NAKAMOTO PERSONAL

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露伴の『努力論』(「分福の説」)

幸田露伴『努力論』(5)


露伴流、幸福になるための『幸福三説』。


1、惜福 = 福を惜しむこと。→ http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20131220
2、分福 = 福を分けること。
3、植福 = 福を植えること。


『分福の説』の巻。


『分福の説』(抜粋)-(幸福三説・第二)

 福を惜しむということの重んずべきと同様に、福を分かつということもまた甚だ重んずべきことである。

 惜福は自己一身にかかることで、いささか消極的の傾(かたむき)があるが、分福は他人の身上にもかかることで、おのずから積極的の観がある。

 分福は何様(どういう)ことであるかというに、自己の得るところの福を他人に分ち与うるをいうのである。

 たとえば自己が大なる西瓜(スイカ)を得たとすると、その全顆(ぜんか)を飽食し尽すことをせずしてその幾分かを残し溜むるのは惜福である。その幾分を他人に分かち与えて自己と共にその美を味わうの幸(さいわい)を得せしむるのは分福である。

 惜福の工夫を為し得る場合と然(しか)らざる場合とに論なく、すべて自己の享受し得る幸福の幾分を割いてこれを他人に分ち与え、他人をして自己と同様の幸福をば、小分にもせよ享受するを得せしむるのは分福というのである。

 惜福は自己の福を取り尽さず用い尽さざるをいい、分福は自己の福を他人に分ち加うるを言うので、二者は実に相異なり、また互に表裏をなして居るのである。

 惜福は自ら抑損するので、分福は他に頒与するところあるのであるから、彼は消極的、此(これ)は積極的なのである。

 もしただ一時の論や眼前の観から言えば、惜福は自己の幸福を十分に獲得捕捉せずして、其の幾分を冥々茫々として測るべからざるところの未来もしくは運命というが如きものに委ねて、預け置き積み置くをいい、分福はまた自己の幸福を十分に使用享受せずして、その幾分を直(ただち)に他人に頒ち与うるをいうのであるから、自己の幸福を自己が十分に享受し使用せぬところは二者全く相同じであって、そして双方共に自己に取っては、差当り利益を減損し、不利益を受けているようなものである。しかし惜福ということが間接に大利益をなして、能く福を惜むものをして福運の来訪に接せしむるが如く、分福ということもまた間接に、その福を分つところの人をして福運の来訪に接すること多からしむるのは、世の実例の示していることである。

 世には大なる福分を有しながら慳貪(けんどん)鄙吝(ひりん)の性癖のために、少しも分福の行為に出でないで、憂は他人に分つとも好い事は一人で占めようというが如き人物もある。俚諺にいわゆる『雪隱(せつちん)で饅頭を食ふ』ような卑劣なる行為を敢てして、而して心窃(ひそ)かにこれを智なりとしているものも随分あるのである。如何にも単に現在のみより立言したらば、福を他人に頒つよりは、福を独占した方が、自己の享受し得る福の量は多いに相違無い。しかし福を自己一個のみにて享受しようという情意、即ち福を専らにしようという情意は、実に狭小で鄙吝で、何ともいえぬ物淋しい情意ではないか。言を換うれば、福らしくもなく福を享くるということになるではないか。

 福を分たぬものの卑吝の情状はそもそも何樣(どう)である。これまた餓狗のその友に讓る能はざるが如くであって、実に『人類もまた一動物である』ということを証拠立てて居るといえばそれまでであるところの情無い景色ではないか。餓狗のその友に讓らざるのは、畜生のやむを得ざるところであるが、いやしくも人として畜生と多く異ならざるの情状を做すのは、實に情無い談(はなし)である。

 己を抑えて人に譲る、是(かく)の如(ごと)きは他の動物に殆どなきところで、人にのみあり得るところである。物に足らざるも心に足りて、慾に充たざるも情に充ちて甘んずる、是の如きは他の動物になくして人のみにあり得るところである。

 およそ人の上となりて衆を帥(ひき)いるものは、必らず分福の工夫におて徹底するところあるものでなければならぬ。禽(とり)は蔭深き枝に宿し、人は慈悲深きところによるものである。

 慈悲深きものの発現はただ二途あるのみで、その一は人のためにその憂を分ってこれを除くのであり、他の一は人のために我が福を分ってこれを与うるのである。

 福を分つの心は実に春風の和らぎ、春日の暖かなるが如きものであるから、人いやしくも真に福を分つの心を抱けば、その分つところの福は、実際尠少にして言うに足らざるにせよ、その福を享受したる人は、非常に好感情を抱くものであることは、譬へば春風は和らぐといえも物を長ずるの力は南薫に如かず、春日は暖かなりといえども、物をあぶるの能は夏日に如かざるが如きであるにかかわらず、なお春風春日は人をして無限の懷かしさを感ぜしむるようなものである。

 これ故に大なる福を得んとするものは、必ず能く人に福を分って、自ら独り福を専にせず、衆人をして我が福を得んことを希わしむるのである。即ち我が福を分って衆人に与え、而して衆人の力に依って得たる福を我が福とするのである。分福の工夫の欠けたる人の如きは、いまだ大なる福を致すには足らざるものである。

 すべて人世の事は時計の揺子の如きものであって、右へ動かした丈は左へ動くものであり、左へ動いた丈は右に動くものである。天道は復(かえ)すことを好むというが実にその通りで、我より福を分ち与うれば人もまた我に福を分ち与うるものである。

 今の世におて、千万人中誰か能く福を惜み、誰か能く福を分つものぞ。人試みに指を屈してこれを数えて、その功を成すことの大小を考えて見たならば興味があろう。実に福は惜まざるべからずであって、また福は分たざるべからずである。

『2013年12月20日(Fri) 露伴の『努力論』(「惜福の説」)』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20131220
『2013年12月13日(Fri) 露伴の『努力論』(「自己の革新」)』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20131213
『2013年12月10日(Tue) 露伴の『努力論』(「運命と人力と」)』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20131210
『2013年12月06日(Fri) 露伴の『努力論』』 http://d.hatena.ne.jp/nakamoto_h/20131206 

努力論 (岩波文庫)

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超訳 努力論

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