NAKAMOTO PERSONAL

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チャンドラ・ボース

nakamoto_h2011-05-29

 1945年(昭和20)8月18日、台湾の台北空港で「天皇陛下と寺内さん(寺内寿一・南方総軍総司令官)によろしく」という言葉を残して、日本と共に戦ったインドの英雄がこの世を去りました。日本の敗戦から3日後のことでした。

 その人の名はスバス・チャンドラ・ボース、インドの独立運動の指導者「ネタージ(指導者)」と呼ばれ、現在でもインドで尊敬を集めている有名な人物です。

 しかし、その彼の墓が、日本の蓮光寺というお寺にあることは、日本でもあまり知られていません。

 また、カルカッタにある彼の邸宅を改装したボース記念館では、彼の残した演説や、彼が指揮したインド国民軍の愛唱歌の入ったテープが販売されていますが、愛唱歌のなかには、なんとヒンズー語で歌われた日本の歌「愛国行進曲」が収められています。

 さらに、ボースがインド人民に向けて訴えた演説の一節をご紹介しましょう。「…大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの撲滅を期し、さらにインドの完全な独立を援助するものである。いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て、両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ・イギリスの連合国に対し、共同戦線を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しない限り、インド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、英米帝国主義との戦争の終結もない。」(1944.3.20自由インド放送より)このボースの演説内容に驚かれる方も多いことでしょう。無理もありません。私たちの多くは、先の大戦をアメリカ・イギリスなどの自由主義・民主主義陣営と、自由を抑圧するドイツ・日本のファシズム陣営の戦いであったと教えられてきたからです。しかし、ボースはここではっきりと、アメリカとイギリスを「帝国主義者」と呼び、その「侵略の軍隊」をアジアから追い出さなければ、アジアの自由はないのだと言っています。

 このようなアジアの声を、またインドと日本の深い友好の関係を知らない日本人が多いのではないでしょうか?

 そこで、ここではインドの人々と日本人が協力して、自由と独立を勝ち取った歴史を紹介したいと思います。

 インドは17世紀初めより、ヨーロッパの植民地主義の標的となり、最終的にはイギリスのたび重なる侵略によって、ついにムガール王朝が滅ぼされ、イギリスの植民地とされてしまいました。イギリスの略奪的経済搾取は、土地の収奪、自給自足農業の破壊、当時世界一を誇ったインド綿製品の破壊にとどまらず、過酷な重税を課しました。インド民衆は食糧不足などにより、18世紀にベンガル地方で1000万人、19世紀には南インドで1500万人が犠牲になったといわれています。

 このようななか、インド人に驚きと勇気を与えたのが、日露戦争(1904〜05)における日本側の勝利でした。日露戦争とは、当時は白人に支配されるのが当然と思われていた有色人種の小国日本が、白人の軍事大国ロシアに対し、大方の予想を裏切って大勝利を収めた世界史上初めての戦いです。この勝利の報は多くの有色人種に感銘を与えました。後年、インドの初代首相ジャワハルラル・ネルーは「日本が大国ロシアを破ったとき、インド全国民は非常に刺激され、大英帝国をインドから放逐すべきだという独立運動が全インドに広がったのだ。」と言っていますが、事実、この勝利をきっかけに、植民地化されていたアジアから、多くの独立運動家が日本にやってきました。彼らは独立運動を徹底的に弾圧する宗主国の追っ手をのがれて、日本にかくまわれ、白人支配者から独立する機会を狙っていたのです。

 そして、1941年(昭和16)12月8日、日本がアメリカとイギリスに宣戦布告をすると、インド人の同志たちは「インド独立連盟」を東京で旗揚げし、翌年には東南アジア各地に散らばっていたインド独立運動家を集めてインド独立を誓う「東京会議」を開くなど、日本はインド独立闘争の拠点となりました。

 ところで、あまり知られていないことですが、この戦争で、日本が戦っていたイギリス軍の兵隊のうち、約7割は、イギリス植民地で徴発されたインド人の兵士だったのです。いわゆる「英印軍」と呼ばれたインド人兵士たちでした。

 ですから、植民地化されたアジア諸国からヨーロッパ勢力、特にイギリスを追い出すためには、インド人兵士がイギリス軍兵士として、宗主国イギリスのために戦うのをやめさせなければなりません。

 そのため、日本政府は、インドの独立を全面的に支援するため、藤原岩市少佐を中心とした十名足らずの「F機関」という組織を作りました。

 「F機関」という名は、フジワラ・フリーダム・フレンドシップの頭文字をとって、こう呼ばれたのですが、彼ら機関員はその言葉通り、命がけで日本とインドの共闘を訴えました。イギリス植民地マレー半島の戦場で、イギリス側に立つインド人兵士たちに「インド独立のために、日本と共にイギリスと戦おう。」と降伏を呼びかけていったのです。

 最初は半信半疑だったインド兵たちも、F機関員たちが敗残兵である自分たちを差別することなく、一緒のテーブルを囲んで、食事をする事に驚きを隠せませんでした。イギリス軍にいたときは、仲間同士であるはずのイギリス人兵士とインド人兵士が同じ部屋で食事をすることすら考えられなかったのです。

 さらに藤原機関長は、日本軍が占領したマレー半島の治安維持を、なんと投降してきたばかりの、彼らインド人捕虜に任せたのです。先程まで、敵味方に別れて戦っていた自分たちを、全面的に信頼してくれている…、この申し出にインド人兵士は驚くと同時に、大変感動したといいます。

 降伏してきたインド人兵士たちは、率先して日本軍の先頭に立ち、次々と同胞に降伏を呼びかけてゆきました。こうして、投降インド兵の数は、どんどんふくれあがり、最終的には5万人というインド兵が、イギリス軍を裏切って投降してきたのです。

 ここに、インド人による、インド独立のための、インド人の軍隊「インド国民軍(INA)」が誕生しました。さて、一方、冒頭で紹介した指導者(ネタージ)、スバス・チャンドラ・ボースは、どうしていたのでしょうか?彼は、この時イギリスと敵対していたドイツに亡命し、独立運動を展開していました。しかし、ドイツ首脳はヨーロッパのことしか頭になく、しかもインドがイギリスから独立することは、少なくともあと150年は不可能だと考えており、ボースを落胆させてしまいます。

 ドイツでの独立闘争の可能性を断たれたボースは、日本が英印軍を組織し始めたことを知り、インド独立闘争のための協力は日本に求めるべきだと判断して、ドイツから日本に行くことを決意します。

 そして、ついにボースは、彼の到着を待つ1万5千名のインド国民軍兵士の前に姿を現します。1943(昭和18)年7月5日のことでした。

 この日、彼はインド国民軍兵士たちに向かって、2時間近くにおよぶ大演説をおこないました。「同志諸君!兵士諸君!諸君の合言葉は『デリーへ!デリーへ!』である。われわれの任務は、イギリス帝国最後の墓場、古都デリーのラール・キラに入城式をおこなう日までは終わらないのである。…われわれはこれより、デリーに向かって進軍する。チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)」

 ボースがこう叫んだとき、国民軍兵士ばかりでなく、この演説を見に来ていた、2万のインド民衆も、声をそろえて「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」と唱和し、その場の熱狂は最高潮に達しました。

 この翌月、8月1日には日本によって、ビルマが独立を達成し、バー・モウが首相に就任しました。(詳しくはビルマ編を参照。)ボースはこの独立祝典に出席し、同じくイギリスの圧政に苦しめられていたビルマ民衆の万歳の声を聞き、日本が独立の約束を果たしたことに感銘を受けました。イギリスはインドと交わした約束を何度も破ってきたからです。第一次大戦の時にも、インドに自治を許すという餌をまいて、イギリスへの戦争協力を強いておきながら、まったく果たされませんでした。その苦い経験を振り返りつつ、眼前で歓呼するビルマ民衆の姿に、ボースは近い将来のインド民衆の姿を重ね合わせていました。

 ところが、このときすでに日本軍は、勢いを盛り返してきた連合軍の猛反攻に遭い、ガダルカナルからの撤退を余儀なくされるなど、戦局に不安の影が差し始めていました。

 しかし、ボースはインド国民軍の司令官に就任すると同時に、自由インド仮政府の主席となり、独立政府を組織します。そして、ただちにイギリス・アメリカに宣戦を布告したのです。

 悪化する一方の戦局を打開するため、日本軍とインド国民軍が、最も悲劇的な戦いとして名高いインパール作戦に勝負を賭けたのは、その翌年、1944年(昭和19)3月のことでした。この戦いでは、多くの将兵が命を落とし、生き地獄だとさえ言われました。そのため、現在の歴史家の多くは、このインパール作戦を、おろかな、無用の戦いであったと言います。

 しかし、本当にそうなのでしょうか?

 この戦いで敵方として戦った、イギリス軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将は回想記のなかで、こう記しています。「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけであった。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。すなわち『もし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」(ルイス・マウントバッテン『ビルマ戦線の大逆襲』)

 「何かが残った…」その「何か」については、インドの民衆たちがいちばんよく知っています。

 インパール手前15キロのロトパチンという村では、村民たちが自主的に作った日本兵の慰霊塔があり、毎年、日本兵の供養が続けられています。ロトパチン村の村長は「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです。」と語っています。

 また、激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良くいっせいに咲き始める野草です。このような花の性質が、死闘のなか、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、みんなで力を合わせて、敵に立ち向かっていく、そんな日本兵のすがたに重ね合わせられ、名付けられたのだということです。コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。

 インパール作戦は決して無駄ではありませんでした。確かに、あまりに多くの犠牲を払いはしましたが、「何か」、つまりインドの独立という大きな歴史を残したのです。このように遠く離れた地で、今でも日本人に感謝してくれている人々がいるということは、祖先がわたしたちに残してくれた大きな財産だといえるでしょう。

 このあと、賭けた勝負にも敗れた日本軍はさらなる撤退を続け、ついに1945(昭和20)年8月15日に連合軍に対して降伏をしてしまいます。

 日本の敗戦後も、起死回生の望みをかけたチャンドラ・ボースは、寺内寿一南方総軍司令官の計らいで、ソ連に亡命する途中、不運な飛行機事故に遭い、とうとう伝説の人となってしまいました。享年48歳、最後まで、インドの独立に命を懸けた生涯でした。

 その後、ボースのもとで共に独立をめざして戦ってきたインド国民軍(INA)兵士たちには、過酷な運命が待っていました。勝者イギリスが、ボースの指導したインド国民軍の将兵1万9500名を、イギリス国王に対する忠誠に背き、敵に通謀し、利敵行為をおこなったという「反逆罪」で軍事裁判にかけることになったのです。イギリスはこの「反乱」を、セポイの反乱(1857)以来の大不祥事と考え、これを厳罰に処し、見せしめにすることによって、これから先のインド統治を揺るぎないものにしようとしたのでした。イギリスは決して、植民地支配をやめようとは思っていなかったのです。しかし、この愛国者であるインド国民軍を「反乱軍」だとして裁くという措置に、インド全土では2年間に及ぶ大規模な反乱がつづきます。イギリスも軍隊を派遣し、徹底的な弾圧につとめるなど、流血の惨事があちこちで起こりました。さらに、イギリス軍によって、拘留されていた国民軍兵士たちの監獄からは、ボースの決めた国民軍の合言葉「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」の声が、毎日響き渡りました。インド民衆も、「愛国の英雄を救え!」「INA全員を即時釈放せよ!」と叫びながら、警戒厳重な監獄にデモ行進をし、監獄の内と外で、「チェロ・デリー!」の大合唱が起きました。ついに1947年5月、イギリスは軍事裁判の中止をやむなく決定、8月にはインドの独立を認めざるを得なくなりました。

 こうして、インドが200年もの長きにわたるイギリスの植民地支配を脱したのは、この日を夢見たチャンドラ・ボースの死後、2年目の夏のことでした。

 その後も、インドは、敗戦にうちひしがれた日本に対して、厚い友情を示してくれました。

 敗戦国を裁く極東軍事裁判では、連合国側が日本を弾劾しつづけるなか、ただ一人、インド代表のパール判事だけが日本の無罪を訴えたことはあまりにも有名です。

 また、インドはサンフランシスコ講和会議への参加を拒否しました。それは、勝者=連合国側の、日本に対する懲罰的な条約に反対してのことであり、日本に対する賠償も放棄しています。それどころか、インド独立運動家で、戦後、国会議員になったマハンドラ・プラタップ氏は「日本に対してこそ賠償を払うべきだ」という「逆賠償論」を主張しました。

 いかがでしょうか?こうしたアジアの声をもっと聞いてみたいとは思いませんか?先入観を拭い去り、歴史の事実を掘り起こせば、彼らの声はもっと聞こえてくるでしょう。

 わたしたちの祖先が、命を懸けて築いてくれた友好と信頼という財産を、大切に受け継ぐためには、こうした政治的に作られたのではない、歴史認識を持つことが必要なのです。

「アジアにおける日本と大東亜戦争インド編 日本は本当にアジア諸国に嫌われているのか?」(自由主義史観研究会
 → http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_5.html


革命家チャンドラ・ボース

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