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2019-01-08 文字霊日記・2659日目

 2659日目・・・本日、1/8のニュース・・・「史上最遠の天体の接近撮影に成功・雪だるま形・太陽から65億キロの史上最も遠い天体探査機ニューホライズンズが撮影・@NatGeoMagJP・NASA無人探査機が、撮影

ナショジオ」・・・いか、ナンカ、関連があるのかな・・・
 ↓↑
 ・・・教育番組・・・
 田中 久重(たなか ひさしげ)
 寛政十一年九月十八日
 (1799年10月16日)
  〜
 明治十四年
 (1881年11月7日)
 ↓↑
 己未(丁 乙 己) 偏官偏財 墓⇔辛巳
 甲戌(辛 丁 戊) 傷官偏印 衰⇔戊戌
 癸酉(庚 辛) 印綬 病⇔乙巳
戌亥=空亡
 ↓↑
 発明家
 「東洋のエジソン」・・・
 ↓↑  トーマス・アルバ・エジソン
    (Thomas Alva Edison,
     トマス・アルヴァ・エディスン…富増・蛙留話鴉・重字寸?
      ↓↑
     1847年2月11日        〜1931年10月18日)
     丁未(丁 乙 己)比肩比肩 冠帯⇔辛未
     壬寅(戊 丙 甲)正官傷官 死⇔戊戌
     丁丑(癸 辛 己)  偏官 墓⇔丙午
      申酉=空亡
 ↓↑
 「からくり儀右衛門」
 と呼ばれた
 芝浦製作所東芝の重電部門)の創業者
ーー↓↑ーー
 筑後国
 久留米福岡県-久留米市)の
 鼈甲細工師・・・鼈甲=「べっこう=別項・別稿」細工の詞?
 田中弥右衛門の長男
 幼名は
 儀右衛門
 嘉永六年(1853年)
 佐野常民・・・・常の民
 の薦めで
 蘭学狂いの
 鍋島直正・・・鍋(なべ・名部)の揣摩(しま)
        金+咼(冎+口)     縞(糸+高)・志麻
        咼(よこしま・くちがゆがむ・カ・カイ) 
          「冎=字形に穴にはまりこむ関節の骨」
          簡体字「呙」
          異体字「剮・和・喎」・・・和?・・・なごむ
          咼、渦、過、鍋、禍、堝、蝸、窩
          窩=あな・あなぐら・カ(クヮ)・ワ
            腋窩(エキカ・エキワ)
            眼窩(ガンカ・ガンワ)
            蜂窩(ホウカ)
            窩主(けいず)買い=盗品と知りながら
            売買すること・その商人
            故買(コバイ)・系図買い
        直(すぐ・ただち)に正(ただせ)
 が治める
 肥前
 佐賀藩の・・・嵯峨・性・差雅・・・相模・佐上
 精煉方に着任
 日本初の
 蒸気機関車
 蒸気船の模型を製造
 反射炉の設計
 大砲製造
 元治元年(1864年)
 佐賀から久留米に帰り
 久留米藩の
 軍艦購入
 銃砲の鋳造に携わった
 ↓↑
 跡部 良弼
 (あとべ よしすけ)
 寛政十一年十月二十一日(1799年11月18日)
 〜
 明治元年十二月二十日(1869年2月1日)
 ↓↑
 己未(丁 乙 己)傷官印綬 衰⇔戊辰
 乙亥(戊 甲 壬)印綬偏印 絶⇔乙丑
 丙午(丙   丁)  劫財帝旺⇔癸亥
  寅卯=空亡
 ↓↑
 旗本、幕臣
 肥前
 唐津藩主
 水野忠光
 の六男・・・666
 老中
 水野忠邦実弟
 通称は季十郎・大膳
 官位は従五位下
 山城守、信濃守、能登
 甲斐守、伊賀守、遠江
 に遷任した
 ↓↑
 大塩の乱
 (天保八年二月十九日・1837年3月25日)で
 責任を問われることはなく
 後は
 大目付を経て
 勘定奉行に栄進
 勘定奉行在任中の
 天保十三年(1842年)
 翌年に予定された
 十二代将軍
 徳川家慶の
 日光東照宮
 謝参準備のため日光に赴く途中
 下総
 古河宿場本陣に宿を取ったが
 幕府の威光を盾(傘)に
 参勤交代
 既に同宿場本陣に入っていた
 陸奥
 仙台藩主
 伊達慶邦
 を強制的に退去させ
 後日
 伊達侯から幕府に強硬な抗議
 ↓↑
 天保の改革
 (1830年〜1843年)
 天保九年
 農村復興を目的とした
 人返令
 奢侈禁止を諮問
 天保十二年
 (1841年)
 大御所
 十一代将軍・・・11・十一・拾壱・足壱?
 徳川家斉・・・家の斉(齊・斎・齋)?
 が死去
 ↓↑
 五月十五日
 十二代将軍
 徳川家慶は
 享保・寛政の改革の趣意に基づく
 幕政改革の上意
 水野は幕府各所に
 綱紀粛正と奢侈禁止を命じた
 ↓↑
 水野 忠邦(於莵五郎)の側近
 寛政六年六月二十三日
 (1794年7月19日)
 〜
 嘉永四年二月十日
 (1851年3月12日)
 甲寅(戊 丙 甲)偏官偏印長生⇔辛亥
 辛未(丁 乙 己)傷官劫財 衰⇔辛卯
 戊寅(戊 丙 甲)  偏印長生⇔丁卯
  申酉=空亡
 ↓↑
 鳥居 耀蔵が町奉行
 寛政八年十一月二十四日
 (1796年12月22日)
 〜
 明治六年
 (1873年10月3日)
 丙辰(乙 癸 戊)傷官正財冠帯⇔癸酉
 庚子(壬  癸)正官偏印 病⇔辛酉
 乙丑(癸 辛 己)  偏財 衰⇔戊子
  戌亥=空亡
 ↓↑
 徳川家斉の側近
 別名 忠耀(諱)・胖庵(号)
 蝮の耀蔵、妖怪(渾名)
   ・・・天保十四年閏九月十四日
      水野は老中職を罷免されて失脚
      諸改革は中止
 ↓↑
 跡部 良弼は
 兄の
 水野忠邦が失脚後も
 政治的命脈を保ち続け
 兄が重用した
 鳥居耀蔵と
 そりが合わず
 個人的に
 鳥居と敵対していたために
 失脚は免れた・・・?
 ↓↑
 氐宿(テイシュウ・テイシュク)
    ともぼし
    二十八宿の一
    東方青龍七宿の第三宿
    距星はてんびん座α星
    星官(星座)の氐は
    天秤(てんびん)座
    α星、ι星、γ星、β星の4つの星で構成
    氐=Root=天の根・青龍の胸及び前足
 ↓↑
 氐=氏(人が前にかがまる)+一(下の面)
   氏+一
   人が身をかがめて地面に手を触れること?
 ・・・氏の一(はじめ)?
 氐族中国の民族の一・チベット
    氐・低・底・抵・邸・岻・砥⇔氐=土台・基礎?
 氏(シ)=薄い刃物?
      祖先を同じくする同族集団・・・氏⇔民=冖+氏
                     氏=ノ+𠄌+弋(一乀)
      同一血族の系統
 氐=氏+一
   人が身をかがめて地面に手を触れること?
   平伏している様・・・?
 氒=氏+十=ね・ケツ・カチ
   ・・・氏の十族?
  =橛(杭)・・・棒状の歩行用のステッキ・・・?
   厥=その・それ・まがる・まげる・ぬかずく
     厥角・屈
     ・・・「蕨=わらび・和良比」なら
         薇(ぜんまい)・・・
         発条(ぜんまい)で
         巻貝・ヤドカリの貝・蝸牛(かたつむり)
        「蝦=海老=えび=蛯は国字」・・・蝦夷.
     中国北方の異民族の名「突厥(トッケツ・トックツ)」
     石を発掘する・ほる・つくす
     つきる(素問・陰陽離合論)
     陰根厥き、火敦起きる
     病名。のぼせ(素問・六節蔵象論)
     足凝り
     くぼみ(窪)にひっかかる
ーーーーー
 ↓↑
 緒方 洪庵
 文化七年七月十四日
 (1810年8月13日)
  〜
 文久三年六月十日
 (1863年7月25日)
 足守藩士・・・足(たり)の守(かみ)の藩(ハン)の士(シ)
 医師蘭学者
 大坂適塾(大阪大学)を開校
 天然痘・・・天然=自然
 治療に貢献
 幼名は騂之助(せいのすけ)
 諱は惟章(これあき)・章(あきら)
 字は公裁
 号を洪庵・適々斎・華陰
 弟子から
 「メース(オランダ語meester=先生」
 と呼ばれた
 ↓↑
 豊後国の豪族
 豊後
 佐伯(さえき)氏・・・佐=人+ナ+工
            伯=人+白・・・新羅渡来人
 の流れをくむ・・・佐伯氏=弘法大師・空海
              蝦夷族の監督官?
 備中
 佐伯氏
 の一族
 備中国
 足守藩岡山市北部)士・・・足(たり)の守?
 佐伯惟因
 (瀬左衛門)の三男
 母は
 石原光詮
 の娘・「きょう」
 備中
 佐伯氏は
 佐伯惟寛
 (惟定の弟)
 ↓↑・・・兄弟=緒方惟照、惟定、惟寛
 ↓↑   子=惟重、女子(藤堂元則室)
      佐伯惟定(さえき これさだ)
      安土桃山時代〜江戸時代前期
      戦国武将
      豊後-佐伯氏-第十四代当主
      豊後国-海部郡
      栂牟礼城主
 ↓↑   津藩重臣
      豊後佐伯=栂牟礼城主の佐伯惟教の末裔
      佐伯惟教は
      大友宗麟の武将で
     「耳川合戦」で討死・・・耳の川
      嫡子の佐伯惟定は
      島津軍から
      栂牟礼城を死守し
      豊臣秀吉から感状を下された
      大友義統
      朝鮮役の
      敵前逃亡
      改易され
      佐伯惟定も領地を失い
 ↓↑   藤堂高虎の客将となった・・・
 の末裔・・・
 八歳のとき
 天然痘にかかった・・・天(典・点・転・伝・田)念
 ↓↑
 文政八年(1825年)二月五日
 元服
 田上惟章と名乗る・・・田の上(かみ)の惟の章
            田齋・田齊の文章・・・?
 十月         惟神道=カンナガラのミチ
 大坂蔵屋敷
 留守居役となった父と共に大坂に出る
 ↓↑
 文政九年(1826年)七月
 中天游の私塾
 「思々斎塾」・・・思々の斎(齋・斉・齊)・・・差異?
 に入門
 緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)
 以後は
 緒方を名字とする?・・・名字の選択根拠はナニ?・緒方さん
 四年間、蘭学、特に医学を学ぶ
 ↓↑
 天保二年(1831年
 江戸へ出て
 坪井信道に学び
 宇田川玄真にも学んだ
 ↓↑
 天保七年(1836年)
 長崎へ遊学し
 オランダ医師
 ニーマン
 のもとで医学を学ぶ
 緒方洪庵・・・洪水の庵=いおり=廬・伊織・夷織
 と号した・・・
 ↓↑
 天保九年(1838年)春
 大坂に帰り
 瓦町(大阪市中央区瓦町)で医業を開業
 同時に
 蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く
 天游門下の先輩
 億川百記
 の娘・八重と結婚
 のち六男七女をもうける
 ↓↑
 弘化二年(1845年)
 過書町(大阪市中央区北浜三丁目)
 の商家を購入し
 適塾を移転
 ↓↑
 嘉永二年十一月七日(1849年12月21日)
 6日前に
 京に赴き
 佐賀藩が輸入した種痘を得
 古手町(大阪市中央区道修町)に
 「除痘館」を開き
 牛痘種痘法
 による切痘を始める
 ↓↑
 嘉永三年(1850年
 足守藩の要請で
 「足守除痘館」を開き切痘を施した
 関東から九州までの
 186箇所の分苗所を維持し治療
 ↓↑
 安政五年四月二十四日(1858年6月5日)
 洪庵の天然痘予防の活動を
 幕府が公認し牛痘種痘を免許制とした
 ↓↑
 文久二年(1862年
 幕府の要請で
 奥医師西洋医学頭取として江戸に出仕
 歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け
 手塚良仙
 ら七名を推薦
 十二月二十六日
 「法眼」に叙
 ↓↑
 文久三年六月十一日(1863年7月25日)
 江戸医学頭取役宅で喀血、窒息で死去
 享年五十四
 ↓↑
 明治四十二年(1909年)6月8日
 贈従四位
 ↓↑
 適塾
 福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内大村益次郎
 長与専斎、佐野常民、高松凌雲
 などを輩出
 病理学書
 『病学通論』を著作
 安政五年(1858年)
 コレラ(虎列剌)
    ・・・虎列剌=高熱・下痢・嘔吐などを伴い
           死に至ることもある・コロリ(虎狼痢)
 流行で
 『虎狼痢治準』
 と題した治療手引き書を出版
 息子たちにはまず漢学を学ばせた
 万延元年(1860年
 門人の
 箕作秋坪
 から
 英蘭辞書二冊を購入
 英語学習を開始
 福澤諭吉適塾に入塾し
 腸チフスを患った時
 中津藩大坂蔵屋敷で療養していた彼を
 診察、看病し治癒
 洪庵は
 西洋医学の治療と同時に
 漢方処方をした
 江戸
 将軍
 徳川家茂の侍医
 洪庵は
 護身用ピストル(拳銃・短銃・短筒)を購入所持
 ↓↑ 
 妻の八重の甥は
 紙幣製造に貢献した化学者の
 岸本一郎(1849〜1878)・・・岸本一郎
 岸本は緒方宅で育ち
 幕府派遣
 英国留学生に選抜
 日本の最初期の化学留学生とし
 ロンドン留学
 ↓↑
 華岡青洲一派の
 漢方
 合水堂とは塾生同士の対立
 ↓↑
 次男
 緒方惟準(これよし)
 慶応元年(1865年
 幕府の命令でオランダ留学
 明治元年1868年)に帰国
 京都の典薬寮の医師となり
 明治天皇の侍医
 明治二年(1869年
 大坂設立された
 浪華仮病院(大阪大学医学部の前身)の院長
 オランダ軍医
 ボードイン
 らとともに病院の運営
 明治四年(1871年
 陸軍軍医
 明治十八年(1885年
 陸軍軍医学会長兼近衛軍医
 脚気の予防策に
 麦飯給食を勧めたが軍上層部と対立
 明治二十年四月
 陸軍を辞し大阪にて緒方病院を開設
 ↓↑
 第十子の
 惟直はフランス語を学び
 1873年
 ウィーン万博で通訳
 1875年
 イタリア
 トリノ・・・トリの・・・
 で日本語教師
 翌年当地の女性と結婚
 長女
 エウジェニア-豊
 が生まれる
 1878年
 25歳で死去
 孫の
 緒方知三郎
 緒方章
 はそれぞれ病理学者と薬学者である
 曾孫の
 緒方富雄は東京大学で血清学を研究・・・
ーーーーー
 ・・・フゥ〜ぅ〜ン・・・
 緒方先生ってボクの育った鶉の分院の医院長だったけれど・・・