコ)・・・北=比?
       足 鹽 公子
 其國號
 阿輩雞彌(オホキミ・アハケイミ)
           あわけいみ=阿訳 意味
           阿波化意味 鴉葉化意味)
 華言(中国語
 天兒也(天子=王)、
 遣使詣闕。
 (通典 第一百八十五 邊防第一 倭)
 ↓↑
 『隋書』
 「倭王、小徳-阿輩台(アハイダイ)を遣わし」
 「阿輩台=アワと・阿波都・阿波門・阿倭徒・阿波門=鳴門?」
 「大礼・哥多(カタ)」
 ↓↑
 『新唐書
 用明天皇=多利思比孤・・・?
   ・・・用明=燭(燈)を挙げよ(挙燭)
         郢書燕説
         和洋折衷・和漢洋折衷
         用和折衷・・・用韓折衷・・・?
         和魂漢才(わこんかんさい)
         和魂洋才(わこんようさい)
        中国は「中体西用」
        ・・・「体」は本体、「用」は枝葉
            要務運動・自強運動
            日清戦争敗北・変法自強運動
        朝鮮は「東道西器」
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 南北朝時代
 北魏華北を統一した
 439年から始まり
 隋が中国を再び統一する
 589年まで
 中国の南北に
 王朝が並立
 ↓↑
 華南=南朝
 宋、斉、梁、陳
 の4つの王朝が興亡
 建康(建業)に都をおいた
    ・・・建業・・・犍旔腱楗蜨鞬健・・・
            鍵(かぎ・ケン)=金+建
 三国時代の
 呉、東晋
 と南朝の4つの王朝をあわせて
 六朝
 六朝時代
 江南長江以南)の開発
 隋や唐
 江南
 中国全体の経済基盤となった
 南朝
 政治的に混乱したが
 文学や仏教が隆盛し
 六朝文化
 陶淵明王羲之などが活躍
 ↓↑
 華北
 鮮卑-拓跋部の
 北魏・・・前身は「代国」
 ↓↑   315年〜376年まで
      八主、およそ61年続いた
      前秦
      苻堅により一旦は滅ぼされる
      苻堅が淝水で大敗
      再興され
      439年
      第3代
      太武帝の下で華北を統一した
      太武帝が暗殺
      混乱を収めたのが
      文明皇后(馮太后
 ↓↑   ↓↑
      文明皇后
      第5代
      献文帝の乳母
      466年
      政権を握っていた
      乙渾を排除し
      献文帝を擁して
      垂簾政治
      献文帝に長男
      宏(孝文帝)が生まれ
      表舞台から引き下がるが
      孝文帝の生母を殺し
      献文帝と対立
      献文帝を廃位
      孝文帝を擁立
 ↓↑   ↓↑
      外戚対策として
      新帝の即位後に
      その生母を殺すことが通例
 ↓↑   ↓↑
      文明皇太后
      引き続き垂簾政治
      班禄制・三長制・均田制
      などの諸制度を実行
      中央集権化・漢化を推し進めた
 ↓↑   ↓↑
      490年
      文明皇太后が死去
      孝文帝の親政
      文明皇太后方針を受け継いだ
      493年
      首都
      平城(山西省大同)から
      洛陽に遷都
      家臣たちの
      鮮卑の氏を全て中国風に改め
      皇室
      拓跋氏を
      元氏とし
      九品を部分的に取り入れ
      南朝模倣した
 ↓↑   北朝貴族制度を形成
 が
 五胡十六国時代の戦乱を収め
 北方遊牧民部族制を解体し
 貴族制に基づく中国的国家を形成
 「六鎮の乱」を経
 534年
 東魏西魏に分裂
 東魏は550年に
 西魏は556年に
 北斉北周に取って代わられた
 ↓↑
 577年
 北周北斉を滅ぼし
 華北を統一
 ↓↑
 581年
 隋の
 楊堅
 北周の譲りを受けて帝位
 589年
 隋は
 南朝
 陳を滅ぼし中国を統一
 北魏東魏西魏北斉北周
 の五王朝北朝
 李延寿の『北史』
 隋を北朝に列している
ーー↓↑↓↑ーー 
 遣隋使
 倭国(俀國)が
 隋に派遣した朝貢使
 600年(推古八年)
 〜
 618年(推古二十六年)
 18年間に5回以上派遣
 ↓↑
 『隋書』
 竹斯國・・・筑紫
 秦王國・・・秦王
 の国名が記録
 「都於-邪靡堆」・・・靡=なびく・堆⇔碓⇔小碓命
 都は
 「邪靡堆⇔邪馬台」
 ↓↑   ・・・邪=牙+阝
         =ジャ・シャ・ヤ
          よこしま=ム
          正しくない・私欲・いつわり
          琅邪山=山東省東南部の山名
              琅琊山=瑯邪山
          琅邪郡=琅琊郡=瑯邪郡
          新の王莽の時
          填夷郡(チンイグン)と改称
          後漢建国
          琅邪郡の称にもどされた
 ↓↑       41年(建武十七年)
          光武帝の子
          劉京が琅邪王に封じられ
          琅邪郡は琅邪国に改められた
          北魏
          琅邪郡は北徐州に属
          北周
          北徐州は沂州と改められ
          琅邪郡は沂州に属
          583年(開皇三年)
          隋が郡制を廃し
          琅邪郡は沂州と改められた
          607年(大業三年)
          州が廃止されて郡が置かれ
          沂州は琅邪郡と改称
          621年(武徳四年)
          徐円朗が唐に滅ぼされ
          琅邪郡は唐の沂州となった
          742年(天宝元年)
          沂州は琅邪郡と改称
          758年(乾元元年)
          琅邪郡は沂州と改称
          以後、琅邪郡の呼称は消滅・・・?
     ・・・台=ム+口=臺=吉+冖+一+ム+十+一
        異体字「臺・䑓」・・・「檯・枱」
 ↓↑         臺⇔壱=壹
 ↓↑
 「明年
  上遣
  文林郎
  裴清
  使
  於
  俀國
  度-百濟
  行至-竹嶋
  南望-耼羅國
  經-都斯麻國
  迥在大海中
  又東至-一支國
  又 至-竹斯國
  又東至-秦王國・・・秦王國
  其人
  同
  於
  華夏
  以
  爲夷州
  疑不能明也
   隋書 列傳第四十六 東夷 俀國」
 ↓↑
 「明年 上遣文林郎裴世清使俀國
  度百濟 行至竹島 南望耽羅國 經都斯麻國
  迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國
  又東至-秦王國
  其人同於華夏
  以爲夷洲 疑不能明也
   北史 巻94 列傳第82」
ーー↓↑↓↑ーー
 新羅本紀第一
 脱解王
 四代目の王に即く・・・
 脱解
 倭国の東北千里にある
 多婆那国の生まれ・・・脱解=倭国の多婆那国の人
                  丹波那?
 ↓↑
 三国史記
 列島から
 脱解という賢者が
 4代目の
 新羅の王になり
 倭人を大臣に任命
 大臣になったのは
 瓢箪を・・・瓢箪の形象=「呂・𠂤・㠯・阝」?
       瓢=票+瓜  「8・∞・Β・β」?
 着けて
 海を渡ってきた
 瓠公・・・瓠=夸+瓜=大+亏+瓜=瓢
 ↓↑         大+一+丂+瓜=壺
      異体字「𤬄・狐・瓡・𤬗・葫・𤫸」
           きつね?  にんにく?
      ひさご・ふくべ・ひょうたんなどの総称
      ウリ科の一年草
 ↓↑   夸=ほこる・おごる・カ・コ
大+亏
        通仮字「侉」
        繁体字「誇」
        異体字「𡗢・𡗴・𡗸・𡘆・䠸
            姱・荂・跨・誇
        誇る・粗大な・言葉の訛り
        咵・潰(つい)える・姱=美しい
        恗(コ)=怯える
 ↓↑   亏=まがる・ウ
        一+丂
        繁体字「虧=雐+亏=雐+亐
              かける・キ」
            欠け落ちる
            虧損・盈虧(エイキ)
            傾虧(ケイキ)・ 頽虧(タイキ)
            虧盈(キエイ)
            雐=虍+隹
 ↓↑     異体字「于」
 倭人
 新羅王朝を築いた・・・
ーー↓↑↓↑ーー
 唐→晋→絳
 唐=から・もろこし・トウ
   中国王朝
   中国の古い呼び名・外国
   唐人・毛唐
   にわかに・出しぬけに・唐突
   ほら
 ↓↑
 晋=亚+日=晉=一+厶+厶+一+日・・・晋
   異体字「晉・𣇩・晉・㬐・㬜
       𡥨・𣈆・𣋤・𣋧・𣌇・𦗎」
   抑える・進む・(搢と通じて)差し挟む
   advance
   篆文は「至+至+日」
   旧字の晉→晋≠普
     ・・「普=並+日=あまねし・フ・ホ」
         日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)
         日並皇子(ひなみしのみこ・万葉集
         日並知 (ひなめしの) 皇子
         諡号
         岡宮御宇天皇
        (おかのみやに
         あめのした
         しろしめししすめらみこと・
         おかのみやぎょうてんのう)
         岡宮天皇長岡天皇
         岡寺
         奈良県高市郡明日香村
         龍蓋寺(りゅうがいじ)
        「岡寺」は地名
        「龍蓋寺」は
         龍蓋池に封じた龍に由来
         草壁皇子の住んだ
         岡宮の跡に義淵僧正が創建
         山号 東光山
         宗派 真言宗豊山派
         本尊 如意輪観音
         創建 7世紀末頃
         開基 義淵
         札所 西国三十三所第7番
        =草壁皇子=普(あまねし=海人子)
        =大海人皇子の子
        =妃は阿閇皇女(元明天皇
   「易に曰く、明、地上に出づるは㬜なり」
   晋(紀元前11世紀〜紀元前376年)
   春秋時代の国名
   三国時代と南北朝時代の間の王朝
   三晋・西晋・東晋
   名のり「あき・くに・ゆき」
   春秋時代に栄えた後
   趙・韓・魏の三国に分かれる
   司馬炎が建てた王朝の名
 ↓↑ ↓↑
   晋
   霊公(?〜紀元前607年9月27日
   春秋時代の晋の君主
   在位
   紀元前620年〜紀元前607年)
   姓は姫
   諱は夷皋・・・夷=東夷・蝦夷
          皋=白+夲=皐
          通仮字「睪・皐」
          異体字「皐・咎・𣽎
              睾・臯・𦤗・鼛」
            さつき・さわ・コウ(カウ)
            皐・皐月=五月(さつき)
   襄公の子
 ↓↑
 唐=广+⺕+口
   トウ(タウ)・から・もろこし
   唐詩・盛唐・入唐 ・晩唐・李唐
   遣唐使・唐音・唐人・唐土・唐本
   でたらめ・荒唐無稽
 ↓↑
 絳=糹+夅=糸+夅
   あか・あかい・コウ
   深紅色・絳裙(コウクン)・絳帳
 ↓↑
 郤 缺(ゲキ ケツ・?〜紀元前597年)
 趙武
 諡号「献文」諡され
    趙文子と呼ばれる
 ↓↑
 韓国
 戦国七雄の一国
 (紀元前403年〜紀元前230年)
 春秋時代の
 晋の公族
 穆侯の子
 桓叔の庶子
 韓万(韓武子)が
 韓原の地(陝西省韓城市)に
 封じられた
 姫姓を姓とする
 韓武子の一族
 韓氏を称し、この領地名に因んだ
 これ以前にも同名の
 「韓」という国があり
 (周王朝系の韓)
 韓原を地盤としていた
 ↓↑
 晋の
 韓武子が
 韓原に封じられ
 晋の六卿の一つとなり
 前453年
 趙、魏と晋を3分
 紀元前375年
 鄭を滅ぼした
 戦国時代
 韓は七雄の中では最弱
 西の秦からの侵攻に怯えていた
 ↓↑
 国姓   姫姓韓氏
 爵位   侯爵
 国都   固安・韓原
 分封者  武王
 始祖   韓侯
 存在時期 前1122年?〜前756年
 滅亡原因 晋により滅亡
 韓祖   周の武王の子で成王の弟
      韓叔
      殷周革命の際に
      固安(河北省廊坊市固安県)
      に封じられた
 兄の成王の代に
 韓原(陝西省韓城市〜山西省河津市の境目)
 に移封
 ↓↑
 晋の公室の分家である曲沃の
 桓叔の庶子
 韓万(韓武子)がおり
 この者に食邑として与えられた
 これが戦国の韓の起源
ーー↓↑↓↑ーー
 呂氏春秋
 中国戦国時代末期
 秦の呂不韋食客を集めて
 共同編纂させた書物
 呂覧(リョラン)とも
 秦の始皇八年(紀元前239年)に完成
 天文暦学、音楽理論農学理論
 など自然科学的な論説が多く
 自然科学史において重要な書物
 ↓↑
 呂不韋
 賓客を延き集め
 各々聞く所によりて
 「月令」を選し
 円道を明らかにし、人事を証す
 天地・陰陽・四時・日月・星辰・五行・礼儀
 の類を載せ
 名づけて
 「春秋」という
 ↓↑
 呂不韋=韓の大商人、「呂不韋(りょふい)」
 ↓↑
 大韓帝国(テハンジェグク)
 1897年1910年まで
 李氏朝鮮の使用国号
 ↓↑
 周王室
 武王より三十七世八六七年に滅亡
 (前256)
 ↓↑
 秦
 昭襄王死後
 子楚の父
 孝文王即位
 子楚が太子となった
 趙国は
 子楚の妻子を
 鄭重に送りとどけてきた
 孝文王は一年にして死去し
 子楚=荘襄王が位につく(前250)
 呂不韋を丞相(宰相)に任じ
 文信候に封じ
 洛陽の十万戸をあたえた
 前249年
 魯が
 楚にほろぼされた
 魯
 周公より三十四代、八五〇年
 ↓↑
 荘襄王
 在位三年にして死去(前247)
 十三歳
 太子の
 政=秦王が即位
 政治は母の
 太后(荘襄王の后)
 と
 呂不韋
 が執政
 呂不韋は相国(宰相
 仲父(チュウホ=父親に準ずる待遇)とよんだ
 太后
 むかしの
 呂不韋の愛人
 呂不韋の執政時代
 韓、魏、趙は領土の一角を奪い
 秦の領土の東端は
 斉国と接した
 各地から食客を招き三千人
 食客たちに、それぞれ見聞を述べさせ
 それを編集して
 二十余万字にのぼる
 書物
 『呂氏(リョシ)春秋』と名づけた
 (前239)
 咸陽(カンヨウ)の
 市場の門前に展示し
 賞金をかけて内容を批判させた
 「一字でも増減できる者があれば
  千金をあたえよう」と
 これが
 「一字千金」の由来
 呂不韋太后の関係が噂になり
 別の男を太后に推挙し太后の気をひかせ
 男に宮刑をほどこしたことにし
 宦官に仕立て太后の側近に侍ら寵愛させ
 二人の子を出産
 太后離宮にかくれ
 仕事はその男によって決裁させ
 長信侯の位をたまわり
 下僕は数千人
 食客も千余人におよんだ
 政が即位して
 九年(前239)
 二十二歳
 成人の冠礼をおこなった
 これをおそれた
 長信侯が
 反乱をおこして
 王宮を攻めて占拠をくわだてたが
 密告され
 王は
 兵を発し一党をほろぼし
 長信侯らは
 車裂(シャレツ)の刑にした
 太后
 不義の
 二子も殺された
 事件に呂不韋も関係したが
 王は
 呂不韋
 が先王につくした大功をおもんばかり
 不問に付した
 翌年に
 呂不韋の職(相国)を免じ
 都から追放
 洛陽の領地においたが
 呂不韋は声望があり
 洛陽におもむく賓客は多かった
 秦王政は謀叛をおそれ
 蜀にうつることを命じた
 呂不韋は毒をあおって自殺
 ↓↑
 秦
 燕に侵攻
 ↓↑
 燕の太子の
 丹は
 かつて趙に人質となっており
 趙でうまれた
 秦王政とも、仲がよかった
 政が即位
 丹は秦へ人質となったが
 秦王の待遇はつめたく
 丹はうらんで逃げかえった
 秦の将軍の
 樊於期(ハンオキ)が
 罪をえて
 燕に逃げ
 丹は、これを館舎にむかえ厚遇した
 秦王の怒りを恐れ
 群臣がいさめたが、太子は聞かなかった
 更に
 太子は勇士をもとめて
 荊軻(ケイカ)という男をえ
 上卿(上席の大臣)とした
 丹は
 荊軻
 秦王政の暗殺、刺し殺すことを要請
 ↓↑
 荊軻
 衛の人で
 読書と撃剣をこのみ
 感情的性格の男で
 燕にうつってからは
 町の酒飲みたちと交遊し
 遊歴した土地で
 賢人や豪傑や長者と親交した
 ↓↑
 荊軻
 樊於期(ハンオキ)の首と
 燕の
 督亢(とくこう)の
 地図を持参したい、と願った
 督亢は
 燕の要地にして
 秦がもっともほしがっている場
 樊の首、
 太子は
 自分をたよってきた樊を
 私利のために殺すには忍びなかった
 荊軻
 樊於期に会って、うったえた
 秦においては
 樊の父母をはじめ
 一族をすべて殺し
 その首に莫大な懸賞をかけている
 一言にて燕国の憂いをとき
 将軍のあだをむくいる策・・・
 樊於期将軍の首を
 秦王に献じたなら
 秦王はよろこんで自分を引見するハズ
 自分は
 左手に秦王の袖をとり
 右手で秦王の胸を刺す・・・
 これを聞いた
 樊於期は
 片肌をぬいで腕をにぎり
 みずから首はねて死んだ
 太子は駆けつけ、屍体にうちふし
 大声をあげて泣いた
 ↓↑
 首を箱にいれて封じ
 鋭利な匕首(あいくち)をもとめ
 毒薬を刃にぬって人にためし
 秦王暗殺支度はととのえた
 燕のうまれで
 秦舞陽(シンブヨウ)という勇士
 十三歳で殺人を犯した無頼
 太子は、この秦舞陽を、荊軻の副え人とし
 秦舞陽をともなって出発
 事情を知っている者たちは
 白い装束(喪服)を着て見送った
 ↓↑
 易(エキ)水のほとりまで
 荊軻
 筑(ちく=琴に似た楽器、竹で絃を打つ)
 に和して歌った
  風蕭蕭兮易水寒
  壮士一去兮不復還
 ↓↑
 秦につき
 千金のねうちの贈りものを
 王の側近にささげ、来意を通じた
 秦王はよろこび
 威儀をただして
 燕の使者を引見
 荊珂は
 樊於期の首箱を持ち
 秦舞陽は地図の小箱をささげた
 すすんで陛(きざはし)にいたると
 秦舞陽は
 顔色をかえて
 ふるえだし・・・
 ↓↑   大化の改新の実行犯
     「佐伯子麻呂」に類似
      古麻呂とも
      姓は連
      佐伯丹経手の子」とする系図がある?
     「佐伯の丹の経の手」・・・丹の経?
     「佐伯 丹経手=姓は連
             内臣・佐伯戸難目の子」
              とする系図がある?
 ↓↑  佐伯「戸難目→丹経手→子麻呂」
    「佐伯子麻呂」の
     兄弟は
     東人
     子麻呂
     百枝
     子は
     大目
     歳主
     645年11月(九月)
     中大兄皇子に命じられ
     阿倍渠曽倍と共に40人の兵士を率いて
     入鹿暗殺後に出家し吉野に隠棲していた
     古人大兄皇子を攻撃
     皇子とその子息を殺害・・・
 ↓↑ 「丹」は「燕国の太子」・・・
 群臣があやしんだので
 荊軻は顧みて笑い
 「北方の蛮夷の鄙人(ヒジン)
  いまだ天子に見(まみ)えたことなく
  ゆえにおそれ、ふるえたのでございます。
  願わくは大王、これをゆるさせたまえ」
 「その者の持っている地図を見せよ」
 ↓↑
 秦王の言により
 荊軻は地図の巻物を収りだして、王にささげ
 王が地図をひらき、図のおわるところ
 匕首(あいくち)があらわれた。
 荊軻
 左手で秦王の袖をとらえ
 右手に匕首を持って、突きだした
 おどろいた王は身を引いて立ちあがり袖が切れた
 王は剣をぬこうとしたが
 剣は長く鞘(さや)から抜けず
 鞘に収またままにぎった・・・
 あわてて剣を竪(たて)にしたまま
 すぐには抜けなかったが、抜刀して
 荊軻と対峙した・・・。
 ↓↑
 秦は
 魏、楚、燕をほろぽし
 斉もほろぼして天下を平定
 秦王政は三十九歳
 即位二十六年
 (前221)
 皇帝
 命を「制」
 令を「詔」
 自称を「朕(チン)」とした
 ↓↑
 廷尉(司法、検察の長官)の
 李斯(リシ)が
 法治主義(法家
 郡県主義(直轄中央集権)を採用
 李斯
 楚の出身
 荀子の教えをうけ
 秦におもむいて
 呂不韋につかえ
 呂不韋の推挙で
 始皇帝に重用された
 ↓↑
 法家
 法による支配
 同門に
 韓非子(カンピシ)
 ↓↑  ・・・韓非は咸陽に着き
     蘭陵で学んだ頃の同窓の
     李斯を訪れた
     彼は韓国の特使として
     秦国にきて駐在していた
     秦の師団が突然東進し
     韓を攻め
     三十万の大軍が国境を鎮圧
     韓王は恐れ
     和議を求めて
     土地を納め御璽を献上
     藩臣を擁護することを請うた
     韓非子はこの和義の使節だったが
 ↓↑  李斯にハメラレる
 始皇帝にもちいられた
 李斯の両策によって
 無実の罪におとしいれられ
 投獄され、自殺
 ↓↑
 秦の郡県となって統一
 諸公子や功臣は、あつく待遇すれば、それでよい
 天下に異心をいだく者のないのが安寧の術
 諸侯をおくことは便法とはいえない
 ↓↑
 これを始皇帝は採用
 天下をわけて三十六郡
 中央から官吏を派遣して治めさせ
 皇帝の直轄とした
 郡の下は
 数十の県にわけた
 一つの県はおよそ一万戸の人口
 郡の戸口は数十万戸・・・
 始皇帝の中央集権体制
 「郡県制度」とよばれ
 中国統治方式の基本とされた
 周の封建制度
 「王」たる天子と諸侯とのあいだに
 画然とした身分の差はなかった
 「王」は至上なる神の代理
 天子として地上を統治
 諸侯は「王」に服しているものの
 その領土の内では
 王と同じ性格の統治者であった
 ↓↑
 度量衡の単位の統一
 度(ものさし)
 量(ます)
 衡(はかり)
 秦のものに一定化
 国定の量(ます)や権(おもり)を
 全国に頒布
 車輪、道幅を一定にした
 ↓↑
 文字を統一
 秦と六国とでは
 ちがった文字をもちいていた
 秦の文字が大篆(ダイテン)で
 始皇帝は李斯に命じ
 あらたに
 小篆という書体をつくらせた
 篆書(テンショ)である
 しかし篆書にしても、まだ複雑で
 隷書(レイショ)が発明され
 漢代には一般通用文字となる
 ↓↑
 貨幣の統一
 斉や燕など北方の国は
 「刀(トウ)」をもちい
 韓魏趙などは
 「布(フ)」(農具のスキの形)
 楚では「貝(バイ)」
 秦では円形の銭をもちいていた
 始皇帝
 重さ半両の円形の穴あき銅貨を
 標準の貨幣として定め全国に通用させた
 半両銭は
 後世にいたるまで貨幣の基本の形となった
 ↓↑
 政令は
 都の咸陽(カンヨウ)から発せられ
 咸陽は帝国の中心となった
 ↓↑
 民の武器の携帯、携行は禁止
 天下の武器をおさめて
 これを城蒲にあつめ
 熔かして
 鐘鐻(ショウキョ=鐘などをかける台)
 金人(銅製の大きな人形)
 を十二体つくった
 重さは、おのおの千石(たん=三〇トン)
 ↓↑
 天下の
 富豪十二万戸を
 咸陽に移住させた
 ↓↑
 宮殿の壮麗化
 各国をほろぼすごとに
 その宮殿と同様のものを
 咸陽につくっていった
 これらの宮殿は、みな渭水の北にあった
 上林苑という大遊園地や
 祖先の廟は
 みな渭水の南にあった
 その間には大きな橋がかけられ
 また宮殿と宮殿との間は
 複道という二階建ての道路によってむすばれた
 ↓↑
 統一の翌年から
 始皇帝は巡遊をはじめ
 専用の道路の造成
 天子の馳道(チドウ)とよばれ
 幅が約七〇メートル
 しかも地上より高く
 道の両側には約七メートルごとに
 松の並木
 天下の巡遊は
 五回
 東は斉の山東から
 北は燕の北境
 南は楚の地をへ
 越(エツ)の
 会稽山まで巡った
 ゆくさきざきで盛大な儀式や宴会
 ↓↑
 その間
 六ヵ所に記念の石碑に
 始皇帝の功業をしるした文を彫りこんで建てた
 随行した
 李斯が
 小篆の書体でしるした
 泰山
 と
 琅邪台(ロウヤダイ)の刻石が
 もっとも古い(前219)
 刻石を建てて、名を永世に伝えようとする石碑も
 始皇帝がひらいた
ーーーーー
 始皇帝
 斉の方士
 「徐福(徐市)」に命じ
 不老不死の薬を探索
 徐福が向かった地は
 斉の国・琅邪(瑯琊)の
 東海に浮かぶ島
 「蓬莱」・・・
 ↓↑
 古墳時代
 丹後
 丹波京都府中部)
 但馬兵庫県北部)
 を合わせて
 「大丹波国(おおたにわこく)」
 青龍三年(西暦235年)という
 日本で一番古い年号を記した
 銅鏡「方格規矩四神鏡
   (ほうかくきくししんきょう)」
 が峰山町弥栄町にまたがる
 大田南5号墳から出土
ーーーーー
 ・・・???・・・