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20120223

[]弁当という名の擬似通貨について

 このエントリでは、特に結論らしきものは出ません。疑問を提示して終わりです。


 火曜水曜と特にやることのない連休でして、というより正確には外で用事をかたづけてくるために必要な書類やらなんやらをすべて家に忘れたうえで出かけてしまい、途中でそのことに気づいて「もうなにもかもどうでもいいやー☆」って気分になってそのまま家に帰ってこようかと思って途中のドトールでエントリ書いてた、というのが昨日の流れとなります。まあそんな俺の事情はさておき、この連休の自由時間というもの、すべてを費やして「晴れときどきお天気雨」をやってたわけですな。

 体験版の段階で非常におもしろかったんですが、どうにも肌にあわない感じが強かったんですよ。どうしようかなーと思ってたんですけど、TLでやけに実況してる人が多いうえに、おもらしあると聞いて即決で1クリック註文ありがとうございます。購入動機の8割をおもらしとオナニーが占めている国から来ました。国民は俺ひとりで、国境のあたりで隣国のルゥシイさんが俺を遠い目で見つめています。

 で、昨日なずなルートが終わったわけなんですが、このエントリの趣旨そのものは晴れ天の話がメインではありません。

 いや、ひさしぶりに弁当が重視されるえろげ見たなーと思いまして。

 俺ねー、あの弁当ってやつ、あれよくわかんないんですよ。弁当に限らずですけども、手作り料理のありがたみってのがよくわからない。むしろいやなんですね。

 こういう人って少数派といえるほど少なくないんじゃないかと思うんですが、他人の家のごはんとかいやじゃないですかね。ほら、味付けってそれぞれの家庭独特のものがあったりするじゃないですか。そういう「くせ」みたいなものに気づいたときに、その家庭独特の臭気みたいなものが、そこに凝集してるような感じがするんですよ。なんていうのかな、負の意味での人間の体温、湿度みたいなものが、食べ物に反映しているような気がしてならない。

 まあ感覚的なことなんで、言葉にするとなんか浮ついた説明になっちゃいますけど、外食が多い生活のなかで、基本的に俺が個人経営の店を好まないのはこのへんが理由ですね。定食屋みたいなものは特に苦手。チェーン店の「画一的な」味のほうが安心できる。とうぜん家庭料理への憧れもありません。

 これ、おいしいまずいの問題じゃないんですよ。おいしい店ってのは確かにあって、たとえば伊勢佐木町にある千山閣のカルビクッパは絶品ですし、バーグのスタミナナシは俺が非常に愛する食い物のひとつです。

 そういううまいまずいの問題とはまったく別個のものとして「手作り」という感じが苦手なんです。

 なんで、そういう感性を持ってる俺にしてみれば、エロゲにおけるあの「手作り弁当」というものに対するこだわりがさっぱりわからない。ありがたくないわけです。となるとですね、こう見えるわけです。弁当というものを手段として、なにかが流通している。ということは、弁当ってのはなにかの通貨みたいなものなんじゃないのか、と。

 特に晴れ天ではヒロインの側からの一方的な手作り弁当だけじゃなかったせいで、そう見えたということなのかもしれませんが。

 というわけで、エロゲにおける「手作り弁当」の意味について、だれかうまいこと説明してくださいよ、というのがこのエントリの趣旨となります。要約すると二行で終わる。


 俺はエロゲやる人っていっても、月に一本か、多いときでも二本くらいしかやりませんし、そもそもある程度の密度でやりだしたのって2010年くらいからなんですよね。それ以前は大きなブランクがあって、葉鍵の全盛期あたりまですっぽりと抜けてます。この「手作り料理」に対するよくわかんない感覚って、ToHeartのあかりあたりまで遡ったりします。それと同質の違和感が、この2012年(つっても晴れ天自体は2011年作品ですね)になってもまだある。作品中における「手作り」の扱いって基本的に変わってないってことです。

 このへん、いろいろな要素が絡んでるんで、エロゲプロパーではない俺にはちょいと手に余る疑問ですね。そもそもユーザー層がそのまま持ち上がりで来ちゃってるから保守的な傾向はそのまんまだよって話もあるでしょうし。俺41歳でえろげやる人ですけど、実はこの年代のエロゲーマーってそこまで珍しいもんじゃないですよね。若年層の流入が減ってる減ってるいわれてるけど、俺の観測範囲ではそうでもねーしなあ。


 つーわけでせっかくエントリ書いたんで、ついでに晴れ天なずなルートの感想も書いときます。ネタバレっす。

 濃かった。

 これに尽きますな。

 ごりごりのメロドラマ展開でした。そういうの嫌いじゃないんで楽しかったんですけども、とにかくくどかった。主人公のあの優柔不断さっつーかわけのわからなさは、あれはもうああいう引き伸ばし機能に特化したパーツなんで、なにも言うことはないんですが、全編を通してえげつなさがドラマツルギーに乗っかって爆走してるような状態でした。それが悪いとは言わん、むしろおもしろいお話は大好物ですけども、それだと、女の子没入インターフェースとしてのエロゲの機能は損なわれる可能性がある、なんてことを思いました。

 ただそのえげつなさくどさゆえに、フルコースのごちそうが味わえたことも確かです。

 車椅子とかはさておき、なずなはまあ実妹なわけなんですが、キャラクター本体の妹っぽいさとは別に、かなり妹感は少ない話だなーという感じでしたね。ちなみに妹感において最強だったのが、最近だと恋騎士の由宇です。自己規定がそもそも妹である、みたいな話で、まあなんつーか「俺らが求めたすごい妹」みたいなのを演じてるというか、メタ妹ですな。それとくらべるとだいぶ「ふつうの妹」に近い路線だったと思います。

 そのことのよしあしはさておき、ライターさんの日常生活における空気感の描写のうまさもあいまって、最終的には「兄妹であること」のタブーがたちはだかる展開になりまして、これは俺の大好物ですので、もう狂喜乱舞しながらエンターキー叩いておりました。

 兄妹ものが好きだ、というときに、この「タブー」というもののどう扱うかで趣味ってかなり分かれる気がしますね。俺は明確に「兄妹なのに」「兄妹だから」という部分にかなりのこだわりがあるタイプです。これが根幹にあって、ここからいろいろなものが派生してくる。たとえば「妹なのにお兄ちゃんを好きになっちゃってごめんなさい」とか「変な妹でごめんね」とか「妹なのにお兄ちゃんのにおいが大好きなの。おかしいよね、ごめんなさいごめんなさい」とかそういう部分です。むしろ俺が謝罪しろ。

 なずなはもう、この点申し分がありませんでした。「変な妹でごめんね」はもちろんやってくれましたし、お兄ちゃんの枕スゥハァもやってくれましたし。

 ついでにいうと車椅子ですか。このへんうかつなことを言うと倫理的なアレに触れそうなんですが、結局は病弱妹のバリエーションなんで、通底する精神は同じだと思います。これが否定されるなら「庇護してあげたい」を利用してプレイヤーの愛情を絞りとるタイプのキャラクターはみんな否定されるべき。構造的には、トラウマがあってそれを克服、という話も要するに全部一緒です。ただ個人の内面に属するものならば多様性を建前とすることができるんですが、障害だとそれができないだけです。属性では済まされない、ということです。

 しかし困ったことに、世のなかにはこうした「目に見える」弱さが大好きな人種ってのもいるわけですな。俺ですが。そういう人種にとってもそこそこ満足の行く内容でしたねー。不満といえば、えろしーんのときにうまく動かない脚を持ち上げて、その重さが自分の腕にのしかかってくることにより「ああ、なずなは歩けないんだなあ」と実感するようなシチュがなかったことくらいでしょうか。

 ラストについては、まあああするしかなかったんだろうなあ、というような気分です。個人的には弱さなり障害なりを克服して自立していく話って大嫌いなんですが、まああそこまでちゃんとやられちゃうと、ねじくれた人間も沈黙するしかない、というか。自立のなにがいやだって、そりゃ依存の終わりだからですね。共依存ばんにゃーい。そして共依存大好きな俺としては、自分の障害によってお兄ちゃんを独占できる、というなずなの呪いはもう最高でした。共依存の深い泥沼最高ですよね。血流がよくなる気がします。

 まあ個人的な希望としては、瞳孔から光なくなっちゃって「悪いの全部なずなだったよ」って呆然と呟くような状態がもっと長引くとよかったなーとかは思いました。自分の妄執にとりつかれてお兄ちゃんと一緒にいることしか考えられなくなったなずなが、感情を失った目で「ごめんね、お兄ちゃん……だいすき……」とかゆってたら、そりゃなずな愛しくてたまらなくなりますからね。

 とまあ、こんな感じでかなり楽しんだわけですけども、ほかのルートやる気になるかっていうと、あのくどさをもう何周かするのはちょっときついなあ、という気がしないでもないです……。まあ絢音ルートだけはやっとかなきゃな、とは思いますけど。オナニーじゅうようですから。


※追記

 あーこの場合、一般的な倫理意識の話ですね。要するに「弱さ」というものをキャラクターの魅力や、あるいはストーリーの駆動力として利用する場合に、それが個人の内面の問題ならば(程度の問題はありますが)世間的に「まあアリ」くらいの認識なのに対し、それが今回のなずなみたいな例になると、極めて具体的で見えやすいかたちのものであるため、我々の業界でいうところの「属性」の問題を飛び越えて「そういう不自由を持つ人の気持ちがわかるのか」みたいな話になりやすい、ということです。それゆえこの手の話題を扱うときは慎重を要する、と。実際はモノがトラウマであろうと下半身の障害であろうと、こっちとしては消費してるものは同じであるにもかかわらず、くらいの意味合いですね。どっちにしてもファンタジーでしかないんですが。なんつーかまあ、こっちの説明不足ですなこれ。

 かたわ少女については、えーぱーくさんがよく話題にしてるなーくらいの認識しかないです。俺このへんの倫理観あんまり強いほうじゃないんで「まあそういうのもあるんじゃないの」くらいの感覚しか持てません。

 そうそう、それで思い出したんですけど、妹枠とか幼なじみ枠とかあるじゃないですか、俺、あれに「あたまよわいこ枠」があるといいなーとずっと思ってるんですよ。ある種の妹キャラが実際の妹というよりは「俺たちが考えた妹」という抽象化されたものであるように、この場合もキャラクターとしての「あたまよわい」ですね。これ切望してる人けっこういるんじゃないかなあ。お話として成立するかっていうと、当のあたまよわいこを置き去りにした外部の話にしかならない気はしますけども。


※追記2

 ところでなんで車椅子少女だといいものだと俺は感じるのかなーみたいなことを考えてました。俺「かたわ少女」にはほとんど興味ひかれないんですね。本来だったら飛びついていいような題材なんだけども、なぜなんだろう、と。

 まあ実際には「かだわ少女」はプレイしてないんで、これはあくまでそのへんの情報見ただけでの先入観です。んでこの場合、先入観だけでかまわない。俺自身の印象の問題だから。つまり「かたわ少女」で、登場キャラがみんな身体障害者っていうことになったときに、そこには「障害」がクローズアップされてるんじゃないか、みたいな印象があるんですね。それで俺は別にそういう部分には興味ない。

 今回なずなルートをやってみて、まだちょっと足りないなーもうちょっと欲しかったなーと思うのは、たとえばお風呂では足に力が入らない感じでぺたんと床に座りこんでいてほしかったし、歩かないわけだからふにふにしてるに違いない足裏とか、筋肉が発達してないふくらはぎをはむはむして「ああなずなのあんよやわらかいなあ」とかやったりするシーンが見たかったなーと。それだけ見ると「歩けない」という事実そのものに興奮している、と思えるんですが、実際は違う。らしい。

 なにかっていうと、歩けないっていうのは「依存するしかない」という記号なわけです。ですから、歩けない状態をことのほか強調することは、俺にとっては「依存度を強化する」という機能を果たす。歩行に使われることのないなずなの足は依存の象徴で、だからこそその足が愛しい、ということになる。ずっとこのままでいいんだよ、どこにも行かなくていいんだよ、と。うわごとみたいに呟いて、なずなの足をなでる日々こそがこの場合「正しい」わけです。

 だいたいすべては機能なんで、ツンデレだってなんだっていいんですが、俺の場合「依存」に執着があるんで、依存を表現してくれるものなら、基本的にはなんでもいい、ということになります。

 ちなみに、上記のなずなの足をめでるような状況ですと、同時に罪悪感っていうのもあってほしいわけです。だって、そんなんまちがってるじゃないですか。だれも幸福にしない。でも、まちがってる、だれも認めてくれないからこそ、そこでは「二人きり」が保証される。これたぶん、兄妹関係に対する執着も同じことがいえるんですよね。「兄妹」という関係が持つ、保護と被保護の関係の安定性に対する幻想と、世間的には許されない関係っていう背徳感。許されないなら、どこにも行けない。こういう依存と背徳を強化してくれる、幻視させてくれる関係であれば、つまりなんだっていいんじゃないかなー、と。

 まあ、これどうやってもハッピーエンドにはならないんですけどね。社会とかを超越させてくれるとしたら、SFでもファンタジーでも伝奇でも、まあなんでもいいんですけど、そういうギミックが必要になるんで。つーかそこ突き抜けてどっか行っちゃったヨスガノソラあたまおかしかったんだなあ、つくづく。

20120222

[]ひさしぶりにスーツ着た

 今日はスーツだったわけですよ。スーツ。ああやだやだ。だいっきらいなんですよ。今日は本部の人からあらかじめ「正装でお願いします」とかなり強く言われていて「そんなもん持ってねえよボケwww」って答えたら「オープン前研修のときに着たやつがあるはずですが」と極めて冷静に答えられて、俺は立つ瀬がありませんでしたというか、そういうどうでもいい嘘つくのよくないよっていうか、俺自身持ってること忘れてた。

 まあそんなわけでスーツ着て出かけたんすよ。自分ひとりで出かけるときは可能な限り電車で出かけるんです。電車好きだから。だけど今日は、ひさしぶりに着たスーツのウェストがシャレにならないくらいきつくて、つまり俺の腹部は約10年の歳月をかけて徐々に成長した、ということを意味するわけで、とにかくそれしかないので無理やりはいたら、なんか腰の締め付けが強すぎてすごい腰痛してきた。このまま出歩いたらどこかで動けなくなるんじゃないか、という恐怖に襲われてしかたなく車で出かけました。

 さて、そのスーツです。

 スーツのなにが嫌いってネクタイですね。首太いから。しかも短い。なんかねえ、首太すぎて、体のサイズにあわせてワイシャツを買うと、いちばん上のボタンが止まらないんですよ。それを無理やり締めて、さらにネクタイじゃないですか。もうなんか左右見るのもめんどくせえ、みたいな感じになってくる。

 まあなんつーか、この年までスーツをほぼ必要としない生活を続けてると、スーツを着るっていうのがほぼコスプレ状態なんですよね。ただの服だったらコスプレなんて感じないじゃないですか。それを着ることに意味がないから。そう感じるからには、その服にはなんらかの意味がある。それはまあ、社会人としての記号なんだからだろうなーくらいに漠然と思ってたんですが。

 んで、地下駐車場に車を入れて、エレベーターに乗ったんですよ。たかが一階分なんですけど、とにかく腰が。ふつうに歩くふりをして失敗してる人みたいな怪しい挙動になってるくらいには痛くて、ああいいやここはエレベーターだと。扉が開いたら正面に鏡があるんですね。そうすっと、そこにはスーツ着てるおっさんがいるわけじゃないですか。

 会場にたどり着くと、そこにはたくさんのスーツの人がいる。ああそうか、俺もあの集団の一員なんだな、と思った。

 俺はもともとスーツの集団のなかで、自分だけカジュアルな格好してても気にならないっつーか、そもそも人目がほとんど気にならない以前に人目に気づきすらもしないタイプで、不審な行動がやたら多いです。気になるものがあるとふらふらと寄り道してまっすぐに歩けない子供っているじゃないですか、基本的にはあれの発展形です。そんで、触る必要がないものにさんざん触ってあるいたりする。これに加えて凝視癖があるので、ときどきは立ち止まったりもする。人に道を聞かれた経験は一度もないですが、職質なら最低で5回はあります。

 基本的に「周囲の人間もまた自分と同じ人間である」という感覚がかなり薄いんですな。集団行動ができない子供がそのまま大人になった、というのが近い。常識、なんていうと話はでかくなりますが、人間ってどんなときでも身振りレベルで行動を制約されてるじゃないですか。常識的な振る舞いというのがある。そりゃ俺だって、スクランブル交差点のまんなかでぱんつ脱いでオナニーしちゃいけないくらいはわかってます。さすがに自分の倫理観としてそれはありえない。しかし、たとえば衆人環視の場所で鼻くそほじるくらいはグレーゾーンに入ってるわけです。知識としてはやらないほうがいいっていうことは知ってますからやりませんが、心のどこかでは「いったいそのことのなにが悪いんだろう」と思ってる。

 俺にとって、俺を制約する服装ってのは、店の制服だけです。これ着てるときはまちがいなく社会人。ここでは言葉づかいレベルですべてが意識的になる。俺にとって私服の時間っていうのは「人に迷惑かけない限り、自由に動いていい」時間なんですな。仕事関連の会議であろうとなんだろうと、すべて私服で出かけていく。店の利益に影響出るわけじゃないから、勝手に振る舞う。従業員とプライベートでの関係をほとんど持たないのは別の理由があったりしますけど、あんがい根底には「制服着てない時間帯に仕事する人間として振舞いたくない」なんてのがあるかもしれません。

 つまり俺には「仕事をする人間」と「遊んでる人間」っていうカテゴリーはあっても、実際には「社会人」というカテゴリーがなかったんだと思います。期待される大人としての言動をしなければならない、みたいな常識がなかった。あったにしても最低限のものでしかない。

 スーツを着て、スーツを着た人間の群れのなかに混じることで気づいたわけです。ああ、そういえば俺は社会人というカテゴリーに入れられる人間だったのだ、と。


 これねー、あまりに例が極端すぎてだれの参考にもならない話なんですけどね。ただ、自分に関しては、スーツを着るのがあれほどいやな理由がよくわかりました。行動を制約される。たとえばなんですが、通りすがりの女児のスカートをめくって、ぱんつに向かって両手をあわせて「ありがたやー」って拝んだとするじゃないですか。そのときカジュアルな服装であるのと、スーツであるのとは意味合いがだいぶ違う、と思うんですよね。結果はどっちにしろアウトなんですが。こんなくだらない例でなくても、スーツを着ているとなんとなくできないこと、というのがあります。俺は次のシフトは明日の17時からで特に用事もないんで、目的であった会議っぽいようなものが終わったあと、ふらっとそのまま出かけて、どこかの温泉に行ってもよかったわけです。車には寝袋が積んであったから、どこかで野宿してもかまわない。ただそれ、スーツでやるのって、なんとなく違いますね。違和感すごいです。

 要するに俺は、ふつうのスーツ着てる人とは、オンオフの感覚がかなり違ってて、オンとオフの中間的時間帯がなかった、というだけの話ではあるんですが。いままで数限りない人間に「社会人としての自覚を持て」と言われてきて、それらのすべてが頭の上を通過していって俺はなんにも聞いてなかったんですが、そりゃそうだよなーと思いました。俺、社会人ってイコール仕事する人だと思ってて、仕事できっちり実績上げてりゃどうでもいいだろってずっと思ってたもんなー。今後もそう思い続けるだろうなあ。


※一日一ボカロ曲リンク

【初音ミク】天国へ行こう【オリジナル曲手書きPV】 ‐ ニコニコ動画(原宿)

 象徴してるものは明らかですが、それについて考えないことで、俺はこの曲がかなり好きです。

[]ぼくのかんがえたすごい外食屋

 というわけで二つ続けてエントリを書いております。

 最近シロクマさんをついったーでフォローしたことによって、いままでだったらまず読まなかったような記事とかがTLに流れてくるようになって、なにやら「ノマド」なるものがブームであると知りました。俺のブームの感覚はひょっとしてだいぶズレてるような気がしないでもないですが、まあそんなことはどうでもよい。ノマドというのは遊牧民のことらしく、俺にとって遊牧民関連でいちばん印象深いエピソードといえば、モンゴルの遊牧民は、女性の品定めをするときに、女性がおしっこしたあとの現場を捜索し、おしっこの飛び散り具合によって「子供をたくさん産めるか」とかを判断するそうです。集団でこれやったりするらしい。すごい絵ですよね。砂地なんかに染みこんでいくおしっこあとを数人の男が取り囲んでじっくりと観察している。まあ俺にいわせればそんなもん建前で、実際にはやつら全員おしっこ好きなんだと思いますね。

 そんり理由で、俺は「ノマド」という言葉を聞くと「おしっこ好きなのかな」ということを思い浮かべたりするわけです。俺は好きですね。恋騎士の明莉のトイレシーンにはしびれましたね。


 で、なんの話だっけ。晴れ天? 違うな。

 ああ、ごめん。ノマドなんにも関係なかった。そもそもなんでノマド思い出したのかもわからねえ。えーと……そうそう、このあいだ「日本の人口減るからいろんな業態が死滅するし日本やばいしもうなにもかもおしまいだ」みたいな記事見たんですよ。あー、これだ。ブコメつけたんですけど「原宿が老人通りになる」で腹筋崩壊してまともに読む気なくなったんですが、外食産業とかすごいやばいらしい。小売もなにもかも終わりらしい。人口減るとなにもかもダメらしい。やっぱここはネットペニスでネット子宮にネット孕ませして赤ちゃんつくる技術が急務だと思うんですが、まあそんな夢の技術はさてき、長期的には人口減少は大ダメージなんでしょうが、それ以前に外食の衰退ってのは、セットで中食の拡大っていう現象があることについても言及してほしかったなーと思います。客層としてファミレスが狙ってる層が減ってくることよりも、客の消費行動の変化のほうが、はるかに直接的ダメージがあるだろうと。

 記事の最後のほうで、コンビニ業界だけが鼻息が荒いなんてことが書いてありますが、まあ確かに少子高齢化とやらを考えれば、客の購買行動にフィットするのはコンビニでしょうね。各社その方向めざしてまっしぐらですし。ただし個々のオーナーにとっては競合激化でひっでえ時代が来ると思われますが。俺、いうほどコンビニ業界にチャンス来てると思わないんだよなあ……いや、個人的な意見なんですけども、少子高齢化、地方の人口減少、かろうじてまだ生きてる地域のコミュニティの崩壊、都市への人口集中をなんかを考えると、コンビニよりもその状況にフィットした業態って絶対出てくると思うんだよね。

 で、話は外食産業に戻りまして。

 俺は既婚者なんですけども、子供がいない、夫婦の生活時間帯がわりと噛み合わない、なんて事情もあって、生活としてはわりと独身男性のそれに近いんですよ。夫婦そろって家でメシ食うのは週の半分もないですし、24時間営業みたいな感じで生活してますし。で、そうなると「俺にとって」素敵な外食産業ってのは確かにないなーと思うんですよね。

 今日みたいに一人でふらふら出歩いてるとき、メシを食う第一候補としては、まあ牛丼屋系ということになります。安いしなー。腹埋まるしなー。あとはカレー屋ですか。

 ところが俺はネット中毒者なわけです。メシ食ってるなら、そのときにはネットブック開いていたい。ネットブックじゃなきゃ本読んでる。牛丼屋でそれできる雰囲気まずないですわね。あとそもそも牛丼屋飽きました。

 じゃあガストかサイゼリヤあたりで、ということになるんですが、もししょっちゅう外でメシ食うんだとして、単価として700円か800円あたりっていうのは、現在の俺ならそこまで厳しい金額ではないですが、ただやっぱ一食に600円以上かけるとちょっと贅沢かなーという気がしてくる。まあでもドリンクバーありますし、メシ食いつつ1時間かそこらのんびりするなら悪い選択肢ではない、とは思うんですが。

 ただあそこ、うるせえ。

 昼の時間帯、主婦か学生がいて、そういう人たちってみんなしゃべってるもんだから、店全体としてとにかくボリュームが大きい。あと一人で四人がけのシートを占領してるのも妙に気が引けます。それとサイゼリヤのあのカンツォーネだかなんだかわかんないですが、やたら濃いBGMも気になります。

 まあそんなわけで、ガストやサイゼリヤみたいな、ファミレスのなかでは比較的安価なやつも、俺にとっては「ちょっと違うな」という感じがするのです。

 比較的よく利用するのはモスです。理由はよくわかんないんですが、モスの喫煙席って、どこ行ってもたいていガラガラに空いてます。ロードサイド店舗なんかだと不安になるくらいですね。まあ、どっちかっていうと有機野菜とか自然派志向っぽいモスっていうチェーンのカラーと喫煙者層って相性よくないんでしょうが、それにしたってです。

 しかし、モスも結局ハンバーガー。俺は米のメシを食いたい派なので、食事としてモスってのはちょっと違うなーとも思います。

 で、こう考えてくると、大戸屋ですか。いまはどんな勢いなのかは知らないですが、一時期爆発的な勢いで伸びてましたよね。あれはよくわかるんだなあ……。

 と、こう考えてきてですね。

 俺にとっていちばん望ましい外食チェーンってどんなのかなーと思うと、意外にもコメダ珈琲なんかが候補に上がります。米のメシはないですけど、食い物も充分に食いでがあるし、あとやっぱりコーヒー好きの俺にとっては、コーヒーが飲める場所であるのはありがたい。あそこのブレンドあんまり好みじゃないですけども。ただ、あそこでまともに食うと高いですね、やっぱ。


 というわけで、俺が外食チェーンに望む条件をまとめようと思います。

1:米のメシ食える。おかずの種類とか多いほうがいい。

2:コーヒーちょっとおいしいといい。

3:長時間座ってられる環境。つってもまあせいぜい1時間とかもうちょい長いくらい。

4:電源あればもっといい。

5:接客サービス的な面は別に重視しない。

6:単価は高くて800円くらいまで。

 客の回転効率とか考えてこれが実現できるのかはよくわからんですが。

 要は手軽に食事のできるドトール的なもの、あるいは逆に座ってゆっくりできるオリジン弁当的なものがいいなあと思うわけです。ああそうそう、オリジンいいですね。量り売り惣菜とか白飯とかをてきとうに自分でよそって、会計の際に飲み物だけ註文、イートインのあるパン屋のくいもの屋バージョン。バイキング的な感じのものってだいたい業態としてうまくいかないってのはありますけども、座ってゆっくりできるという機能が付加されていればどうか。

 まあいわれてみりゃ「ゆっくりできる」という機能がなければ、これって昔の定食屋ですやね。定食屋の多くは夜になる酒も出してたわけで、その場合は「ゆっくりできる」という機能もついてきたわけなんでしょう。俺は酒飲まないですからあんまり関係ないですけども。


 俺はあんまり外食チェーンに関する知識がないので、すでにこういう業態があるかどうかは知りません。あったらすまん。まあ外食産業って「つくりたてをテーブルまで持ってきてくれる」という機能もかなり重要な気はするんで、それで作りおき式ってうまくいかないんだろうなって気はしますけどもね。あれか。グレードアップしたミスドって考えかたもありか。ファーストキッチンもなんかそんな方向に動いてるしなあ。

 とりあえず、いまこのテキスト書いてるドトールでカレー出てきたら俺は文句言いません。


※一日一ボカロ曲リンク

【初音ミク】春の歌【オリジナル曲】

 昔からずっと愛聴してる曲です。

20120220

[]北海道で暮らしてー

 おまえのタイトルはどうしてそうやる気がないんだ、というよりまたタグだけで人を遠ざける自分語りの時間です。前回のは、そうは言いつつも一般的な内容を含んでる気もしたんですが、今回のは完全に自分語りですんで、そういうの興味ない人はスルーで。


 このあいだなんか本部のうんぬんかんぬんで取材みたいなものがありまして、そんで録画されてなんかしゃべったんですよ。んで、その映像が放映される勉強会みたいなのに自分も行きまして、自分がなんか熱心に語ってるのを会場にいて自分も見て、さらにそれについてなんかコメントするっていう公開処刑みたいな目にあってきたんですけども、この恨めしさはいったいだれに向ければいいの。

 そんで、映像のなかでしゃべる自分を見ててふと気づいたことがあるんですよ。

 訛りひでえ。

 俺は11歳くらいまで函館で生活しておりまして、そこからあとの30年間は首都圏で生活してました。方言についてよく誤解があるんですけども、たとえば同じ函館っていう地域のなかでも、方言ってかなり差異があるんですよ。代表的なのは、市街地と漁師町なんかの違いで、うちの場合、家庭のなかにいわゆる「浜言葉」みたいなのがかなり入り込んでたんですね。その環境で育ったもんだから、訛りは相当にひどかった。首都圏に引っ越してきてから、学校でよく「いまなんて言った?」みたいなことを質問されたことがあります。

 さらにタチが悪いのが、北海道圏で生活してる人にありがちな「北海道は訛り少ない」神話。これは30年前に小学生をやっていた俺にも浸透していたものであります。

 とはいえ、標準語圏で生活している人は不思議に思うかもしれません。たとえばテレビなりラジオなりで「標準語」というものはあふれているわけで、それと自分の使っている言語の差異に気づくことはないのか、と。

 これがねえ、ほんと不思議なもんで「わからない」んですよ。たとえば「手袋をはく」とか「ゴミを投げる」という単語レベルの違いだとわかります。だけど「おめだばはんかくさいでないの」というような発言があったときに、自分が訛っているのは「はんかくさい」だけだっていう自覚になるんですよね。なんで、最終兵器彼女の某ヒロインなんかも、単語レベルであれだけ訛ってると、その発音体系は相当なものだと思われるんですが、いかがなもんでしょうか。

 うちの奥さまによると、いまの俺のしゃべりは「ほぼ」標準語準拠らしいです。ただ、ちょっと興に乗ってしゃべり始めたり、あと話題が雪ですとか、まあ子供のころの話題ですね、これに及ぶと訛りが相当にひどくなるらしい。訛りでいちばん抜けないのは、おそらくはイントネーションでしょう。単語レベルではどうにかなってもしゃべり全体を支配するうねりのようなものですね、これはもう、よほどのトレーニングでも積まないとどうにもならないものらしい。あと発音全体にどことなく漂う重苦しさ。発音のすべてに微妙に濁点が混じってるような、母音が曖昧なような、そんな印象が残るんですね。これは映像で自分を見てそう思いました。

 よく、北関東や東北南部あたりの平板アクセント地域の人が訛り抜けなくて苦労する、みたいな話を聞きますけど、あれもそれが理由でしょうね。抑揚によって単語以上のなにかを表現する傾向が強い方言は、ことのほか厳しい。


 自分の体内に出身地の影響がなんらかのかたちで残っている、というのは少しばかり意外でした。まあ俺の場合、30年前の話でして、まだ当地も標準語化がさほど進んでいなかったということもあるでしょうし、なにより、自分の身振り手振りなんかについてはかなり無頓着ですから。他者から指摘されて修正する機会があまりなかった、ということもあるんでしょうね。

 んで、訛りに気づいたから、というわけではないんですが、ここんとこ5年くらいかなあ、「雪のない冬」というものに対する違和感がすごく強くなりつつある。

 積雪っていう現象に対して異常なこだわりがあるのは、まあ自分でもわかってるんですよ。そのこだわりの源泉って、十数年前の某鍵ゲーが理由かな、と思ってたんです。それもあるんだとは思うんですよね。ただ俺の場合、その思い入れが固着しやすい要件が揃っていた、とはいえると思います。雪のある冬、というのは11歳かそこらで俺から失われた。そこへもってきて「ひさしぶりに帰った北の町」じゃないですか。まちがって「あれ、子供のころ、俺、函館に幼なじみいたんじゃないかな」みたいな妄想を持ってもしかたない。いや、妄想ですよ? 実際にいたためしないです。

 そもそもそこが俺にとって「帰りたい場所」であるかといえば、そんなことはまったくないんですよ。ろくな記憶がない。たとえ函館に帰ったとしても、当時の知己と出会うのは絶対にいやだ。特に親戚関連は絶対に避けたいところです。

 ただ、なんていうのかなあ、肉体が訴えるコレジャナイ感がけっこう強いんですよね。こういう感覚が思い込みじゃないっていう保証はどこにもないし、ロマンって往々にして現実をねじ曲げたりするもんですから、自分が考えてみた自分自身のことなんてあてになったもんじゃないんですが、たとえば俺が「夏だ」と思うのは、関東地方においては5月末の梅雨入り前あたりの日なんですよね。これを夏だと強く認識する。最高気温が26度かそこら、最低気温が20度切るくらいのラインです。これはもう、まったく無自覚に「ああ、こういう気候が夏だ」と思ってしまうんですよ。

 ……このへんのこと、以前どこかのエントリで書いたかもしれない。

 まあいいや。同様に、いまですね。今年は例年より関東地方も寒いんだと思うんですが、当地にあっては厳寒のこの気候を、俺はどうやら「雪解け時期」と誤認する。誤認つってもどこにも雪はないわけだし「あー、まあこれが関東地方の冬だよな」とすぐに思い直しはするわけなんですが。

 ただ、これくらいの気候ならば、昼には氷柱が溶けて水がぽたぽた落ちている「べき」ですし、昼には溶けた地面の泥混じりの雪が、深夜にはまた凍って、朝には溶けたかたちでそれらが凍っており、長靴でそれをけっとばしつつ登校するのが自分にとっての「感覚」なわけです。

 だからまあ、俺的な仮説としては、四季の感覚というのが11歳までに肉体に刻み込まれていて、それを基準に現在の俺は季節の移り変わりを見ている、ということになります。


 なんで、どことなく落ち着かない。

 意識されるレベルではなく、ごくごく軽微な違和感ではあるんですが、ずっと「借り物の季節」のなかを過ごしているような気がしてしかたない。

 現実的にはまあ、いま店やってますし、ここで生活の基盤ができてしまっていますから、引っ越すことなんてできないわけです。まあ二十年後とかそれくらいですか。老後と呼べる時間があって、生活基盤をまるごと移植するような気力が残っていれば、計算上は不可能ではないかな、と思うくらいなんですが、まあどうなんでしょうね。

 自分のなかにそういう土俗的なまでの「故郷」なるものへの執着があるのとか、認めるの嫌いなほうなんですし、いままでは「どこで暮らしてたって一緒」と思ってたんですけど、結局のところは「あの冬でないのなら」どこでも一緒、ということだったんじゃないかな、と思ってます。

 ところで、俺の雪に対する執着はまあ、こんな理由で説明できるんですが、うちの奥さまも将来的には雪のある土地で生活したいらしい。あの人、俺以上の降雪マニアでして、いまでも雪が降ると外に飛び出していって確認するくらいなんですけども、横浜で生まれ育った人があそこまで執着するのはよくわからん。


※一日一ボカロ曲リンク

【初音ミク】二次元ドリームフィーバー【オリジナル】 ‐ ニコニコ動画(原宿)

 かなりの勢いで再生数伸びてるみたいですし、有名Pの作品かもしんないですが、好きなので紹介。


※追記

id:ssuguruさん

 あーやっぱ今年は雪多かったですか。最近は函館あたりでも根雪にならないと聞いて、けっこう驚いた記憶があります。30年前だと毎年かならず根雪になってましたからねえ。