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20091108

[]「湿度」というもの

 北村薫の「詩歌の待ち伏せ」2を読んでいる。

 この作家の本は大好きで、たぶん「盤上の敵」以外は全部読んでると思う。特に円紫さんのシリーズが好き。

 もともとジャンルに偏りのある読書をする人なんで、世のなかに「読んでないジャンル」っていうのがいっぱいある。何年か前に卒然と「それじゃだめだよなー」とか思って、読んでないジャンルの筆頭として考えられる推理小説をいきなり読み始めた。その結果わかったことが「俺は推理小説向いてません」っていうことだったんだけど、そのなかで例外的におもしろかったのが京極夏彦と北村薫だった。もっとも京極夏彦は推理小説とかじゃないだろって思ってるけど。

 そんなにたくさん読んだわけじゃないんだけど、基本的に推理小説だめだなーと思ったのは「真実があきらかになる」っていう過程にそもそも興味をもてなかった、というのがでかい。これは俺の個人的なキャラクターの問題だと思う。たとえば街とか歩いてて変なものとか見つけたとしても「それが、なぜそこに」「どうしてそんなことになったのか」というのにはあまり興味がない。変なものは変なものとしてそのまま受け取るし、しいていえば、そこに「自分だけが勝手に考えてる」ストーリーを与えることには興味がある。

 けど、基本的に「解答」には興味がない。

 じゃあ推理小説といえども、ふつうの小説として読む以外にないよね、っていうことになるんだけど、そうなると、今度は「湿度」ってもんが足りない。


 「湿度」ってのは、俺が勝手に使ってる言葉だ。

 人間の存在は、乾いていない。ぬめりがある。割り切れない、と換言してもいい。かなりの部分までは因数分解できても、かならず最後になにかが残る。その「なにか」に言葉を与えるんだとしたら、それは、なにか小暗くて、湿度のあるものだと思う。たとえば、ある種の人が、いまの季節のような、純粋な青空を見てどうしようもなく索漠とした気分にかられるのは、こうした「湿度」すらも青空の下では蒸発しそうに思えるのに、決してそういうことはなく、やはり人は地に縫い付けられているのだという事実に直面せざるを得ないからだと思う。

 ところで、文章というのは不便なもので、あらゆるものは文章にした瞬間、抽象になる。

「彼はいいやつだ」

 と言ったときに、彼の内実は必ず文章のなかには包含しきれない。それを純粋に文章だけで説明しようとする企ては、必ずや失敗に終わる。人は存在している。どうしようもなく、そこに質量のあるものとして存在している。すくいとることは難しい。それで人は小説やら詩やらという形式を利用して、文脈やエピソードの力でなにごとかを描写しようとする。

 たいていの作品は、ストーリーや構成などのマジックを利用して、登場人物たちに湿度を与える。本来的には乾いたもののうえに、霧吹きかなにかで湿度を与えてやる。あるいは読む人の喜びや悲しみというものも利用可能だろう。

 けれど、ごくまれに、人の湿度というものを、そのままで文章ですくってこれる人がいる。

 北村薫は、そうした希少な作家の一人だと思う。


 「詩歌の待ち伏せ」を読んで感じることは、作品を解釈するときの慎重な手つきだ。たとえば、手のなかのビー玉を、転がしたり、太陽の光に透かしてみたり、いろんな角度からためつすがめつする。人の感覚というものは、ついにはビー玉そのものの本質に届くことはないのだけれど、物本体と、それを見る人のあいだの関係性において「決定的な一瞬」とでもいうべきものが発生することはあると思う。人間の認識のやりかたにはある程度の共通性がある以上、そうした「一瞬」というものも、ある程度は共有されうるものだろう。

 北村薫という人は、その一瞬を、ピンセットでも使うかのように慎重に作品のなかからつまみ出してくる。しかし、顕微鏡は使わない。化学分析もしない。ただ己の肉体の延長上にあるものだけで、作品を仔細に観察し、なにごとかを引き出す。それが正解であるかどうかは問わない。そもそも「正解などないのだ」という前提に立っているようにも見える。

 俺は、読解というのはそうした行為のことだと思っている。

 たぶん「詩歌のまちぶせ」という本は、いま日本に活字のかたちで出回っているもののなかでも、有数の優れた「国語の授業」のひとつなのではないだろうか。

 こうした読解力は、小説のなかでも存分に生かされている。人間の存在を、その実質を、俺の用語でいうのなら「湿度」とでもいうべきものを、そのままのかたちで文章ですくいとる。そこにはもちろんエピソードの力もあるだろう。けれど、正確であたたかみのある描写、ときにはナイフのような比喩、そうしたものを駆使して作者は慎重な手つきですくいとる。それらが精巧なプロットによって組み上げられたとき、そこには、人がため息として流さざるを得ないようなもの、それでいて決して体のなかから消えることのないものが残る。


 北村薫の言葉のなかで、強い印象を与えられたものがある。

「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」

 最初にこの言葉を読んだときに「抗議」という強い言葉が気になった。そこまでのものだろうか、と。しかしこの言葉の根底に、俺は「人の生というものは、どうしてもそのようなものである」という諦観にも似た静かな受容を感じる。

 この言葉のあとに続けるべきは「しかし」という接続詞だ。そして「しかし」のあとにはなにもつながらない。つなげることができない。それこそが受容ということだからだ。けれど「しかし」を捨てることもできない。常に、微量のなにかが残る。大した役にも立たないものが。

 「抗議」というのは、そうしたものではなかろうか。「しかし、それは、残るのだ。どうしても、最後にはなにかが残るのだ」ということだ。それがただの叫びであれば悲鳴なのだし、言葉にするのなら抗議となる。おそらくは、いくら強い言葉を使ってもかまわない。そういう性質のものだ。


 さっき、外を歩いていた。雲は多かったけれど、そのぶん湿度が低すぎることもなく、風は弱く、空気はやわらかかった。どこかの老人がつぶれた和菓子屋の前に放置されたベンチに座ってタバコを吸っていた。騒ぎまわる子供が母親に叱られていた。その子供を老犬が見守っていた。輪郭のはっきりしすぎない遠景が、ぼんやりと広がっていた。

 それらのすべては、要するに単なるひとつの景色でしかないのだけれど、それを見る人の目にはつねに薄いフィルターがかかっている。人間ならだれでも持っているフィルター。こうして世界は乾ききることがない。やさしさや悲しさ、憤り、喜び、そうしたものを含んだ多重フィルターに名前をつけるとするなら、どういう言葉を選ぶだろう。

 俺はやはり「湿度」という言葉を選びたいのだ。

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