20100122
■[文章]どうやったら読まれるのかを自分の経験から考えてみた
一昨年の12月に「アクセス増やすぞー」とか思っていきなり努力しはじめて、1年以上が経ったわけですけど、その過程で考えたことや思ったことなどをひととーり書いておこうと思います。たまに「アクセス増やしたい」とか「読まれるにはどうしたらいいか」みたいな質問受けるので、俺なりの考えをまとめておこうと思ったのです。あくまで「俺のような資質」の人間が気をつけてきたこととかです。やや抽象的な話に終始すると思います。
まず最初に言っておきますと、ブログで「読まれる」ためには、たぶん文章力ってのはあんまり関係ないです。「文章力」っていう言葉じたいがけっこう謎の概念っぽくはあるんですが、ここでは「つい読んでしまう」リーダビリティ的なものと、あとは内容を的確に伝える文法能力、語彙力、構成力なんかのごちゃまぜになった概念くらいの感じです。もちろん、最低限くらいは必要だと思うんですけど、たとえば俺がついったーでフォローしてる人で、この「最低限」を備えていない人ってほとんどいないと思います。むしろいちばん怪しいのは俺。
読む人がどう感じるかはわかんないのですが、客観的に自分の文章なりなんなりを評価したときに、いわゆる日本語の正統的な「文章力」というのはかなり弱いはずです。原因は語彙力の不足。特に論じるにあたっての「ターム」的なものに対する理解が極めて鈍い。俺いまだに「ポストモダン」ってどういう意味なのかよく知んないですもん。なので、そういう概念を扱おうとするときに、なんとか口語的な表現でまにあわそうとするんですけども、その迂遠な努力と、生来のレトリック能力がかみ合ったときにある種の説得力が生まれた、ということなんだと思ってます。
具体例として自分をとりあげてみました。「論じる」ためのツールとしての文章力が比較的弱い俺でも、やりようによっては読んでもらえる、ということを言いたいわけです。これは卑下でもなんでもなく、心の底から思うし、実際に見る目のある人は気づいてると思うんですが、はてな界隈でなにごとかの「論」を述べようとしている人たちのなかでも、俺の「論じる力」はかなり底辺に近いところにあると思ってます。主観をレトリックでくるんでどかーんと押し出すのは、本来はアジテーションだからです。アジテーションに論もなにもあったもんじゃないです。
俺は、読むにあたって人がいちばん消費したいと願ってるのは、たぶん「キャラクター」だと思うんです。ついったーでは、たとえば「俺のちんこは7本ある」とポストしたとして、そのポストをした人によって影響力がぜんぜん違う、ということがよく起こります。フォロワーの数の問題もありますけど、いちばんは「その人が」「その発言をした」というこの一点にかかってるんじゃないかと。
いっけんブログじゃそんなことないように思えるんですけど、それは「キャラクター」というものが別のものに変わってるからです。具体的には「立ち位置」です。「自分はこういう場所から物事を見ている」というのが明確になっているかどうか。俺だと「コンビニ店長」という極めてわかりやすい立場がありますし、それ以外にも「体臭フェチ」とか「ちっさい子好き」とか「顔面騎乗と聞いて」などの非常に残念な立場があります。
まあ後半のはさておき、コンビニ店長で、ずっと小売に携わってきた人間からしてみれば、世界の仕組みなんてものはだいたいにおいて「商売」で割り切れるのです。それが正解かどうかはさておき、俺にとってはそれで大した問題がない。そんで文章を書くのが趣味の俺は「俺から見ると世界はこう見えるんすけど」ということを日々書き続けているわけです。
実際のところ、俺が比較的に短期間でアクセスを増やすことができたのは「俺から見て世界はこう見える」に特化していたこと、そしてその俺の「立ち位置」というものが「コンビニの店長」に限定されていたから。そんで、それが珍しかったから。ここに尽きると思ってます。
つまり、なんていうんだろ。「おまえはなにものか?」と問われたときに「俺はこういうものである」という立場を、たとえかりそめにでも設定しておくこと。そしてそれが借り物ではない「自分だけのもの」であればなお望ましい、ということです。
さて、次に「視点」の問題です。「気づき」といってもいいかもしれない。
俺にもいくつかホッテントリがあるわけですけど、それらの特徴として「だれもが知ってるんだけど、なんとなく常識って言葉で済まされたものを再解釈して名前をつけた」というのがあります。たぶんですけど「だれもが知りたいんだけど、よくわからないものをふつうの人でも理解できるレベルで記述した」っていうようなエントリでも似たような効果があるんじゃないかと。
その視点がオリジナリティのあるものであれば、読んでくれる人は読んでくれます。「あー、なるほど、そういうことだったのか」と。そこまで行かなくても「あー、そう考える人もいるのね」と思わせることができればしめたものだと思う。もっとも、その「オリジナリティのある視点」ってのを発掘すんのが大変なんだろ!っていう話はあります。
でも俺思うんですけど、ブクマとかたくさん食らった経験のある人って「え? これが? 先週の2時間かけて書いたやつじゃなくて、これ?」っていう覚えありませんか。つまりオリジナリティってのはそういうことだと思うんです。「自分しか気づかないこと」っていうのは、だれにも話されることなく日常生活のなかで消えていく。共有されませんから。生きてて、考えることを続けている人である限り「気づかない」ということはありえないです。ただ「気づいたことに気づかない」だけです。その気づきとやらが素晴らしいものなのか、くっだらねーものなのかを判断するのは読む人であって自分じゃないです。
たとえば俺は、たまに銭湯に行く経験のなかで、日本人の包茎率としてよく示されるデータは絶対に嘘であると思っています。昼下がりのじじいだらけの銭湯に存在している20本ばかりのちんこのなかで、包茎が自分だけということであれば、これはどう考えてもデータのほうが嘘くさいでしょう。もちろん包茎は銭湯行かないとかいう絶望的な反証はありえますが、6割とか7割とかは都市伝説でしょう。もしそうだとしたら日本人の男性のうち6割か7割かは銭湯に行かないということであり、女湯と比較して男湯はガラガラに空いている必要があります。ははははは……みんなやさしいよな……そんなやさしさはいらねえよ……言えよ、包茎なんてあんまりいねえって……はっきり言っていいよ……。
すいません。話が逸れました。包茎の人で銭湯に行ったことがある人は一度は日本人の包茎率を疑ったことがあるはずだと、そういう視点を持ちうるはずだと俺は言いたいのです。しかしそれを「書くべきもの」と思う人はあまりいない。しかしこの視点に立って書かれたエントリは、必ずや包茎の人たちの熱い共感を呼ぶはずです。
このように、視点なり気づきというものは「その人の生活」のなかに埋没してしまっている。ブログというだれもが簡単に作るだけなら作れるメディアが意味を持ちうるのだとしたら、俺はそうした視点の提示にこそ意味があると思うし、実際にそういうエントリは伸びやすい。そういうことなのです。
ちなみに俺は「気づいたことに気づきやすい」タイプの人なんですが、これはたぶん訓練です。10年来ずっと文章を書き続けてきた成果のひとつがこれですね。ただ、これは泥くさい方法なんで、もっとスマートなやりかたっていうのはどこかにあるはずで、それこそそうしたものはホッテントリにでもなってることでしょう。
あとは前からずっと言ってるし、多くの人が言っていることではありますが、タイトルと書き出しですね。これはめちゃくちゃ重要です。自分の経験からいって、たとえ本文がどれだけ気迫のある自分なりに精魂込めた文章であったとしても、冒頭の数行のどこかに「世界中の11歳は初潮まだになーれ☆」と入れたらそのエントリは伸びません。断言してもいいです。
これだけ長くブログをやってると、やっぱある程度「伸びる感触のあるエントリ」っていうのは自分でわかるんですが、あるときそういうエントリを書き上げたあと、なにを思ったか3行目あたりに「うんこちんこうんこちんこ」的なことを入れたらまったく伸びませんでした。どうして俺はそういうことするの。うんこちんこ言いたかったからに決まってんだろ!
タイトルは、フックです。内容を書き上げたあと「どうやったらこの内容が一般的な興味と結びつきうるか」を考えてつけます。冒頭の数行はエントリの紹介です。「ここにはこんな重要な情報がある」という提示です。ただしやりすぎると釣りとか言われます。
それと、これは俺も気づいてなかったんですけど、ひょっとして文末の結末の部分、これってあんがい重要なんじゃないかなーと最近は思ってます。エントリってものすごい気合入れて読んでくれる人って少ないわけで、読後感っていうのは最後のほうの文章で決まる部分がけっこう大きいと思うんですよね。はてなにいる場合、アクセス伸ばすいちばん楽な方法はブクマが増えることだと思うんですけど、これって読後「なにかが残る」場合につい勢いでブクマしちゃってコメントのひとつも書くことが多いと思うんです。
俺は文章の書きかたのクセとして、文末にオチつけるか、あるいは「これがいちばん言いたかったんだ」っていうのを持ってくることが多いんですけど、そのせいで、迷走気味で実は大したこといってないエントリでもブクマしてもらえることってけっこうあったんじゃないかと。これについては「そうじゃないかなー」と思う程度なんで、本当のところはどうかわかりません。
とまあ、いろいろ書いてきました。
いままでブログを……えーと、はてなでは500日以上ですか、それ以前を含めるなら10年以上ですね、ずっと書いてきて、それで結局思うことっていうのは、人はそんなにおもしろいこととか日々書けないし、上で書いたこととは矛盾してるけど、自分が考えるようなことは、すでにどこかでだれかが考えている。それでも日々書く人は書くんだとしたらその理由はなんなのか、ということですね。原点にあるものなんて「お母さん聞いて! ぼくこうおもうんだ!」っていう子供の発見の延長線上にあるものだと思うんですよ。先人がすでに考えていようが、それがあたりまえのことであっても関係ない。自分にとって輝かしいこと、新しいこと、そうしたものをその驚きのままに書く。そのことによって、そのエントリはおもしろいものになる。
そして、できるものならば、その発見はポジティブなものであるほうが望ましい。おもしろいこと、楽しいことの周囲には人が集まるからです。俺自身についていえば、実はポジティブでもなんでもないし、冬の海岸を寄り添って歩く高校生カップルとか見かけたらうんこ爆弾とか投下したくなる(ただし男にだけブチ当てる)ようなタイプの人なのですが、だからって読みたいものまでネガティブだってことは、たまにはあるけどいつもじゃないですね。
以上「書く」っていう行為は結局、個人の内発的な動機以外には因らない、と考える人が書いた文章でした。参考になれば幸いです。参考にならないなら忘れてください。きっと害毒になる。
ちなみに、こういうクソ長い文章は絶対だめです。これものすごい逃げられる。実は俺も逃げる。あと箇条書きとかに分けないのもダメ。これはダメだとわかってて、俺は絶対に治りそうにないし、治す気もないので、開き直って俺はやってるだけです。なんか自分のブログで、サイドバーより本文が短いのって許せねえんだよ個人的に。
