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20091030

[]「文章書ける」俺は「会話できない」人だった

 たまに人から「文章をうまく書けない」「書くことがない」「どうやって書いていいかわからない」という相談を受ける。俺はこの手の相談に対して、あまり有能な回答者とはいえない。なぜか。俺の回答はいつも決まっていて「書きたいように書きゃいいじゃん」だからだ。もちろん、それでは答えにならないことは経験的に知っているので、実際は相手の状況に応じた答えを考えるわけだけど、どれも相手にとってピンと来ないことが多いらしい。

 ところで、俺はブログに書く記事にあたって、書くことで困ったことがまったくない。最近更新が少ないのは、単純に原稿に時間取られてるからっていう理由。

 じゃあ、なんで俺は困らないのか。

 ひとつには、俺にとって「書くこと」「公表すること」の敷居が異常に低いことが原因だと思う。極端な話、書くことがなければ「書くことがない」ことについて書けばいいと思うのだ。「書くことがない。なぜなら別に書くようなこと考えてないから。だって別に世のなかに問いたいようなことあるわけでもないし、最近なんかイベントあった?って聞かれたら昨日の晩ごはんが焼肉だったんだけど豚バラしか出てこなくてうちすっげー貧乏くさいし、このあいだスーパーで見たけど焼肉用の肉と豚バラなんてグラムにして80円くらいしか違いないじゃん」とか連綿と書けばいいと思う。つまり、相手のいないおしゃべりだと思えばいいわけで、それで書けないのはなんだかなーと思ってた。

 まあとりあえず、それでは情報価値がなんにもないだろ、という反論はありうる。その情報価値のなさというものは、書く人にとっての障壁になる。つまり「せっかく読んでもらおうと思うのに、これじゃなー」というわけだ。これについてはもうそのとーりで、情報価値のないもの垂れ流してすんませんというほかない。

 ただ同時に俺は思う。文章にしてもなんにしてもそうだけど、それの持つ価値は読む人が決める。長年書いてて思う。読む人が楽しんでくれるかどうかっていうのは、こっちの思惑ほとんど関係ない。ここでは投入されている手間のことは度外視する。ブログなり日記なりってことだけど、毎日、あるいはそれに近いようなペースで更新されるものの場合、そんなに入念な下調べとか、完全な推敲とかはまずしない。ちょっと思いついたこと、気になったことについて、ざっと構成を決めて書き出す場合がほとんどだろう。そうした文章では、なにが楽しまれるかについて、書き手のほうでは予測が難しいと思う。いやほんとわかんないんだ、あれ。

 このようにして、俺の個人的な事情としては「書く内容」についての敷居の高さは存在しなくなる。ほかの人にとってはわからない。自意識の問題もあるんだろうし。つまり「つまんねーもの書く人だと思われたくない」というような。


 とまあ、行き着けの喫茶店でうちの奥さま相手にえんえんとそんな話をした。

「そういう問題じゃないんだよ」

 しかしうちの奥さまはそう言うわけだ。

 うちの奥さまが持ち出したのは「考えていることを文章に変換する手間」ということだった。たとえば、リンゴがあるとする。王林でいい。でいいってなんだ。俺がリンゴを病的に好きで、リンゴのどこがおいしいかを文章にするとする。シャキッとした歯ごたえと甘酸っぱさ、そして噛むにしたがいほどよく広がる自然な甘さが好きだとして。

「じゃあ友だちにしゃべるようにそのまま書きゃいいじゃん」

 俺は例のごとく言う。つまり「リンゴちょううまい。シャキッとしててまじうまい。甘酸っぱくてうまい。噛むと甘い。リンゴ最高。死ぬ。むしろリンゴ食うために生きる。やっぱり死ぬぅぅぅン」とか書く。

「あんたみたいに脳と指が直結してどーぶつみたいに文章書く人間と一緒にすんな。だからあんたの文章はなにいってんだかわかんねーんだ」

 叱られた。

 うちの奥さまが言うには、こういうことらしい。

 しゃべるっていうのは、原則的には、口に出た瞬間には、すでにその場にあわせたかたちで最適化されている。相手がいて、その相手がなにを好きであるか、自分についてどれだけの情報を持っているか、共有されている情報はなにか。そうしたものが「あらかじめ」考慮されたかたちでしか出てこない。だからそれをそのままに文章にできる人はあまりいない。相手が存在しないのだし、自分が書いた文章に不足しているもの、説明が過剰である部分について意識しだしてしまったらそうそう書けるものではない。

 だから「会話するようにして書け」っていうのは無意味だ、ということになるらしい。

 なるほど、と思った。

 というのは、この考えかたで行くと、納得のいくことがひとつあるからだ。

 実は俺は会話というものが異常にヘタだ。特に世間話の類がものすごくできない。

 まあこれには対人恐怖とかいろんな理由はあるにせよ、本質的には「相手の持っている情報を考慮しない」「その場において共有されている知識とそうでない知識の区別がつかない」なんかの理由が挙げられる。相手がだれであっても、口調も、省略の度合もほとんど変わらない。変えようとすると会話に全神経を集中しないとできない。そして集中しだすと、それは会話というより議論とか意見交換会みたいな雰囲気になってしまう。ついでに付け加えると、空気がおかしくなるのだが、空気がおかしかったことに自分で気づくことはあまりない。最悪だ。俺はどこへ行く。ぱんださんようちえんとかか。

 つまり俺は、会話をしているのではなくて、人間相手に「文章をしゃべっている」のであるらしい。そして相手のしゃべりを「文章に直して頭で理解」したうえで反応している。俺が「しゃべるみたいにして書きゃいいじゃん」と言ったとき、それはほかの人にとっては実質「書くように書きゃいいじゃん」ということであって、なんの意味もない。そりゃ相談した相手だって困るだろう。そして、しゃべることよりも書くほうにストレスがないのもあたりまえで、相手がいないぶん、好き勝手に書けるのだ。そりゃーそのほうが気楽。


 というわけで、俺は二重の機構によって、文章を書くことに対する抵抗がゼロだ。そして会話に対する抵抗がやたら大きいことにも納得がいった。

 とまあ、この話は俺が納得して終わってしまう。

 それだけではなんなので、いちおー「書きたいけどうまく書けない」人にアドバイスめいたことを書いてみることにする。とはいっても結局のところ「書きたいように書きゃいいじゃん」が結論なんだけど、ここは読み手として書いてみる。

 まず、どんな文章であれ、それがだれかによって書かれたものである以上、それは絶対にその人のオリジナルであるということだ。オリジナルでないことは、どうやっても不可能だ。だから、書かれたものに価値がないということは「ありえない」。もちろん「昨日焼肉を食べました」だけでは話にならない。しかしそこに「牛肉は高いので豚バラにしました」ならば、少なくともさっきスーパーに行って豚肉で妥協した俺にとっては、充分に共感の余地がある。そんなに牛肉買いたかったのか。

 もしそれで不安ならば「なぜ」を掘り下げればいい。なぜ焼肉が好きなのか。それは焼肉のたれが好きだから。なぜたれが好きなのか。それは果実のフローラルな香りとにんにくの食欲をそそるにおいが好きだから。「なぜ」を掘り下げれば、必ず――これは必ずだ――その人にしか書けない内容になる。それをナマのまま書かずに、構成を考えて最後にオチなんか持ってくればもう充分だろう。

 そうしてできた文章は、あるいは(なぜか)ネットではあまり好かれない自分語りというものになるかもしれないんだけど、自分についてはいちばん語りやすいんじゃないかなーと俺は思う。まあ自分のことこそは書きたくないっていうタイプの人がいるのも事実だけど。

 ただ「自分」について書くときは、ひとつだけ注意が必要。牛肉が好きな自分「について」書くことは、そのままで一般性を持ちうる可能性があるけど、牛肉を好きな自分「を見てほしい」は通じない。これは、前半が「かわいそうな私」でも「素晴らしい私」でも同じだ。これも突き詰めれば一つの芸にはなりうると思うんだけど、「芸」っていう時点でどこかに自分を客観視する冷静なものがなきゃだめだと思う。

 あー、あとあれだ。読み手として「どんな話でも興味関心を持って聞いてくれるけど、絶対に自分のこと好きになる可能性のない人」とか想定するといいと思う。……かえって難しくなったような気もするけど、書いて読んでもらうってのは本来的にそういうことで、それに耐えられない人は、少なくとも公表することには向いてないんじゃないだろうか。


 だれもが文章を書かなきゃいけないわけじゃない。だけど、書きたいなら書いてもいい。そして、現実にだれでもブログを持てる状況である以上、別にだれが書いてもいいと思うし、それが(一般的な意味で)「読むべき水準」に達している必要はぜんぜんないと思う。それでも「だれか」にとってはおもしろかったりするもんだし。

 それ以上を求めるなら……あとはサービス精神なんだろうなー。読んだ人には「なにか」を感じてほしいっていう。それは笑いでも涙でも性欲でもなんでもいいんだけど。