シンガポール通信ー村上春樹「海辺のカフカ」:主人公田村カフカ

海辺のカフカ」、なかなかすてきなネーミングである。カフカと聞くと不条理の世界、重苦しい世界を思い浮かべるが、それに「海辺」という単語が付くだけで何か突き抜けた世界、明るい世界が頭に浮かんでくる。タイトルだけで読んでみたくなるではないか。村上春樹はネーミングの能力もたいしたものである。

そしてタイトルが示すように、この小説は決して不条理の世界を描いたものではない。ストーリーや人物関係は入り組んでいるが、そこに描かれた世界は決して出口のない不条理な世界ではなく、むしろある種の明るさや透明感を持った世界である。神話的な世界とでもいったらいいだろうか。これは「1Q84」でも感じられる事であり、村上春樹の基本的な立ち位置であり、また彼の人気の原点でもあるのだろう。

ストーリーや人物関係は、1Q84よりもむしろ込み入っているかもしれない。ただ作者のストーリーや人物設定の細部を魅力的に描く力によって、全体のストーリーの持つ複雑さに悩まされる事なく、読者は作者が次々と繰り出される新しい登場人物や新しいストーリー展開の描写に身を委ねることになる。それはなかなかの快感である。その意味では、別に難しいテーマがあるわけではなく、単なる娯楽小説として読む事も出来る。これも村上春樹が人気がある理由だろう。

この小説の主人公は、田村カフカという15歳の少年である。カフカという名前からは不条理を身をもって体現したような性格設定が予想されるが、そんなことはない。多感ではあるが純粋で子供から大人への過渡期にある少年である。この小説のストーリーを一行に縮めるとするならば、それは主人公の成長物語、もしくは主人公が死と再生(もちろんメタファーという意味で)を経験して成長して行く物語ととらえる事が出来るだろう。

田村カフカは純粋ではあるが、決して単純な生活を送って来たわけではない。彼の母親と姉が、彼がまだ子供の頃に彼を捨てて出て行ってしまい、それ以来東京で父親と二人で暮らしている。父親は芸術家であり世間的にも知られているが、その人間としての純粋で正の面は芸術にすべて捧げられ、田村カフカに見えるのは父親の人間として汚れた汚い負の面だけである。

田村カフカは15歳の誕生日にその父親を捨てて家出をし、本能の導くままに四国に向かう。そして途中のバスの中で彼は「さくら」という年上の女性に出会い再会を約束する。明快に断定してあるわけではないが、実はこの女性は彼をかって捨てて家出した姉であることが小説の中で示唆されている。四国でこれも本能の導くままに私立の図書館に行き、その図書館の館長をしている佐伯という50代の美しい女性に出会い、その女性に恋心を感じる。実はこの女性は彼をかって捨てて家出した母親であることが小説の中で示唆されている。

彼は、図書館に助手として住み込む事になる。そしてある夜、彼は意識を失っている間に父親を殺してしまう。もちろん物理的に彼は四国にいるわけなので、直接父親を殺すわけにはいかない。一種の幽体離脱を行うのであるが、実際に手を下して父親を殺すのは「ナカタさん」という老人である。このナカタさんという老人はこの小説のもう一人の主人公とも言うべき人物であるが、彼については後でまた述べる事にしよう。

その後田村カフカは、図書館に住み込んでいる間に(母親である)佐伯さんと肉体的に交わってしまう。さらに(姉である)さくらとも同じように肉体的に交わってしまう。ここまで読むとわかるように、基本的には「海辺のカフカ」の基本的なストーリーは、ギリシャ悲劇「オイディプス王」を下敷きにしている。

オイディプス王」はギリシャ神話を題材としてギリシャ三大悲劇詩人ソポクレスが書いた戯曲であり、ギリシャ悲劇の最高傑作として知られている。オイディプスはテーバイの王ライオスの子供であるが、将来子供によって殺されるという神託を聞いた父親によって捨てられ、隣国で育てられる。成人したオイディプスは神託を聞こうとデルポイに出かけるが、同様に出かけて来たライオスを本人と知らず誤って殺してしまう。その後オイディプスは近隣で怪物として恐れられていたスフィンクスを殺す事に成功したため、王を失って混乱しているテーバイから新しい王として迎えられ、ライオスの妻(つまり自分の母親)を娶り、妻との間に子供を作る。しかしあるきっかけから真実を知ったオイディプスは自分の目をつぶし盲となって諸国を放浪する。

とまあ「オイディプス王」は、人間が心の中に持っている深い闇、そして出口のない闇を描いている。ギリシャ悲劇の傑作ではあるが、読んでいると人間の力では救いようのない大きな力のようなものを背後に感じて、心が暗くなってしまう。それは運命とでもいったら良いのだろうか。しかしながら「海辺のカフカ」は決してそのような重い作品ではない。

(続く)