藻岩山より
「背負っておくれ。こんな道のない山坂は私は歩くことができないよ」
「ああ、いいとも」
男は軽々と女を背負いました。
男は始めて女を得た日のことを思いだしました。その日も彼は女を背負って峠のあちら側の山径(やまみち)を登ったのでした。その日も幸せで一ぱいでしたが、今日の幸せはさらに豊かなものでした。
「はじめてお前に会った日もオンブして貰ったわね」
と、女も思いだして、言いました。
「俺もそれを思いだしていたのだぜ」
男は嬉しそうに笑いました。
「ほら、見えるだろう。あれがみんな俺の山だ。谷も木も鳥も雲まで俺の山さ。山はいいなあ。走ってみたくなるじゃないか。都ではそんなことはなかったからな」
「始めての日はオンブしてお前を走らせたものだったわね」
「ほんとだ。ずいぶん疲れて、目がまわったものさ」
男は桜の森の花ざかりを忘れてはいませんでした。然し、この幸福な日に、あの森の花ざかりの下が何ほどのものでしょうか。彼は怖れていませんでした。
そして桜の森が彼の眼前に現れてきました。まさしく一面の満開でした。風に吹かれた花びらがパラパラと落ちています。土肌の上は一面に花びらがしかれていました。この花びらはどこから落ちてきたのだろう? なぜなら、花びらの一ひらが落ちたとも思われぬ満開の花のふさが見はるかす頭上にひろがっているからでした。
男は満開の花の下へ歩きこみました。あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。彼はふと女の手が冷めたくなっているのに気がつきました。俄(にわか)に不安になりました。とっさに彼は分りました。女が鬼であることを。突然どッという冷めたい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。
── 坂口安吾(『『桜の森の満開の下』)
- 作者: 坂口安吾,川村湊
- 出版社/メーカー: 講談社
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