20100520
■[そのた長文]おっさんが無邪気で若者が賢い時代に
例の宮崎県知事のニュースに関する記事なんか見てた。あーあって感じだけど、鹿児島の新聞社の人がなんか必死なのはまあわからないでもない。にしても質問のしかたはどうなんだろうって気はする。鹿児島県民の利益を代表して「宮崎で止めろなんとしても!」っていうのが本音なんだろうなーとは思うけど、それは言えないだろうなー。言ったら叩かれるしねえ。仮にそれが本音だとして、もうちょっと賢い質問のしかたはあったんじゃないのかっていうのは、読んでてかなり思った。
新聞って、店に複数の種類が入荷するから見出し程度は読んだりするし、たまにまちがって本文も読むことがある。いちばんおもしろいのは日経MJなんだが、それはそれとして、その、なんだろ、論調としてすごく無邪気だなーって思うことが多い。現場の新聞記者の人たちがどう考えてるのかは知らないけど、新聞社っていう組織そのものは、きっとすごく無邪気に「お上」とかのことを信じてる。とりあえず警鐘とか鳴らしてみたんだよ☆みたいな記事が多いのは、なにどうやったって国政ってものは揺らがないっていう信頼と、その裏返しの無力感から来るんじゃないかな、と。いちばん極端なのは日刊ゲンダイだけど、あれって書く人も読む人も、みんな政治とかすごい頑丈だからなにゆっても平気っていう暗黙の諒解があって、甘えてるんだと思う。
他方で、ネットでは、ネトウヨみたいな用語で呼ばれるような人たちがいる。日本はこんなにすごいんだ、すばらしい国なんだ、っていうところを出発点にしてるような人たち。
俺自身は、日本すごいともすごくないとも思ってない。日本でもしすごいところがあるとするなら、なんかすさまじいまでの秩序の維持力だと思う。毎日のように電車が定時運行してるのとか、横浜駅の雑踏のなかで殺人事件起こらないのとか、渋谷のスクランブル交差点のまんなかでオナニーする人いないのとか、ほんとすごい。あれだけ人間がいたら、心のなかで「みんな殺してやる」とか「みんな精液かけてやる」とか思う人がいてもおかしくないのに、そういうことする人はほとんどいない。前にちきりんさんのブログにブクマでコメントしたことがあるんだけど、大きな会社とかどんどん潰れて社会はすごい動揺するのかもしれないけど、最終的にはなんかいつのまにか庶民レベルで安定して大した変化って起きないような気がしてしかたない。
俺はそう思うんだけど、日本すごい、日本以外すごくないって主張する人たちもたくさんいる。その人たちは、きっと日本もうすごくないんだって思って不安なんだと思う。自分もすごくないし、日本もすごくない。じゃあすごいって断言しないと寄りかかる場所がない。だから日本すごい材料を探してくる。すごいっていう人が多ければ多いほど、なんかすごい気がしてくる。そもそもが「不安」を出発点にしてるので、日本が「実際に」すごいかどうかはあんまり関係がない。すごい「気がする」ことが重要。意図的に「日本すごいから俺もおまえらもすごい」って煽動してる人は別にいいと思うんだけど(そんで、あんがいそういう人はいるような気がする)。
こういうのって、たとえば「俺、今日からポピュリズムめざしてがんばるよ!」みたいな人が出現したときに、みんなわーってそっちの方向に流れていきそうな気がして、なんか怖い状況っぽい。怖いってのは俺が怖いだけで、実質的にうまく大衆をコントロールして、日本ほんとにすごくしてくれる人だったら、別に怖がることはないのかもしれない。俺がポピュリズムとか怖いのは、ネットの片隅でなんかうだうだと文章を書いてる俺のような人が圧殺されたらやだなーって思うから。
でも現に、ネットには「日本すごいとか別にないから」っていう冷静な視点を持ってる人も多数いる。賢い人増えたなーって思う。特に若い世代にそれが顕著。いまの若い世代は賢い人多い。まあ賢いってのは十字架なんで、当人的には賢いの嬉しくもなんともないかもしれないんだけど、でも、一度賢くなってしまった人は、もうバカとかになれないので、残念でした。
ドントトラストオーバーサーティじゃないけど、いまの時代って世代間の対立は激しいと思う。わかりやすいかたちでなくて、激しい。ただ、たとえば60年代安保の時代なんかと違うのは、若者の側が「ドントトラストオーバーサーティー」なんていうお題目を信じるほど無邪気じゃないってことだ。それがいいか悪いかはとりあえず忘れておく。たとえば俺がついったーのTL(もうそこには俺はいないんだけど)で「おまえら既成権力の側に属する老人や、その後裔である俺くらいの世代の言うことなんて信じるな。これからの時代を築くのはおまえらだ!」とか発言したとしても、反応はごく醒めたものだと思う。「旧世代の負の遺産おしつけんな」とか「世代論でひと括りにできるほど人間って単純なの?」とか、それくらいの反論できそうな二十代前半くらいの若者はいくらでも想像できる。つーかスルーされて終わる。
それと比較して、たとえば新聞の人(おっさんとかじーさん)なんかは、ほんと無邪気だなーと思う(もちろん全員がそうってわけじゃないだろうが、組織の原理として)。権力ってすごい強くて、俺ら権力に対する監視役で、監視するんだから叩いとけばオッケーとかはどんだけ能天気なんだろうなーと。快晴だよね頭んなか。あるいは俺ら無力だから阿諛追従しとけばオッケーってのも同じくらい能天気。もちろん、その無邪気さはまったく無意味なものではなくて、かつては無邪気にみんながんばることができたから、その結果として現在も無邪気だっていうだけだとは思うんだ。でも、同じ無邪気っていう性質を持ってたとしても、その性質は時代との関係のなかで「意味」は変化する。無邪気でオッケーな時代は美質だろうが、無邪気なだけでは到底やってけないような時代に無邪気であることは、ただのアホでしょう。そして、そのことに当事者が自分で気づくのは、相当に難しい。このあいだ自分自身でそれを思い知ったばかりだ。
俺としては、せっかくネットっていう、個人が声をあげられるツールもあることだし、説得力のある妥当な意見が、厳しい審判に晒されて淘汰されていき、ほんとに「みんな」にとっての共有財産になれるような、そんな時代が来ればいいなーと思う。その前提として公平な情報とかは必要なんだろうけど、今回の宮崎県の件では特に「公平じゃない情報」は叩かれまくったわけでしょ。
で、マスコミが悪いとかいいとかじゃなくて(てゆうかあの件についてはどう考えても産経新聞ダメもいいところだったけど)、じゃあなにが悪いのか、次はどうあるべきなのか、っていうことについて議論百出して、現時点での妥当な意見が力を持てばいいなーとか思ってる。
そうそう、いま店のBGMで「俺がだいじょぶっていえば、君はきっとだーいじょーぶーでー」って歌ってる曲がよく流れてる。それ聞いて、あーなんか確かに時代って変化してるんだなーと思った。
25年前か30年前には、ブルーハーツっていうバンドが「がんばれー!」って絶叫してた。流行する曲のメッセージっていうのは、まさにそれを欲している人たちがたくさんいるからこそ、流行するんだと思う。「がんばれ!」ってだれかが絶叫するときには、がんばってない人たちがたくさんいるから流行するんじゃない。すでにがんばってる人たちがたくさんいて、みんながんばってるから相互に「がんばれ」なんて声かけてられないからこそ「だれかが」がんばれって言う。とすると、25年か30年くらい前には、みんながんばってた。
じゃあ、いまの時代に「だいじょーぶー」っていうメッセージが流れるのならば、みんな実は大丈夫なんだと思った。いや、なんか自殺者とか増えてるらしいし、低成長とか日本の将来は暗いとか黄昏の時代だったりするらしいけど、全体としては、みんなごはんちゃんと食べてネットとかやって、それなりに生きてるんだと思われる。少なくとも、俺が子供のころ周辺の家庭がそうであったように(すんごい環境悪かったのよ)、なんか食ってくだけで精一杯っていう家庭は比率としては少ないんだと思われる。
大丈夫なのに、大丈夫じゃないかもしれないって不安になるのは、大人がみんな「大丈夫じゃない」って言ってるから。実際大丈夫じゃないのかもしれん。そうじゃないのかもしんないけど、わざわざ声を大にして「日本やっばいっすよ!!」って言って回ることもないんじゃないかなーと思うんですけども。
じゃあ、声を発することのできる人たちのやることは「時代は危機を迎えている」とか「将来の日本は危ない」とかゆって警鐘を鳴らすことなんかじゃなくて「大丈夫だ」って断言することじゃないかなーと思った。日本の未来なんかは知らねえよ、俺がいま大丈夫なんだから、おまえらだって大丈夫に決まってんだろって断言できる大人がたくさんいるといいと思った。そして賢い人たちは質問する。「いったいなんの論拠があってそう言ってるんだ」と。
それに対する答えはきっと「論拠なんかない。俺の背中を見ろ。大丈夫だ」っていうことなんだと思う。そもそも「大丈夫」って言葉に論拠なんかない。あるとしたら「俺はなんとかする」っていうそのことだけだろう。「大丈夫」の論拠は「根性」ですよ。
もちろん、そんなもんは精神論で、実務家は別に必要なんだと思うけど、実務家が十全に機能するためにも、いろんな人が「大丈夫だ」って断言することは大事なんじゃないかな、と思いました。それぞれの責任の取れる範囲で。
大人に必要とされてるのは無邪気さなんかじゃない。清濁を飲み込んだうえでの覚悟みたいなもんじゃないのか。てゆうか大人っていつの時代もそういう存在じゃなかったっけ?
