20091129
■[雑文]「なにを、なんのために書くか」みたいなこと
このあいだ、ついったーで海燕さんと話したことがかなりおもしろかったので、それについて書く。
なんのために書くのか、という問いは、俺に関しては成立しない。なぜなら、書きたいからだ。ネットで公表するようになる前は、10年くらいワープロに向かってずっと公表するあてのない文章を書いていたのだし、おそらく、いま公表する手段を奪われてもなんか書いてる。PCがなくなればポメラで、ポメラもなくなればなんかのノートに。それすらもなくなればそれこそチラシの裏にでも。
書くことは手段ではなく、完全に目的だ。ただ、書いていればそれでいい。つまり俺は、完全に自分のために、自分の書きたいことだけを書いている。まあ、アクセス増やしたいなーと思ってがんばったりしたこともあったし、それなりに読んでもらえるように、と努力したりもするんだけど、これだけは断言してもいい。自分の書きたいこと以外のために書いたことは一度もない。
そういうとなにやらかっこよさげに聞こえるのだけれど、要は完全なる自己満足の世界だ。このブログ、最初は「チラシの裏」っていうタイトルにしてて、次には「排他的オナニー時空」にした。まあ我ながらよく体を表してる名だと思う。
さて、じゃあ次の問いだ。
それならどこにも公表する必要はない。なぜ公表するのか?
この問いは、俺にとっては重い。
自己顕示欲ということでいえば強いほうだと思うのだけれど、俺には奇妙なほどに「自分を見てほしい」という気分がない。見てほしいのは自分が書いた文章であり「俺はこう考えている」ということ「そのもの」のほうであって、むしろ俺本体に近づいてこられるのは病的なくらいに怖い。
アクセスやらブクマ数やらにはこだわるほうだと思うのだけれど、これも影響力を与えたいというのとはかなり違う。いってみればテストの成績に近い感覚だ。「読んでくれる人がいる」「だれかがおもしろがってくれている」ということの裏づけみたいな感覚もある。まあ、同じくらいぶっ叩かれてるわけだけど。
ただ、いずれの理由にしても「公表すること」を自分に対して許す理由であって「なぜ公表するのか」という問いには答えていない。
じゃあなにか。
ひとつだけ、確実にいえることがある。それは「俺を食らえ」だ。俺はここにいる。ここにいて、こんなことを考えている。いってみれば悲鳴だし、絶叫だ。そして、そうしたものはたいていの場合、発せされた瞬間には目的を終えている。
さて、海燕さんだ。
以前からこのブログを読んでくれていた方はご存知かもしれないが、俺は海燕さん大好きだ。だいたい俺はことあるごとにスースさん大好きとか似非原さん大好きとかあちこちで公言して憚らないので、俺の大好きにはあんまり重みがないのだが、とにかく海燕さんの文章はえらい好きだ。どこが好きだって、ぶれない。意見についての賛成反対の問題じゃない。「ぶれない」というそのこと自体が好きなわけだ。そして、そのぶれない軸を基準にして、簡潔な文章で、制御された筆致で、徹頭徹尾「ものごと」が語られる。語る主体はまあ人間なのだけれど、ここでは人間である海燕さんは「そういう軸を持つ存在」として機能していて、それ以上のことをいわない。
なにが好きなのかと問われれば「そうしたありかた」と答えるほかない。
ここでことさらに海燕さんのことを語るのは、まあ長年にわたって読み続けてきたということもあるのだけれど、なにより、その姿勢が俺とはあまりに真逆すぎて、比較の対象としておもしろすぎるからだ。まあ、真逆だからこそ惹かれるということもある。
海燕さんはこう言う。
そうですね。ぼくは自分の私生活とか全然書いていないですから、その点は楽かも。というか、ぼくは「ぼく自身」には商品価値はないと思っているんですね。自分を切り売りしても、買ってくれるひとはいないだろうと。
なるほど、と思う。
これは、海燕さんや俺自身といった、狭い範囲のことではなくて、もっと広い範囲に敷衍できる話だ。つまり、なにをもって「読んでもらう」のかということ。
海燕さんは、自分には商品価値がないと言う。ならばなにが価値なのかといえば、俺の憶測混じりで書くのなら、上述したように「軸を持ってなにごとかについて論じ、そのことをもって楽しませること」だ。さらに海燕さんはこう言う。
ぼくはもう、完全に読む人を楽しませることを考えて書いています。こういうといいことみたいだけれど、読むひとの感情をコントロールしたいということですね。だから釣りに走るんだけれど。
しいて言うなら、これが海燕さん個人の利益だろう。これが、片方の極だ。
もう片方の極に、俺のような人がいる。
自分の書きたいことしか書かない。自分の考えていることしか書かない。もちろんそこに商品価値がないことは俺も知っている。ならばどうするか。少しでも読む人が楽しめるように、読みやすさ、ネタ、笑い、そういうもので読んで「もらおう」とする。俺にとっての利益は「みんなが見てる場所でなんか叫べること」になる。
俺はなんというか、非常に芸人根性が強い人で、笑いを取れるならなんでもしに行くようなところがある。もし俺の文章から「俺」という存在を抜いたのならば、そこに残るのは芸人の部分だけだろう。同様に、もし海燕さんの文章から筆者を抜いたのなら、そこに残るのは「論」だ。
この話題はそもそも「どういうときに痛いと感じるか」という話から始まった。海燕さんはこう言った。
ぼくが痛いのはわけのわからん中傷を受けたときよりも、全くもっともな意見で論破されたときですね。そういうときはやっぱり痛い。
対照的に、俺は反論のほとんどすべてが痛い。ときに同意ですら痛い。それはもうまったくスタイルの違いなのだけれど、俺の基本は「駄々漏れ」だ。駄々漏れをどう読みやすく仕上げるか、どうやったらそれで楽しませるのか、ということが根幹にある。いずれにせよ資本は「自分」しかない。自分をぎりぎりと追い詰め、開示し、説明する。なぜそんなことをするのか、という話はさておき(ナツさん曰くドM。違うの。ほんとに違うのナツさん。あと更新してナツさん)、それゆえすべての批判は人格否定と感じられる。理性がそうではないと理解していても、そうとしか感じられない。
おもしろかったのは、ブクマやアクセスについての話で、俺は「自分にとって語りたい話題のうち、この話題ならある程度の一般性を持つだろうから、あとは書きかたにさえ工夫すれば、それなりに読んでもらえるのではないか」と考える。
しかし、海燕さんはこうだ。
ぼくは「こういうタイトルでこういう内容をこういう文体で書いたらブクマ100くらい行くかな。試してみよ」とかそういう動機で書いています。
考えてることが真逆だ。
ここのあたりを俺はかなりおもしろく感じた。
つまりは自分をさらけ出す度合の差、ということなのだけれど、同じブログという土俵でも、これほどの違いがある。
この文章に特に結論はない。それこそ「自分にとって考えるきっかけになっておもしろかった」という以上のことを俺は言おうとしていない。おそらくはここからいろいろ考えられることもあるのだろうけれど、俺はそこには興味がない。興味があるとすれば、こうやって書いたことが「だれかにとっては参考になるかもしれない」「だれかにとってはおもしろいのかもしれない」「暇つぶしになればいいなー」くらいのことだ。
動機はどうあれ「楽しんでほしい」っていうのは、読んでもらううえで外せない一点なんじゃないかと思った。その点では別に俺も海燕さんと変わらない。
そういえば、余談的につけくわえるんだけど、ついったーの有名な人なんか特にそうだし、真のアルファブロガーまなめさんなんか見てても思うんだけど、楽しそうなんだよね。やたらに。楽しそうにしてる人が「楽しい」って言ったときに、そこに人が集まるのは、まあ必然かなーと思った。
俺は湿度高いので、湿度高い人たちどうしで今日もついったーで楽しくやってます。
※追記
まなめさんに捕捉されてたんだけど、そのコメントを見て思ったこと。
俺はついったーでもネガティブな発言多いし、ブログでもそれはわりと同様だったりする。にもかかわらず俺がそれをやめないのは、人が苦しんでたり喚いてたりするのって、それ自体がうまく加工すれば、だれかにとっての娯楽になりうる可能性があるって知ってるからってのがひとつ。
あとは、苦しかったり死にたかったりすることですらも、場合によっては「ひょっとしていま自分は生きてるのかもしれない」という、自分を確認する手段のひとつだったりするので、極論すれば、それすらも「楽しい」ということに該当するかもしれない。つまり「しにたい」とか「きえたい」ってポストしたときに、そこには確かに空気中に拡散してどっかいきてーなーと思う自分は「存在してる」っことで、発言しなければ、そうした自分すら消える。
ついったーでasasioさんが「本当の黒歴史は墓まで持ってく」的な発言してたけど、まあそんなようなことで。本当にネガティブなことは、発言すらしない。それをすること自体が当人にとって苦痛だからだ。その苦痛をあえて冒すのならば、それはもう立派な変態だと思う(これは褒め言葉)。
あとぜんぜん関係ないんだけど、俺、引用すごいへただと思った。
