梅ヶ丘Boxで「『楽屋』フェスティバル」を観る。

清水邦夫の『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』は、清水の代表作というだけでなく、様々な劇団による上演数の多さでは現代演劇随一だろう。
個人的にも木冬社(1996)、新宿梁山泊(1998)、兵庫県立ピッコロ劇団(秋浜悟史追悼、2005)、シス・カンパニー生瀬勝久演出、2009)とそこそこの数を観ている。
今回も18劇団が参加し、同じ劇場、同じ舞台、ほぼ同じ装置と照明という条件で女優と演出の競演を繰り広げている。
主宰の燐光群の「燐光群アトリエの会」版は南谷朝子の演出で、プロンプター止まりのまま芽が出なかった女優Aに樋尾麻衣子、女優Bに松岡洋子を配役しコミカルな味わいを出す一方で、ベテラン女優Cに中山マリを置くことで女優として生きる者の業を、新人女優Dに宗像祥子を置き若さ持つ無邪気さと狂気の紙一重をそれぞれ巧みに対比させていた。
ある意味、オーソドックスな『楽屋』に仕上げていた。
女優CとDは別キャストもあり、女優Cを川中健次郎が演じる回が観られなかったのが残念に思われた。
これに対して清水邦夫主宰の木冬社の流れを汲む「演劇企画火のように水のように」は女優Aに越前屋加代、女優Bに新井理恵、女優Dに関谷道子ら木冬社のメンバーを、女優Cに文学座八十川真由野を配役、演出にニナガワ・スタジオ出身の菊地一浩を置き、清水邦夫演出とは異なる静的な『楽屋』に仕上がっていた。
特に木冬社では女優Cを清水邦夫夫人の松本典子が演じ“なるほど一番怖いのは、女優になれなかった幽霊や狂人の執念ではなく、そこに陥ることなく舞台に立ち続ける女優の妄念にも似た業だな”と納得させられたが、
今回は燐光群アトリエの会版が、女優として線の太い中山マリ(文学座から三十人会、自由劇場、ザ・スーパーカムパニィという経歴は彼女ならではだろう)に女優Cを演じさせること(台詞でもふれられるが、還暦を過ぎて『かもめ』のニーナを演じる厚かましい女優だ)で清水・松本が意図しただろう『楽屋』を踏襲しようとしていたのに対し、木冬社の後継である演劇企画火のように水のようにでは、舞台女優としてはやや線の細い八十川を配役することで意識的に松本典子の記憶を払拭しようとするかのような印象があったのが興味深かった。
オリジナルや燐光群アトリエの会では女優Cが好む酒がブランデーで、凶行に及ぶ際の凶器がビール瓶だったのが、演劇企画火のように水のようにではワインとペリエに変わっていたのも、両者の女優像の変化が表れていて面白かった。

18劇団の通し券が10,000円と格安で出ていたが、今の学生にはこれでも高額で、できれば半分の9劇団5,000円通し券の方が学生等若い観客の集客が期待できたように気がした。