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2007年03月19日(Mon) 卑怯を憎む心 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

産経新聞より。


「【解答乱麻】元東京女子大教授・林道義 卑怯を憎む心育てよう」(抜粋)

 → http://www.sankei.co.jp/kyouiku/gakko/070319/gkk070319006.htm

 いじめが原因で命を落とす子供が出ると、校長が児童生徒を集めて「命を大切に」という話をする、というのが定番である。しかし「命を大切に」というお題目を何百遍唱えても、いじめ自殺もなくならない。

 子供の心の中に「悪」と「攻撃」への歯止めをいかにして作るか、これが教育の重要な課題である。

 弱い者に集団で、しかも執拗(しつよう)にいじめるという行為は、卑怯(ひきょう)・卑劣を憎む心があれば、ありえないことである。しかし、戦後の家庭でも学校でも、卑怯を憎む武士道は、戦争をもたらした過去の間違った道徳だとして教えられることがなかった。ここに、いじめ現象の淵源がある。

 昔は「卑怯!」と非難されることは、最大の侮蔑(ぶべつ)であり屈辱であって、その行為をやめさせる大きな効果を持った。しかし昨今ではただせせら笑われるだけである。このごろは「卑怯」となじっても、誰もたじろがない。

 新渡戸稲造は「武士道」の徳目の第一に「義」を挙げている。「武士にとりて卑劣なる行為、曲りたる振舞ほど忌むべきものはない」。「義」の反対は卑怯・卑劣である。「義」を重んずるということは、卑怯・卑劣を憎むということである。

 新渡戸はまたこうも言っている。「戦闘におけるフェア・プレイ!」の中に「はなはだ豊かなる道徳の萌芽(ほうが)」がある。「これはあらゆる文武の徳の根本ではないか?」と。

 また「義と勇は双子の兄弟」であり、義を行うためには勇が必要だと述べている。「義を見てせざるは勇なきなり」「弱きを助け、強きをくじく」と言われるように、いじめを止めたり、大人に通報する行為は、勇気を必要としている。

 卑怯ないじめっ子は、大人に知られることがなによりも恐いので、通報することを「ちくる」と名付けて、最も卑怯なこととして憎み、また「お礼参り」の対象としている。「卑怯」の観念が逆転しているのである。この「卑怯の逆転現象」を是正しないかぎり、陰湿ないじめはなくならない。

 そんな逆転が起きるのも、常日頃「義」を重んじ「卑怯」を憎む心を育てていないからである。何が「義」であり、何が「卑怯」であるかの区別さえ定かでなくなっているのだ。

ビジュアル版 対訳武士道

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「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは (小学館文庫)

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