NAKAMOTO PERSONAL このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2012年10月23日(Tue) 山本夏彦 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

今日は山本夏彦の10周忌。


“大”朝日新聞を敵に回した“豆朝日新聞”、“安物の正義”を嫌い、偽善と戦い続けた、稀代の名コラムニスト


夏彦翁のことば、厳選(出来なかった)五十。

  • テレビは巨大なジャーナリズムで、それには当然モラルがある。私はそれを「茶の間の正義」と呼んでいる。眉ツバものの、うさん臭い正義のことである。
  • 俗に金のためなら何でもする、犬のまねしてワンと吠えよ命じられればワンと吠えると言うが、これはそれほど人は金を欲しがるというたとえ話で、いかにも人は金を欲するがそれ以上に正義を欲する。
  • 理解をさまたげるものの一つに、正義がある。良いことをしている自覚のある人は、他人もすこしは手伝ってくれてもいいと思いがちである。だから、手伝えないと言われるとむっとする。むっとしたら、もうあとの言葉は耳にはいらない。
  • 私は衣食に窮したら、何を売っても許されると思うものである。女なら淫売しても許される。ただ、正義と良心だけは売物にしてはいけないと思うのである。
  • 汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす。
  • 正義はソンでもソンのほうをとってはじめて正義であることがある。
  • 衣食足りると偽善を欲する。
  • 私は、正直者は馬鹿をみるという言葉がきらいである。ほんとんど憎んでいる。まるで自分は正直そのものだと言わぬばかりである。この言葉には、自分は被害者で潔白だという響きがある。悪は自己の外部にあって、内部にはないという自信がある。
  • 善良というものは、たまらぬものだ。危険なものだ。殺せといえば、殺すものだ。
  • 主婦のなかの最も若く最も未熟なものを、警察官にするとどうなるか。正義の権化になる。権化になって何が悪いのかというだろうが悪いのである。
  • それは美容上の問題である。「主婦連」や「地婦連」は怒るのが商売だから仕様がないが、並みの主婦がそのまねをしてはいけない。回らぬ舌でまねをすると、顔つきまで似てくる。折角の器量が台なしになる。まして折角でない器量は、さらに台なしになる。そしれこの世は折角でないものの方が折角より多いとすれば、日本中台なしになる。
  • その顔を鏡にうつして見てごらん。口は鼻よりさきに出ている。耳までさけている。むかしは恋したときもあったろうに、その顔はどこへ去ったのかと思わないのかしらん。
  • 権利と義務の両方を覚えさせたければ、権利を一回教えたら、義務を三回教えなければ、もともとおぼえたくないのだから、おぼえない。両方平等に教えたらいいと思うなら、人情の機微を知らないと評されても仕方がない。
  • 大新聞はいま正義の権化になって、やましいところはひとつもなくなってしまった。ついこの間まで、「羽織ゴロ」だったことを忘れてしまいました。むかしの新聞記者は心中ひそかに恥じていました。自分はやましくなくても、自分の仲間、同業者がやましいことをしているなら恥じないわけにいかないと、みな内心忸怩(じくじ)としていました。いまはしません。忸怩としなくなると、人はみな増長すること新聞記者に限りません。
  • 実を言うと新聞の『天声人語』、『余禄』のたぐいは現代の修身なのである。あれには書いた当人が決して実行しない、またするつもりもない立派なことばかり書いてある。
  • 人は言論の是非より、それを言う人数の多寡に左右される。
  • してみれば言論の自由とは、大ぜいと同じことを言う自由である。大ぜいが罵るとき、共に罵る自由、罵らないものをうながして罵る自由、うながしてもきかなければ、きかないものを村八分にする自由である。
  • 八月六日は一日限りの広島思想家が集まる日である。知るものは言わず、知らないものがしゃべる日である。そしてその他の日本国民が冷淡なくせに熱心に平和を口にする日である。
  • 食いものの恨みは忘れ、旗や歌の恨みだけおぼえているのは不自然だというより、うそである。
  • この世の中は、九割以上習慣で動いている。そして、それでいいのである。習慣にはそれぞれ意味がある。けれども、なぜと聞かれても困る。
  • 白髪は知恵のしるしではない。
  • 身辺清潔の人は、何事もしない人である。出来ない人である。
  • 大きな声では言えないが、私は袖の下またはワイロに近いものは必要だと思っている。世間潤滑油だと思っている。人は潔白であることを余儀なくされると意地悪になる。また正義漢になる。
  • 世はいかさまというのはこの世はいかさまから成っているということで、商才とか企画とか言えば聞こえはいいが、なにいかさまのことである。いかさまの才がなければ社員は出世できないし、またその社はつぶれる。
  • 芸(術)はしばしば毒をふくむ。毒ならば気がつかぬように盛らなければならない。
  • 「愛する」という言葉を平気で口に出して言えるのは鈍感だからだ。
  • 人が足りる思いをするのは、他と区別して多い場合である。
  • 古人は言論を売らなかった。今人は売る。
  • 人生、組合専従者になるなかれ。
  • 親切というものはむずかしいという自覚を、親切な人は忘れがちである 。
  • 子供は大人がみくびるほど鈍くはない。彼らは大人が何を欲するか知っている。
  • 古いしつけは親たちが滅ぼした。新しいしつけは親たちが邪魔して育たない。
  • 先生が子供たちに意見を言わせ、それをディスカッションと称して聞くふりをするのは悪い冗談である。意見というものは、ひと通りの経験と常識と才能の上に生じるもので、それらがほとんど子供には生じない。
  • 世の中には自分で経験しなければ会得できないことが山ほどある。親はすでにそれを経験しているから、子を危ぶんで一々指図したがる。気の利いた子供なら親の言うことなんか聞かないからいいが、唯々諾々と聞くようだと子供はいつまでも一人前はなれない。親がじゃまして子に経験させないからである。
  • 子供たちは互いにおうむ返しだと知りながら、自分の言葉としょうして発言する。それなら大人と同じである。
  • 親は子の口まねをしないことをすすめる。これだけで日本語は改まる。親というものは、子供がこの世で出あう最初の教師である。箸のあげおろしから、基礎的な言葉まで、子が親のまねをするのが順序である。
  • ねずみ講」は日本中の善男善女をだました、許せないと新聞がいうと、テレビも同じくいう。だまされたのは欲ばったからで、馬鹿だったからだというなら分るが、善人だったからだという。
  • 私たちがその風貌に威信を失ったのは伝統と無縁になったからである。もう一つ分業のせいである。古人はみな多くを兼ねた。文事ある者は必ず武備あり、文武両道といって武事しかしないものは一介の武弁といってあなどられた。
  • 知らないことには二種ある。全く知らないことと、よく知らないことの二種である。人は全く知らないことでさえ、知ったかぶりして教えようとする。すこし知ることなら得意になってなお教えようとする。
  • 事実があるから報道があるのではない。報道があるから事実があるのである。
  • 大ぜいが異口同音にいうことなら信じなくてもいいことだ。
  • 人は本には金を惜しむ。
  • 本というものは、晩めしの献立と同じで、読んで消化してしまえばいいものである。記憶するには及ばないものである。何もかも記憶しようとするのは欲張りである。忘れまいとするのはケチである。
  • テレビと漫画が普及して、今後本は売れまいといわれる。私はひそかに喜んでいる。本は忽(たちま)ち百版売れない方がいい。売れなくなれば文字と書物は、本来の面目をとりもどすだろう。
  • 人生は短く本は多い。
  • 本はあんなにあふれているが、本当はあふれてはいない。ただ棚をふさいで、見るべき本の邪魔をしているのである。
  • 古本屋は)本たちの墓場だという。けれども、そこへ足を踏みいれれば、なん十年来、棚に立ちつくしていた本たちは、いっせいに振りむいて、まだ死んでいない表情を示すのである。そして私を無縁の書生と知れば、再びもとに復するけれど、たまには互いに求めいたとわかって、百年の歳月をとびこえることもあるのである。
  • 私は断言する。新聞はこの次の一大事の時にも国をあやまるだろう。
  • まじめ人間はまじめくさるからいけないのである。今も昔も私たちに欠けているのは笑いである。
  • 夜はねむるものである。
誰か「戦前」を知らないか―夏彦迷惑問答 (文春新書)

誰か「戦前」を知らないか―夏彦迷惑問答 (文春新書)

笑わぬでもなし (山本夏彦とその時代3)

笑わぬでもなし (山本夏彦とその時代3)

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20121023

[ new profile diary racing book music photo bbs link mail top ]