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20120116

[]手で書くということ

 字を書くのが嫌いだ。嫌いな理由は単純で、下手だからだ。下手というより読みづらい。なんというのだろう、メモの字がきたないのは、まあ走り書きだからだということで説明がつく。しかしノートに向かって「あとで自分が読む」という前提であってもやはり読みづらい。ノートを開いて、両側のページに自分の字がびっしりとあったとする。

 なんていうか、これほど読む気を奪う文字というのも珍しいと思う。

 昔、雇われ店長をやっていたころ、非常に流暢に日本語を話す中国人の主婦がいた。20歳を越してからの来日で、日本語を学習したのはそれからだという。当初はまったく覚えられなかったのだが、子供ができて、必然性が生じて日本語を学んでいくうちに話せるようになったということだそうだ。

「ひらがなはね、やっぱり書きづらいよね」

 と言っていた。

 だが、その人にある日言われた。いまでもうちの奥さまによくそのことでからかわれるのだが、

「店長、日本語書くの下手だよね。ていうより日本語に見えない」

 日 本 語 に 見 え な い 。

 どんだけ見づらいんすか俺の字は。そういえば小学校のころ、担任の先生から言われた。「ドブから拾ってきたような字だね」と。それ子供相手に使っていい表現じゃないでしょと思うんだが、ことほどさように俺の字は見づらい。

 これ、どういうことかというと、たぶん「字の形をちゃんと覚えていない」ということだと思うのだ。

 字がきたない人にも二種類いる。ひとつは俺みたいに書き慣れてはいるんだけど、とにかくやたらに読みづらいタイプ。もうひとつは、書き慣れてないし、書く機会もないし、とにかくきたねえ、というタイプ。俺は明確に前者だ。


 字のきれいさというのは意志の問題でもあると思う。やたら見づらい字を書く俺だが、POPならばそこまでのことはない。あまりにでかい字は絵を描くのと同じ感覚が必要だと思うのだが、説明のためにつけた小さな文字でもそこまでは見づらくない。どんな人だって、一画ずつに魂込めて書けば、そこまで見づらくはならないはずだ。

 考えてみれば、字がきたねー読みづれーと自分でいうわりに、きれいになるためになんらかの努力をした記憶がない。さらにいえば、それだけ読みづらいというのに書く速度を落とすということをほとんどしない。

 たとえ書く速度がはやくても見やすい字を書く人というのはいる。そうした人と俺との違いはなにかといえば、字の形に尽きる。特にひらがなだ。

 書き順というものがある。俺の書き順は壊滅的だ。対するうちの奥さまはやたら書き順に詳しく、かつやかましい。俺が字を書いているのを見て「なぜそうなるのか理解できない」というようなことを言う。なぜそんなに書き順に詳しいかといえば、子供のころに漢字練習が異様に好きだったらしい。四角のマス目にきっちりと文字を入れていく、という作業が好きでたまらない。そうしようとしたときに、書き順というのは合理的にできている、というのがうちの奥さまの主張だ。

 いわれてみれば、俺の字は大きさがばらばらだ。漢字が大きくてひらがなが小さい、くらいならまだいい。同じひらがなであっても大きさがまちまちだ。さらにやたらにあちこち連続している。あー見づれー。


 とまあここまでが前置き。以上の文章は「俺が文字を手書きするのが嫌いな理由」だ。そんなだから人にも見せたくない。

 のはずだったんだが、そのわりに俺はよく字を書く。いくらでも書く。そもそも筆記用具が大好きだ。100円のボールペンを選ぶのでも時間をかけて悩む。やれデザインだ書き味だととにかくやたらにうるさい。

 今日、外でヤボ用をかたづけてきたあと、ドトールに寄った。そこでまたノートになんか書いていた。内容はけっこうどうでもいいことだ。チラシの裏にでも書いてろ的なことで、実際俺は、裏が白いチラシがあると字を書いてたりする。思いつく限りの揚げ物の名称を列挙してたり、うちで飼っているうさぎが実は宇宙から来た謎の生物であるとかどうでもいいことを書いている。ちなみにうさぎの目的は、おいしいと汎銀河的に評判の地球産の牧草を手に入れることだ。主な敵はなんでも食ってしまうと評判のヤギということになる。

 まあそんなことはどうでもいい。

 どっちにしろこれは、字を書くのが嫌いな人間のやることではない。

 なぜそう思い込んでいたのかといえば、ひとつには「見せるのが嫌い」だからだ。もうひとつにはキーボードで文章を書くのが大好きだから、ということもある。いちばん大きな理由は、筆圧が極端に軽く、ペンの持ちかたがおかしく、かつ力がほとんど入っていない、ということによるのだが、これはデスクペンを使うことによって解決した。

 んで、今日も今日とて字を書いていたわけだが、ふと気づいた。

 集中力がまったく途切れない。

 俺はもともと集中力があまりない。

 もちろん文章を書くのは好きだし、けっこう長い時間続けていられるが、それもいいところ1時間半くらいだ。ブログの文章を見てもらえればわかるが、長文派だとかさんざんいわれながらも、実は20KB以上のエントリというのがほとんどない。1時間半で書ける長さの上限がだいたいこれくらいなのだと思う。

 キーボードで文章を書くのは楽だ。なにより速い。俺はアホなので、急いで書かないと頭のなかに浮かんだことをすぐに忘れる。考える速度で文章を書く習慣がついているので、意識としてはかなり散漫だ。文章を書くほとんどの時間、音楽を聞きながら書いているのもたぶんそのせいだと思う。ほとんどなんにも考えないで文章を書くのがいちばん楽しいわけだ。もともとが書かれる内容に集中しているわけでもない。こうやってできあがった文章は、非常に「筆圧が軽い」ものになる。まあ内容が薄いといってもいい。

 それで、ノートに書いた文章を読みなおしてみた。読みづらいんだが。激しく読みづらいんだが。

 で、気づいた。これ、ひょっとしてブログに載せてる文章より仕上がりいいんじゃねえか?

 内容はくだらない。どうでもいいものだ。しかし文章の圧縮の度合いが違う。

 文章というのは、由来、圧縮だ。なにしろ文字情報しかない。そこにすべてを押し込めるわけだがら、圧縮するほかない。圧縮されたなかで「どう伝えるか」ということに人は四苦八苦するわけだが、俺はそこんとこの四苦八苦を基本的にあまりせず、そのかわり大量に書く、という方法でやってきた。

 しかし手で書くとそうはいかない。キーボードだったら「りりちよさまの黒髪の先端すこしかじってそれをりりちよさまの口に戻していやそうな顔をする瞬間を写真におさめて、それを家に持ち帰って神棚に飾り拝んだあげくスキャナで取り込んでPCの壁紙にしてさらに拝むふりして結局オナニーする」と書くのに大した手間はいらない。手書きでこれやる気にはとうていなれない。

 伝えたい内容、この場合要するにりりちよさまにいかにこんな感じの表情をしてもらうかなんだが、その伝えたい内容に対して自覚的にならざるを得ない。自覚的になったらもうこんなことは書けないデスネ。いやそれはともかく、とにかく「咀嚼する」という作業がつきまとう。さらに手を使って作業をする、という余計なバイアスがかかる分、より集中力が上がる。ついでにいうとPCじゃないのでネットにつながない分さらに集中できます。


 というわけで、手書きってあんがい、なんですか、その知的生産ですか? その技術としてはさほど捨てたものではないんじゃないかなあとかあらためて思いましたね、というのが今日の結論です。ついでに言うと紙って自由ですからね。そういう点でもなかなか悪くない。頭のなかにあることを出力して人が見えるようにするまでのトータルの時間で、その品質を求めるなら、ひょっとして手書きで初めてから、そのあとPCで清書したほうがよっぽどいいんじゃねーかなとか思った。

 ただしこれは、キーボードで書くときにあたまつかってないくるくるぱーの人の言うことであることをお忘れなく。同じことがPCでできないというわけでもなし。


※追記

 いま読みなおしたんだけど、今回ことのほかtypo多いな……