中宮崇の読書メモ日記

2012-02-27 トマス・ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」(筑摩書房)

※この記事は、ポストモダン小説の読み方に慣れていない方向けに日記において分割公開したものを一つにまとめたものです。

トマス・ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」(筑摩書房

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評価A

13日の猫町倶楽部月曜会藤が丘会場課題本トマス・ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」は典型的なポストモダン小説ということもあってやはり参加者の多くから「何を書いているのか意味がそもそもわからない」という意見が多かった。確かにポストモダン小説は一般的な近代文学作品と違い独特のお約束や読み方・書き方の作法があるために、読み慣れていないと「難解」との印象を受けるのだが、逆に言えばお約束さえ知ってしまえば比較的簡単に読み進められるので、今回はちょっと簡単に、ポストモダン文学のたしなみ方を、18日の読書会を前に先入観を与えない程度に書いてみようと思う。
「競売ナンバー49の叫び」自体は、内容を理解できるかどうかは別にして、仕事後のひとときを充てれば2日で十分読み終えられる分量なので、藤が丘会場で「よくわからなかった」と消化不良だった方も、そもそも難解で読書会自体に参加を見合わせたという方も、18日(水)の名古屋会場には十分間に合うので、挑戦してみよう。
特に、ポストモダン文学はもともとSFやファンタジー、日本アニメ・漫画に通じる点が多いので、文学作品に余り触れた経験がない方でも、そちらの方面が大好きな方はむしろ、文学好きな人よりも腑に落ちる部分が多いかも知れない。

○そもそも文学って何?どう接すればいいの?

文学作品は処方薬のようなものです。決して毎日食べるご飯ではありません。
薬である以上、病人にしか効きませんし、病気ごとにそれぞれ異なる薬が必要です。不適切な薬を飲ませたり、健康な人に飲ませても意味はありません。むしろかえって副作用で死んでしまうかも知れません。文学作品とは、心に何か闇を持っている人が、その抱える闇にふさわしい作品を読んで初めて効果をもたらすものなのです。従って、人によって必要とする文学作品は違いますし、初めから文学作品を必要としない人もいます。もしあなたが「読んでもわからなかった」ということは、そもそもその薬を必要としなかったのかも知れません。自分が薬を必要としない健康な体であったことをむしろ喜びましょう。そしてもし「読んで感動した!」という人は、自分の病が一体どのような種類のものなのかを一度じっくり考えてみることが有益かもしれません。少なくとも、相手が自分と同じ病気かどうかの診断もせずに、無闇矢鱈に自分の病にたまたまフィットした薬を勧めることは止めましょう。

繰り返しますが、ポストモダン文学に限らず、もともと文学作品とは、読んでも理解できなくて当然なものなのです。「何が書いてあるのか、著者が何を言いたいのかわからない」ことを怖れてはいけません。日本の阿呆な国語教育においては、試験で「著者が言いたかったことを選びなさい」とか馬鹿馬鹿しい問題を出したりするので、「文学作品は読んだら理解できて当然」という強迫観念が日本人にはありますが、間違っているのは「読んでもわからなかった自分」ではなく、そんな愚かな問題を作りあげた文学者、教師、お役人です。そうした馬鹿なことを国語教育でやっているのは日本ぐらいなので、暗黒の義務教育時代のことは忘れて自由に読み自由に「誤解」(というより独自解釈)しましょう。

ポストモダン文学ことはじめ

ある程度「著者が言いたかったことを述べよ」式設問が有効な近代文学と違い、ポストモダン文学はある意味ひねくれた、特殊な書き方・読み方を強要します。
月曜会で最近取り上げられた課題本の中でポストモダン文学に分類される・されうる作品は、以下になりますので、これからピンチョンを読む方は、これらの回を思い浮かべたり「話し足りん」トピを参考にしてみると良いかも知れません。ちなみに、カルヴィーノ「見えない都市」 については、僕が過去に読書会後に書いた文章がありますので、かなり長いですが当時参加された方や読んだことのある方、本稿終了予定の17日まで待てない人は、参考にしてみてください。

http://d.hatena.ne.jp/nakamiyatakashi/20110218

田中康夫「なんとなくクリスタル」
カルヴィーノ「見えない都市」
ポール・オースター「幽霊たち」「最後の物たちの国で」「偶然の音楽」
フランツ・カフカ「城」 ※この作品がポストモダン文学に分類されるかどうかは意見が分かれています。

とりあえずこれまでの課題本に関して言えば、以上を読めばポストモダン文学ってどんなもんじゃいってなことはおぼろげに見えてくるはずです。

ポストモダン文学の作法

余り理解されていないことですが、文学作品は解釈が一つに定まるものではありません。読み手によって、解釈がある程度バラバラになるのが当たり前です。解釈を一つだけに定めたいのなら、小説や詩ではなく論文を書けばいいだけです。つまり、解釈が一つしかでてこないような小説は、優れた文学作品とは言えませんしそもそも文学作品とさえ言えないことも多いことになります。それは単に冗長で散漫なだけで、論文の劣化コピーに過ぎないからです。論文で書いたほうがより良く伝わるものをわざわざ文学作品にする意味はありません(だからといって大衆小説ラノベ、漫画等が無価値なわけではありません。それらは文学作品とはまた別の価値を持ちます)。

ポストモダン小説は、近代小説以上に前述のような解釈多様性の傾向が大きくなりますし、「解釈不能」ということさえありえます。ですからしつこいですが、「読んでもわからない」ということを恐れないでください。
ポストモダン文学の定義は実は、近代文学ほど明確ではありません。せいぜい「近代文学ではないもの」というのが最大公約数的な定義に過ぎません。しかしそれではあまりにもぼんやりしすぎているため、ちょっと強引ですが、ある程度その特徴を列挙してみましょう。すなわち…

・書いていることよりも書いていないことの方が重要
・ナンセンスやいたずら等の時として意味のない記述が存在していて全体的に軽薄感が漂う
・読み手の既成概念や思い込みを破壊するというスタイルが多いため、書かれた当時の状況や著者の属する国家・社会における共通概念・通念・社会制度・社会問題等の基礎知識が必要、とは言わないまでも重要
・登場人物の特徴がわかりにくく、それどころかKなどと完全に記号化されている場合さえあるので、人物をイメージできなかったり人によりイメージが大きく違ったりする場合が多い(読者に固定観念を与えないためにわざとそうしている)
・創造よりも破壊を意図している場合が多い(優れたポストモダン文学の場合、破壊だけで終わるのではなく破壊の先に新たな視野が開ける)

以上のことから、もし「読んでもわからない」という方で、「それでもどうしてもわかった気になりたい」って人は、とりあえず以下のことを試してみましょう。一般的な小説と違って「わからない時はわかるまで何度も繰り返して読んでみる」という戦略が余り有効ではないことに注意してください。

・作品が発表された時代と、発表された国・社会について、ネットなどで調べて見て、当時どのような社会問題が存在しどのような論争があったのかを俯瞰してみる
・わからない用語が出てきたら、とりあえずグーグル等で意味を調べてみる
・それでも意味がわからなかった箇所があったらどんどん飛ばす

以上がポストモダン文学を読む場合において特に気をつけなければならない点です。とにかく、当時の人々の持っていた固定概念や一般常識等を共有することが重要です。なぜならポストモダン文学は大抵、そうしたしがらみや思い込みを破壊するために書かれているからです。

今回のトマス・ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」の場合、1960年代のアメリカ人の考えや生活について知ることが、作品理解の助けになります。ですから、ネットで60年代アメリカについて、年表を確認することから始めて色々調べてみましょう。切手や車などは写真を検索してみましょう。曲が出てきたらユーチュブやニコニコ動画などで聞いてみましょう。
とりあえず、公民権運動、米ソ冷戦(キューバ危機朝鮮戦争ベトナム戦争)、アメリカの郵便制度の特殊性(日本や諸外国と違ってアメリカは、州が集まって出来ていて州ごとに法律が違う連邦国家であるという点は特に重要です)あたりの理解は必須です。それでも余裕がある場合、赤狩りマッカーシー旋風、第二次大戦及びナチスドイツとの戦い(タイガー戦車、スツーカ爆撃機、イスラエルによるアイヒマン逮捕、ジッポーなどが登場していますね)なども調べてみましょう。このあたりは、周りにいる軍事オタクにでも尋ねてみたほうが手っ取り早いかも知れません。多分あなたが席を立ち去るまで延々と嬉々として語りまくってくれるでしょう。

さて、読書会前なので、参加者による読み方にバイアスを与えないために突っ込んだことは書かないが、僕なりの作品理解のための手がかりを述べて見ることにする。何度も繰り返すが、ポストモダン文学というものは解釈の多様性や、そもそも解釈可能なのかどうかというところまでをテーマやその特徴としている以上、ここに書くことは正解でもお手本でもなんでもないので、あくまでも参考にとどめておくように。

○「競売ナンバー49の叫び」が壊そうとしているものは何か

くり返しになりますが、ポストモダン文学には、読者の固定概念や思い込みを破壊することによって新たな見方を提供するというというものが多くあります。では、本作では一体何を破壊しようとしているのでしょうか?
固定観念や思い込みというものは、それぞれの文化や時代によって異なります。つまり、ポストモダン小説を味わうためには、著者が一体どのような読者を対象にしているのかが重要になります。本作は1960年代アメリカの文化を共有している人々を主たる読者として想定しているわけで、著者のピンチョンは、1960年代アメリカを生きた人々が持っていたであろう固定概念を壊そうとしていたと思われます。では、1960年代アメリカには一体どのような、壊すべき固定概念が存在したのでしょうか?それを理解する手がかりを見て行きましょう。

○アメリカの郵便制度の特殊性

アメリカには日本と決定的に異なる点が多数存在しますが、本作で扱われる郵便制度もその一つです。アメリカ人にとって郵便制度というものは、日本人が郵便制度に対して持っているイメージとは大きく差があります。日本人が本作にピンと来ない原因の多くは恐らく、この点に思い至り難いところにあります。
まず、アメリカは日本のような中央集権国家ではないことに注意してください。国に匹敵する強力な権限を持つ「州」が集まってできたのがアメリカです。州によって法律も制度も全く異なるような国です。州が変わると税金も違えば教育制度も違います。運転免許や交通ルールも州ごとに異なります。それどころか死刑制度の有無だって、州によって違ってきます。なぜなら民法や刑法を制定し運用する権限は連邦にではなく州にあるためです。
そればかりか、警察や軍だって、一義的には州に権限があります。だから各州は選挙で選ばれたシェリフ(保安官)が治安を維持し、正業の傍ら週末にパートタイムで訓練を受けた陸空(海はありません)の州兵が州知事の指揮下で軍事行動を行い、有事には(一時的に連邦軍に編入されて)海外に派兵されます(第一次大戦第二次大戦朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争イラク戦争の際にも派遣されました)。911の同時多発テロが発生するまでアメリカ軍には、欧州軍司令部や太平洋軍司令部など世界中に司令部があっても、本土防衛のための連邦軍司令部さえ存在しない程でした。本土防衛は各州ごとの州兵の担当だったのです。そういう事情があるため、911の時に空を飛び回っていたF16戦闘機はアメリカ空軍所属ではありません。パートタイムのパイロットが操縦する州兵空軍のものです。映画ランボーに登場する、ランボーを山中で追い掛け回していた兵士たちもアメリカ陸軍ではなく、州兵です。普段はサラリーマンとか農夫として働き週末だけ訓練して手当をもらっているおっさんたちが、州知事の命令でランボーとかいう荒くれ者を狩りだすために動員されていたわけです。
大統領を長とする中央政府である連邦政府にはFBIや連邦軍などの中央組織は別にありますが、それらはあくまでも、州をサポートしたり国外向けの任務を遂行する存在に過ぎません。これほど地方分権的な国家なわけですから、当然「日本国民」という意識と「アメリカ国民」という意識との間には大きな違いが出てきます。アメリカよりも州に忠誠心を持つのが「アメリカ市民」には比較的多く見られる傾向です。
そんなわけで、南北戦争から150年以上経った現在でも、自分が住む州の連邦からの離脱・独立を望む人々の勢力は政治的に無視できませんし、日本でよくある「沖縄独立論」や「北海道独立論」のような夢想的な議論とは違い、「カリフォルニア州独立論」といったようなものは合衆国市民の多くにとっては、相当程度にリアリティのある話なのです。最近でもオバマ大統領に対する失望から、各州の分離主義者による政治活動が活発化しているという報道があります。

米国で州の独立を求める声高まる
http://www.afpbb.com/article/politics/2651958/4751654

そんな、警察も軍も裁判所も州ごとにばらばらなアメリカにおいて、一般市民が日常的に「連邦政府」を意識できる巨大機関が1つだけ存在します。それが、郵便局です。
現在は合衆国郵便公社により運営されている郵便制度ですが、1971年までは合衆国郵政省の管轄下にありました。つまり、FBIや連邦軍連邦裁判所のお世話になる機会が稀な一般的アメリカ市民にとって、郵便屋さんというのは、日常的に「連邦政府」というものを実感させられるほとんど唯一の組織なのです。そのため、アメリカ人にとって郵便屋さんというものは、一種の心の支えや合衆国統一の象徴といった、ある意味イデオロギー的な側面を持っています。アメリカ映画やドラマ、特に西部劇などにはよく、郵便配達人に飲み物などを振る舞うといったシーンが出てきますが、これらは「郵便屋さん=アメリカ」とさえ考えてしまえるアメリカならではの土壌と密接に関連しています。ケビン・コスナー主演で映画にもなったデイヴィッド・ブリンのSF小説「ポストマン」では、核戦争でバラバラに崩壊したアメリカを、なんとなりすましの郵便配達人が中心となって再統一する、なんて話にまでなってしまいます。

Wikipediaより ポストマン (小説)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

こう考えると、「競売ナンバー49の叫び」における合衆国郵便制度に対する陰謀論めいた描写には、アメリカ人にとって特別な意味があることがわかります。それは単なる変人やキチガイの妄想的運動ではなく、中央政府に対する不信感を基盤とした、反連邦活動・反政府活動という側面があるのです。特に1960年代アメリカにおいては、ベトナム戦争や不況、人種対立など(州兵や連邦軍まで介入しました)、様々な政府に対する不信や不満が渦巻いていました。そんな中でアメリカ人にとっては、本書が描いているような陰謀論は、ただの荒唐無稽な笑い話として片付けられないようなある程度のリアリティや魅力を持っていたのです。

○言語の使用がもたらす固定概念

言語は、そもそも何語を用いるかによって、その人の考え方を固定化しまう傾向があります。興味のある人は、ソシュールとかレヴィ・ストロースとかノーム・チョムスキーあたりをググってください。
我々は、英語を話すか日本語を話すかといったことは、その人の考え方や思想に影響をあたえることはない、人類みな一緒!などと考えがちです。それが正しいかどうかは別にして、ポストモダン小説の多くは、そうした思い込みに挑戦するため、言葉遊びを多用する傾向があります。例えば本作でも、Postmaster(郵便局長)をPotsmasterなどと言い換えてみたり、登場人物の名前に色々なネタが隠されていたりします。こうした仕掛けを用いることにより、言葉の多義性やコミュニケーションの困難さが明らかにされ、「書けば伝わる、話せば伝わる、そこに誤解の余地はない」という言語に対する思い込みが崩されて行きます。

マイノリティ問題

本書では黒人、ヒスパニック移民、ゲイ、女性など、様々なマイノリティが登場しますが、1960年代は、公民権運動を始めとする各種のマイノリティ問題が論じられてきた、いや争われていた時期です。特に黒人問題については、64年にケネディ大統領が公民権法を制定しますが、そこに至るまでの道はまさに血塗られた道でした。南北戦争は言うに及ばず、57年にはアーカンソー州において、黒人学生が白人向け高校に入学するのを阻止するために州知事が州兵を差し向け、それに対抗するために、第二次世界大戦の英雄でもある当時のアイゼンハワー大統領連邦軍を差し向け黒人学生を護衛するなどして、軍事衝突の一歩手前まで来たほどです。有名なキング牧師の暗殺もこの頃です。

○冷戦と平和運動

62年のキューバ危機は、アメリカ人にとっては勿論のこと、世界中の人々に核戦争による人類滅亡に対する危機感を植えつけました。30歳未満の人々には想像もつかないかも知れませんが、日本人である70年生まれの僕でさえ、子供時代はある程度のリアリティを持って、「ある日突然核ミサイルが降ってきて自分が死ぬのは勿論のこと人類が滅びるかも知れない」という漠然とした不安を多かれ少なかれ抱いていたものです。
また、ベトナム戦争において、「世界最強かつ正義と自由をもたらすアメリカ軍」というアメリカ市民のもつイメージが崩れ始めたのもこの頃です。

第二次世界大戦敗戦国の経済的勃興

60年代といえば、第二次大戦で日独伊などの枢軸国と兵士として戦った世代は40-50代の中堅世代になっています。彼らにとってドイツ人はナチであり、日本人はジャップです。つまり、野蛮な敵国人です。そうした敵を打ち倒し、世界に自由と平和と正義をもたらすために戦ったというのが、彼らの意識です。ところが、彼らの子どもの世代はそうではありません。20代のアメリカ人にとって、日本人とは、何かクールな電気製品やバイク、特撮映画などを作る人々です。作中でも、ソニーのトランジスタラジオや、ホンダのバイク、ゴジラ号と名付けられた船などが登場します。同じようにドイツ人は、なんだかかっこいいロック向けファッションを提供してくれる人々だったりします。作中では、ナチスの制服やハーケンクロイツの腕章なんてものまで売られています。当然こうした現象は、命をかけて戦ってきた中年以上の世代にとっては我慢できるはずがありません。

○世代間対立

以上の各問題の背景には、実はもう一つ世代間における考え方の差という問題が存在します。作中でも、主人公らが不良少年達や大学生・大学院生といった若い世代とのギャップに戸惑ったり憤ったりする場面が多数出てきます。
この時代においてこうしたマイノリティ問題に一応の解決が見られたり、平和運動が活発化したりした背景には、当時の学生運動ヒッピー文化などを始めとする、若い世代の新しい考え方の存在が大きく関わってきます。
彼らの親の世代にとってアメリカとは、作中にも出てくるアンクルサムそのものでした。アメリカは良き父であり正義であり繁栄をもたらす存在だったのです。ところが、若者たちにとってはそうではありません。アメリカとは不正と悪徳にまみれた権威主義的な暴力オヤジのようなものなのです。しかも若者にとっては、もはや経済的にも豊かさを約束してくれる存在ではなくなってしまっています。

○夢と現実との狭間

そもそも本作で描かれた陰謀は、事実なのでしょうか。それとも、主人公のただの妄想なのでしょうか。作中には何ら答えは示されていません。
このように、「事実」とは何か?だいたい「事実」なんて存在するのか?という問いも、ポストモダン文学ではよく見られるテーマです。例えばこれまでの課題本を見ても、ポール・オースターの「最後の物たちの国で」は送られてきた手紙がそのまま小説となっているような構成になっていますが(実は違うのですが)、まるで北朝鮮のような破綻国家での困窮生活を訴えるその手紙の内容が事実なのかどうなのかさえ示されていません。ひょっとしたら、そこに書かれている内容はすべてフィクションか間違いなのかも知れませんし、それどころか、手紙の書き手自体がもともとその国にいるわけではなく、実は精神病院にでも入れられていて、そこから妄想を書き綴って送りつけているだけなのかも知れません(著者が意図的に隠してしまい書いていないためあまり気付かないことですが、主人公は手紙の書き手ではなく、手紙を受け取って読んでいる人間だということに注意してください)。

○「自分」とは何か?

いわゆるアイデンティティ問題ですね。「自分」とか「自己」なんてものが存在するのかというのも、ポストモダン文学が好んで扱うテーマです。作中でも、主人公やその夫を始めとして、まるで多重人格のようになったり、突然性格が変わったりして戸惑う場面が見られますし、悪ガキ達がみんな同じように見えて判別がつかなかったりします。また、登場人物の描写自体が非常に希薄なものになっています。
これまでの課題本においても、カルヴィーノ「見えない都市」ではフビライマルコ・ポーロという実名が使用されていますが、それら登場人物の特徴については殆ど描かれず、実はただの記号的扱いになっています。ポール・オースターの作品群においても同様です。カフカにいたっては、主人公の名前がKなどと、文字通り記号化されてしまったりします。
一般的に言ってポストモダン文学は、人間などの「主体」よりも、主体同志の関係性に注目します。人間というものはそれ自身によってではなく人間関係の構造によって存在の意味や意義などが決まってくるというわけです。ポストモダン文学が人物描写にあまり力を入れないのにはそういう理由もあります。そしてそこにとどまらず(そこでとどまるとただの近代文学になってしまいます)、そうした関係性を破壊してみせて「人間」の個性とか存在意義などに疑問を感じさせるというのが、ポストモダン小説のセオリーの一つです。本作においても、主人公の女性がゲイばかりいる店に入った瞬間、客の誰からも興味を持たれなくなり孤立するというシーンがあります。これは人間関係を構築する上で重要な「女性」という一つの属性が、実は社会や環境の変化によって簡単にその意義をひっくり返されてしまうことがあるということを示しています。

○偽装の物語

本作では偽造切手や偽インディアン、剽窃本などの様々な「偽物」が登場しますが、ポストモダン小説は、様々なものを偽装します。「本物」と「偽物」の違いは何?区別することに意味があるの?というのは、ポストモダン小説が好んで扱うテーマの一つです。時には作品のジャンルさえ偽装する場合があります。例えば本作は推理小説を偽装しています。ポール・オースターの一部の作品も同様に探偵小説推理小説を偽装していますね。同じオースターでも「最後の物たちの国で」は前述のように、手紙やルポルタージュを偽装しています。カルヴィーノ「見えない都市」は、歴史小説や都市論を偽装していました。日本で言うと、田中康夫「なんとなく、クリスタル」はバブル時代のカルチャーガイドを偽装しています(田中康夫自身は、「偽装じゃない!まじめに書いたんだ!」とか言っているようですが)。そうした偽装に沿って読むのも一興ですが、偽装に囚われて固定概念のまま読み進めると、罠にハマり、何が書いてあるのかよくわからずに読み終えてことが往々にしてあります。

とまぁ、これぐらいのことを下調べしておくと、今回の課題本もかなり読みやすくなると思います。以上のようなことを踏まえたアメリカ人にとって本作品は、決して難解で小難しい文学作品ではなく、一種の筒井康隆的ギャグ小説やSF・ファンタジー小説の類として読まれているものであるということを忘れずに、気楽に読んでみてください。

本作が本来、小難しい文学作品というよりも筒井康隆的ギャグ小説、SF・ファンタジー小説であるという点を明らかにするために、文庫版巻末の解注ではあまり注目されていないネタを追ってみようと思います。前にも触れたように、「本物」と「偽物」がせめぎ合う本作においては、ここで説明する以外にも様々な「偽物」が登場することに特に注意してください。僕が気づいていないだけで他にも色々ネタが隠されていると思うので、各自探してみましょう。特に音楽を中心とするアートの分野については暗いので、余り期待しないように。
読み進めて頂くとわかるように、たった一つの単語や表現の裏に、「書かれていない」様々な意味や多義性が隠されています。このような意味の多様性がポストモダン小説の特徴であり、作中で登場するエントロピーや情報量などの概念にも関わっています。
みなさんも、60年代アメリカを知る人々が本作を読んだ場合どのように感じたであろうか思いを馳せながら参考にしてみてください。

P8L1「エディパ・マース夫人はタッパーウェア製品宣伝のためホームパーティから帰ってきたが」

解注で触れている以外に重要な点として、アメリカではタッパーウェアは第二次大戦直後から普及し始めました。そしてその宣伝文句は「台所へ帰ろう!」でした。これは大戦中、戦争に出かけた男たちの代わりに女たちが工場や事務所などに働きに出ていたことと関係があります。これにより女性の社会進出が一挙に加速し、大草原の小さな家的な「古き良きアメリカの家庭」は急速に解体され、作品の舞台である60年代アメリカのフェミニズム運動に繋がります。そんな中で、コミュニティの再生と婦人の家庭回帰をスローガンとするタッパーウェア商法は、プラスチックという当時のハイテクのイメージと同時に、ある種のノスタルジックな古き好きアメリカのイメージと結びついた複雑な存在でありある意味イデオロギー運動でもありました。
更に深読みすれば、タッパーの発明・創業者であるアール・タッパーは、ニューハンプシャー州の都市であるベルリンで生まれています。ナチスドイツと戦った国が、敵国の首都と同じ名前を持つ街で生まれた製品にすがって「古き好きアメリカ」への回帰を夢見ていることへの皮肉と受け取る事も出来ます。
ついでながら主人公のマース(Maas)という名前は作中でマーズなどと言い間違えられますが、スニッカーズやM&M'sなどで知られるアメリカの一大菓子メーカーであるマース社(Mars)も良く、マーズと言い間違えられます。実際創業者の名前は綴りはマースと同じですがマーズと発音します。スニッカーズやM&M'sなどは現在でもアメリカ軍の戦闘用糧食の定番メニューですが、コカ・コーラなどと同様第二次大戦で米軍に大量納入し始めたのをきっかけに国民に広く浸透しました。第二次大戦朝鮮戦争ベトナム戦争などに従軍経験のあるアメリカ人にとっては、マースという名前は軍隊生活とアンクルサムを想起させるものなのではないでしょうか。
更に、マーズ(Mars)は英語で火星を意味しますが、火星はローマ神話の軍神マルスの象徴でもあります。マースをマーズと発音すると、英語圏の人々は軍隊経験者でなくても何か闘いや勇ましさをイメージすることになるのかも知れません。
元々マース(Maas)とは、フランスからオランダに流れるムーズ川とスペルが同じであり、この川は、作中でも登場する神聖ローマ帝国の国境でもありました。

P8L11「メキシコのマサトランのホテル」

19世紀のゴールドラッシュの時代において、ドイツから大量の移民が流入したためドイツ情緒の街並などで有名な都市です。メキシコに限らず南米全域には、古くからドイツ系移民が大量に流入しており、それが戦後の「ヒトラーはブラジルで生きていた!」などのナチ戦犯亡命説に繋がります。実際、作中にも登場するナチ高官のアイヒマンは、アルゼンチンに潜伏していたところを60年にイスラエルの諜報・工作機関であるモサドによって逮捕されます。

P9L1「コーネル大学図書館

解注では主人公とピンチョンの出身大学だとしか触れられていませんが、この有名大学の創設者エズラ・コーネルは19世紀アメリカにおける鉄道・電信ビジネスのパイオニアです。つまり物語の軸となっている反郵便運動と密接に関連しています。反郵便運動を追う主人公は実は知らないうちに、そうした運動の母体とも言える大学を出ていたのだ、なんという運命の皮肉!というわけです。

P9L12「署名はメツガーというひとのものだ」

メツガーというのはドイツ人によくある名前です。そして典型的アメリカ女をイメージさせる主人公が、このドイツ風男と深く関わっていくわけですが、ここでもかつての敵国ドイツを読者に意識させ皮肉を感じさせることになります。
ちなみにこのころラドリー・メツガーという監督が映画「カルメン・ベビー」という、メツガーと主人公エディパとの関係を少々思い起こさせるようなインモラルな作品を成功させ話題になりました。また、作中にも登場するフォルクスワーゲンナチス・ドイツ時代に開発された大衆車で戦後ブームになりアメリカ市場も席巻しましたが、その設計技師にハンス・メツガーという人がいます。

P9L17「キナレット・アマング・ザ・パインの下町の」

キナレットというのは、現在のイスラエルにある湖の名前でかつてはガリラヤの名で知られていました。イエス・キリストの活動の拠点としても有名であり、戦後すぐの48年に独立したイスラエルが、アラブ諸国からの侵入を退ける戦いを繰り広げた要衝としても知られています。イスラエル人やユダヤ系アメリカ人にとっては、日本人にとっての日本海海戦とか元寇の神風ぐらいに民族的な誇りと共に語られる名であり、アラブ人やパレスチナ難民にとっては忌まわしき名です。

P10L2「ヴィヴァルディ『カズー笛協奏曲』」

解注でも触れられているように、これは架空の曲ですがそれ以外に、カズーという楽器は黒人奴隷の象徴でもあります。50-60年代のアメリカにおいては公民権運動におけるシンボルの一つでもありました。また、カズーは別名をバズーカといい、第二次大戦ドイツ軍の戦車を破壊するためにアメリカ軍が開発した携帯用対戦車兵器「バズーカ」の語源ともなっています。

P10L6「コスレタスの葉をちぎったり」

原産地は地中海にあるギリシャ領のコス島。ヒポクラテスの生地として知られており、第二次大戦中はドイツに占領されていました。その占領の経緯についてはドイツ最後の勝利として知られており、連合国国民にとっては大変苦い思いの伴う地名です。またこの戦いの時点ではイタリアは降服し連合国の一員となっていたため、駐留していたイタリア兵がかつての同盟国であるドイツによって多数殺害されました。このことはイタリア系アメリカ人にとっても大きなしこりとなっています。

P10L13「7時の<ハントリー・アンド・ブリンクリー>ニュース・ショーの半ばになって」

解注では触れていませんが、このニュース番組は当時視聴率ナンバーワンでした。しかしこのころウォルター・クロンカイトがCBSイブニングニュースのアンカーマンとなり、ベトナム反戦運動の論陣を張ります。また彼は、第二次大戦においても従軍記者としても知られており、そうしたただの左翼的反戦思想とは一線を画した実績を背景に、60年代半ば頃からハントリー・アンド・ブリンクリーから視聴率トップの座を奪い取ります。つまり当時のアメリカ人はハントリー・アンド・ブリンクリーの名を出されると、新時代の若者文化に敗れ去った過去の遺物というイメージが思い浮かべられることになります。

P13L11「そのとかし方はジャック・レモンふうに」

解注ではただの「映画俳優」としか紹介されていませんが、彼は喜劇俳優として有名でした。まじめに生きようとする主人公の夫であるムーチョの髪型やスタイルがバカっぽいということを示しています。また英語で「レモン」は欠陥品(特に欠陥中古車)という意味も含まれ、経済学でも後に「レモンの定理」「レモンの法則」として知られることになります。中古車業を営んでいたムーチョを「レモン」と呼ぶことは、アメリカ人の笑いを誘うものと思われます。

P14L10「フレームはひん曲がり」

ムーチョがかつて中古車業であったころの回想ですが、日本の「綺麗な」中古車と違い、アメリカでは中古車はゴミだらけ凹みだらけの使いふるしであることに注意する必要があります。そこには、かつての使用者の人生そのものが刻まれており、車を見ればその人や家族の人生を想像することができます。作中では他にも、人や社会などの主体そのものよりも、そうしたものを映し出す物の方が重要であるという描写が多数出てきますので注意しましょう。

P16L10「ジャングルに隠れた日本兵、タイガー戦車に乗ったドイツ兵」

主人公は28歳ですので、ムーチョは恐らく20代後半から30代前半と思われますが、これは60年代アメリカにおいては非常に微妙なお年ごろです。彼らの兄や親はまさに、日本兵やドイツ兵と戦うため戦場に兵士として赴いた世代ですが、エディパやムーチョは、戦場に出ることはなく、家庭で子どもとして「ジャングルに隠れた日本兵、タイガー戦車に乗ったドイツ兵」のことを親やメディアから邪悪な敵・悪魔として聞き育っただけです。そして彼らより更に下の世代は、そうしたイメージからも無縁にベトナム反戦平和運動に突き進むことになります。
また、フォルクスワーゲンポルシェ博士による設計ですが、タイガー戦車もポルシェによって開発されました。

P19L16「市の中央病院がLSD-25」

LSDは当時のおしゃれ麻薬の代表格であり、ヒッピー文化の象徴です。ビートルズもLSDに度々言及しています。ピンチョン以外のいろいろな作品にも登場するアメリカ文学の必須アイテムですので、記憶にとどめておきましょう。60年代においてはまだその麻薬性と危険性に論争があり、州ごとに違法合法の法規制がばらばらでした。

P22L10「同じグループ療法(セラピー)の集まりに、パロ・アルト市」

ヒューレット・パッカード社の本社などがあるカリフォルニアの都市で、当時のハイテク産業の中心でもあります。現在のシリコンバレーと範囲が若干被っており、フェイスブックもこの都市を拠点としています。そうした科学技術の先端都市で働き疲れた人々がセラピーに頼っているということをイメージさせます。この作品より少し後になりますが、ヒューレット・パッカードのCEOであるデビッド・パッカードは69年にその地位を退き、以後ニクソン政権の国防副長官として、ベトナム戦争などの指揮をとることになります。これにより当時の若者たちからは、老いたアメリカ・背徳的な先端科学の象徴として見られることになります。
またパロ・アルトとはスペイン語で「高い木」を意味するそうで、これはパロ・アルト市周辺にも多く自生していたセコイアの木を指します。セコイアはその世界一とも言われる巨大さゆえに別名をアメリカ杉とも言い、強いアメリカの象徴ともされています。

P25L5「スペインから亡命してきた美しいレメディオス・バロの絵画展にさまよいこんだ」

解注でも詳細に触れられていますが、本作の理解においては郵便制度並みに大変重要ですので飛ばさずに読んでください。それ以外に、彼女の亡命の原因はナチの弾圧にあるという点も重要です。更に亡命後、ナチの強制収容所から逃れてきた男性と結婚しています。
近代的人間というものはなにか見えないシステムに囚われ見張られているというのは、フーコーなどが指摘したところですが、そうした拘束的な何ものかを破壊し新境地を拓こうとするのが、ポストモダン文学の特徴です。
また近代文学が起承転結という構造を持っていて結末もはっきりしているという特徴を持つのに対して、ポストモダン文学は起承転結もよくわからず結末もぼんやりしていて結論や著者の言いたいこともよくわからないという特徴がありますが、これらもバロの画のイメージと重なる部分があります。こうした点は文学に限らず絵画や音楽などのアートや、哲学などの思想の分野とも密接に関連していて、先日文藝部において取り上げられたジャクソン・ポロックの絵画なども、ポストモダン文学とイメージが重なる部分があることに注意しましょう。

P35L3「エディパの今夜の計画はテレビで<ボナンザ>を見るくらいのものだった」

当時爆発的視聴率を誇った西部劇です。郵便局がやはり重要な役割として度々登場します。彼らは野蛮で未開な西部において、合衆国という統一政府と秩序の象徴でもありました。私営企業ですが、作中にも登場するポニー・エクスプレスという西部開拓当時の郵便会社が中心となるエピソードも製作されました。

P37L5「トルコのガリポリに行って、そこで父親は何とか小型潜水艦をつくるんだ」

解注の通り、第一次大戦当時に連合国が、当時ドイツの同盟国であったトルコに上陸して失敗した作戦を描写したものです。ロシアの黒海と地中海を結ぶ戦略的要衝ダーダネルス海峡を封鎖する「ガリポリ作戦」「ダーダネルス作戦」は、メディアを通じて一般市民でも知っている、第一次大戦における超有名作戦の一つです。実はこの計画を推し進めたのは、後にイギリス首相としてナチと戦い続けたチャーチルです。彼はこの作戦の失敗で失脚したため、その後のナチの台頭に対する宥和政策とそれに伴う第二次大戦勃発の責任を問われることなく、棚ぼた式に総理の座を勝ち取ることができたとも言われています。つまり彼は、鉄の意志と若干の運の助けによって西側世界の自由と平和を守り通した人物というイメージを持たれていました。チャーチルは戦後、冷戦を意味することになる「鉄のカーテン」という言葉を作り上げましたが、そんな彼が死んだのが、作品の時代と重なる65年のことです。
また、ダーダネルス海峡自体は現在に至るまで一貫して軍事的政治的要衝で在り続けており、特に60年代の冷戦においては、ソ連黒海艦隊が地中海に出てこないようにするための封じ込めポイント(チョークポイントと言います)として重要でした。その頃のトルコは(現在に至るまで)NATOの一員としてアメリカと同盟関係にあり、キューバ危機においてもソ連がキューバのミサイル撤去と引換に、アメリカに対しトルコに配備されていた核ミサイルの撤去を要求していたという経緯があるため、当時のアメリカ人にとってはトルコと言う名は非常に身近であったと思われます。その上、60年代当時はアメリカの友としてヘタをしたら人類滅亡に至るまで行動を共にしたかも知れない同盟国が、かつては恐るべき敵であったという皮肉をも感じさせます。

P38「<ファゴーソ礁湖>というのは、ここから西のほうにある新興住宅地である」

このような人造湖を掘って作った新興住宅地は、この頃のブームでした。そしてそれは、古き好きアメリカの象徴でもあり、アメリカンホームドラマ的良き家庭の舞台ともなりました。思想的にはエディパにも近い、共和党的保守層の地盤となっています。それは様々な意味で、古き好きアメリカの偽物・まがい物でもありました。後に続く描写にも、まがい物の建物やまがい物の湖底の遺物などが意識的に描写されていることに注意してください。これらの新興住宅の多くは後に、開発が行き詰まったり過疎化や財政難に襲われ衰退していきます。

P45L2「 父親がオーストラリア・ニュージーランド共同軍団上陸拠点の絶壁の」

通称アンザック(ANZAC)は、第一次大戦時に宗主国のイギリスを助けるために編成された部隊で、その精強さは度々メディアを賑わせました。そしてアンザックは、作品の舞台である60年代に戦われていたベトナム戦争にも派遣され、今度は逆に汚辱と敗北にまみれた不名誉な報道をされます。

P54L15「ポーカー・フェイスの少女が着せかえのバービー人形に集中しているようだとエディパは思った」

意外に知られていませんが、バービー人形は日本製です。そのためアメリカ人には、敗戦国日本の経済的復興や経済的侵略の象徴として見られました。着せ替え遊びという偽物を人形という偽物を使って楽しむ、更にその西洋人形を作るのは、戦争で打ち負かしたはずの東洋人…というように、この何気ない描写にもやはり何重にも絡みあった「偽装」の構造が見られます。
おまけにバービー人形を考案したルース・ハンドラーはポーランド系ユダヤ人で、やはりここにもナチスの影を見て取ることができます。

P61L2「「いいじゃないか。まちがえてボタンを押して戦争をやるなんてことだけ注意してくれれば」」

このメツガーのセリフは、このころ発生したキューバ危機を背景に登場した「ボタン戦争」という言葉とそれに伴う、核戦争による人類滅亡の恐怖を表しています。それまでの古きよき戦争から、指先ひとつで数時間で人類滅亡という決着がついてしまう機械的で意義の乏しいジェノサイドの可能性という、人類の歴史上かつてない状況に直面したのが、60年代当時に生きた人々です。その衝撃はいかほどであったでしょう。

P62L12「「あれはシュトックハウゼンの作品」とクールな灰色の顎ひげが教えてくれた」

電子音楽のパイオニアだそうです。音楽には暗いんで、音楽的価値についてはよくわかりません。ただ解注では触れていませんが、やはり彼もナチと深いつながりがあります。精神病患者であった母親はナチにより安楽死させられており、父親はソ連との戦いに投入され行方不明になっています。
また、作中では教育を「洗脳」と断定する描写が後に出てきますが、彼の音楽教育方法は型にはまらない自由奔放ななものとして知られており、同時に厳密な楽譜を参考にした演奏ではなく、即興性やそれに伴う多義性を重視した演奏法を堅持しました。この意味で彼の音楽はポストモダン文学の多義性に通じる所があるのかも知れません。

P64L10「南部軍の巡洋艦<アラバマ>号と<サムター>号が」
P65L10「「どっちでもいいことですよ」とファローピアンは肩をすくめてみせた」
P65L14「これこそロシアとアメリカの全くの最初の軍事対決だったのです」

アメリカ人が大好きな南北戦争のお話。特に「サムター」なんて聞いたら、歴史好きのアメリカ人はしびれちゃうことでしょう(戦国オタにとっての関ヶ原、幕末オタにとっての鳥羽伏見ってところでしょうか)。それを曲解して、60年代ホットであった米ソ冷戦における反共産活動に利用している団体のエピソード。ここでも本作のテーマである「偽物」が登場する。南北戦争は日本人にとっての幕末維新や戦国時代以上にアメリカ人にとっては一般教養なので、この部分の間違えに気付かない読者は恐らく少ない。しかし、たとえ間違えていようが曲解していようが、結論にはほとんど影響しないことに注意しましょう。

P66L1「「ぼくらより左がかっている<ジョン・バーチ・ソサエティ>の仲間が殉教者に仕立てあげようとしている狂信者とは、わけがちがいます」」

右翼団体のファローピアンに「左」とか言われちゃっているところが、これまたアメリカ人読者の笑いを誘うジョークになっている。ジョン・バーチ・ソサエティは当時非常に勢力を誇った右翼団体です。作品で扱われている反郵便陰謀組織と違い、ちゃんと議会に議員まで送り込んでいた、当時の公民権運動などにも反対した反動的勢力です。こうした実在でかつ有力な組織を取り上げることにより、作中に登場する各種秘密組織のリアリティを高めています。

P68L14「 WASTE?ウェイスト?エディパは不思議に思った。この告示の下に鉛筆で薄く、いままで見たこともない印があった」

本作で多数登場する言葉遊びの一つです。更に注意すべき点は、この前の告知文は口紅で書かれているのに、ここで登場する喇叭のヒエログリフのようなシンボルは鉛筆で描かれている点です。つまり、両者は全く別の人間によって書かれた、何の関係もないものである可能性が高いことになります。それをエディパは勝手に、両者が同一の人間によって描かれていると思い込み、反郵便制度の陰謀が存在しているとの考えに囚われていくことになります。

P70「「これと似た実験はワシントンと、それからたぶんダラスの支部でやっています。が、カリフォルニアでは、いまのところ、ぼくらだけ」」

ファローピアンはこうした反郵便組織がカリフォルニア以外にも存在していると言っていますが、全く根拠が存在しないところに注意しましょう。アメリカ人読者の多くもそのことにすぐ気づきニヤリとするはずです。首都である以上悪徳と腐敗にまみれたワシントンに存在する「であろう」と妄想するのは当然として、ダラスにも存在する「であろう」と妄想している理由は、63年のケネディ大統領暗殺が原因だと思われます。この事件によりダラスはアメリカ人にとって「city of hate」(憎むべき都市)というありがたくない別名で知られることになります。そうしたダーティなイメージに基づいて、後の78年には「ダラス」というドラマまで作られ大ヒットすることになります。

P72L16「彼の会社を組織したデラウェアにおける代理人」

エディパの元恋人の会社のことですが、この州の法律は会社の設立や解散が容易なことで有名で、アメリカの企業の多くが形式的に本社を置いていたりします。本作にも登場するIBMやヒューレット・パッカードもデラウェアが書類上の本社です。数万円の費用で一日で株式会社を設立できるため、日本人もよくここで日本にいながら会社を設立して世界中で商業活動を行なっています。
他にもアメリカ人にとっては「デラウェア州=イカサマ・不正」というイメージがあります。これは、最初にデラウェアに入植したイギリス人がインディアンを騙して土地を巻き上げたという故事が有名なためです。なんとブリタニカ百科事典にも土地詐欺の例として載っているほどです。
またデラウェア州は伝統的に、中央政府の権限強化に反対するリパブリカンや分離主義運動の活発な地域でもあります。そうした意味で、読者にとっては反郵便運動のような地下組織が存在しても不思議はないというイメージを与える役割も果たしています。
更にこの州は、南北戦争以来人種差別問題で中心的役割も果たして来ました。公民権運動においても、各種の裁判や反差別闘争によってメディアを賑わせました。
ちなみにリパブリカンの反対勢力である連邦主義者のことはフェデラリスト(federalist)と言いますが、切手収集家のことはフィラテリスト(philatelist)と言います。切手マニアだった僕は小中学生の頃、この2つをよく聞き間違えたのですが、このあたりの音感の類似はアメリカ人にとってどう感じられているのでしょうか。

P74L15「メツガーはテキーラ・サワーの入った巨大な魔法瓶を持ち出してきた」

これはちょっと勘ぐり過ぎかも知れませんが、魔法瓶は1881年、ドイツのアドルフ・フェルディナント・ヴァインホルトによって発明されたものだそうで、ここにもドイツの影が見て取れます。またテキーラ・サワーにはレモンが使用されますが、英語で「レモン」は前述の通り欠陥品を意味しており、主人公の夫で元中古車商のムーチョを揶揄しているとも取れます。
ポストモダン的文脈からの注意点としては、メツガーは悪ガキ集団のザ・パラノイドにサンドイッチや魔法瓶の中身等を掠め取られるのを防ぐためにこの魔法瓶の上に坐って見張りをしますが(P80)、当然そんなことをしたら、せっかく持ってきた魔法瓶の中身を自分も飲めなくなる(そしてそのことにメツガー自身は気づいていない)点も重要です。巨大な富を独占しつつもそれを守ることばかりに熱中する余りその果実を味わうことにまで気が回らず生きるか、それとも、貧しき人々とその富を共に分かち合うか。当時のベトナム反戦運動などにも通じる政治・社会問題と言えます。

P76L1「アルミ製トライマラン<ゴジラ二世>号に乗せ」

ゴジラはアメリカでも54年と64年に上映され、当時のベトナム反戦運動の機運にも乗り、大好評をもって受け入れられます。ゴジラという怪獣が、アメリカの核実験の結果として誕生したという設定を思い起こしましょう。そしてゴジラという作品が決して悪の怪獣vs正義の人類、というそれまでの映像作品にありがちであった単純な構図ではなく、むしろ悪の人類vs被害者の怪獣、という、現代的アニメ・特撮ものの設定につながる陰を持った世界観を持っていた点も重要です。

P77L16「<コーザ・ノストラ>の大物だよ」

解注に書いていない重要な点。ラッキー・ルチアーノに率いられていたことで有名なこのマフィアは、第二次大戦中にイタリア・ファシスト党ムッソリーニにより大弾圧を受けメンバーの多くが収監されていました。ところが、作中でも少し触れられている連合軍によるイタリア上陸作戦に伴うイタリア降伏によって、「独裁者によって収監されている人々は自由と民主主義を信奉する善良な人々に違いない」とウブにも思い込んでいた米軍は何と「政治犯」である彼らマフィアを全て「解放」してしまいました。当然彼らは現地イタリアは勿論のこと、アメリカにまで進出し、後に映画などにもなる数々の大規模犯罪を引き起こします。作品中の60年代は、こうした「自由と民主主義を世界にもたらすアメリカの善意」により生み出されたマフィアの抗争がアメリカ中を震撼させていた時期です。

P78L4「昔のダロウ弁護士みたいな華々しいこと」

不思議なことに解注では「労働者のために戦った」とかスコープス裁判のこととか、お花畑的な解説しかせず無視していますが、ダロウ弁護士はこの作品においてはむしろ、レオポルド・ロープ事件の方が重要なのではないでしょうか。時期的にも、オーソン・ウェルズがダロウ弁護士役でこの事件を描いた映画「強迫/ロープ殺人事件」(Compulsion)が59年に公開されているので重なります。また少し前の48年にもヒッチコックが映画「ロープ」(Rope)を製作しています。
事件は、豊かなユダヤ人学生でゲイのカップルでもあったレオポルド(Leopold)とローブ(Loeb)が、自らの優秀さを示すためにおもしろ半分で同じユダヤ人の友人を殺し、完全犯罪を企てたことが発端です。この完全犯罪は些細なミスで簡単に警察に見破られてしまい、その不純な動機と残虐性により世論を激昂させマスメディアの格好の材料となります。二人の弁護を引き受けたダロウは、世間の注目を利用し、12時間に及ぶ弁論で自らの死刑反対思想の宣伝を行い、思惑通りアメリカ中に論争を巻き起こします。そしてこの史上稀に見る凶悪犯を死刑から救い出すことにも成功しました。
かつてナチにより弾圧され「弱者」として見られていたユダヤ人が、彼らを救った(とアメリカ人は考えています)アメリカにおいて、かつてない猟奇的な大犯罪を犯した上に死刑にもならなかったということで、当時のアメリカ人にとっては複雑な思いがあったと思われます。

P79L6「圧縮発泡スチロール製のコップに酒を注いだ」

現代の我々にとってはなんでもないシーンなので見逃してしまいますが、発泡スチロール1950年にドイツで発明されたものなので、作品中においてはまだ十数年の歴史しかありません。つまり読者にとってこの何気ない一文は、「俺たちが打ちのめしたばかりであるはずの旧敵国で発明されたハイテク商品」というイメージが思い浮かべられることになります。

P81L2「<ビーコンズフィールド煙草>のフィルターのこと、知ってるだろ」

ビーコンズフィールドはアイオワ州の都市の名前ですが、元々この街の名はビクトリア期イギリスを代表するビーコンズフィールド伯ベンジャミンディズレーリ元総理に由来します。そして彼は、イギリスの歴代首相中唯一のユダヤ人です。彼は、大英帝国の積極的植民地政策の担い手として有名ですが、その経歴はボーア戦争とアフガン戦争の苦戦による失脚という形で終わります。これは恐らく、60年代当時のアメリカ人にとって、ベトナム戦争の苦戦と重ね合わせて想起されたと思われます。

P83L5「ドイツの急降下爆撃機スツーカが地上掃射を意図して来るだけ」

日本では軍オタしか知らないスツーカは、アメリカを含む連合国においては、誰でも知っている恐怖の代名詞でした。この安くて簡単な構造の画期的な爆撃機と戦車を組み合わせた「電撃戦」により、ナチスドイツはヨーロッパを席巻しました。電撃戦は勿論のこと、急降下爆撃という戦術を大々的に採用し成功したのはナチが最初です。しかしこの成功にとらわれ、アメリカが大規模に採用した戦略爆撃などの他の戦法への配慮が不足したことが、その後のヒトラー第三帝国の運命を決めます。

P84L3「ロサンジェルスのフォレスト・ローン墓地とアメリカ人の死者崇拝熱についての噂が入っていたかもしれない」

最近ではマイケル・ジャクソンが埋葬されたことで話題になったフォレスト・ローン墓地は、ハリウッドスターをはじめとする奇人変人が埋葬されることで有名です。
また死者崇拝というのは恐らくブードゥー教のことを指しているのだと思いますが、アメリカにおけるブードゥー熱の凄まじさは日本人の想像を絶するものがあります。奇妙な殺人事件が起きればブードゥーの仕業、妙な落書きがされたらブードゥーの仕業、というように、多くのアメリカ人にとってブードゥーは、一定のリアリティを持った秘密組織の代表格です。日本人は「ただの夢想的なフィクションだろう」と笑い飛ばしてしまいがちですが、Xファイルを始めとして数々のドラマや映画において描かれ、少なからぬアメリカ人からはかなりの信憑性とともに受け入れられています。

P84L13「インディアナ州フォート・ウェイン市郊外の倉庫に」

フォート・ウェインはアメリカ独立戦争の英雄であるアンソニー・ウェイン将軍にちなんで名付けられました。ウェインの名を冠した地方自治体は両手両足の指では足りないほどですが、その中でインディアナ州フォート・ウェイン市は、直接ウェイン将軍が創設に関わった都市として「本物」と認識されています。ここでも本作の「本物」と「偽物」のせめぎあいを意識させられます。西部劇や戦争映画で当時人気があったジョン・ウェインの芸名も、ウェイン将軍の名にちなんでいます。ジョン・ウェインは後にメツガーのセリフの中にも出てきますね(P102)。
またウェイン将軍は、独立戦争後は対インディアン戦争で活躍し、西部開拓地の治安向上に貢献しました。これにより東部と西部を結ぶ郵便網を含む通信・輸送ラインが安定的に維持されるようになりました。

P84L17「オステオリシス社の株だけなんだ」

オステオリシス(osteolysis)は医学用語で「骨融解」を意味します。骨炭売買にふさわしい社名でしょう。

P85L4「先の尖ったスニーカーの美女が発言した」

注意が必要ですが、この当時はまだ現在のようなスニーカーは普及していませんし知られていません。この美女は主人公らを覗きや盗聴で悩ます若者集団ザ・パラノイドの一員なわけですが、スニーカーとは元々、19世紀ごろにイギリスの警察で犯人に静かに忍び寄るために開発されたゴム底の消音靴を指しました。

P87L4「もぐりのトランジスター販売店のあいだにあったが、この販売店、去年はなかったし、来年もないだろうというふうな構え、いまのところ日本製のものさえ安売りで、蒸気シャベルで掻きこむほどの大儲けだ」

ソニーを始めとする日本製のトランジスターラジオが大量にアメリカに流入し、深刻な貿易摩擦となっていた時期です。国防上も深刻な事態だということで、アメリカは日本からのトランジスター製品の輸入を規制します。そんな規制をすり抜けて違法に日本製トランジスター製品を密輸し売るこの手のもぐり販売店が乱立し大儲けしました。そしてそのような販売店で売られる「ソニー製」の多くは、ソニー製どころか日本製でさえないような粗悪品でした。ここでもまた「本物」「偽物」が登場するわけです。

P101L17「<ロードランナー>のマンガ映画を」

解注の通り、当時を代表する誰もが知っている国民的漫画「ワイリーコヨーテとロードランナー(Wile E. Coyote and Road Runner)」を指しています。日本人でも40代以上なら、「ミッ!ミッ!とか鳴きながら走る鳥だよ」と言うとわかるかも知れません。作品中では西部劇や郵便制度もパロディ化されて登場します。
作品のお約束のパターンとしては、ダチョウのような容姿で俊足のロードランナーを、コヨーテのワイリーが捉えて食ってしまおうと画策するものの、企ては多くの場合自滅的な失敗に終わるというものです。そして殆どの場合、ロードランナーはワイリーコヨーテに狙われていたこと自体に気づきもしません。つまりワイリーは、そもそもロードランナーを捉えようとしなければひどい目にあいません。これは主人公のエディパが、元をたどれば自分の意志によって色々な陰謀?や面倒にとらわれているという本作のポストモダン小説的構造と重なります。

P102L14「ぼくは三十五歳にもなるんだ」

ムーチョの年齢、ここに書いてありましたね。前回「ムーチョは恐らく20代後半から30代前半と思われますが、これは60年代アメリカにおいては非常に微妙なお年ごろです」とか書いちゃいましたが。

P108L1「ぼくはプラネタリウムの映写機だ」

プラネタリウムもやっぱり、ドイツ人の発明です。そしてここでもまた、実物よりそれを映す・反映する物が重要であるとか、主体より関係性のほうが重要だとかいうポストモダン文学が好んで取り扱うテーマが現れています。この前後あたりの演劇論も、本作のテーマに関連して非常に重要なものですので注意してください。

P113L2「あとの一時間は株主と代理人と会社の役員がヨーヨーダイン合唱会を催した」
P113L15「これにつづいて社長のクレイトン(通称「ブラディ」)・チクリッツ氏みずからの指揮、「オーラ・リー」の節で――」

オーラ・リーは、南北戦争時代に作られた、アメリカ人なら誰でも知っている民謡です。それを解注にあるように、プレスリーがラブ・ミー・テンダー(56年)として編曲し曲を乗せたものを歌ったことによりこの少し前の時期に世界的に知られるようになりました。当然当時の読者は、このシーンでエルビスを思い浮かべるはずです。しかしエルビス自身は、当初映画のために用意されたこの歌を気に入らずバカにしていたということも知られています。また、エルビス自身ドイツ系ユダヤ人インディアンの血を引いています。その上ロックの神様であるエルビスはデビュー以来人種問題や教育問題の渦中にあり、現代の我々には想像もできないほどに、PTAや白人保守層、宗教団体、警察、軍などからの激しい攻撃を受け続けました。その意味で彼は、60年代アメリカの社会問題の象徴と言うことも出来ます。蛇足ながら、エルビスと結婚し離婚したプリシラ・プレスリーは現在も存命ですが、奇しくも前回触れたドラマ「ダラス」における好演が有名です。
それ以外にもオーラ・リーは様々な編曲や替え歌などが存在しており、ここにも「本物」「偽物」や「オリジナル」「コピー」の構図が登場します。
またこれに続くチクリッツ社長による歌詞は、ヨーヨーダインの暗黒の軍需産業としての側面(本音)を表しており、逆にその前の株主らが合唱した歌詞は、ヨーヨーダインの夢の未来産業としての側面(建前)を表しています。
これまた蛇足ですが、この時期に放映されていた国民的SFドラマ「スタートレック」は、後のシリーズでヨーヨーダイン社を軍艦造船業社として作品中に登場させています。
音楽に詳しくない僕はロックといえば反戦・平和をイメージしてしまうため、オーラ・リー、というよりラブ・ミー・テンダーがこのようなタカ派丸出しの替え歌のネタ元に選ばれた背景がよく分からなかったので調べてみたら、どうも65年にエルビスがビートルズとロスで会見した際のスキャンダルが原因のようです。この際ジョン・レノンは、エルビスのベトナム戦争支持などの政治的立場に反発し、「エルビスのレコードは一枚も持っていない」と言って場を凍りつかせたそうです。この事件を機に、エルビス=タカ派、ビートルズ=ハト派というイメージが定着したため本作のような描写になったのだと思われます。
更に、オーラ・リーの発音に近い単語としてオーラリー(Orrery)というものがありますが、これは18世紀頃に作られた、機械じかけの太陽系模型を指します。そしてその製作者の一人に、トマス・トンピョン(Thomas Tompion)という職人がいます。

P118L9「マックスウェルの悪魔」

解注では触れていませんが、50年代の研究で、マクスウェルの悪魔は存在し得ない(永久機関はあり得ない)という結論が学界では信じられていましたが、この時期にその証明が誤りであることが判明し、研究と論争が再燃していました。70年代に入り再びマクスウェルの悪魔には一応の死が宣告されましたが、未だに完全な結論には至っていません。

P122L2「エジソンと電灯、トム・スイフトと何とかって調子ですよ」

トム・スイフトは、1910年から続く、科学発明物のSF小説シリーズです。SFの巨匠アイザック・アシモフロバート・A・ハインラインも、好んで読んでいたそうです。興味のある方は、プロジェクト・グーテンベルクなどで無料で公開されていますからどうぞ。

P125L9「<ヴェスパーヘイヴン養老院>へ車へでかけた」

解注では触れていませんが、原文ではVesperhavenになるのでしょうか。だとすると、ラテン語のVesperは英語でヴィーナス、つまり金星を指します。火星(Mars)と言い間違えられる主人公の名前との関連が見逃せません。主人公と対照的な人々にとっての避難所(haven)という意味合いが出てきます。
また、ヴィル・ヴェスパー(Will Vesper)というドイツの作家が死んだのもこの時期(62年)です。彼は、ナチに協力的だった文学者で戦後も右翼思想を保持し、数々のスキャンダルに巻き込まれていました。

P125L12「一人の老人が不鮮明なレオン・シュレシンジャー漫画を放映しているテレビの前で居眠りしている」

解注にもあるように、レオン・シュレシンジャー(Leon Schlesinger)は、ワーナースタジオのプロデューサーで、バッグス・バニーなどを生んだことで有名です。またワーナーに勤める以前は、西部劇なども作成していました。そしてまたもやですが、シュレシンジャーはドイツ人によくある名前です。
この老人はトートという名前であることがこの直後に判明しますが、Thothとは古代エジプトにおける知恵と言葉を司る神を意味します。本作でも度々登場するヒエログリフを作った神でもあります。解注では触れていませんが、アメリカでは各種のオカルト信仰のネタ元の神ともなっており、同時に、オカルト好きであったナチスドイツにおいても流行しました。
またトート(Todt)はドイツでよくある名前ですが、ナチの高官のフリッツ・トートは連合国でもよく知られた名でした。軍需大臣であった彼は戦前は有名なアウトバーンの建設などでドイツの驚異的経済復興を支え、戦中はユダヤ人の強制労働などでこれまた驚異的な軍需生産高を実現しナチスの戦争遂行のキーマンとなりました。彼自身は一貫してヒトラーに対し戦争反対を訴えていましたが、戦中になぞの飛行機事故で死亡し、これまた戦争経済の天才として有名になるシュペーアが後を継ぎます(作中でも後にP189で「シュペール」として登場します)。この後のトート爺さんのセリフの中に、ポニー・エクスプレスの配達夫だった祖父の馬の名前がアドルフだと言う部分がありますが、これはトート爺さんとその祖父がドイツ系であることを示唆しますし、当然アドルフ・ヒトラーに掛かっているのでしょう。
ついでに、当時ジョン·シュレシンジャーというユダヤ人の映画監督が活躍していましたが、この頃から同性愛などの反体制的テーマを扱った映画をたてつづけに発表し高い評価を受けると共に、保守層などからの攻撃を受けていました。

P127L2「<ポーキー・ピッグ>の漫画とすっかりごっちゃになってしもうてのう」

トート爺さんのセリフですが、ポーキー・ピッグは前述のシュレシンジャー率いるワーナーにより作成された国民的アニメの主人公で、バッグス・バニーも実は元々このポーキー・ピッグの出身です。ところが60年代には既に両者の立場が逆転しており、軽薄ではあるがスピード感あふれるバックス・バニーが主役で、人は良いけどとろいポーキー・ピッグが脇役となる場合がほとんどでした。

P129L7「あの史碑のことではサクラメント市に手紙も出しましたが」

ファローピアンのセリフですが、ポニー・エクスプレスやそれに対するインディアンの襲撃などの過去の不明確な記録を「サクラメント」に問い合わせるというのはアメリカ人にとっては特別な意味を持ちます。キリスト教において「サクラメント」とは、神の御業を知らしめる儀式を指します。
しかもファローピアンはさりげなく、反合衆国郵便組織の問い合わせのために「手紙」つまり合衆国郵便を利用しちゃっており、アメリカ人読者にとってはギャグに見えることでしょう。

P131L12「ジンギス・コーエンは夏風邪気味で、ズボンの前が半分開いていて、おまけにバリー・ゴールドウォーター大統領候補支援のためのトレーニング・シャツを着ていた。エディパはたちまち母性本能に駆られた」

コーエン(Cohen)はユダヤ人によく見られる名前です。この時代はたくさんのコーエンさんが世界中で大活躍し、メディアを賑わせていました。特に独立したばかりのイスラエルにおいては、軍人のコーエンさんがアラブ人を追い払い、ジャーナリストで革命家のコーエンさんがイスラエル独立のための精神的な支えとなり、スパイのコーエンさんがシリアで捕まって縛り首になったりと、コーエンさん無双の時代でした。また、ホロコーストを生き延びたコーエンさんたちの文学作品などもまだ、人々の記憶に新しかった時期です。
主人公が好意を抱いたこの切手収集家ですが、社会の窓が開いていることをエディパはスルーし、ずーっと後まで指摘しない点が重要です。恐らくこのことはエディパの心境の変化を表しています。また、ゴールドウォーターは64年の大統領選共和党候補で、作品中にも出てくる赤狩りマッカーシー議員を強力に支持したり公民権法に反対するなど、タカ派として知られていました。
ジンギス・コーエンという名前自体については解注ではジンギスカンをもじっているとしか説明していませんが、欧米人にとってジンギス汗は、H・G・ウェルズの「宇宙戦争」に登場する火星人のごとく、デタラメに強力で抵抗のしようがない凶暴な侵略者というイメージがあります。そんなジンギス汗に似たユダヤ名の人物を設定することにより、ユダヤ人の侵略性や凶暴性を揶揄しているのでしょう。
ホロコースト第2次大戦により「弱者」とのイメージが定着していたユダヤ人ですが、56年の侵略的な第二次中東戦争や、その後のパレスチナ地域への強引な入植は、当時のベトナム反戦運動とも相まって、アメリカ国内でさえも若者を中心に反発を招いていました。そして本作出版直後の67年には、イスラエルの先制攻撃により第三次中東戦争が始まります。

P131L16「彼はエディパをロッキング・チェアに坐らせ、ほんものの手造りタンポポ酒を小さな上品なグラスに入れて持ってきた」

タンポポ酒(Dandelion Wine)は、SFの巨匠として現代でも知られるレイ・ブラッドベリ1957年に発表した小説の題名(邦題「たんぽぽのお酒)でもあります。その幻想的で、複数の死生観を様々な視点から俯瞰する作風は、当時一世を風靡しました。
また、タンポポはもともとアメリカ大陸には存在せず、移民と共にヨーロッパから渡って来ました。タンポポ(dandelion)と言う名自体も「ライオンの歯」を意味するフランス語が変化したものであり、アメリカ人にとっては強烈にヨーロッパ情緒をイメージさせる植物です。今でこそ世界最先端の代名詞ともなっているアメリカ合衆国ですが、第二次大戦まではまだまだど田舎であり成り上がりものでした。そんなアメリカ人にとってフランスは、現代の日本人がアメリカに憧れる以上に、華やかな最先端の文明国だったのだということに注意してください。そんな意識が世代交代と共に変わってきて若者たちの間ではもはや「アメリカこそナンバーワン。でもなんか最近落ちぶれてきているよね」というように思われるようになっていたのがこの時期です。
ところで、タンポポ酒は普通、根以外の部分、主に花などを使用して作られます。そして根の部分はタンポポコーヒーの材料になることでも知られています。戦中コーヒー豆の輸入が途絶したナチスドイツにおいては、タンポポコーヒーは普通のコーヒーに代わる重要な嗜好品でした。
タンポポコーヒーは元々アメリカで発明されたものなので、60年代のアメリカ人がタンポポコーヒーの存在を知らないはずはありません。なのに根の部分を使うタンポポコーヒーを白々しく無視し、根以外の部分を使うタンポポ酒しか登場させていない点はアメリカ人読者にとっては、ジンギス・コーエンの(白々しい)ナチスドイツからの決別や忌避とか、19世紀みたいにタンポポコーヒーなんぞ飲まなくてももはや普通のコーヒーを飲める豊かな国になったのだというような様々なイメージを思い浮かべさせることになるように思えます。

P133L13「なぜ、わざとこんな間違いを?」

主人公が偽切手について質問しているセリフですが、偽切手や偽札は、わざと何らかの間違いを施している場合が多くあります。これは偽造者自身が、自分で作った偽物を識別できるようにし、それを受け取るリスクを避けるためだとも言われています。
実際、第二次大戦中は両陣営共に、相手の国の通貨を偽造してばら撒き信用を失墜させる秘密作戦を行なって来ましたが、それらの偽造通貨にも、製作者が見ればすぐわかる意図的なエラーが施されていました。

P139L13「幾層にもなって不規則にひろがるドイツ・バロックふうのホテルに到着した」

「ごてごて」とか「過剰装飾」などと評されるように、バロック自体が現代においてはまがい物扱いですが、それのさらにドイツ版コピーで、しかもその上「ドイツ”ふう”」と、もはやわけがわからないほどの劣化コピーの連鎖です。この前にも後にも「〜ふう」のまがい物が山ほど出てくることに注意しましょう。

P142L17「バークレーのキャンパスに向かった。ボーツ教授に会おうというのである」

州立大学であるカリフォルニア大学バークレー校は、連邦の中央集権的教育政策に対抗するために、カリフォルニア州が中心となって設立されたという経緯があります。この点で、作中に登場する秘密郵便組織の反連邦闘争に通じます。また、バークレー校という名は有名な哲学者ジョージ・バークリーにちなんだ名前です。彼の思想は、物質の客観性を拒否するものとして有名です。この点は本書のポストモダン思想にもつながりますが、例えば目の前に人がいてものをしゃべっているとしても、それは単にあなたがそう主観的に知覚しているということしか意味せず、客観的にその人がそこにいてものをしゃべっているということにはつながりません。それはひょっとしたらただの妄想・幻想に過ぎないかも知れないのです。
またバークレー校は当時、原爆開発で有名なマンハッタン計画研究者を多数輩出した機関としても有名でした。あのオッペンハイマー博士も本校の出身です。そして60年代においてはバークレー校は、赤狩りベトナム戦争に反対する拠点としても武勇を誇っていました。
その一方で、60年代当時に「保守的」とか「反動的」として、こうした学生運動から目の敵にされていたような重要人物達もこの大学の出身だったりします。ベトナム戦争国防長官として指揮したマクナマラや、ケネディ暗殺の真相を隠蔽したとされているウォーレン委員会のアール・ウォーレンもこの大学の出身です。

P160L7「彼に忠実であったジッポー製ライターの火口のところをカチッと回し、ノルマンディ地方の生け垣からアルデンヌ高原、ドイツ、さらに戦後のアメリカと、人生をともにしてきたこの道具にもお別れしようというとき」

ヨーヨーダイン社の取締役リストラにあって焼身自殺しようとする場面ですが、この部分を読むだけで当時のアメリカ人であれば、「この人はアメリカ兵としてドイツと戦った歴戦の勇士なのに、復員後は職を失うような目に合わされている」とイメージさせられることになります。
ジッポー第二次大戦中にアメリカ軍へ大量納入されたことにより、今日の知名度を獲得しました。従軍経験のあるアメリカ人にとってジッポー=兵役時代の思い出となるわけです。
また、ノルマンディはフランス北部にあり、ドーバー海峡を挟んだイギリスの対岸地帯ですが、ここは「史上最大の作戦」とも呼ばれる、第二次大戦における対ドイツ反攻作戦の舞台となった超有名戦地です。この一大反攻作戦を支え切れなくなったナチスドイツはずるずると後退し、ドイツ・フランス国境のアルデンヌにおいて一発逆転の反撃作戦を展開しますが(日本でも映画「バルジ大作戦」や「バンド・オブ・ブラザース」などで有名ですね)、当初は目覚しい成功を納めて連合国軍の心胆を寒からしめましたが、燃料不足・戦力不足などが原因で結局作戦は失敗に終わり、あとは降伏へと一直線に転がり落ちます。
ちなみに軍オタの間では常識のテクニカルタームですが、「生け垣」は恐らく原文ではフランス語のボカージュ(Bocage)となっているはずです。これはノルマンディ地方における典型的農家に存在する防風用生け垣のことで、ノルマンディー上陸作戦に伴う一連のキャンペーンにおいて連合国と枢軸国の歩兵たちは、まるで市街戦のごとく、このしっかりした生け垣を身を隠すために利用して血みどろの接近戦・肉弾戦が繰り広げられました。

P169L16「そんなに長いあいだ郵送が手間取っていたものかねえ?」

1904年に投函された郵便物が60年後に届いたという話で、主人公はこれをまたも郵便制度にまつわる陰謀と絡めて考えているようです。しかし日本人には信じられないことですが、アメリカの郵便制度においては郵便物の遅配どころか紛失も日常茶飯事です。そのためアメリカの受験生は書類を決して普通郵便では送りません。必ず配達証明などで送ります。というより、郵便物が紛失もせずに確実に届くのは世界中でも日本ぐらいでしょう。それも最近では怪しくなってきていますが…

P172L7「アラメダ郡拝死教」

カリフォルニア州の郡ですが、前述のサクラメント同様、大陸横断鉄道の起点として有名です。
またアラメダ海軍基地は、太平洋戦争における最初の対日反攻作戦とも言える東京爆撃作戦(ドゥーリットル作戦)において、陸上爆撃機を無理やり積んだ空母機動部隊が出撃した港としても知られており、アメリカ人の誇りでした。
それ以外に、ケネディ大統領暗殺を調査したウォーレン委員会のアール・ウォーレンがかつて検事を務め、辣腕を振るっていた地としても知られています。

P212L5「「ウィンスロップ・トレメイン」と意気さかんに企業家が答えた」

若者や女性向けにナチ親衛隊の制服を売ろうとする男の名前ですが、シンデレラ物語において、シンデレラをいじめる継母とその娘たちの名もトレメインです。アメリカではしばしば映画や小説などにおいて、エキセントリックな人物の名として使用されます。

P222L12「『ダイオクリーシャン・ブロップ博士の奇妙なイタリア人遍歴物語』」

解注にもあるようにダイオクリーシャンとは、ローマ皇帝ディオクレティアヌスを指しますが、清教徒革命において共和主義者として活躍したジョン・ミルトンの名がこの直後に登場することを考えると、本作においてはキリスト教迫害云々よりも、名目上共和制を維持していたローマ帝国を、実質的にも専制君主制にしてしまった実績の方が重要なように思えます。
ディオクレティアヌスはその居城を度々キリスト教徒に放火されたことでも知られています。ヒトラーが戦前に独裁権を確立した際にも、共産党員による国会放火を口実にしたことが有名ですから、この二つのイメージを意図的に重ね合わせる目的があってディオクレティアヌスを登場させたのかも知れません。

P228L5「ナパ・ヴァレー産のマスカテル・ワインを飲んだ」

アメリカ産ワインの代名詞とも言えるナパ・ヴァレーワインですが、戦前までは、フランス産ワインのただのパチもの・パクリ・粗悪代替品に過ぎませんでした。それを大きく変えたのが第二次世界大戦です。これによりフランスはナチスドイツに征服されてしまい、更にその後の戦火によりワイン畑やワイナリー自体も大打撃を受け、フランス産の「本物」のワイン供給が数年にわたり激減してしまいます。この危機に乗じてアメリカ産ワインは今日の確固たる地位を獲得しました。
ナパ・バレーと言う地名はインディアンの言葉に由来しますので、アメリカ人読者であれば、ネイティヴから奪い取った土地でヨーロッパ産高級品に取って代わる物を生産するという皮肉に微笑する所があるかも知れません。

P243L15「1923年にドレスデンで開かれた競売会のカタログで消音器つき郵便喇叭を見たという王立郵趣協会にいる友人のおぼろげな記憶だとか」

ドレスデンは現在のドイツの都市ですが、60年代当時はまだ東ドイツ領だったので、西側の人間が自由に入れるような場所ではありませんから、主人公は情報の信憑性について確認のしようがありません。しかもドレスデンは、第二次大戦中に連合国により行われた悪名高い大規模戦略爆撃により丸焼けになっており、ますます証拠探しが難しいのは勿論のこと、連合国民にとっては非常にバツの悪い思いをさせられる地名でもあります。さらに1923年というのは、第一次大戦の敗戦に伴う賠償金をドイツが滞納したことを口実に、フランスとベルギーがドイツのルール工業地帯を占領してしまった年でもあります。後世においてこの事件は、ナチスドイツを台頭させる原因になった愚行の一つとして評価されています。この占領は、有名なドイツのハイパーインフレーションの引き金にもなりました。

P259L5「美しいモザンビークの三角切手が何枚か出まして」

ジンギス・コーエンが競売会場にやってきた際の言い訳のセリフですが、この時期モザンビークはポルトガルの植民地支配を脱するための独立戦争(64〜)のまっただ中にありました。モザンビーク解放戦線はソ連からの援助を受けており、米ソ代理戦争の最前線となっていました。解放戦線指導者のエドゥアルド・モンドラーネがアメリカ留学経験があることや当時のアメリカでのベトナム反戦運動の盛り上がりに関連して、解放戦線のために多くの義援金が募られたり、義勇兵が参戦したりしています。
モンドラーネが留学していたオハイオ州のオベリン大学は、設立当時から女性や黒人さえも差別せず入学させていたというアメリカでは極めて珍しい大学で、当時の公民権運動の盛り上がりによってただでさえ注目を受けていた大学です。また本作に関係しそうな人物に限ると、電話機の発明者としてはグラハム・ベルが有名ですが、彼より特許申請が数時間遅れたばかりにこの世紀の大発明を逃してしまったイライシャ・グレイや、俳優のオーソン・ウェルズもこの大学の出身です。

P259L12「「あなた、ズボンの前があいてます」とエディパはささやいた」

ジンギス・コーエンが社会の窓を盛大に開けっ放しでいたことは、前

nakamiyatakashinakamiyatakashi 2012/02/27 20:47 文字数制限に引っかかって最後切れているので続き。

ジンギス・コーエンが社会の窓を盛大に開けっ放しでいたことは、前述のように主人公は彼との初対面の際から気付いていましたが、これまではスルーしてきたくせに、結末間際の今になってようやくそのことを指摘します。しかも、この直後にコーエンが差し出した腕を無視しているようにも取れます。



という訳で、ようやく結末を迎えました。60年代に生きたアメリカ人読者が持っていたであろう常識や教養についてのネタ明かしだけにとどめ、小説のポストモダン的解釈などについてはあえて最小限度しか解説しませんでしたが、読書会の際に読んでみてよくわからなかった方も、これを参考にもう一度チャレンジしてもらえれば幸いです。

倭猿研究家倭猿研究家 2012/05/13 03:02 見えない敵と戦うのをいい加減止めたら倭猿さんたまには外に出ましょうよ。まあ中宮センセイは在日認定で勝利するんだろうけど。

2011-04-19 ショーペンハウエル「知性について 他二篇」(岩波文庫)

[]ショーペンハウエル「知性について 他二篇」(岩波文庫21:32


評価A

 この書は学生の頃から何度も読み返して来ましたが、そのたびに新たな気づきを与えてくれる素晴らしい古典だと思います。
 特に今回アウトプット勉強会を機に読み返してみると、近年のインターネットの普及した社会にも様々な有益な示唆を与える部分が含まれることに驚きを感じました。
 で、まず訂正ですが、当日「「セーラー服と機関銃」は角川作品だけど赤川次郎の作ではなかったと思う」と発言しましたが、れっきとした赤川作品でした。申し訳ございません。

 多くの参加者の方々が指摘なさっていたように、ショーペンハウエルの怒りは相当なものです。当時彼の大学の同僚であったヘーゲルが、彼以上の名声を掻っ攫っていたことがよほど腹に据えかねていたらしく、実名を上げてヘーゲルをこき下ろしていることからもわかるように、この書自体が「知の探求」だけではなく私的な「怒り」をもパワーの源泉としているところは、微笑を誘われざるを得ません。ましてや当時の状況は、かつて読書といえば「古典」を読み自らの「形式(考え方)」を鍛えるのが当たり前だったという風潮が崩壊し、古典の劣化コピーに過ぎない「新刊」が溢れ、その著者や読者がでかい顔をしていることがまかり通るという、現代においては当たり前となっている風景がまだ出始めだったということもあってか、彼のお怒りは本書のあちかこちらに抑えがたく現れています。もし彼が、古典を読むことこそが真の「読書」であるとされていた時代に、そうあと半世紀ほど早く生まれていれば、この本は書かれていなかったかもしれません。
 その上で誤解無いように強調すれば、ショーペンハウエルがこの書を書いた目的は、私的公的なうっぷんを晴らすためではなく、自らを知的に改善するための読書の方法を世間に伝えるためだと思われます。つまり、娯楽小説などのような「楽しみ」のための本を読むことに関しては、おそらく最初から眼中にないのでしょう。彼が哲学書や思想書なども含めて「文学」と呼んでいるため混乱が生じるかもしれませんが、この点は重要だと思われます。

P8「 読書は思索の代用品にすぎない」

と言う部分が、そのあたりの区別をする上での重要なポイントになるのではないでしょうか。
 ですから彼が、例えば

P134「 良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである」

などと言う場合、別に娯楽小説だのエッセイだのまで古典以外は悪書が溢れているから気をつけろ、と言っているわけではなく、「思索をするための読書をしたいなら思想書や文学哲学書などは新刊だと悪書が多いので古典にしなさい」と言っているのだと感じました。
 それを踏まえた上で、ショーペンハウエルは結構、現代の平等主義の価値観からするとかなり辛辣なことを言っています。

P6「ところで読書と学習の二つならば実際だれでも思うままにとりかかれるが、思索となるとそうはいかないのが普通である」

P6「 自ら思索することと読書とでは精神に及ぼす影響において信じがたいほど大きなひらきがある。そのため思索向きの頭脳と読書向きの頭脳との間にある最初からのひらきは、ますます大きくなるばかりである」

 この二点からもわかるように、彼は、すべての人間が同じように「思索」向きの頭脳を持っているとは考えていません。先天的なのか後天的なのかはかわりませんが、明らかに頭脳には「向き」があるとしています。つまり、ここでも実はショーペンハウエルは、この本の対象者を限定しています。よくこの書は「読書のし過ぎは害になる」と単純化されて理解されることが多いですが、実は「思索向きの頭脳の持ち主にとって、いくら良書とはいえ思索もせずに多読するのは害になるし、ましてや最近の新刊は古典に比べて悪書が多いから読むだけ時間の無駄である」とでも言わないと、この書の本質を誤ることになると思います。つまりぶっちゃけ、思索向きでない頭脳の持ち主はそもそも彼の眼中にないんですね。

 さて、以上を踏まえた上で、彼は、思索向きの頭脳の持ち主に対して次のように警告します。

P127「読書は、他人にものを考えてもらうことである」

P7「多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る」

P9「読書はただ自分の思想の湧出がとだえた時にのみ試みるべき」

P12「つまり思想家には多量の知識が材料として必要であり、そのため読書量も多量でなければならない。だがその精神にははなはだ強力で、そのすべてを消化し、同化して自分の思想体系に併合することができる」

P16「もっともすぐれた頭脳の持ち主でも必ずしも常に思索できるとは限らない。したがってそのような人も普通の時間は読書にあてるのが得策である」

 つまり、ショーペンハウエルにとっては、「思索」こそが最優先であって、読書は「思索」のための手段に過ぎないのです。それを忘れて思索することなく本ばかり読む者に対し、彼はさらに強くツッコミを入れます。

P129「絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう」

 偉大な知性というものは大体において同じような結論に達するようで、古今東西の偉人も、これと同じような指摘を行っており、例えば孔子論語の中で、

「子の曰わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし」(為政篇2-15)

などと戒めています。
 さて、こうしたことを踏まえずに、「思索」に向かない頭脳の持ち主たちがこの書を読んで、よく「書を捨てて街へ」だの「読書より経験」だのと言いますが、ショーペンハウエルがその手の戯言を主張しているわけではないことは、

P17「読書と同じように単なる経験もあまり思索の補いにはなりえない。単なる経験と思索の関係は、食べることと消化し同化することの関係に等しい」

との記述からも明らかです。経験も、思索を経ないと何ら血肉にはならないという点においては、読書と何の変わりもありません。ただし彼は、一般に見られる「読書は経験よりも高尚な行為」という思い込みにも以下のように警告を発します。

P16「かりにも読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない」

 読書人や「読書が趣味」と自慢する人間に多く見られる傾向ですが、読書という行為が得てして、現実世界と馴染めない人間の逃避場所に過ぎなくなっているという現実を、ショーペンハウエルは決して肯定はしないでしょう。

 では、思索のための読書をするためには、どのような書を選び読むべきか。ショーペンハウエルは次のように答えます。

P133「 したがって読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である」

 つまり、無駄な本が巷にあふれているからそれらをできるだけ読むな、有益な書だけ読め!と助言します。これは、情報過多のネット社会においてはますます示唆にあふれた助言でしょう。問題は、情報(というと語弊があれば知識、教養)が足りないことではなく、無駄で無価値な情報が溢れすぎてその中に有益な情報が埋もれてしまっていることだと言うわけです。これは、ネットが普及する直前に野口悠紀雄が「超整理法」でも行っていた指摘ですが、現代人はいかに情報を収集するかよりも、いかにして無駄な要らない情報を選別しシャットアウトするか、その能力の方がはるかに重要だと言う点には、大いに共感します。
 で、彼のいう有益な書とはどういうものかというと、「古典」なのだということになります。古典は時代の波に揉まれ、時の試練を生き抜いたからこそ古典なのである、だからこそ有益なのである、というのが彼の主張です。実際、新刊の著者が主張しているようなことのほとんどは、かつて「古典」において偉人たちの誰かが主張したことのあるようなものであるに過ぎない、もっと言えば、新刊は古典のコピーであるならばまだしも、多くの場合ただの劣化コピーに過ぎないから読むに値しない物が多い、とさえ言います。それが以下の部分です。

P30「いったい、学問が常に進歩すると信じたり、新しい書物には古い書物が利用されていると思い込んだりするのは、非常に危険である。なるほど新しい書物は古い書物を利用する。だがその利用が問題である。新刊書の著者は古人をあまりよく理解していないことが多く、しかもそれでいて古人の言葉をそのまま用いずに改悪的改善を企てて、彼自身ではとうてい思いつきそうもない古人の言葉、つまり自分の、生きた具体的知識をもとにして記した古人の明言、卓説をそこなってしまう。だがそれだけではない。古人が発見した最善のもの、すなわち適切きわまりない説目や絶妙な意見も、新しい著者はさらに捨ててまったく省みない始末である」

P31「すなわちこのような新人たちがまじめに問題にするものとしては、彼らにとって価値のある私的自己以外に何もなく、彼らが主張したいのはそれだけなのである。ところが彼らが早急に頭角をあらわすさまは一つのパラドックスのようである。つまり石のように不毛な彼らの頭が、立身の方法としてもっとも容易な否定の道を彼らにすすめる。長い間認められて来た真理が否定される」「したがって学問の歩みはしばしば後退的歩みなのである」

 ここで注意しなければならないことは、ショーペンハウエルが「古典」を賞賛する場合の理由は、「素材」ではなく「形式」を重視するためです。これは言い換えると、「知識」や「情報」より「考え方」を重視するためと言ったところでしょうか。

P35「 そこで、ある本が有名な時には素材のためか、形式のためかをよく区別すべきである。
 まったく普通の凡庸な人々でも、その材料のおかげで、非常に重要な著書を公けにすることができる」

 例えば、「天王星」の「情報」について知りたければ、天文学も科学も発展していなかった時代の古典は新刊にかないません。彼が「新刊より古典を!」と言う場合はまさに、哲学を身につける場合を想定しているのではないでしょうか。哲学とは無論、実存主義がどうだとかポストモダンがどうだとかという「素材(知識)」のことではありません。それは「哲学学」に過ぎません。いかに思いいかに考えいかに行動するか、そういう「形式」こそが「哲学」です。さらに彼は、そうした「素材」に目をくらまされ「形式」をおざなりにする読者や著者を軽蔑します。

P36「けれども一般読者の素材に向ける関心は、形式に向ける関心よりもはるかに強く、彼らの教養の発達がおくれるのも実はそのためである」

P38「形式的能力に欠けている者は、何らかの知識によって会話に価値を与える。だがそうなるとまったく素材にたよることになって、次のようなスペインの諺どおりの状況になる。「愚者も自分の家の中では、他人の家における賢者より物知りなり。」」

 つまり、「物知り」を馬鹿にしているわけですね。まぁ記憶だけならコンピュータだって人間よりはるかに上手にできますし、「物を多く知っているだけのバカ」ってのは特に昨今のネットの普及によって2chをはじめとしてMixiあたりにもかなり湧いておりますし、みなさんもいくらでも実際のサンプルをご覧になったことがあると思います。
 その手の連中を実際に見てきたかのように、ショーペンハウエルはこう書きます。

P19「世間普通の人たちはむずかしい問題の解決にあたって、熱意と性急のあまり権威ある言葉を引用したがる。彼らは自分の理解力や洞察力のかわりに他人のものを動員できる場合には心の底から喜びを感ずる。もちろん動員したくても、もともとそのような力に欠けているのが彼らである彼らの数は無数である。セネカの言葉にあるように「何人も判断するよりはむしろ信ずることを願う」からである。したがって論争にのぞんで彼らが言い合わしたように選び出す武器は権威である」「たまたまこの戦いにまきこまれた者が、根拠や論拠を武器にして自力で対抗しようとしても得策とは言えない。この論証的武器に対抗する彼らはいわば不死身のジークフリートで、思考不能、判断不能の潮にひたった連中だからである」

 多分みなさんの周りにも、この手の殺しても死なないゾンビってのは良く見かけられるでしょう。
 この手の連中はまた、簡単なことをわざわざ横文字なんぞを交えて長々と難しく言い立てるという特徴がありますが、そうしたゾンビショーペンハウエルは以下のようにざっくり切り捨てます。

P63「さらにまた真の思想家はだれでも、思想をできるだけ純粋明瞭に、確実簡潔に表現しようとつとめている。したがって単純さは常に真理の特徴であるばかりか、天才の特徴でもあった」

P69「 たしかにできるだけ偉大な精神の持ち主のように思索すべきではあるが、言葉となれば、他のだれもが使うものを使用すべきである」「大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。しかし彼らのやり方は逆である。すなわち彼らは俗悪な概念を高尚な語で包もうとする」

P74「少量の思想を伝達するために多量の言葉を使用するのは、一般に、凡庸の印と見て間違いない。これに対して、頭脳の卓抜さを示す印は、多量の思想を少量の言葉に収めることである」

 以上、物書きを生業とする僕にとっても耳に痛い言葉ばかりではありますが、読み手も書きても、読書や著作の目的を名誉欲だの金銭欲だのではなく、知性の改善に置く者にとっては常に忘れてはならぬ警句にあふれた書であると感じました。

こんなすばらしい本がランチ一食分で買える日本という国の幸せ

2011-02-18 イタロ・カルヴィーノ「見えない都市」(河出文庫)

[][][] 21:46

評価B

読書会ごとに必ず長文の感想投稿を宣言しておりながら、「見えない都市」の回から1ヶ月以上と、大変投稿が遅れて申し訳ありませんでした。

Cチームに参加させていただきました中宮です。
ファシリの日向夏さんをはじめ、もしさん、toshi5_5さん、理夢さん、machu.さん、ミチヒロさん、皆様お疲れさまでした。
というのは、私自身過去の月曜会、アウトプット勉強会の課題本の中でダントツに疲れた本であったからなのですが……。それだけパワーを使っただけの価値はある本ではあったのですけど。
この作品は、いい意味でも悪い意味でも、典型的ないわゆる「ポストモダン小説」だと感じました。その時点で、読むと疲れるというのも当然ではあるのでしょうが、ポストモダン小説家に分類されることが多いポール・オースターですが、その訳者である柴田元幸氏お勧めというのも、納得出来るものでした。
また、フビライマルコ・ポーロが出てくるということから、この小説を「歴史小説」だと間違った思い込みで読んでしまう読者が大半であるという点も、おそらく、読者を疲労させる原因の一つだと思います。そこが、前回の月曜会課題本であったリョサ「楽園への道」がゴーギャンとフローラという、歴史上の実在の人物を登場させた「歴史小説」(あくまでフィクションの小説であって、ノンフィクションの伝記ではない点には注意が必要です)であった点と異なる所でしょう。読み始めればすぐに分かることですが、P25「 高原の地平線に摩天楼の尖塔やレーダー用のアンテナが姿をのぞかせ」などの現代技術が描写されている点からしても、少なくとも、彼らが生きた数百年前の13世紀のお話ではないことがわかります。つまりこれはむしろ、ファンタジーとかSFと考えて読んだ方が理解しやすいでしょう。実際カルヴィーノSF作家でもありますし。最初からそれが分かっていれば疲労度も少ないのでしょうが…。
また、題名からして「都市論」の物語として読んでしまう読者も多いと思いますし、それを踏まえて「出て来る都市のうちどれが好きだったか」「どの都市からどういう教訓が得られたか」という、個別の都市それぞれに注目した読み方をなさる方が多数だったのではないかと思います。無論そういう読み方をしてもいいのでしょうけど、恐らくそれはそれで、なかなか著者の真意や意図を読み取ることができず疲労させられ当惑させられることにもなると思います。
さて、この疲れる「ポストモダン小説」ですが、ポストモダンの特徴である、「価値相対主義」(私は私、あなたはあなた。どっちも正しいしどちらが間違いとも言えない)、軽薄さ・不真面目さ・軽さが徹頭徹尾一貫して流れている点が、疲労の最たる原因だと思います。夏目漱石だのそういう典型的な従来型の小説は乱暴に言えば、物語に意味があって意図があって著者の言いたいことがあり、それを直接的に「書くこと」で表現する、という形になりますが、ポストモダン小説としての本書は、それを嫌います。軽薄であり、意味に価値を認めず、無意味とさえ思える表現や技法を駆使し、「書くこと」よりもむしろ「書かれていないこと」を重視します。ですから恐らく皆さんやってしまったことだろうと思いますが、一度この小説を読んで書いてあることや意味がぜんぜんわからず、もう一度、もっと「読んで、書いてあることを」読み取ろう・理解しようとすると、ハマってしまいます。著者の罠にハマってしまいます。いくら「読んで」も、恐らく新たに得られる知見はごく僅かです。むしろ、「書いていないこと」について思いを巡らすことこそ、本書を理解する上での重要な態度なのではないかと思いました。
実はそういうことは、カルヴィーノ自身も本書の中でなんども示唆しています。例えば、P108の

「 マルコ・ポーロはとある橋の姿を、その石の一つ一つに至るまで、描写している。
「だが、その橋を支えている石はどれか?」とフビライ汗がたずねる。
「橋は、あれこれの石一つによって支えられているのではございません」と、マルコは答えて言う。「その石の形づくるアーチによって支えられているのでございます。」
 フビライ汗は口を閉ざして、考えにふけっている。やがて、言葉をついで言う。「なぜお前は石について語るのか?朕にとって重要なものは、ただアーチだけである。」
 ポーロは答えて言う。「石なくして、アーチはございませぬ。」」

という部分です。
「書いていないこと」が存在する理由は、わざと書かないのか、それとも元々書こうにも書けない・書く方法がない、のいずれなのかはケースバイケースでしょうが、この引用部分においても、カルヴィーノは、マルコがアーチについて言えるけどわざと言わないのか、それともそもそもマルコはアーチについて言える能力や術がないのか、どちらであるのかは明記していません。しかしそれはともかくとして、「全体の構造」であるところのアーチのほうが、構造を支える一要素に過ぎない個々の石についてより重要で本質的である点は疑いようはありません。しかしマルコはアーチについては説明しない、石についてしか説明しない、というふうになっています。これではフビライがイラつくのも無理はありません。例えば、英語を学びたい学生にとって、アルファベットの書き方しか教えてくれない教師はほとんど役に立ちません。学生が知りたいのはあくまでも、アルファベットを組み立てて作られた単語が、どういう文法や法則によって組み合わされ意思疎通に用いることができるのかという「全体の構造」であって、アルファベットだけをいくら覚えても意味はないからです。同じようなことは、身の回りにもいくらでもあるでしょう。例えば、日本の経済の仕組みや構造を知りたい経済学者にとって、「日本では貨幣の種類の一つに1万円札というのがあってこれはこういうデザインで大きさはこうで…」などと、貨幣のことについてしか説明してくれない報告者はなんの役にも立たないでしょう。だからといて、貨幣のことやアルファベットのことしか言わない人間に対して、「そんな個々別々の話ではなく、全体的な英語や経済の構造の話をしてくれ」と怒っても、無駄なことでしょう。同じことがこの小説そのものについても恐らく言えて、この小説に書かれていない重要な・本質的なことを、書かれていることから「書かれていないこと」を類推し考えなければならない、それこそが、この小説を読む時に疲労させられる要因の一つなのだと思います。つまり本質的にこの本は、はやりの「速読」には向きません。書いていることだけを記憶しても、ほとんど意味がありません。
では、この小説に書かれていないこととはなんでしょうか。これには読者によっていろいろ答えがあるでしょうし、恐らくこれだ!という答え自体を著者自身が想定していないのでしょうが、私は「人」こそが、ここに書かれていない重要なものだと感じました。
例えば、それぞれの都市の中に登場する住民は、どれも顔を持たない「その他大勢」の、取替の効く「記号」に過ぎません。そこでの主役はあくまでも「都市」です。住民はただの記号であり、都市を説明する上での付属物でしかありません。しかし、本来都市とは、人が主役であるはずです。人が住むために作られたものが都市である以上、それが当然です。しかし、いわゆる「都市論」は、建物の姿形や機能、建物の並べ方などに注目し説明するばかりで、そこに住まうはずの住民の顔が見えてこないという側面が多くありました(20世紀後半当たりからはすこしずつ変わってきて、「人間」の顔が見えるようにという努力が見られる「都市論」も出てきているようですが)。都市論に限らず、文明論や国家論なども同様です。そこでは「人間」は脇役でしかありません。
そればかりか、フビライやマルコという語り手自体でさえ、実は取替の効く記号に過ぎません。彼らが全くフィクションの実在しない「王様」と「旅行者・報告者」であっても、この小説は一向に不都合が生じないはずです(正確に言うと後で書くように、少々不都合が生じる)。実際、普通の小説であればフビライとマルコについて、もっと彼らの人物についての描写が色々あってしかるべきです(これは次回4月の「ポストモダン小説家ポール・オースターの小説にもある程度言えることです)。例えば前回の「楽園への道」においては、主人公のゴーギャンは、後世においては偉人として評価される、当時の家族や隣人にとってはろくでなしで怠け者のたかり屋で、妻や子供にろくに生活費も渡さず勝手にタヒチにひとりだけ移り住むは、金がないのに食い物をツケで売ってくれた店主を「俺様の芸術作品を理解出来ない馬鹿者め!」とか恩知らずに罵るは…と言ったような、主人公の人物やその生き方についての説明や描写が物語のメインを占めるわけです。ところが「見えない都市」では、フビライやマルコが一体どういう人物であるのか、ほとんど説明されません。それは恐らく、著者のカルヴィーノ自身が、二人を記号化するために、わざと書かなかったのだと思います。では、カルヴィーノはなぜ、フビライとマルコ、そして都市の住民たる「人間」たちをここまで記号化して、彼らの人物や生き様について徹底的なまでに書かなかったのか。それは、月曜会特別企画で取り上げられた、椹木野衣「反アート入門」の中に、類似のお話がありますので、引用してみます。

P260「 こうして水墨画の世界はこの時点で、20世紀の実験音楽の世界でのジョン・ケージ作曲「4分33秒」のような領域に達してしまったのです。ケージのこの曲は、ストップウォッチで計られる4分33秒のあいだ、ピアニストがピアノの蓋を閉め、なにも弾かずにじっと沈黙を守ったことで知られた曲です。初演の際、観客はなにも弾かれないこのピアノ曲にいらだち、ザワザワと物音を立て始めたといいます。けれどもケージにしてみれば、音楽の「蓋を閉じる」ことで、逆に周囲の物音へと「耳が開かれる」のであり、この曲を通じて、まさしくそうした新しい音(「音楽ではもはやなく」への姿勢を提示したのです)

「4分33秒」という「曲」は、「演奏しない」ことにより、人々の「耳が開かれ」ました。同じことは、「見えない都市」についても言えて、都市についてばかり描きそこに住む人どころかフビライやマルコについてさえ書かないことにより、従来の(特にカルヴィーノがこれを書いた時代である70年代における)都市論や文明論において人間の顔が見えないその歪さ、グロテスクさを表現したのではないでしょうか。
また、P74の以下の部分も、同じように「書かないこと」の意味が読み取れる部分です。

「「そちの申す都など存在はせぬ。恐らくはただの一度も存在したことなどはなかったのだ。もちろん、もはや存在することもない。なぜそのような気慰めの作り話を面白がっておるのだ?わしにはよくわかっておる、わが帝国は沼のなかの骸のように腐りはてている」」「「なぜこうしたことを語って聞かせぬ?なぜ韃靼人の皇帝をそちは欺くのか、異人よ?」

マルコは、曲がりなりにも「今生きている都市」「未来のある都市」ばかりをフビライに報告しました。それは「嘘」ではないかも知れませんが、一面の事実に過ぎません。無論それ以外にもう一面の事実として、滅びに瀕している都市やすでに滅びてしまった廃墟の都市などもあるはずなのです。しかしマルコはそれを報告しません。それにより、フビライは逆に、「わが帝国は沼のなかの骸のように腐りはてている」という、マルコが報告しない(もう一面の)事実について気付かされました。これも「書かないこと」「言わないこと」による新たな知見が得られる一つの例だと思います。そうした点についてはフビライ自身が認識しているらしく、マルコを重用する理由について、こう説明されています。

P51「 しかしこの不明瞭な報告者のもたらす事実、あるいはニュースの一つ一つをフビライにとって貴重なものにしていたのは、その周囲に残された空間、言葉によって満たされていない空虚なのだった。マルコ・ポーロが訪れたその都城の描写にはいずれもこうした長所があった」

実はこうした「書かないこと」によって何かを表現するというポストモダン小説は日本にもかつてブームになったことがあって、例えばバブルの80年代初頭に話題となった、田中康夫の「なんとなくクリスタル」もその一つです。この中で田中は、バブルに狂った主人公の姿を、その人物や人柄については極力書かず、所持品であるブランド品や、行きつけのおしゃれなバーなどについてのみ異常というよりも病的なぐらいに詳述し、そればかりか、本文だけではそうしたことを書ききれずに、欄外に本文の分量顔負けの脚注を山のように追記するという手法で、人間性というものを軽視しブランド品やおしゃれな飲み食いなどの消費文化ばかりが肥大化したバブル時代をグロテスクに表現してみせました。なんとなくクリスタルが見えない都市と肩を並べる名作だとは言いませんが、小説の構造としては非常に似たものがあるように思います。
さて、「なんとなくクリスタル」が、日本文化や「バブル」の時代を知らないイタリア人や外国人にとって読み辛いのと同様、この「見えない都市」も、イタリア人の常識を持ち合わせていない我々日本人にとっては、若干読み辛い点があるように思えます。例えば、先程私は、フビライやマルコは交換の効く記号だと書きましたが、これはあくまでもイタリア人読者を前提にした場合の話です。どういう事かといいますと、イタリア人にとっての「フビライ」「マルコ」と日本人にとっての「フビライ」「マルコ」のイメージは全く異なるからです。
我々日本人にとってフビライはせいぜい、元の指導者であり日本に元寇という侵略戦争を仕掛けてきたが神風が吹いて撃退された、という程度のイメージしか無いでしょう。しかし、イタリア人を始めとする東及び南ヨーロッパ人にとっては、フビライによってイメージされるモンゴル帝国とは、ロシアを占領しポーランドにまで攻めこみ、そのうち現ドイツやイタリアなどのヨーロッパの中心部までことごとく征服されてしまうのではないかという恐怖の対象でありましたし、その過去の記憶は非常に強烈で、現在でも子供に「悪いことをするとモンゴル人が来るよ!」と脅してしつけをすることもあるほどです。そしてマルコ・ポーロについては、イタリア人にとっては一種の国家的英雄というイメージがあります。その故郷の英雄マルコが、「あの恐ろしい侵略者で征服者であるモンゴル人の皇帝と、対等に友達のごとく付き合っていた」、イタリア人にとってこの小説は、そういう感覚で読まれるはずです。イタリア人ならざる我々は、この点を踏まえて読まないと、この小説がイタリア人に与える痛快さやユーモアがよく理解出来ないように思えます。そして恐らく、実在の「フビライ」や「マルコ・ポーロ」という記号を、単純に架空の「偉大な征服者」と「冒険者・報告者」とだけ置き換えてしまうと、そうした自明なイメージが失われるため、その失われる点を本作に更に書き加える必要があります。当然描写は冗長的になりますし、分量も増えることでしょう。それが恐らく、カルヴィーノが単に「偉大な征服者」と「冒険者・報告者」という記号ではなく、「フビライ」や「マルコ・ポーロ」という実名の記号を(主にイタリア人向けに)使用した理由の一つであるように思われます。
ポストモダン小説特有の軽薄さについて言いますと、一般的にポストモダンの信奉者というのは悪く言うと軽薄でいい加減なやつ、よく言うと遊び心とユーモアに溢れるいたずらっこが多いですので、そうした傾向がこの小説にも見られます。例えば、訳者なども触れている、この小説のてんでバラバラにさえ見る章分けです。なんだか数列がどうのとかいう解説がなされていますが、恐らくそこにはなんの意味もありません。単なる著者の遊び心のようなものに過ぎないと思います。そこで「作者の意図」や「意味」を読み取ろうとすることこそ、カルヴィーノの罠にはまったことになるのではないでしょうか。そもそもポストモダンという概念自体が「意味」を軽視する傾向のある考え方なのですし。実際カルヴィーノも、ファシリの日向夏さんが紹介してくださった他の著書などを見てもわかるように、かなり冗談好きで、「軽さ」を重視する人物だったようです。
次に、この小説においては哲学などにおいてもよく議論となる「認識論」が主要なテーマの一つになっているように思います。例えば、そもそも「対話」とか「会話」「コミュニケーション」というものは成り立つのか、といったようなものです。最近では「涼宮ハルヒの憂鬱」等のラノベベストセラーになったことにより、こうした小難しい哲学的認識論の存在が一般にもかなり知られるようになってきたようですが、例えば

P52「 時がたつにつれて、マルコの物語のなかでだんだんと言葉が物や身ぶりに替るようになっていった」「 しかし、もしかしたら彼らのあいだの伝達は以前ほどうまくはいっていないとも言えそうだった」

などもそうです。たしかに二人は身振り手振りで意思疎通をしようとしています。でも、本当にお互いに意思疎通が出来ているのでしょうか。少なくとも、我々でさえ日常的に、言葉や文字によるコミュニケーションにおいて「誤解」や「間違い」は頻繁に起きています。そしてこの引用部分では、マルコが言葉をうまく使いこなせるようになってきたことで逆に、身振り手振りだけの頃より意思疎通が難しくなってきたとさえ言っています。以下の部分も同じことが言えます。

P37「 フビライ汗がからんで来るときは、何やら自分の思考の糸をうまくたぐってゆこうとするときなのだと、ヴェネツィア人の青年は心得ていた。そして彼の返答や反論は、皇帝の脳裡でかってに展開されている議論のなかにはやくもそれぞれの場所を見出しているのだということも。つまり彼らのあいだでは問や答が声高に表明されようと、あるいは二人ながら黙ったままそれぞれの問と答を反駁し続けようと、変りなかったのである」

彼ら二人にとっては、言葉によって伝えられる意味そのものはそれほど重要ではありません。それよりも、伝えようとする行為や意志自体のほうが重要なのです。何しろ、マルコの報告自体が実は事実ではなく架空の、大嘘の報告かも知れませんし、例え事実であったとして、言葉でマルコの意図することがフビライに正確に誤解なく伝わるとは限らないからです。前述のアーチと石の話などはそもそも、マルコは正確不正確以前に、アーチを言葉でフビライに説明すること自体ができません。
認識論は、言語についてだけの問題ではありません。この世界そのものでさえ、人間は「正しく認識」することなど可能なのでしょうか。例えば映画「マトリックス」が有名ですが、SFにはよく、実は人間は(あるいは人間の脳だけが)カプセルか何かに入れられていて、「世界」はコンピュータが脳に電気信号を与えることによって見せているフィクションに過ぎないのだ、という物語はいっぱいあります。果たして我々は、この説を論破できるでしょうか。この世界はコンピュータの幻想なんかではないし自分はカプセルに寝ているだけではない、実際に世界は存在するし私は今パソコンに向かっているのだ、と言い切れるでしょうか。そうした極端な話にしなくても、フビライは常に認識論の問題に悩まされています。フビライは、自身のモンゴル帝国が広大な領域を支配したという情報は持っています。しかし、その情報が正しいなどと、誰が言い切れるでしょうか。フビライは単に、部下や伝令からそういう嘘の情報を伝えられて大帝国を支配していると信じさせられているだけかも知れません。少なくとも彼自身は、実際に自分が支配しているとされている領土の隅々都市の全てを実際に訪れて見ているわけではありません。支配領域を描いたとされる地図を眺めたり、マルコの報告を聞いたり、官僚や地方総督などからの報告を見聞きするだけです。そうした認識論に悩むフビライの姿の部分を引用してみます。

P33「もしやこの帝国は――と、フビライ汗は思った――精神の黄道に宿る幻の星座にほかならぬのではないのか。
「いつの日かこの表象をことごとく知るときには」と、フビライ汗はマルコに問うた、「朕はわが帝国をついに所有し得ることになるのだろうか?」
 すると、若者の答えて言うに、「陛下、そのように信じ給うてはなりませぬ。そのときには陛下御自身が表象中の表象とならせ給う日でございます。」」

個々の都市の全てを訪れたり知ったりすることは無理かもしれないが、全ての都市に共通する理論を見つけ出し理解できるのなら、自分は本当に帝国を支配していると言えるのだろうか?フビライはそう問いかけます。しかし、例え本当にそんな理論が存在するとしても、それを発見し理解したからと言って、帝国を支配していると言えるようになるかどうかは分からない、いくら考えても少なくとも今の我々には答えはわからないのです。
また、フビライは、世界を征服したり大帝国を築いたりする「意味」についても悩みます。これもポストモダニズムの特徴で、人生の「意味」、言葉の「意味」、文明の「意味」と言った物を疑う、酷いものになると意味など無いと言い切ります。例えば以下の部分です。

P156「彼は思った。「もし都市の一つ一つが将棋の手合いのようであるのなら、その規則を完全に知りつくすことができた日こそ、ついにわが帝国をわが手にすることとなるのだ。たとえその都市を残らず知るに至ることがついになくとも。」」

P170「 ……偉大なる汗は勝負に没頭しようと努力していた。しかし今ではその勝負の理由が彼の思念を逃れてゆくのだった。ゲームの終りはつねに勝利か敗北なのだ。だが何の?」

広大な領土を征服した。皇帝にもなった。それは「偉大」なことかもしれない。でも、だからなんなのか?それに「意味」はあるのか?これは大きくは、我々の人生、ある日生まれてそしていつか死ぬ、その間に努力や失敗を繰り返し出世や成功、没落や失敗を繰り返す、そうした人生そのものの「意味」、人生に「意味」はあるのか、そういうところまで話を拡張できる問だと思われます。では、もし人生に意味はないとして、それなら我々はどう生きたらいいのか。意味が無いからと諦めて、自堕落に何も成さずに死を待つのか。そもそも人生に限らず、すべての物に「意味」が必要なのか。それに対するカルヴィーノなりの答えが書かれているのが、この小説の最後である以下の部分でしょう。

P214「 彼が言う――「ともかく無駄なことよな、最終の到達点が地獄の都市以外にあり得ぬとするならばな、そしてそのどん底にむかって、ますます環をせばめてゆく渦巻のなかに、流れはわれわれを吸いこんでゆくのだ。」
 それに答えてポーロ――「生ある者の地獄とは未来における何ごとかではございません。もしも地獄が一つでも存在するものでございますなら、それはすでに今ここに存在しているもの、われわれが毎日そこに住んでおり、またわれわれがともにいることによって形づくっているこの地獄でございます。これに苦しまずにいる方法は二つございます。第一のものは多くの人々には容易いものでございます。すなわち地獄を受け容れその一部となってそれが目に入らなくなるようになることでございます。第二は危険なものであり不断の注意と明敏さを要求いたします。すなわち地獄のただ中にあってなおだれが、また何が地獄でないか努めて見分けられるようになり、それを永続させ、それに拡がりを与えることができるようになることができるようになることでございます。」」

人は本能的に「意味」を必要とする因果な生き物かもしれません。「人生に意味など無い」と言われそれでもなお今と同じように生きられるほど、おそらく多くの人間はそこまで強くはないと思います。つまり多くの人間は、現実からある程度目をそらす「第一のもの」の生き方をしているはずです。しかしカルヴィーノは、そうではない「第二」の生き方を恐らく勧めたいのでしょう。それは非常に辛く面倒な生き方です。
そういう点からこの作品に出てくる都市を見返してみますと、非常に重要な都市が二つあります。
一つ目は、オッタヴィアです。

P96「 奈落の底の上に宙吊りになっているとは申しながら、オッタヴィアの住民の生活は、他の都市に較べてさほど不安なものでもございません。彼らは、時が来ればこの網も保たないことを承知しているのでございます」

宙吊りの都市であるオッタヴィアは、いつか綱が切れて落ちてなくなります。住民もそのことは知っています。しかし、だからといって住民は将来を悲観もしていませんし、落ちないような、あるいは落ちても大丈夫なような対策もしようとしていません。これは、地獄を見ないことにする「第一のもの」の生き方です。そして我々多くの人類の生き方でもあります(温暖化などの環境問題ですといろいろ賛否があるので例としては不適切でしょうが、例えば太陽は50億年もすればなくなり、地球も消滅することはみんな知っています。でもだからといって悲観もしないし対策もとりません。後世の人々が何とかしてくれるだろうぐらいにしか考えていませんし、そもそもそんなことさえ考えたことがない人が大多数でしょう)。
もう一つ重要なのは、ペリンツイアの都市です。この作品に出てくる多くの都市が「都市がどういうふうに創られたか」についてなんの説明もありません。それは恐らく、都市という物はそもそも自然発生的に、その時々の必要に迫られ作られ、発展してきたからです。ところが、このペリンツイアだけは違います。

P185「 ペリンツィア建設のための基準を口授すべく呼び出されました占星術師たちが、星々の位置にしたがってその場所と日を定め」

創られた「理由」は定かではありませんが、少なくとも、どうやって作られたかはここではっきりしています。ところがその後、ペリンツイアは困ったことになります。

P186「 ペリンツィアの占星術師たちは今や困難な岐路に立たされておるのでございます。すなわち彼らの計算がすべて間違っており、彼らの数字は天空の動きを語るには何の役にも立たないことを認めるべきか、あるいは神々の秩序とはまさにこの怪物の都市に映しだされているものに他ならぬことを打ち明けるべきかと」

正確に理論に基づいて作った都市なのに、その都市を様々な災厄が襲います。なぜなのか?と住民たちは悩みます。説明の方法は二つあるわけです。理論自体が間違いであったか、あるいは、そういう災厄自体が実は理論が予想していたものであり、当然起こるべきものだったのだ、そのいずれかなわけです。これは我々の科学や宗教、思想などの発展史においても、常に直面してきた問題です。そうした葛藤を乗り越え、例えばニュートン力学は相対性理論に発展しました。そして同様の葛藤は、現在も我々人類があらゆる場面において直面しています。いずれ「完璧な理論」や「完璧な真実」を我々人類は発見し、その手の葛藤から脱却することができるようになるのか、その発見した「完璧な理論」があればペリンツィアの人々も災厄を避け平安な生活を送れるのか、少なくとも今の我々に答えが出せる問題ではないのでしょう。
最後に蛇足ですが、ポストモダンが大好きな問題として、「オリエンタリズム」という概念があります。私はこの考えがポストモダンとともに大嫌いで胡散臭く感じているのですが、要するに、異文化に対する思い込みのことです。例えば我々が、「おれ、“外資系”に就職したんだ」と友達から聞いたとします。おそらく殆どの皆さんは、日本企業の安月給に我慢出来ない優秀な友人がアメリカかヨーロッパのどこかの大企業に就職したのだと思うことでしょう。ところが、韓国零細企業だって「外資系」なわけです。つまり本当は、日本の企業にさえ相手にされない友人が韓国零細企業に安月給で雇われただけかも知れないのです。このように、実は異文化を表す言葉(「外資」)には、その言葉を作った・使っている文化の人々(日本人)による思い込みが元々含まれている、というのが「オリエンタリズム」の考え方です。この小説に置いてもそうしたオリエンタリズムの見方を取り入れた部分があります。例えば、イレーネの都市についての以下の部分です。

P160「 ここまで話を聞くと、フビライ汗はその内部から見たイレーネの様子をマルコ・ポーロが語るものと待ち受けている。しかしマルコにはそれができないのでございます。高原の人々がイレーネと呼ぶ都市がどのようなものであるのか、マルコはついに知ることができずにおるのでございます。それに、そのことはさまで大事なことでもありません。その中にいて見るときは、それはまた他の都市となることでございましょう。イレーネとは遠くから見る都市の名前でございます。近づけばまた変るのでございます」

マルコは、イレーネについてその周辺の人々が説明することと、イレーネそのものは別だ、「他の都市」でさえあるとまで言っています。そして後書きでも書いているように、このイレーネの都市は、全都市の中で唯一「マルコは」と、他の誰かではなくマルコ・ポーロ自身の報告であることが明記してある特殊な都市でもあります。

P226「 ここで注意を引くのは、マルコ・ポーロの報告であると受け取っていっこうに差し支えないはずの<中身>のテクストのなかでマルコの名前がただ一篇の<報告>(「都市と名前 5」)のなかに現れるだけで、それを除けば、語り手は一貫して「私」と言うばかりだという点である。反対に、<枠>のテクストのなかでは<中身>からの直接の引用はまったく見られない。つまり、ただ一箇所の破綻を除けば、<枠>と<中身>はそれぞれほぼ完全に独立したテクストを構成し、また役割もほぼ完全に分離されているというわけである」

他の文化(この場合は都市)の説明には、どう客観的に説明しようと努力しても、その人の背景となる文化の主観的影響を受けざるを得ないというオリエンタリズムの考え方を表している部分は、他にもあります。

P112「 ポーロは答えて――「どの都市のお話を申し上げるときにも、私は何かしらヴェネツィアのことを申し上げておるのでございます。」
「朕が他の都市について訊ねておるときには、朕が聞きたいのはその都市の話である。」
「他の都市の長所を知るためには、言外には明らかにされぬ最初の都市から出発しなければなりません。私にとっては、それはヴェネツィアでございます。」」

この部分は多くの方は、「他の都市を説明することによってマルコは自身の故郷であるヴェネツィアをも説明しているのだ」と解釈なさるのかも知れません。無論それは間違いではないのですが、むしろ、「他の都市を客観的に説明しようといくら努力しようが、故郷であるヴェネツィアの文化的影響を受けてしまって偏った説明しか出来なくなるのだ」と言ったほうがいいように思えます。つまり人間というものは本質的に「絶対的客観」という姿勢を手に入れることが不可能な生き物なのだ、ということを言いたいのではないかと思うのです。
以上長々と書いてきましたが、ポストモダン小説の中では非常に良質で、人生や人類の諸問題について深く考えさせられる良作だと思いました。
これまでポストモダン小説というだけで偏見があって、あまり手を出さないようにしてきましたが、カルヴィーノについては他の作品もこれから色々手を出してみたくなってきました。

今回読んだのはこちら。安さで選ぶのならこっち。


こちらの「世界全集」版は、解説などの質の高さに定評がある。高いけど。

2011-02-04 椹木野衣「反アート入門」(幻冬舎)

[] 22:27


評価B

当日、タツヤ氏のムチャブリで、参加歴1回だったにもかかわらずいきなりFテーブルのファシリやらされた中宮です^^
同席いただきましたあさぴーさん、カッキーさん、タナさん、maiさん、ゆみてぃさん、ruriさん、りんごさん、ひろしさん、キムさんには、拙い司会進行と何の話にも割って入る強引さで御迷惑おかけいたしました。

ところで最初から唐突ですが、私もフリーライターという職業柄いつも実感していることですし、おそらく本を読んだ時の感動を読書会の場ではうまくアウトプットできずにもどかしい思いをなさっている方々も、あれ?と思ったのがP116のこの部分だと思います。

P116「日頃、アーティストとなにげなく話をしていると、不思議に同じニュアンスの言葉に繰り返しつき当たることがあります。
 それは、こういうタイプの発言です。
 作品作りっていうのは、これだ!というアイデアを思いついた時が最高で、あとは、それを実現するための地獄のような作業が続くだけなんだよね、と。
 こういう話を聞くと、あれっと感じてしまいます。
 彼らは意外と、もの作りが好きじゃないんだな、ということですからね」

これ、非常によくわかりますよね。将来、攻殻機動隊の電脳のようなものが発明されたら、こうした悩みも解消されるのでしょうか。まぁ作品を書いたり作ったり、あるいは考えていることを誰かに喋ったりする「アウトプット」の過程ってのは、思考において非常に重要な役割を果たしているようですので、技術が進んでもそういう過程がなくなることはないのかも知れませんが。

話は前後しますが、今回は「反アート入門」という課題本ながら、私は普段からアートという言葉からは程遠い生活を送っており、美術館に足を運ぶどころか画集は買わない、JPOPさえ殆んど聞かないような体たらくでしたので、若干不安がありましたが、Fテーブルはアートと関わりの深い参加者が半数近くもおられ、非常に勉強になりました。
「反アート」という挑戦的なタイトルから、私には、本書は「既成の芸術・美術の歴史や理論を根本的に論難する内容である」という思い込みがありましたが、実のところ語られるアートの歴史は極めて正統的なものにまとまっていたように思われました。
特に前半のアート通史は、キリスト教に根ざした神を中心とする「美術・芸術」から、P25「近代のアートは「神の死」から始まりました」「だから、近代以前ではアートは存在していなかったと言ってもよいでしょう。それは徹頭徹尾、市民によるものなのです」との記述に見られるような、人権思想や市民社会の確立の歴史とアートが実は、密接な関係にあると言う指摘までの流れは、美術史というものを系統的に学んだことがない素人にとっては新鮮でした。
私のような素人はえてして、アートというものは、なにか先進的・革命的で、資本主義だの人権思想だのといった人類の俗世の価値観やその歴史からポーンとどこか宇宙の彼方に浮かんでいるような地に足が付いていない浮世離れしたもの、と思いがちですが、そうではなく、あたかもマルクス経済の下部構造は、政治や思想などの社会の上部構造を決定すると指摘したように、アートも実はそうした人類の生臭い営みである下部構造からは切っても切り離せないものなのだという本書の指摘は、かなり斬新に聞こえました(芸術・美術史においては当たり前の考え方のようですが)。このあたりは、昨年11月に私がアウトプット勉強会にて参加させていただきました、岡田斗司夫ぼくらの洗脳社会」や今年1月のレイチェル・ボッツマン;ルー・ロジャース「シェア <共有からビジネスを生み出す新戦略>」にも通じる考え方として、非常に興味深かったです。
これに関連して、みなさんからのお話で参考になったのが、アート関係者の方々の、「自分が美術館に行く理由」のおはなしです。特にキムさんやタナさんがこれについて熱く語っておられました、「自分のスイッチを入れてもらうため」というお話は、本書の繰り返す「アートは浮世離れしたものではなく、社会や個々人に密接に関連した実践的なものである」という主張を地で行く姿勢であったと思います。
私のような素人の考えだと、例えば美術館に収蔵されている「作品」というものは、世俗とは何ら関係を持たないところから孤立して独自に発生した思想や価値観を具現化したものであり、それを「見る」という行為は、自分や世俗の社会にはもともと存在しなかった異質の新思想や価値を探しに・取り入れに行くことなのだ、と思ってしまいます。
ところが、そうではなく、すでに個々人や世俗の社会に存在するのだけどそれがなんなのかよく分からない、いや、存在するのかしないのかも分からない、何かモヤモヤとした悩みというか葛藤のようなものを、「作品」という形をもってして「見る」人々や社会に「気付かせてくれる」。「そうか、自分が釈然とせずにいたものに対する答えはここにあったのか!」とか「自分がずっと悩み探し続けていた問に対する答えはここにあったのか!」といったように「発見」させてくれるような一種の触媒的存在なのだというお話には、目からウロコがポロリでした。
作品の鑑賞の仕方としては、ruriさんの、「絵画そのものはもちろんのこと、その額縁にも注目している」というお話も非常に参考にさせていただきました。本書の中でも、P148においてジム・ショウの、「<スリフト・ストア・ペインティング>と呼ばれる連作」のお話が出てきました。これは、「彼の手で描かれているわけではありません」「本人がある観点から集めた絵の総体を指すシリーズなのです」と書かれているように、すでにある作品、誰かが作った作品を、ショウが「コレクション」することによって、その収集と展示の仕方自体が「作品」になっているという特殊なものですが、ある意味ruriさんが額縁に注目するというお話も、これに通じる所があるのではないかと思いました。絵を描いた作者とは全く別の後世の職人あるいはアーティストが、所与の「絵画」を材料として「額縁」という部品を付け加え、「絵画+額縁」という新たな完成された作品を作り出す、という一種の時空を超えた「合作」。発明とか発見、新発想や芸術文化をえてして「100%一個人の頭脳から生み出された物」と考えがちな中で、こうした「過去の歴史や人々の成果の上に今の我々がほんの少し何かを付け加える」ことの偉大さと重要性を再認識させられました。
またこれに関連し、近現代のアートなるものの出自が実は、「神の死」と密接な関係のある市民革命や人権思想に根ざしたものであり、アートに「天才」を求める姿勢の邪道さを繰り返し指摘していた点も、私のようにアートなるものを崇め奉り、天才だけがアートを動かすのだと考えがちな素人には、実に新鮮でした。特に、P213の以下の部分はキムさんが開催時間前から熱く語っておられましたので、特に引用させていただきます。

P213「 美術は、近代的なシステムのもとでは十分に教育が可能なのです。もっと言えば、学校教育が可能となることによって、美術ははじめて近代化されたのです。
 にもかかわらず問題なのは、現実の学校での美術教育がそのようにシステマチックには機能しておらず、むしろ前近代的な無形の才能(天才)の発見というような次元にいまだ、理想を置いているということなのです。
 しかし、現実には天才などは滅多におりません。にもかかわらず、マスプロ化した教育制度の中で、万人が天才であるかのように扱われているとしたら、そちらのほうが大きな問題です。むしろ重要なのは、ある意味、平凡な知識の伝授と技術の習得です。ただし、技術の習得といっても職人的なものではありません。最低限の技芸です」

さて、こうしたある意味「反」などではない正統的なアート史を概観した前半に比べ、後半は西洋アートとそれ以外の(特に日本の)アートとの対比や、それに関する著者の思想が色濃く出ている内容のため、皆さんからも非常に分かりにくいという感想が多数出されました。特に、ハイデッガーを絡めたお話は、ちょっと難解だったと思います。ただ、サルトルのような「天才」や「英雄」に重きをおいた思想家と対比して、ハイデッガーはもっと「普通」とか「ありふれたこと」に重きをおいていたのだと(私なりの非常に雑な区分けですが)解釈してP293とP295の以下の部分を読むと、前述のP213における「天才」の扱いと絡めて、かなり分かりやすくなってくるのではないかと思います。

P293「 興存在の「隠れ・なさ」とは、わかりやすく言えば、ただ単に目の前にものがあるということです。それがペンであるか辞書であるかコンピュータであるかという個別なことに先立って、とにかくそこに「なにかがある」という感覚のことです。ではなぜ、それを「ある」と言うのでは足りず、「隠れ・なさ」と呼ぶのかというと、それは次のようなことです。
「ものがある」というのは、そこに「なにかがある」ことの確認でしかありません。それはそれで疑い難い驚きですが、ここでわたしたちが直面しなければならないのは、「ではなぜ、ものがないのではないのか」という、さらに根源的な驚きのほうなのです。そのためには、「ものがある」だけでは、足りないのです」

P295「 ハイデッガーによる、こうした世界の「隠れ・なさ」への驚きは、わたしたちが「山」のなかで突然、奇岩や奇石に出会った時の原初的な感覚を、とてもよく言い表しています」

まぁ私もまだまだ理解が足りないようですので、もう一度本書を読み返して勉強させていただこうと思っております。


2011-01-28 レイチェル・ボッツマン;ルー・ロジャース「シェア <共有からビジ

レイチェル・ボッツマン;ルー・ロジャース「シェア <共有からビジネスを生み出す新戦略>」(日本放送出版協会

[][][] 22:33


評価B

Dチームに参加させていただいた中宮です。
皆様の多種多様なご意見やアイデアを大変興味深く拝聴させていただきました。
…と言いながら、私の方はかなりズバズバとみなさんのお話を遮って発言したりしましてご不快に感じられた方がおられましたら申し訳ございませんでした。特に、ファシリのほずみさんには色々とご苦労をおかけいたしました。

本の内容自体は、非常にパラダイス的なおはなしが主で、まるで先日初参加させていただき大感動して長文の投稿をコミュにさせていただいたバルガスリョサ「楽園への道」にも通じるような楽園探し的内容でした。それ自体は私も非常に賛同できる未来予想図ですし、速いところそういう未来が到来してくれればいいなとは思います。例えば私は、フリーライター&SEという仕事上家で一人で仕事することが殆んどなため、複数人でオフィスを借りて異業種間コミュニケーションによりアイデアなどのアウトプットを活性化するという「コ・ワーキング」の例なんて非常に興味があります。現在遂行中の自炊プロジェクトが完了して書庫として埋まっている部屋が空いたら、個人的にそのスペースを貸しだしてやってみようかとか考えているほどです。また、洗濯時間を楽しくするコインランドリー「ブレインウォッシュ」も、近所にあれば絶対に行きたいサービスです。特に名古屋は、コメダなどに見られる喫茶店文化が盛んで、朝っぱらから近所のオバチャンたちが喫茶店にモーニング目当てで集まりダベるというのが一般的ですので、このビジネスはかなり有望なのではないかと思いました。
まぁそういう薔薇色な面は、みなさん同様にお感じになられたでしょうし私が言わなくても他の方々が十分指摘してくださるでしょうから、ここでは、本には書かれていない危険性や危惧などについて書かせていただきます。大学・院を経済学部工学部両方出たもので、どうしてもこの本のそういう触れられていない「アラ」が気になって仕方が無いものですから…。

まず、この本は大前提として、現代社会の価値観であるGDPを基準とした成長主義を否定しています。P275で「だがGDPは、たとえそれがポジティヴなものでも、経済価値のない貢献をあっさりと切り捨てる。その代わり、GDPネガティブで有害な生産力を反映する」という指摘自体は、経済学的にも全くそのとおりですし、現代の経済学界においては特にその点を反省し、本でも触れられていたアマルティア・センといったような経済学者を中心にして、GDP基準の成長基準をなんとか転換して行こうという動きがあることも事実です。ブータンなんかでは国民総幸福量(GNH)なんて基準が導入されていますし、センの研究でも、GDPが非常に低い低開発国なのに国民の寿命や幸福度などが高いスリランカの例などが報告されています。
しかし、こうした「GDP」やそれを基準にした「成長」を否定する考え自体は、特に先進国においては戦後一貫して存在し時にはブームとしてもてはやされたものですし、そしてそのたびにブームは潰えて挫折し否定されるという事の繰り返しでした(低開発国でそのようなブームは殆ど見られず成長と発展が声高に叫ばれているのは、先進国の人間としては忘れてはいけない事実でしょう)。例えば70年代から80年代にかけて「成長の限界」をキーワードにもてはやされたローマクラブなどは、現代の環境保護運動ロハス運動などの先駆けですし、もっと言えば現代の様々な運動の殆んどは、過去に否定され消えて行ったそうした動きの焼き直しに過ぎません。今日における新しい動きと言えば、「ヴァーチャルウォーター」や「フードマイレージ」などといった「科学」や「数学」を偽装し経済合理性を無視して(実は環境に帰って悪影響を与える)環境保護思想が出てきている点と、もうひとつはこの本のように、インターネットなどのITによって取引費用が低下したことを利用して、過去に失敗したり消えて行った運動を再生しようという点でしょうか。
ここで問題となるのは、ITを利用したからと言って、この本が主張しているような薔薇色なシェア社会が実現するかと言う点です。これについてはまず、GDP・成長否定の観点から見てみたいと思います。
この場合、ソフトとハード(この使い方はIT用語的にも経済学用語的にもちょっとおかしいのですが、分かりやすいので便宜的に使わせていただきます)の二つに分けて考えてみることが重要だと思います。どういう事かというと、例えばこの本で例として出されていたおもちゃや子供服などの「ハード」は、一度に一人しか使えません。いくらみんなで必要なときだけ「シェア」すると言っても、誰かが「シェア」している間は他の人間は使えません(経済学的に言うと私的財に近いでしょう)。一方で、インターネットを利用した音楽や映画などの「ソフト」のダウンロードサービスは、誰かがある音楽をダウンロードして借りた・買ったからと言って、その間別の誰かが借りられなくなる・買えなくなるわけではありません(経済学的に言うと公共財に近い概念かもしれません)。この違いはGDP至上主義的には非常に重要です。つまり、子供服のような「ハード」をシェアしようとすると、生産量が確実に減りますので、GDPも下がります(正確に言うと、確実に下がるわけではなく、「価格が上がるなどしない限り下がる可能性が非常に高い」というのが正しいのですがここでは単純化しておきます)。一方で、CDで売っていた音楽をダウンロードサービスに変えて「シェア」したところで、CDの価格とダウンロードの料金が同じでかつ消費量も変化しないのであれば、GDPが低下することはありません(変化はしませんが、お金の流れは変化します。例えばCDを焼いていた工場は潰れてそこに支払われていたお金が著作権者やネット配信業者などに流れるでしょう。こうした「分配」の変化も経済学的には非常に重要ですがここでは単純化のために省きます)。いや、ひょっとするとCDを置く場所が必要なくなった分だけ、もっと音楽ソフトを購入しようとする人が増え、シェアによってかえって消費量が増えてGDPが増加する可能性さえもあります。つまり、本書の主張する「シェア」は、ハードとソフトではGDPに対してそれぞれ全く逆の方向に作用するわけです。ということは、ハードの「シェア」は実は、シェアなんてしていない多数の人々の従来型の大量消費主義があってこそ初めて成り立つ寄生的なあるいはニッチ的運動という面があり(そういう人たちがいなければそもそも、生産量が減って「シェア」しようとする物の価格が高くなってしまいます)、一方でソフトの「シェア」は、むしろ大量消費自体をすべてやめてしまって完全に置き換えることが望ましいという考察が出てきます。
この点に触れずに、「ハードのシェアもソフトのシェアも両方とも素晴らしい」、「でもGDPは下がっちゃうからGDP至上主義自体を辞めようね!」と一括りにしてしまっているように見えるところが、ちょっと雑に感じました。この点をもっと突っ込んでいれば、「物(ハード)よりも、もっと眼に見えない物(ソフト)を重視する世の中にして行けば実はGDPも上げられるんだよ!」という、シェアに懐疑的な頭の硬い人々をも説得できるものすごくポジティヴな主張ができたはずなのに、と残念に思います。
また、GDP至上主義に関して言いますと、在来型のGDP至上主義を信奉する政治家やそれを支持する国民と、シェア運動及びその支持者・利用者との解離が社会に重大な影響を及ぼす可能性があります。
どういう事かといいますと、前述のとおり、ハードのシェアが進めば消費が減りGDPが低下します。GDPの低下は雇用の低下に直結します。その場合、シェア支持者以外の国民は「成長」を求めます。それに対して政治家GDPを上げるために出来ることは、公共投資の増額です。日本では道路やダムを作りまくることになるでしょうし、アメリカなら軍事費を増やすことになるでしょう。つまり、シェア運動が進行する途中過程においては、こうした政治家や国民同士の思想的齟齬により、不必要なダムが作られて環境破壊が進んだり、軍事費が肥大化して軍拡競争や戦争につながる危険性さえあるわけです。

もう一つ気になったのは、新たな階級社会が出現する危険性です。この本の中では、シェアの動きが進むにつれ、消費者のネットスキルや対人スキルが非常に重要になるという点があまり強調されていません。例えばアウトプット勉強会という本会を例に取りますと、いくら「デジタルデバイド」を解消するために低所得者にコンピュータとネット接続環境を公費で与えたとしても、その人自身にMixiを利用したりコミュニティを検索してアウトプット勉強会に辿りつけるスキルがなければ本会に参加することはできません。また、たとえ参加したとして、対人スキルの低い人間は自然に排除されていくことになるでしょう。残念ながらこうした低スキルの人々に対して政府や第三者が出来ることは限定的です。義務教育でネットやコンピュータについて全国民に教育するとしても、効果は限定的で、必ずやそこから零れ落ちる人が出ることは明らかです。従来の経済的格差や身分的格差と違い、お金や法的措置による救済には限界があります。むしろ、経済的格差や身分的格差のように「俺じゃなくて社会が悪いんだ!」と誰かに責任転嫁できない分悲惨です。すべて「自己責任」とされるわけですから、言い訳のしようも逃げようもありません。そうなれば、そうして阻害される人々は、何らかの形で爆発する可能性が高くなります。今でさえも「社会的疎外感」から増加し続けている通り魔事件などがさらに激増する危険性があります(本書はネットが社会的絆を強くするという薔薇色の例のみを取り上げていますが、秋葉原通り魔の犯人が、ネットを利用した結果疎外感を増し犯行に至ったとされる例を忘れてはいけません)。

あと、全く別のことで、会においてちょっと出てきた話ですが、評価資本に関する説明がちょっと不十分で、読者を混乱させているように思います。この本が想定している評価資本というのは、例えばヤフーオークションの評価システムのような、「利用者同士」がお互いに評価するというものですよね。そこをもう少し明確化しておかないと、アマゾン書評のような、利用者が生産者・販売者を評価するという全く別のシステムと混同して読まれてしまう危険性があるように思いました。

私としては、以上観てきたようなデメリットを差し引いても、人類全体としてのメリットは差し引き大きくなるものと考えています。本が電子化され書庫が必要なくなり、共同で仕事場を借りられ、楽しいコインランドリーができるだけでも私にとっては夢みたいなことです。ですが、そうしたメリットばかりに目を向けていたらある日突然戦争が起こされていたり、通り魔に刺されていたりなんてことも起きかねないわけで、そういう点においてこの本のパラダイス的世界観には大いに賛同しつつもちょっと危険を感じました。


ビジネスマンは必携必読。